バレンタイン・プレゼント
屋敷の廊下を歩いていたジェラルド・コルフォースは、ふと聞こえてくる物音に足を止めた。
「……何なんだ?」
眉をひそめる。耳を澄ませてみると、甲高い騒ぎ声や金属がぶつかるような音だった。女の声……それも、複数だ。
ジェラルドは大きくため息をついた。
「いつも静かにしろと言っているのに……」
呟くと、声のする方に向かって歩き出す。声の正体は容易に見当がついた。
物音が聞こえてくる、厨房の隣の部屋を覗き込む。案の定、物音が聞こえてくるのはそこからだった。あれこれと騒いでいるのは若い女性や少女……彼の姉と妹たちだ。
「少し静かにしろ、屋敷中に大声が響いているぞ……」
部屋に足を踏み入れつつ大声で言う。大体において、姉はともかく妹たちを叱るのは彼の役目だ。小さい頃からで、いつの間にかそうなっていた。
いつもなら姉妹はそこで騒ぐのを止めるのだが、今日ばかりはそうでなかった。広い部屋に足を踏み入れるなり、甲高い悲鳴が壁となって彼を阻む。
「男は出入り厳禁!」
何やらテーブルの上で作業をしながら、次女でジェラルドのすぐ下の妹、マリアテーゼが怒鳴ってくる。不意をつかれ、慌ててジェラルドは立ち止まった。怪訝な顔をして反論する。
「どういうことだ、とにかく静かにしろ、他の場所に迷惑……」
「あーはいはい、分かったからとにかくここから出ていく! 兄貴はどっかでじめじめと本でも読んでなさい、残業はないの、残業は」
見るからに面倒くさそうな風情で、近寄ってきたマリアテーゼがぱたぱたと手を振る。一刻も早く兄を追い払いたいらしい。
妹の格好に、ジェラルドは首を傾げた。マリアテーゼはいつもの簡素なドレスの上にエプロンを付け、長い亜麻色の髪は邪魔にならないように束ねている。気が付けば、部屋全体に甘い匂いが漂っていた。
「お前たち、何をやっているんだ……?」
ジェラルドは再び首を傾げる。部屋の中を覗き込んでみると、姉のアリエノールや三女のラウラも似たような格好をしている。テーブルの上に何かの道具を広げていた。
「別に何でも良いでしょうが」
マリアテーゼは無愛想に答える。顔をしかめて話を打ちきると、ジェラルドの背を押して部屋から追い出そうとする。
「……何でも良いなら、答えても問題はないではないか」
ぼそりと呟いたジェラルドに、マリアテーゼの手にしていた盆の一撃が炸裂する。部屋から追い出されるなり、ばん! と凄まじい音を立てて扉が閉められた。
「何なんだ……?」
突然の妹の剣幕……まあ、マリアテーゼの口が悪いのは今に始まったことではないが……に、ジェラルドは唖然とすることしか出来ない。しばらく扉の前で立ち尽くしていた。
と。
ばん、と扉が開かれる。またマリアテーゼが顔を出した。立ち尽くす兄は無視し、扉に何やら紙を貼り付けるとまた物音を立てて中にこもってしまった。
その張り紙の内容――『男は入ったら殺す』。
ジェラルドは目を瞬かせた。
「……お姉ちゃんたちは?」
「知らん」
首を傾げて問いかけてきた末っ子のダレットに、ジェラルドは無愛想に答えた。兄の返答に、ダレットは困った顔をすると側のソファに座り込む。
「だって、アリエお姉ちゃんもマリアお姉ちゃんもラウラお姉ちゃんもいないし……何処かに出かけたの?」
そんな話は聞いてないのに、とダレットは捨てられた子犬のような顔つきで呟いた。
ダレットは現在十歳。三歳の時に母を亡くし、その後は姉たちが母親代わりだったダレットには、姉たちの姿が見えないことが不安でならないらしい。
「厨房の隣で籠城中だ」
ため息をついてジェラルドは答えた。手にしていた本をぱたんと閉じる。
「籠城……?」
「下手に近寄らない方が良いぞ。マリアテーゼに害虫よろしく追い払われる」
