暁の大地

銀色の猫

 必死に走っていた。
 大きく息が上がり、足がもつれ、何度も転びそうになる。体力など、とうの昔に限界に達していた。だが……止まるわけにはいかない。
「はあ、はあ……」
 薄暗い路地を疾走しながら、彼女はちらりと後ろを振り返った。
 男が数人、彼女を追ってきていた。いずれも大柄で強面、ついでに何かしらの武器を手にしている。まとっている雰囲気も異様で、どう見ても堅気には見えない。
(何だってのよ……っ!)
 心の中で叫んでも、答えてくれる者はいない。だが、そう思わずにはいられなかった。
 悲鳴を上げつつ、ひたすらに路地を疾走する。
(…………?)
 ふと、向こうに見えるものに目が止まった。
 今走っているのは、家々の間にできた細い路地だ。立ち並ぶ家の塀の一部が崩れているのが見て取れる。
 下には崩れた石が積もっている。それを踏み台にすれば……塀を乗り越えられなくもない。塀を盾にすれば、追っ手をまくことも可能かもしれない。
「――――!」
 考えるより前に身体は動いていた。
 一気に走る速度を上げると、山積みになった石の山を蹴って塀に手をかける。届かないかと思ったが、幸いと塀の上に身体を引っ張り上げることが出来た。
 そのまま下……今までとは反対側に飛び降りると、また駆け出す。後ろで、追っ手の男たちの怒号が聞こえてきた。
「はあ、はあ……」
 それから尚もしばらく走り、追っ手たちの姿が完全に見えなくなったことを確認したところで、ようやく彼女……キルファは大きく息を吐いた。

 原因は、よく分からない。
 つい最近までは、ハンザという山中の村にいた。だが母の死によって……正確には、その直後に起こった事件によって……村から出ざるを得なくなった。呆然としたまま無我夢中で山を降り、麓の平野に広がる街、ラインガルドにたどり着いたのが十日ほど前。そこから隙を見つけて城門を抜け、王都の中に潜り込み……しばらくは道路の隅で倒れて気を失っていた。ゴミが転がっているようにも見えたのだろう、そのときには何の問題もなかった。
 だが、やっとの思いで立ち上り、飢えを満たそうとすると……盗むしか方法がなかったのだ。盗みが犯罪であることくらいは理解していたが、そんなささやかな理性は圧倒的な飢えの前に吹き飛んだ。ふらふらと街中を歩き、店先から果物か何かをかっぱらう。それで数日はしのいだ。
 だが今、キルファは追い回されている。
 警衛兵に追われるのなら、納得もできた。だが、今自分を追っている男たちは、どう見ても堅気には見えない。おそらくは犯罪に手を染めている者……それを生業とする者たちだ。彼らがどうして万引きの子供一人を大挙して追ってくるのか――まったく見当がつかない。
 今キルファがいるのは、家々が密集する薄暗い路地だ。街の空気も何処かよどんでおり、全体をすえた臭いが漂っている。住人たちも似たようなものだ。つまり……都市の発展から見放された部分。スラム地区。
 知らずにスラム地区に潜り込んでしまったため……そこの住人たちの縄張りを侵してしまったがために追われているのだと、キルファは気づかなかった。
「いたぞ!」
 また後ろから声がした。それに弾かれるように、キルファは駆け出す。
 走りながら、被った闇色の外套の襟元をぎゅっと握った。姿を……瞳の色と尖った耳を見られることだけは避けなくてはならない。見つかれば、確実に殺される。
 どれだけ走れば助かるのか、何処へ逃げればいいのか、そんなことはまったく分からない。
 だが、立ち止まるわけにはいかなかった。

「……まだ捕まらねえ?」
 部下の持ってきた報告に、男……レイルは露骨に不機嫌そうな顔をして応じた。
 スラムとて無法地帯というわけではなく、独自の法もあれば縄張りもある。そして、キルファの潜り込んだ地域の実力者……縄張りの支配者がレイル。そういうことだった。
「はあ……。どう見てもまだガキなんですが、やけにすばしっこくて。ちょこまかと見えないように逃げちまって……」
 レイルに睨み付けられ、部下は顔を引きつらせながらかろうじて声を絞り出す。
「まだガキなのに捕まらねえ? ……てめえら、真面目にやってるのか?」
