偽りの花
柔らかな緑の色彩の中に、ぽつりと抜ける白い色を見つけたのは、まったくの偶然だった。
少女は首を傾げ、それから駆け寄って覗き込む。それは、小さな花だった。
見つけたのが大人ならば、その花を踏み潰さないようにと自重するところなのだろうが、幼い子供はそんなことは考えない。乱暴に花を掴み取ると、自慢げにそれを掲げて母親の元に駆け寄った。
「おかあさん、これ、これ」
少女はやたらと嬉しそうに花を掴んだ手を振り回す。母親はその娘の様子に、穏やかに微笑んだ。
「ああ、お花ね。綺麗ね、よく見つけたわね」
「うん!」
母親が娘の銀色の髪を撫でてやると、少女は嬉しそうに目を細めた。日向でまどろむ子猫を連想させる表情だ。
「ねえ、このはな、なんていうの?」
少女は周囲のもの全てが気になって仕方がない年頃だ。好奇心のおもむくままに、母親に知識をせがむ。
母親は少女の手に握られた一輪を改めて覗き込み、あら、と呟いた。
「この花、確か……」
母親は花をじっと眺め、何やら複雑な表情を浮かべる。その変化の理由が分からず、少女はきょとんと目を丸くした。母親はそれを見て苦笑すると、花を指差してじっと愛娘の顔を見つめ、囁いた。
「このお花の名前はね――」
透けるような青空が、遥か頭上に広がっている。
そろそろ動いていると汗ばむ季節ではあるが、ふと吹き抜ける風はまだ冷たさを含んでおり、それが何とも言えず心地良い。
山道を歩いても、草木の若葉の緑がまぶしい。典型的な初夏の気候であった。
「うー、そろそろ暑くなってきたなあ……」
そんな山道に、やけに気の抜けた声が響く。
声を発したのは、若い男だった。栗色の髪に深緑の瞳の、大して特徴らしい特徴もない男だ。身に着けた旅装束がしっくりと馴染んでいるが、その中で、腰に吊った長剣だけが異彩を放っている。
ダレット・コルフォース――それが、この男に与えられた名であった。
「そりゃあ、そういう季節だもの。いちいち分かってることを言わなくていいわよ」
今度は少女の声が響いた。高いその声は少女特有のものだが、それとは裏腹に、妙な落ち着きと冷たさが漂う声音である。
「そりゃあそうだが……」
少女に、ダレットは憮然として答えた。言ってから、ぱたぱたと羽織った外套の襟元を開けて扇いでみたりする。
そんな仕草をしつつ、ダレットは傍らの少女……しばらく共に旅をしている相手を見下ろした。
小柄な少女だ。ダレットと同じく、旅装束に身を固めている。白のマントをしっかりと羽織っていたが、ダレットとは違い、汗一つかいた様子はない。
銀色に輝く髪と愛らしい顔立ちが、人目を引きそうな少女だ。だが、もっとも彼女を特徴付けるものは、その瞳であろう。
鮮やかな紫色の瞳。
このロンバルディア大陸は、人間とエルフという二つの種族が混在している。その混血にのみ見られる瞳の色だった。
この二種族の仲は、お世辞にも良いとは言えない。現在では、完全にお互いを隔てて生活が営まれている。そのため、この瞳の持ち主はそうはいないのだ。
「キルファ」
ダレットが呟く。人々にはあまり耳慣れない音だが……これが少女の名であった。本当の姓は彼女自身も知らない。そのため、現在では『雑種』の意であるインシードという姓を名乗っている。
ダレットがいきなり立ち止まった。それにキルファは一瞬遅れて続き、山道の側の森を見つめているダレットの視線の先を追う。
そこには小さな湧き水があった。ダレットの地図には特に記載はなかったはずだが、それは水量の少なさのためだろう。だが、旅をする者には有難い存在である。
「ちょっと水を汲んでくる……もうあまり残ってないし」
自分の携帯用の水筒を取り出し、ダレットはキルファの返答も待たずに駆け出した。それを見て、キルファは小さくため息をつき、近くにあった岩に腰を下ろす。
そこで、キルファの目もある一点で止まった。
「これって確か……」
呟き、見つけたものを慎重に抜き、まじまじと眺める。目を細め、記憶を辿るように虚空に視線を漂わせた。
ややあってダレットが戻ってきたが、キルファはそれにも気づかなかった。手にしたそれを睨み付けるようにし、ひたすら考え込んでいる。
「おい、キルファ?」
怪訝な顔をしたダレットが横から声をかけるが、キルファは反応しない。
ダレットがもう一度、今度は大声を出すと、ようやくキルファはダレットを振り向いた。
「あ……ああ、終わったの」
思わず間の抜けた声を発してから、キルファはダレットに応えた。だが、すぐにまた手元に視線を戻し、考え込んでしまう。
キルファが何かに熱中した様子を見せるのは珍しい。今度はダレットが怪訝な顔をした。
「……何なんだ? それ」
ダレットは首を傾げ、キルファが握ったものを覗き込む。
それは一輪の花だった。おそらく野草の一種だろう。小さい花で、ただ歩いていればまず存在には気づかないだろうと思われた。
白い花弁は、細い糸のようなそれが集まった、珍しい形状だ。葉も細く長く、柔らかい印象を受ける。
ダレットはまた首を傾げた。今まで見たことのない花だ。
「それがどうかしたのか?」
またダレットが尋ねると、キルファは彼の方を振り向いた。その顔は何処か緊張すらしているようで、ダレットは目を丸くする。
「なあ、それ……」
再びダレットが尋ねると、キルファは緊張をほぐすように大きく息を吐いた。
「薬草の一種なのよ、これ」
それだけ言い、また息を吐く。
「薬草ねえ……」
それならばキルファが気にする理由は分かる。彼女はどういうわけか、薬草に詳しい。加えてある程度の医療知識なら持っているようで、ダレットも怪我をするたびに彼女の世話になっている。