ジェラルドは肩をすくめる。先程のやり取りを知らないダレットは、また首を傾げた。擦り傷だらけの頬を軽く指で掻く。
「……アリエお姉ちゃんとラウラお姉ちゃんは?」
「姉上とラウラも一緒だった。まったく、女だけで何をやっているのか」
部屋に閉じこもり、男子禁制で何の作業をしているのやら。想像するだに胡散臭くて、ジェラルドは顔をしかめた。もっとも、元々険しい顔つきなので、見慣れている者でないとその違いは分からないが。その横で、ダレットはきょとんとした顔をしている。
ダレットもジェラルドも、栗色の髪に深緑の瞳を持つ。その顔つきもまた、同じ鋳型で抜いたかのように似通っていたが、雰囲気と表情が両者を決定的に隔てていた。
「……エルザ!」
たまたま廊下を通りかかった中年の女性……小さい頃からの兄弟の世話係にダレットが声をかける。
「お姉ちゃんたちは?」
ダレットが問いかける。その横でジェラルドも同じ事を問いたげな顔をしているのを見て、エルザは苦笑した。小さく礼をして部屋に入ってくると、肩をすくめる。
「私が話したことは黙っておいて下さいね」
最初にそう念押しすると、エルザは何だかおかしそうに事情を語った。
バレンタイン、という行事があるそうなのである。
元々は、辺境のある地方にのみ伝わる習慣だったらしい。だが、各地方領同士の交流が盛んになった今、その伝統行事もまた、恋に胸を焦がす少女たちによって王都まで運ばれてきたらしいのだ。
「特定の日に、男にチョコレートを渡す……?」
くすくすと笑いながら語るエルザの言葉を、ジェラルドは眉を寄せて反芻した。
「何かその日でなければならない事情でもあるのか? 何故チョコレートでなければならないんだ?」
ジェラルドは眉をひそめ、エルザに問いかける。が、エルザは苦笑しただけだった。
「何でも良いんですよ。要はきっかけが欲しいだけなんですから」
エルザの言葉の意味を、兄弟は理解しない。顔を見合わせ、首を傾げるばかりである。
「ダレット坊ちゃまはともかく、ジェラルド坊ちゃまはもう十七におなりではないですか。気になる女性の一人もいらっしゃらないんですか?」
ジェラルドが役職を得て登城するようになってから、二年が経過している。年頃であること、それに美姫と言われた母譲りの甘い顔立ちに、貴族の娘たちの間では随分と評判になっているのだ。
だが、職務に没頭するあまり、それにまったく気付かないのがこの少年たる所以である。
「興味がない」
淡々と答えるジェラルドに、エルザは呆れ返ったようにため息をついた。兄の隣できょとんとしているダレットに視線を移すが、こちらはまだ小さい上に剣術がひたすら楽しいらしく、それしか興味がないような少年だ。
(……どちらも当分無理ね)
エルザはそう結論づけざるを得なかった。
「しかし、男にチョコレートを渡すだけなら、何だってあんな籠城戦なぞする必要がある?」
「意中の殿方だけではなくて、お父上や坊ちゃま方にも作って差し上げるおつもりなんですよ。恋だけではなくて、日頃の感謝もこめる行事ですから。
照れ臭いだけですよ、あなた方にあげるプレゼントを作っているんだ、と言うのが。ですから、今日は大目に見て黙っていてあげて下さい」
尚も不審げに問いかけてくるジェラルドに、エルザはのんびりと笑いながら応じる。根本的な部分が理解出来ていないのだろう、それでもジェラルドは納得しかねたようだったが、隣のダレットは顔を輝かせた。
「何かもらえるの?」
「そうですよ。ですから、お姉様たちの邪魔をしては駄目ですよ」
エルザが苦笑して応じる。最年少の少年の頭を小さく撫でると、それじゃあ、と言ってその場を後にした。
後には、兄弟のみが残される。二人は困ったように顔を見合わせた。
「……ねえ」