 くすんだ金髪をがりがりと掻きながら、レイルは言う。部下は、レイルのその仕草が不機嫌なときのものだと熟知していた。顔をさらに歪めながら後ずさる。
「やってますやってます! でも……」
 言いかけて部下は口をつぐむ。レイルがぎろりと睨んだからだ。
「ふうん……?」
 レイルは小さく首を傾げた。
 別に、この部下が適当な嘘を言っているというわけではないらしい。命令に背けばどうなるかくらいは部下も承知しているはずだ。となれば、よほどにその逃げている子供とやらがすばしっこいことになる。
「…………」
 レイルはしばし考え込んでいたが、やがて、不意に立ち上がった。
「オレも行くか」
 言い捨てると、目を丸くする部下は放っておいて、レイルはさっさと歩き出した。

「何だってのよ……っ!」
 キルファはほとんど涙目で呟いた。
 追っ手の数がどんどん増えていっている。背中に感じ取れる気配も、どんどん険悪なものになっていた。ムキになっているようだ。
 それも当然だろう。ずっと追っているのに、子供一人が捕まえられないのだから。
「どうしよう……どうしようっ!」
 かすれた声で呟く。
 今更投降しても無駄だろう。次の瞬間に袋叩きにされるのは確実である。だが、逃げ切れるものでもなさそうだ。
「…………」
 一瞬……キルファの表情がぞっとするほど冷たいものになる。
 方法が――ないわけではない。たった一つ、この事態を打開する方法はあった。だが、それは二度とやらないと決めたことだ。
 もうごめんだった。あんな想いは。
 だが、となると……
「――――!」
 ふと見えたものに、キルファはまともに表情を強張らせた。
 道の向こうに、一人の男が立っていた。くすんだ金髪の、まだ若い男だ。飄々とした雰囲気の、何処にでもいそうな男だが……決して、それだけの人間ではない。
 自分を追ってくる男たちの、ぎらぎらと見せつけるような威圧感はない。だがその代わり、背後から鋭く研ぎ澄まされた刃が見え隠れしている。
 本能的に悟る。――あの男にだけは、接触したらまずい!
 慌てて方向転換する。すぐ側の細い路地に駆け込み、しばらく走っていると、また塀と……そのすぐ側に積み上げられた木材の山が見えた。
(もう一度……出来る?)
 一瞬の自問自答の後、駆け出す。勢いをつけ、高くなった部分で地を蹴った。
 だが。
 その瞬間、足に鋭い痛みが走る。身体のバランスを崩しかけるが、ほとんど執念で塀にしがみつく。そのまま身体を傾け、反対側に落ちた。
「つっ……」
 よろよろと起きあがる。また走り出そうと、足をかばいながら立ち上がる。
 だが次の瞬間、キルファは身体を硬直させた。

「あのガキか」
 レイルは呟いた。
 遠くに見える、黒い布を被って走る人影。相当に小柄だから、子供と思って間違いないだろう。
「成る程……な。大したガキだ」
 呟くレイルの表情に、一瞬、獰猛なものが混じる。
 俊足も俊足だが、何より勘が良い。追っ手の方向を見極め、目をくらますのが上手いのだ。本人が意識してやっているのかは分からないが。
「だが、これまでだな!」
 にっと笑うと、レイルも駆け出した。
 一気に子供との距離を詰める。そして、懐から小さな金属塊を取り出した。飛礫(つぶて)として使われるものだ。
 一気にそれを投じる。金属塊は狙い違わず、子供の足に命中した。それでも子供は塀にしがみつこうとしていたが……
 レイルはまた走ると、軽く塀を乗り越えた。すぐ側に落下した子供を見下ろす。
 よろよろと立ち上がった子供に、レイルは意識して冷ややかな視線を向けた。
「これまでだ」
 わざと低い声で言ってやる。懐からナイフを抜くと、子供の目の前に突きつけてやった。布の下で子供が息をのむのが分かる。
 無造作に頭を鷲掴みにすると、レイルは子供の被っていた布をはぎ取ってみる。別に意味はないが、ここまで自分たちを大騒ぎさせた人物の正体に少し興味があった。
 だが、布の下から現れた貌にレイルも一瞬言葉を失う。
 まだ、十を幾つか過ぎたばかりの少女だ。それに。
 少女の尖った耳。そして……瞳の色は鮮やかな紫だった。

「ひっ……」
 目の前に突きつけられる無慈悲な銀色の刃に、キルファは小さくうめいた。
(殺される……!)