だが、キルファが薬草を摘んでいるのは見たことがあるが、さすがにここまで動揺していたことはない。まだ、肝心な部分は分かっていないのだ。
「だが、薬草だからってなあ……」
呟いたダレットに、キルファは意味深な笑みを浮かべ、手にした花をちらつかせた。
「これがさ、一輪で五百セトだって言ったらどうする?」
「五百っ……」
さすがにダレットも絶句する。
セトというのは、大陸で公式に使われている通貨の単位だ。物価は地域によって差が大きいが、五百セトもあれば、田舎で贅沢さえしなければ、一人が一月生活していくことが出来る。
大貴族の息子として育ったダレットは、いささか庶民とはずれた金銭感覚の持ち主だが、彼から見てもこの金額は破格である。どう見ても、小さな花が一輪だけではないか。
「何だって……」
かすれた声で呟いたダレットに、キルファは皮肉げに笑って答えた。
「これ、乾燥させてすり潰して使うんだけどさ、万能薬ってくらいに色んな症状に効くのよ。花とか葉とか根とか、それぞれ別の作用があって、すごく効果が大きいのよね。
すごく効能があって、ついでにものすごく少ないの。だからこの値段」
謡うようにキルファが言う。ダレットは唖然として、キルファの手の中の花を眺めた。
先程はただ珍しいと思った、綿のような形状の花弁が、何やら化け物のようにも見えてくる。気がつけば、ダレットは汗すら浮かべて花を凝視していた。
「まあ、ただの薬草は薬草なんだけど」
キルファが言い、肩をすくめる。それに呪縛を解かれたかのように、ダレットも大きく息を吐いた。
「そんなわけで、金の花なんて言われ方もするわね。……まさか、こんなところで見るとは思わなかったけど」
キルファが苦笑して手にした花を見つめる。
「はあー……」
ダレットが思わず間延びした声を漏らした。
「ま、これはちょっとした儲けものってことで。大きな街に行ったら扱ってる場所もあると思うわ」
キルファが言い、立ち上がる。夕暮れまでに次の街に着かなくてはならない。あまり余裕はないのだ。
「ん……まあ、そうだな……」
だが、ダレットはそれに気のない返答をした。しきりに地面……そこらに生えた草を見つめている。
「なあ、それ、ここに生えてたってことは、探せばまだあるんじゃないか?」
普通、人工的に植えたのでもない限り、一本だけ植物が生えていることはあまりない。種子を近くに撒くから、大抵は群生しているものだ。
「まあ、その可能性もないとは言わないけどさ」
キルファはダレットに冷ややかな返事を返しただけだった。何処か呆れたような様子で、探し物に没頭し始めたダレットを眺めている。
キルファの返答を聞いても、ダレットはひたすらそこらの野草を睨んでは首を傾げている。ダレットは別に金にがめついわけではない……むしろ執着がなさすぎるような性質《たち》だから、単に物珍しいだけなのだろうが。
「ないなあ……」
「探してすぐに見つかるんだったら、金の花なんて名前は付かないわよ」
ダレットの呟きに、キルファが淡々と相槌を打つ。
何を言っても、ダレットの耳には届かなそうだ。仕方なしに、キルファはまた座りなおし、探し物に熱中するダレットを眺めていた。
「いい加減気が済んだ?」
しばらくして、キルファは投げやりにダレットに言葉を投げかけてみる。反応を期待していたわけではなかったのだが、意外にも答えは返ってきた。
「あった!」
ダレットの上げた声に、思わずキルファも目を丸くする。
ダレットはやけに緊張した顔で地面から草を引き抜く。してやったりという顔で、ダレットは一本の花を手にしてキルファの側に駆け寄ってきた。
ダレットの手には、確かにあの珍しい花弁の花が握られている。それを見て、キルファはわずかに眉を跳ね上げた。
「ちょっと見せて」
言って手を差し出すキルファに、ダレットは素直に従う。
キルファはダレットの獲物を一瞥すると、苦笑して息を吐いた。何とも言えない顔で、傍らのダレットを見上げる。
「……何だって言うんだ?」
せっかく、珍しい花をもう一つ見つけたのだから、もっと驚いても良さそうなものだが。ダレットはやや憮然とした顔で、目の前の少女を見下ろした。
「これね」
もう一回息を吐いてから、キルファは口を開いた。
「違うのよ。ほら」
言って、キルファは自分が見つけたものも一緒に示した。ダレットがキルファの指差す先を見ると、確かに、わずかに葉の付き方が違うようにも見える。
「えーと……」
訳が分からず、キルファに物言いたげな視線を向けるだけのダレットに、キルファはまた苦笑した。
「よく似てるけど、こっちにはまったく薬効はないの。ただの野草よ」
キルファは断言する。その一言に、ダレットががくりと肩を落とした。
その様子を眺めてから、キルファは苦笑いしつつ続ける。
「まあ、安心なさい。これを間違うのはあんただけじゃないから。昔から、『金の花』を探そうとしてこれを取ってきちゃう奴は多いのよ。ま、こっちは売っても二束三文にもならないんだけどね」
ダレットが取ってきた花を眺めつつ、キルファが言った。
「だからさ、こっちにも一応、名前があるのよ。多分、呆れ返った人が付けたんだとは思うんだけど」
言いつつ、キルファはダレットを見上げる。その皮肉交じりの表情に、ダレットは目を瞬かせたが、先を促す仕草をする。キルファは一瞬逡巡したようだったが、結局は口を開いた。
きっぱりと言ってのける。
「愚か者の金、って言うのよ」
そう言って、キルファは肩をすくめた。