二人とも黙って立ち尽くしていたが、ややあってダレットが思いだしたように言った。
「料理って……マリアお姉ちゃんとラウラお姉ちゃんが……?」
心なしか、戦慄した顔で呟く。弟の言葉にジェラルドも顔色を変えた。
「姉上はともかくとしても……マリアテーゼとラウラ?」
ダレットとまったく同じ表情でジェラルドも呟く。しばらく二人とも黙り込んでその事実を何度も何度も心の中で確認し、ぎぎいっと音がしそうな動作でもってまた顔を見合わせた。
「…………」
言葉も出てこない。二人は顔を見合わせたままで立ち尽くした。
その頃、姉妹が籠城戦をしている厨房の隣の部屋では。
「えっと、これで良いの?」
金属のボウルの中身をかき混ぜていたラウラが言う。栗色の髪を少年のように短くまとめた少女だ。普段はおてんばよろしく走り回っているのだが、今日ばかりは人並みに『女の子』をやっていた。
「ええ、大丈夫よ。そうしたらね……」
やんわりとした口調で答えたのは、長女のアリエノールだ。腰まで届く亜麻色の髪を後ろで束ね、エプロンを付けている。その姿が非常に様になっていた。普段から料理をすることが多いのだろう。
不器用なラウラが次の道具を取ろうとして、まともにボウルに肘をぶつける。ボウルがテーブルの上で跳ね、中身が撒き散らされてしまった。
「あっ!」
隣で作業をしていたマリアテーゼが小さく声を上げる。ラウラが「しまった」という顔をし、その目にじんわりと涙を浮かべた。
「折角作ったのに……」
泣きべそをかきながらラウラが言う。それをアリエノールがなだめた。
「大丈夫よ、また作り直せば良いんだから。ほら、泣かないの」
妹の頭を撫でてやる。姉の言葉に、ラウラが小さく頷いた。料理に手慣れているアリエノールは立ち直りも早い。素早くこぼれた分を片付けると、作業に戻った。
「……ラウラは誰にあげるの?」
作業をしながら、アリエノールが優しく尋ねる。
「えーとね、お父さんとお兄ちゃんとダレットと、それからランお兄ちゃんと……」
ラウラが指折り数えて言う。ほとんどが家族や親戚、幼なじみだ。アリエノールが苦笑する。
「あんた、ランカスターと仲良かったっけ? あんなうすのろ男……」
横で聞いていたマリアテーゼが首を傾げた。ランカスター・ファーレストというのは姉妹の従兄の名前であったが……同時にこの国の王太子の名前でもある。
王太子を堂々と『うすのろ』呼ばわりして、マリアテーゼが鼻を鳴らした。温厚で知られる次代の国王も、この少女にかかればこんなものである。
「マリアは?」
アリエノールが尋ねた。
「自分で食べるに決まってるじゃない。何が悲しくて男共にあげる菓子なんて作らなきゃならないのよ。普段からさんざん顔つき合わせてるのにさ、それに今更感謝してあげなきゃらならないようなことの記憶もないし」
マリアテーゼは再び鼻を鳴らした。
「アリエ姉さんは一人にあげれば満足なんでしょ」
マリアテーゼが嫌味に言う。アリエノールが、困ったように笑った。
兄弟の中では最年長で、もう二十歳になるアリエノールには婚約者がいる。近々結婚する予定なのだ。兄弟が揃って騒いでいられる時間も、もうそんなに残っていないのである。
結構な数を作っているマリアテーゼとラウラ……まあ、マリアテーゼは全て自分で食べるつもりらしいが……と違い、アリエノールは数個しか作っていない。その代わりに、細かい細工が施されていた。
丁寧な手つきのアリエノールとは違い、マリアテーゼの手つきは乱暴だ。こいつは本当にやる気があるのかと聞きたくなるほどである。がしゃがしゃとかき混ぜ、投げやりな手つきで形を整える。隣でわたわたと作業をしているラウラも似たようなものだったが、こちらは天性の不器用のせいである。