 恐怖で思考が真っ白になる。身体から力が抜け、何も言葉が出てこない。男はキルファの頭を鷲掴みにしてきた。指が頭に食い込み、ぶら下げられているかのような錯覚にとらわれる。
 頭から被っていた外套がはぎ取られた。瞬間、男がわずかに目を見開く。
「へえ……ハーフって奴か」
 男が呟くのが聞こえてきた。
 見れば分かるでしょう。そう言いたかったのだが、喉がひりついて言葉が出てこない。
「ふうん……」
 男はじろじろとキルファの身体を睨め回す。艶のないぼさぼさの銀髪、土と埃まみれになってがりがりに痩せた身体。この自分の何処が面白いのか。
「……ま、良いか」
 男が呟く。次の瞬間。
 鳩尾に当て身を加えられ、キルファはあっさりと気を失った。

 レイルはくずおれた子供を抱える。案の定、体重も軽い。
「…………」
 その頃になって、ようやく部下たちが追いついてきた。もう遅い。レイルはぎろりと彼らを睨み付ける。
 腕の中の子供を顎でしゃくって見せると、部下たちは一斉に顔を輝かせた。
「こんな子供一人にさんざん振り回されやがって。てめえら、最近たるんでるんじゃねえか?」
 ぎろりと言ってやると、今度は一斉に顔を引きつらせる。三流役者の芝居でも見ているかのような様子に、レイルは顔をしかめた。
 子供を抱えたまま、すたすたと歩き出す。
「あ、あの……」
 部下の一人がおろおろと言ってくる。
「とっとと失せろ。後で少し鍛え直してやるから、覚悟しておけ」
 男たちの動きが止まる。それを見るでもなく、レイルはさっさとその場を後にした。

「ん……」
 キルファは小さく身じろぎした。
 ごそごそと身体を起こす。大きめの外套は、まだ毛布よろしくかぶったままだった。
「何処よ? ここ……」
 呟く。見回すと、狭い部屋の中であることが分かる。屋根の下に入るなど久々だった。が、部屋の中は何処か薄暗い。
 後ろに視線をやると、くすんだ金髪の男と目があった。
「…………!」
 一気に冷や汗が出てくる。あの男だ。
「えーと……」
「んー……やっと起きたか……」
 先程とはまったく違う、まるでやる気の見えない口調で、男……レイルは呟く。だが、キルファは顔を真っ赤にして、思わず視線を逸らした。
 レイルの隣に一人の女がいた。年齢はレイルとほぼ同じ……二十代後半くらいに見える。かなり際どい服を着て、レイルにしなだれかかっていた。
 いや、もっとはっきり言うと。ほとんど下着だけの格好なのである。レイルは面倒くさそうにがりがりと頭を掻き、女の方はいきなり出現した……ように彼女には見えたようである……少女に目を丸くしていた。確かに、頭から布を被って倒れていれば、人がいるようには見えないかもしれない。
 何故自分がこんな場所にいるのかは理解出来なかったが……子供をこんな場所に放り出しておくのはどうかと思う。
「何でこんなとこにいるのよ、あたし……?」
「オレが拾ってきたからだろ」
 キルファの呟きに、レイルは面倒くさそうに……しかし律儀に答える。
「拾ったって、レイル、あんたこんな趣味あったの?」
 女が目を丸くする。豊かに膨らんだ胸をレイルに押しつけるような仕草をした。私という存在がいるのに、と小さく耳元で囁く。その様子からすれば、レイルの恋人か愛人といったところなのだろう。
「馬鹿言え……誰がこんなガキに手を出すかよ」
 レイルはと言えば、変わらずやる気のない口調で答える。
「じゃあ、何で……」
「捨て猫拾ってきたみたいなもんだよ。ほら、見るからにそんな感じだろ」
 言ってキルファを半眼で示す。華奢でぼろぼろの身体、あどけない顔の割に鋭い目つき。
 レイルの言葉に、確かに、と女は呟いた。
「ちょっと変わった猫だけどね」
 彼女の姿……耳と瞳の色に気づき、女は小さく笑う。だが不思議と、嫌悪や軽蔑といったものは感じられない。
 二人の会話を聞きつつ、キルファはこそこそとドアに向かって動いた。事情はよく分からないが……何となくこの場にいるのは嫌だ。
 だが、次の瞬間に頭にまともにカップを食らい、頭を抱えて目に涙を溜めた。
「いたっ……」
「勝手に逃げるんじゃねえよ、拾いもん風情が」
 後ろからレイルが抑揚のない口調で言って寄越す。
「うう……じゃあ何でこんなとこに連れてきたのよっ……!」
「ここらへんはオレの縄張りだからな、そこで勝手にやられると迷惑なんだよ。万引きだろうが何だろうが、な。こっちにも事情ってもんがあるんだ」
 その言葉に、ようやくキルファは自分が追われていた理由を悟る。言葉と垣間見た強さからすれば、それなりの実力者なのだろう。
 山奥の村で育ったため、キルファは都市の感覚にはうとい。だが、それでもスラムという地区の存在とその倫理くらいは聞いたことがあった。
「で、それで、だ。
 ……勝手にやった奴を放り出しておくわけにはいかねえんだよ、こっちの立場からすると、な」
 レイルは立ち上がるとすたすたと歩いてくる。古ぼけてぎしぎしと軋む木の床なのに、まったく足音をたてない、滑るような動きだ。
「…………っ!」
 間近に迫ったレイルの視線に射すくめられ、キルファは目を見開いて硬直した。喉がやけに乾き、何か言おうとしても言葉が出てこない。
「あ、あ……」
 レイルはキルファの髪を乱暴に掴む。強引に顔を上げさせられ、レイルとまともに目があった。痛みと恐怖に顔が引きつる。
 かちかちと歯を鳴らすキルファを、レイルは面白くもなさそうに見下ろしてきた。
「……さっきは大したもんだと思ったんだが。実際はそうでもねえのかな……」
 呟く。とは言うものの、まだほんの少女がこの状況に放り込まれて、泣き出さないだけでも立派かもしれなかった。キルファにしてみれば、泣き喚くほどの体力も残っていないだけなのだが。
「さっきあれだけ迷惑かけさせられた以上、ちょっとやそっとじゃあいつらは納得しねえぞ。例えば金払うとかな」
 レイルは冷然と言う。キルファはまともに顔を強張らせた。
 そんなこと、出来るわけがない。そもそもそんな金があれば、最初から盗みなどやっていない。
 だが、レイルとてそのくらいは承知している。がたがたと震えるしかない少女に、また嘆息した。
「とは言うものの……無理だろうな、そのなりじゃ」
 わざとらしく言って聞かせる。キルファの顔が若干緩んだ。だが、レイルは更に言葉を続ける。
「銀髪か。珍しいな。これでこの顔なら結構な値段で……」
 キルファの全身を睨め回し、レイルは呟く。値踏みする視線……今まで浴びせられたこともない視線に、キルファの顔が怪訝なものに変わった。
 にやにやと笑いつつ、レイルが続けた。
「知ってるか? 貴族のお偉いさんほどな、普通の金で買える女じゃ満足出来ねえってんだよ。変態趣味の奴も多いしな。血のせいだとか言ってる奴もいるらしいが、まあ、詳しいことはこの際どうでもいい。
 そこへいくと、お前なんかはハーフだわ銀髪だわ、で珍しいから結構ふっかけられる。まあ、あと五年もすればその平板な胸もどうにかなるだろ……」
 ここまで言われて、ようやくキルファはレイルの言わんとしていることに気づいた。
 とどのつまり、身体を売れ、と言っているのだ。
「…………!」