慣れない作業に没頭している妹たちに、アリエノールは微笑した。
「さて、もう少しよ。形ができたら、冷えて固まるまで少し待たなきゃならないけど」
のんびりと言うと、アリエノールは自分の婚約者に渡す分の細工に再び集中した。
廊下の向こうから、がたがたという物音が聞こえてくる。
「ようやく開城したか。投降なのか勝利なのかは知らんが……」
本を読んでいたジェラルドが呟いた。隣で、兄にどやされて教本を読まされていたダレットが顔を上げる。
「お姉ちゃんたち?」
「そのようだ」
ジェラルドの言葉を肯定するかのように、二人がいた居間の扉が開いた。エプロンを外したラウラが顔を出す。
満面の笑みを浮かべて、何かが盛られた皿を手にしていた。
「えーとね」
お気に入りのおもちゃを自慢するかのような表情でラウラが言った。
「お姉ちゃんたちとね、チョコレート作ったの」
自慢をしたくてしたくてたまらない、といった様子でラウラが皿を二人の前に出した。小さな茶色の菓子……一口くらいの大きさのチョコが無数に載っている。
「だから、みんなで食べよう?」
プレゼントとして作ったはずだったが、自分も食べたくて仕方ないらしい。エルザから事情を聞いたことは黙っておくことにして、ジェラルドは小さく頷いてやった。
皿を覗き込む。その一瞬後、ジェラルドは顔がひきつるのを全力で自制しなくてはならなくなった。
チョコレート、なのだろう。エルザから聞いた話からすると。しかし、皿に載っている代物は、それよりも更にどす黒い色をしていた。
木炭を粉にして、それに油と粘土を混ぜて丸めればこうなるだろうか、とジェラルドは思った。大きさこそ整っているが、事情を知らない人間が「これがチョコレートだ」と言われても、まったく信じられないに違いない。
(何をやっていたんだ……?)
先程のマリアテーゼの剣幕を思い出し、ジェラルドはほんの少し戦慄する。皿を覗き込んだまま固まっている兄に、ラウラが首を傾げた。が、すぐに気を取り直す。
「ほら、ダレット」
一番下の弟に一つ渡す。ダレットも兄とまったく同じ感想を抱いていたが、姉の手前、ここで「何だか恐いから嫌だ」などとは言えない。絶対に言えない。
ごりっと音を立てて……普通のチョコレートはもっと柔らかいような気がする……、ダレットはチョコレートをかじった。その様子を、ラウラが目を輝かせて見ている。
「あ。美味しい」
ぽつりとダレットは呟いた。が、その顔はこれ以上はないと言うほどに引きつっている。生憎と、ダレットは兄ほどには表情を誤魔化す術に長けていなかった。
口に含んだ瞬間は、普通のチョコレートの味がするのである。だが、これは単に表面にまぶした粉の作用らしく、次の瞬間には焦がしまくった野菜の如き苦みがやって来るのだ。
口で何と言われようと、この表情では誤魔化しようがない。自分の数時間の作業の成果を知り、ラウラが目に涙を浮かべた。
「うあぁあっ!」
そして泣き出す。ダレットも泣きそうな顔をしたが、これは姉を泣かせた焦りと、あまりにもまずい菓子の味によるものの両方だった。
妹と弟の横で、ジェラルドが珍しく顔を引きつらせてだらだらと汗を流す。と。
「あー! 何ラウラ泣かせてるのよ!」
一番まずい人物がやってきた。マリアテーゼだ。彼女は特に何か手にするでもなく、ずかずかと居間に入ってきた。
「ああ、ほら、泣かなくて良いから……」
マリアテーゼはすぐ下の妹を優しくあやす。姉の腕の中でラウラが小さく頷いたのを見て取り、ぎろりと鬼のような形相で兄弟を睨み付けた。
「あんたらどうせ、ラウラが頑張って作った、そりゃーもう頑張って作ったチョコ食べてまずいとか言ったんでしょ! こういう場合は嘘でも美味しいとか言うのが礼儀でしょう、女心ってもんが分からないの?