 キルファの顔が青ざめる。まだ十二歳の少女が、そう簡単にそんな身の振り方など容認出来るはずもない。しかもずっと山中にいて、都市の倫理観もろくに知らないのだ。
「冗談……じゃあ……」
 呟き、ぎゅっと被った外套の裾を握る。思わずレイルから視線を逸らすと、後ろにいた女が目に付いた。
 際どい服を着て、やたらと派手な装飾品を身に付けた女。
 何となく悟った。この女も……おそらくは娼婦だ。
 自分も、彼女と同じ運命をたどることになる……?
「……じゃあ、それ以外にどうするつもりだ? 言ってみろ」
 またかちかちと歯を鳴らすキルファに、レイルは先程よりも更に冷ややかな視線を浴びせた。
「言っておくが、お前が何もする気がないなら……出来ないなら、オレは間違いなくあいつらの前にお前を放り出すぞ。そうでもしなきゃ、落とし前がつかないからな。
 女なら何だって良いって連中だ。そうなればどうなるか……それくらいは想像が付くな? ぼろぼろに犯されて、しまいには殺されるぞ」
 キルファには、その言葉は絶対の死刑宣告のように聞こえた。
(……どうして)
 それだけを心の中で呟く。
(どうして! どうしてあたしだけがこんな目に遭わなくちゃならないの? あたしは何も悪くない! 悪いことなんてしてないじゃないの……)
 じわりと目に涙が浮かぶ。きっとレイルを睨み付けるが、レイルはかすかに哀れんだ視線を向けただけだった。
 この男にはきっと……小娘一人がどんな運命を辿ろうと、大した問題ではないのだ。だから、簡単にこんな言葉を口にする。だが。
「どうして自分だけが……か?」
 レイルに心中を見透かされ、キルファは目を見開いた。
「お前が思ってるより、自分が幸せだと思えない奴は多いんだよ。で、そういう奴に限って、不幸なのは自分一人だと思ってやがる。それこそが思い上がりなんだよ。お前もそんなろくでなしの一人か?」
「じゃあどうしろってのよ!」
 思わずキルファは喚いた。今まで黙っていたのが嘘のように、言葉が次々に飛び出す。
「出来損ないは勝手に死んでいれば良いとでも言うの? 生まれてこなければ良かったの? 邪魔ならせめて、みすぼらしく生きていろとでも言うの……?」
 何よりも否定して欲しかった言葉。だが、レイルは冷淡だった。
「そうだな。オレはお前一人が生きようが死んでようがどうでもいい」
 この言葉に、キルファは思わず視界が暗転する感覚を覚えた。世界そのものが崩壊し、足下で踏みしめていた地面が消え失せる。
「お前が幸せだろうと不幸だろうと関係ない。お前が何を考えているのかも知らないし、知る気もない。
 ……オレはお前じゃねえからな」
「…………?」
 レイルの言葉に、キルファは目を瞬かせた。
「他人に死ねと言われたら死ぬのか? 他の奴に生きていろと言われたらそれで良いのか。
 ……お前はどうなんだって言ってるんだよ。他人に何か言われたくらいであっさりと諦めるほど、お前は自分の意志に自信がねえのか。自分すらまともに支配出来ねえのか」
 言って、レイルは嘆息した。
 キルファはまともに顔を強張らせる。
 生きていたい――少し前までは、何の躊躇いもなしにそう言えた。だが今は。
 そう思ったばかりに起こしてしまった惨劇。あの紅い情景は今も目に焼き付いている。あの事件が起こってから、まだほとんど時間は経っていないのだ。
 ここで自分が死ねばどうなるだろう。ふと、そんな思いが頭をもたげる。
 自分を案じてくれた母はもういない。ならば、死んだところで悲しんでくれる者など、誰もいないだろう。
 誰も自分一人が死んだところで何も思わず、死体は何処かで朽ち果てる。……それだけだ。
 あまりにもあっけない終焉。簡単なことで、今までの記憶も何もかもが消え失せる。自分という存在がいなくなる。
 それは……
(いや……だ)
 怖い。消えてしまうのは、あまりにも。
 他人が何と言おうと、たとえ忌み嫌おうと。自分だって、今は生きているのだ……
「嫌――だ」
 今度ははっきりと口にする。
「死んでたまるものですか。誰が何と言おうと、あたしは死にたくないわよ!」
 レイルを睨み付け、叫ぶ。
「ただし、あんたの言いなりになる気もない。あんたの言葉よね、自分は自分自身だけのものだって。たとえ何だろうと、誰かのものになるなんてごめんだわ!」
 目の前の男に従う気もない。おとなしく殺されてやる気もない。
 それは、一番難しい選択肢だ。だが――屈してたまるものか。
「…………」
 キルファの言葉に、レイルは苦笑した。
 短い髪を掴んでいる手に力を込める。その痛みと自分を睨み付けてくる視線に、キルファは顔を強張らせた。
 腕の下でじたばたともがくキルファを眺め、レイルは不意に手を離した。支えを失い、キルファの身体が傾く。
 キルファが怪訝な顔をしてレイルを見上げると、レイルはにっと笑った。
「まあ……かろうじて合格、か」
 レイルの言葉に、キルファは目を瞬かせる。
「ここで甘えるようなら、間違いなく放り出してたところだが、な」
 ここでようやく、キルファは、自分が試されたことに気づいた。土壇場に追い込まれた時の精神力。何を思ってレイルが自分を追いつめたのか、そこまでは分からないが。
「リージア」
 レイルは突然、傍らでやりとりを眺めていた女を振り返った。キルファはもとより、彼女……リージアまでもが目を丸くしている。
「何か食うもん作ってきてくれ。ホットミルクか何かで良い」
 レイルの言葉に、リージアが頷くと立ち上がった。ガウンを羽織ると、ぱたぱたと足音をさせて部屋から出ていく。
 リージアが姿を消すと、レイルは再びキルファをぎろりと睨み付けた。
「生意気言ってんじゃねえよ、このガキが」
 言って、再びキルファの頭を鷲掴みにする。その握力に、キルファが顔をしかめた。
「だがまあ……悪くはない。その根性に免じて、ちょっと別の方法を教えてやる」
 言うと、レイルは懐から何かを取り出した。目にも止まらぬ速さでその手が動き……次の瞬間、硬い音が連続で響く。
 レイルが、懐から飛礫(つぶて)を取り出して投げ放ったのだ。三つを一度に投げつけ、それが全部同じ一点に命中したのをキルファは見ていた。
「ま、素人があの連中から逃げ回って見せたんだからそれは大したもんだ。それで、だ。
 オレが盗賊の技術だの何だのをまとめて教えてやる。気配の殺し方なんてのもな。オレも盗賊としては結構名が知れてるんだよ。
 だから、その分も含めてまとめて借金だ。貸しておいてやるから、自力で稼いできっちり返せ」
 レイルの言葉に、キルファは黙った。何だか騙されている……事態がだんだん悪い方向に傾いているような気がする。
 だがまあ、自分にまっとうに生活していく力がないのも確かだし、この男の機嫌を損ねて生きていくのも無理そうだ。しかし……
「何だってそんな真似をしてくれるわけ……?」
 思わずキルファは尋ねていた。何とはなしに不気味だ。
「変な猫でもたまには飼ってみるか、くらいなもんだよ。ここで捨てるよりは、飼っておいた方が得そうだしな。……言っておくが、オレはお前みてえなガキにまで手を出すほど、女には不自由してない」