嫌よねー、こういう男って! どうせ二人とも馬鹿やって女に振られてりゃ良いのよ、その前に近寄ってくる女がいるかは知らないけど!」
べらべらとまくし立てるマリアテーゼに、ジェラルドの身体が思わず傾いた。
「お前、それはフォローになっていないのでは……」
ジェラルドがぼそりと呟く。身も蓋もなく『まずい』と言い切られ、ラウラが大声で泣き出した。わあわあと泣くラウラを、自覚症状の欠片もないらしいマリアテーゼがなだめる。なだめられたかどうかは定かではなかったが。
「……お前は作らなかったのか?」
確か、マリアテーゼも一緒に作業をしていたはずだが。ふとジェラルドは呟いた。だが次の瞬間、再びマリアテーゼに睨み付けられた。
「ふーん、女の子泣かせておいて、そういうもの期待するわけ? あつかましいにも程があるのよ! 三日三晩絶食してから来なさい、そうしたらラウラのチョコを一欠けくらいはあげるから! そうしたら嫌でも美味しいと思えるわよ!」
「だから、それはフォローになっていない……」
まだ泣き続けるラウラを見て、ジェラルドがまた呆然と呟く。
「大体ねえ、自分が女からそういうものをもらえるような男だと思うの? 口うるさいわ無愛想だわ鈍感だわ、ついでに背は低いわひょろっこいわ! おおよそ正反対じゃないの、ちっとは自覚しなさいよ!」
一言一言が長い妹である。ジェラルドは顔をしかめた。口うるさいのはそちらの方だろう、とふと思ったが、後が恐いので口にするのは止めておく。
兄妹がぎゃあぎゃあと言い争いをしている横で、ダレットがおろおろとラウラを慰めていた。一応、泣かせた原因という罪悪感がある。
「ねえ、お姉ちゃん、みんなで食べようって言ったでしょ? ほら、アリエお姉ちゃんも呼んできてさ、みんなで……」
「いいわよ別に! どうせまずいんだし……」
ダレットがおろおろと言うが、ラウラは聞き入れない。弟に心配されたのが腹立たしかったというのもあるだろうが。
ラウラが右手を一閃させた。風を切る音がする。
「…………っ!」
反射的に――生存本能だけで後ろに跳んだダレットが、声にならない声を上げる。ラウラの右手に何かが握られていた。
扇だ。貴族の女性が持っている物である。ただし、扇術と呼ばれる貴族の女性が用いる護身術に使われるもので、中に鉄骨が仕込んであり、ただ殴られただけでもそれなりに痛い代物だ。
しかもラウラの持っている物は、エッジの一部が剃刀のような刃になっているという凶悪さだ。たかが扇とは言え、これでは立派な凶器である。間違っても、泣きながら子供が振り回すような代物ではない。ついでに、ラウラは扇術がやけに得意だ。その一撃は鋭く、速い。
「……あう……」
辛うじて一撃を避けたダレットが、遅まきながらだらだらと冷や汗を流した。普段から剣術に没頭しなければ、間違いなく鉄骨の一撃を食らっていただろう。
だが、一撃目を避けた後、連続して放たれた二撃目までは避けられなかった。派手に足を払われ、ダレットは床に転がる。
自作のチョコレートと鉄扇を持ったまま、ラウラは居間から駆け出す。すぐにその姿は見えなくなった。
「えーと……」
ダレットがまたおろおろとして、不毛な言い争いを続ける兄姉を見上げる。ラウラの剣幕に、ジェラルドとマリアテーゼがようやく喚くのを止めた。
「ありゃー……」
マリアテーゼがさすがに頭を掻く。ラウラが泣き出したら最後、なかなか泣きやまないことは彼女も知っている。すぐ下の妹とは言え、どうしてああも泣き喚けるのか、マリアテーゼには不思議でならなかったが。
「……どうしよう?」
ダレットの言葉に、一同は沈黙した。
「……やっぱりまずい」
自分で作ったチョコレートを一口食べて、ラウラは呟いた。味見しなかったのがまずかったか、と一人反省する。これでは、ダレットも顔を引きつらせるわけだ。
「けど、どうしよう、これ……」
この出来では、他の誰かにあげるというのは無理だ。大皿を前に、ラウラは呟く。また涙が浮かんできて、それをぐしぐしと拭った。食べるのは無理だが、捨ててしまうのはあまりにも悔しい。
ふと、後ろから近づいてくる足音に気付き、ラウラは振り返った。
「お姉ちゃん」
アリエノールだ。アリエノールは近づいてくるとラウラの隣に座る。黙ってラウラの頭を撫でた。
「最初からきちんと作れる人なんていないわよ。そんな人がいたら、私も困るわ」
教えてあげる楽しみがなくなるもの、とアリエノールは笑った。さすがに兄弟の一番上の姉と言ったところか。穏やかな口調に、ラウラの涙が止まる。
「うん……」
小さく呟いた。
「みんなを喜ばせてあげたかったんでしょ? 今はそれで良いわ。次はね、もう少し美味しく作れるように頑張ってみなさいな」
兄弟の母親代わりの姉の言葉に、ラウラは小さく頷く。
「一度限りじゃないんだから。みんなはラウラの周りにちゃんといるから」
ね、と笑ってみせる。
ようやくラウラは泣きやんで、アリエノールに向けて笑って見せた。
結局、兄弟がテーブルを囲んで食べたのはアリエノールが作ったものだった。力を入れて婚約者に渡す分を作っていたが、一応、家族にあげる分も用意しておいたらしい。ここらへんの機転が長女たる所以である。
「美味しい」
今度は正直にダレットが笑った。幾つも同時に口にほおばる。
「行儀が悪い」
ジェラルドが顔をしかめて怒鳴った。ダレットが肩をすくめる。
「一々一々うるさいのよ、小姑じゃあるまいし。少しは黙るとか静かにするとかいうことを覚えた方が良いわよ、兄貴」
「……その言葉をそっくりそのままお前に返す」
ぎゃあぎゃあと怒鳴ってくるマリアテーゼに、ぼそりとジェラルドが言った。
その横でラウラとダレットがひたすらチョコレートを口に放り込んでいた。口うるさい二人が言い争いに没頭しているので、今のうちに少しでも食べておこうという魂胆らしい。
それを眺めながらアリエノールが苦笑した。優雅な仕草で紅茶を飲む。この弟妹たちと一緒にいるのもあと少しだ。
ふと、ラウラがこっそりとテーブルの下から何かを取り出した。先程自分が作った失敗作だ。やはり捨ててしまうのが惜しかったのか、一人でこっそりとかじっていた。まずそうに顔をしかめてはいたが。
ジェラルドがそれを見つけ、苦笑する。
「……一つだけもらえるか?」
興味半分、付き合い半分である。そう言われるとやはり嬉しいのか、ラウラはぱっと笑って兄に真っ黒な欠片を渡した。
不格好な欠片を手のひらに載せて苦笑すると、ジェラルドは口に放り込んだ。予想通り、異常なまでに苦い。次回作に期待するしかないか、と小さな妹に目をやる。
と……
「…………」
ジェラルドは黙り込んだ。他の何も目に入っていない様子で、ぼうっとしている。
「……ジェラルドお兄ちゃん?」
いきなり黙り込んだ兄に、ラウラが怪訝な顔をする。首を傾げ、その顔を覗き込んだ。それでも反応がないので、ぱたぱたと顔の前で手を振ってみたが、動かない。
「……どしたの?」
それにダレットが気付き、彼も兄の顔を覗き込んだ。そして顔を引きつらせる。
ジェラルドの顔はかすかに紅潮し、その目はとろんとして何処か虚ろだ。感じられる熱っぽささえなければ、人形と形容しても良いほどである。
「……ラウラお姉ちゃん」
滑稽なまでに引きつった顔でダレットは言った。
「あのチョコレートに……何を入れたの……?」
その呟きに真っ先に反応したのはマリアテーゼだった。ラウラから失敗作を一つ奪うと口に放り込む。そして顔をしかめた。
「……酒……」
その呟きに、姉弟が全員で硬直した。
「ラウラ、あんた何でこんなもん入れたのよ!」
「あうあう……だって、何か瓶に入ったものをアリエお姉ちゃんが入れてたから、その方が美味しいのかなー……って……お酒とは思わなくて……」
アリエノールが酒を使っていたのは事実である。だが、それは婚約者に渡すものだけで、無論のこと家族の分には入れていなかった。それを見たラウラが真似をしてしまったということらしい。
「ラベルを確かめろおおおおおっ!」
頭をがしがしと掻きむしり、マリアテーゼが喚いた。
「どうするのよ、これ!」
黙り込む兄をびっと指さし、マリアテーゼが怒鳴った。兄と言うよりは、ゴミの山の処理でも押しつけているかのような風情である。