 キルファは何とはなしにリージアの姿を思い出した。絶世の美貌とはいかないものの、誰をも引きつける艶やかさがある。それに、女性らしい豊満な身体。
 まあ、レイルの立場からすれば、娼婦を買うのに不自由はしないだろうが。
「できたわよ」
 そこに都合良く、ぱたぱたとリージアが戻ってきた。皿が載った盆を手にしている。
「残ってたシチュー温めただけだけど。わたしの特製だから、美味しいわよ」
 ほこほこと湯気を立てるシチューが目の前に置かれたが、キルファはぼんやりとそれを眺めていた。
 ここ数日、ろくに何も食べていない。もはや、空腹を忘れてしまうほどに体力が消耗していた。食べようという気力がまったく起こらない。
「た・べ・な・さ・い。それとも何? わたしの作ったものが食べられないっていうの?」
 無理矢理に匙を握らされ、キルファはようやくシチューを口に運んだ。
「…………」
「美味しいでしょ?」
 にこにこと笑いながらリージアが言ってくる。
 実際には、大したことはなかったのかもしれない。だが、その時は。
「……おいしい」
 本当に……心の底からそう思った。
「相当腹が減ってたみたいだからな。今なら犬の餌でも食えると思うぞ」
「悪かったわね!」
 レイルの言葉に、リージアが噛みついている。それを聞きながら、キルファは夢中で匙を口に運んだ。
 だんだん実感が沸いてくる。
 ……生きている、という実感が。
「そういや、まだ名前聞いてなかったな。名前は何て言うんだ?」
 ふと、レイルが尋ねてくる。
「キルファ」
「キルファ、ね。キルファ……何だ?」
 レイルの問いにキルファは戸惑った。レイルが尋ねているのは姓のことだろう。だが、エルフであった母は正式には姓を持たないし、父は名前すら知らない。
 黙っているキルファに、レイルはまたがりがりと頭を掻いた。
「そういや、エルフってのは名字がないんだっけか。けどなあ、ないと何かと不便だし……と、そうだ」
 レイルはぽん、と手を叩いた。
「だったら、インシードとでも名乗っておけ。キルファ・インシード……ま、語呂だけは良いだろ」
 インシード。『雑種』の意だ。確かに、キルファには相応しいかも知れなかったが。
「何よ、もうちょっと可愛い名前考えてあげても良いじゃない。ねー、キルファちゃん」
 リージアが笑い、キルファの頭をくしゃくしゃと撫でる。リージアもキルファの容姿には気づいているはずだったが、特に気にしている様子もない。毎日堅気でない男たちの相手をしていると、そのくらいは気にならなくなるのかもしれない。
「アホか。名字に可愛いも何もねえだろ。大体キルファってな名前もあまり聞かねえし。エルフってのは皆こんな変な名前なのかね」
 レイルが肩をすくめた。
「……しかし、そうやってがっついてると本当に猫だな」
 ひたすらシチューを掻き込んでいるキルファに、レイルが苦笑する。
「悪かったわね」
 皿が空になったので、キルファはレイルを睨み付けて呟いた。
「……もうちょっと食べる?」
 リージアが尋ねてきた。食べて、ようやく人並みに空腹を実感する。
 結局のところ。一人で生きるなどと強がったところで、たった一人では生きていけないのだ。孤独であったところで、何処かで必ず他の誰かとつながっている。
 ならば、せめてこの小さな出会いを利用させてもらおう。これから前に踏み出すために。
 リージアの言葉に、キルファはかすかに顔を紅くして頷いた。

 
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