……マリアテーゼの頭の中では同じだったのかもしれないが。
隣で妹に怒鳴られ、ジェラルドがゆっくりと顔を上げる。相変わらずその目はとろんとしていたが――同時に、瞳に暗い炎が宿っていた。
「やっちゃった……」
ダレットが呆然と呟いた。
兄弟は全員、酒に弱い。両親が揃って下戸だったためだが、ジェラルドは特にそれが極端だった。ほんの少し口に入れただけでも、前後不覚に酔ってしまう。
一口でも飲んだら最後、人格が豹変してしまうのである。
兄弟もそれを知っているし、本人も自覚しているから、酒に口を付けるようなことはないのだが……今回ばかりは不可抗力だった。
「黙れ」
ジェラルドは隣で喚き散らすマリアテーゼをぎろりと睨み付ける。無造作に拳を振り上げ、裏拳を叩きつけた。マリアテーゼは辛うじてそれを避ける。
「可愛い妹に手を上げる? 最低の兄貴よね! 大体さあ……」
「……聞いてないと思うよ」
苦情を喚くマリアテーゼに、淡々とダレットが突っ込んだ。
こうなるとジェラルドは手が着けられない。普段の生真面目さとは一転、何処ぞのちんぴらのような風情になってしまう。怒鳴るわ殴るわ暴れるわ、力尽きて倒れるまでそのままである。無論、周囲の人間の言葉など聞くわけがない。「普段抑えてる反動でしょ。つまり、こっちが本性ってことよね」……とは、マリアテーゼの弁だが。
「いっそのこと、酒を飲ませまくってみるってのは? 一口でああなるんだからさ、大量に飲んだら一気に倒れるとか行きすぎて元に戻るとかするかも……」
「死ぬと思う……お兄ちゃん」
マリアテーゼの発案に、ラウラが淡々と言った。
「だったらどうしろってのよ! こんな始末に負えない酔っぱらい!」
マリアテーゼがジェラルドを指さして喚く。
「うるせえっつってんだよ。このガキが」
ジェラルドが大股でマリアテーゼに近づくと、拳を振り上げた。
咄嗟にラウラが懐から鉄扇を取り出す。ぱん、と手慣れた動作でそれを広げると、一気にジェラルドの足を払った。ジェラルドが床に転倒する。
「助かった!」
マリアテーゼがため息をついた。が、ジェラルドは起き上がるとマリアテーゼの髪を掴んだ。一気に引き寄せる。
「ぎゃあぎゃあうるせえんだよ。ろくに色気もねえくせしやがって」
仮にも自分の兄の言動とは思えない。これにはマリアテーゼも思わず目尻に涙を溜めた。
「なんでわたしばっかり狙うのよっ!」
「日頃の行いのせいじゃない……?」
ぼそりと突っ込んだラウラは、髪を掴まれたままパニックになっているマリアテーゼにぎろりと睨まれた。
だがまあ、さすがに放っておくわけにはいかない。ダレットが体当たりをし、ラウラがまた鉄扇を翻す。ようやくマリアテーゼは解放され、はあはあと肩で大きく息をした。
「ああもう、やってられないっ!」
とうとう限界に達したらしく、マリアテーゼが癇癪をおこした。居間の隅に置いてあるものを掴むと、じゃきん、と武骨な金属音を響かせる。
弩(アルバレート)と呼ばれる武器だ。機械仕掛けで弦を巻き上げ、矢を発射する弓である。手練の早業で素早く矢を装填して弦を巻き上げると、その先端をジェラルドに向けた。
「往生しなさい!」
物騒極まりないことを喚くと、狙いを絞る。その表情を見る限り、間違いなく本気だ。マリアテーゼが握っているのはやや小型の弩だが、それでも至近距離から命中すれば即死するくらいの威力はある。
「それはまずいっ!」
ダレットが喚くと、慌ててマリアテーゼを羽交い締めにする。そこにラウラが飛びつき、弩を取り上げた。一瞬後、三人が揃ってぜえはあと大きく息をする。
「じゃあどうしろってのよ! こんな始末に負えない奴、さっさとあの世に送った方が世のため人のため酒煙草規制条例のため……」
「殺しちゃまずいでしょっ!」
尚も喚くマリアテーゼに、ラウラが喚いた。これではジェラルドとマリアテーゼ、どちらを止めたら良いのか分からない。何だって兄姉を止めなくてはならないのかと、ふと世の中の無情すら感じてしまう。
「こうなったら……」
三人は同時に頷いた。最終手段を使うしかない。
その切り札を期待に満ちた視線で見る。神に祈るときにも似た心境だった。
「……仕方ないわねえ……」
縋るような視線を注がれた、その切り札――アリエノールは、にっこりと笑う。いつも通りののんびりとした笑みはそのままで、すたすたとジェラルドに近づいた。
ジェラルドはぎろりとアリエノールを睨み付ける。普段、姉に対して払う敬意は欠片も感じられない。
ぶん、とまた拳を振り回す。それを避けると、アリエノールはにっこりと――それはもう、にっこりと笑った。
「おいたは駄目よ? ねえ、ジェラルド」
幼児に話しかける母親のような口調で言う。アリエノールは慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、ひょいとその手を振り下ろした。
ぺん、と軽くジェラルドの頭をはたいた。……ように見えた。
次の瞬間、ジェラルドは錐もみ回転して床に沈んだ。頭を床にめり込ませ、そしてそのまま動かない。
その様子を固唾をのんで見守っていた姉弟は、ほっとため息をつき……同時に戦慄した。
アリエノールの最大の武器。それは、その常識外れの怪力であった。傍から見れば軽くはたいたようにしか見えなかったが、その実、太い木材でも叩き折れるほどの力がこもっていたはずである。
普段、のんびりとした言動を取る女性だけに、この事実を知る者はそういなかったが……無論、姉弟は例外に入る……、知っている者ならば、何が何でも彼女に逆らおうとは思うまい。
安堵なのか恐怖なのかよく分からない顔で、三人は顔を見合わせた。
目が覚めたのは、居間のソファの上だった。
「ん……?」
身体を起こし、ジェラルドは首を傾げる。確か、兄弟で姉の作ったチョコレートを食べていた気がするのだが……菓子の皿やカップは片付けられている。だが、それを見た記憶がない。何があったのか、まったく思い出せない。
やけに頭が痛む。触れてみると大きく腫れ上がっていた。
「何だと言うんだ……」
腫れた部分に手を当てながら立ち上がる。ふと隣を見ると、マリアテーゼが立っていた。
「何があったんだ?」
とりあえず尋ねる。マリアテーゼは黙って顔をしかめた。
「あれだけ暴れておいてさっぱり覚えていないって言うんだから、都合の良い記憶力よね……」
マリアテーゼがぶつぶつと言っているのが聞こえた。ジェラルドは眉をひそめたが、聞いてもどうせマリアテーゼは答えそうもないので、それ以上は突っ込まないでおく。
「…………? お前、何を食べているんだ?」
マリアテーゼは小さな袋を手にし、そこからひたすら何かを取り出しては口に放り込んでいる。ジェラルドが首を傾げて尋ねた。
「チョコレート」
マリアテーゼはそれだけ答える。
「……作っていたのか」
「兄貴にあげる分なんてないとは言ったけど、作ってないとは誰も言ってないわよ。何が悲しくて、折角作ったものを男共に食べさせなきゃならないのよ」
マリアテーゼは一気にまくし立て、また袋から一口大のチョコレートを取り出して囓る。ジェラルドも何も言う気をなくし、ただひたすら食べまくるマリアテーゼを眺めていた。
ふと、マリアテーゼが何かを放った。反射的にそれを受け取り、ジェラルドは眉をひそめる。
小さなチョコレートが一粒。
「…………?」
「本当ならあげたくなんかないんだけどさ、何だか沢山できちゃったし、一人で食べるのは時間がかかるし、その間に悪くなっちゃったら悔しいから少し処理して」
怪訝な顔をするジェラルドに、ぺらぺらとマリアテーゼはまくし立てた。
「お菓子ってねー、美味しいんだけどさ、甘い分太りやすいのよね。わたし太るの嫌だから、体型維持のためにちょっと協力して。兄貴どうせひょろっこいんだから問題ないでしょ。ああ、でもちゃんと食べた分は運動しなさいよ、歩く脂肪人形が兄貴だなんて思いたくないから」
マリアテーゼは一気に言ってまたチョコレートを取り出して囓る。
「……何でそういう言い方しか出来ないんだ、お前は」
ジェラルドはぼそりと呟くと、渡されたチョコレートを口に放り込んだ。
