刃の先に見えるもの
精神を集中して、一歩前に踏み出す。
ダレットは全神経を手にした剣の切っ先に集中し、振り下ろしながら踏み込んだ。かすかに風を切る音がして、銀光がきらめく。
ただ刃を振り下ろすだけでは何も斬れない。剣に、足運びに、間合いに、精神の集中に……全てを一瞬に一致させなければ、ただ棍棒を振り下ろしているのと一緒だ。小さい頃から何度も何度も聞かされてきた言葉。今更確認するまでもない。
切っ先は、目にも止まらぬ速さで目標に殺到する。タイミングは完璧。
(取った!)
命中を確信し、ダレットはにやりと笑った。
だが。
相手の男は全てを予想していたかのように、ダレットの剣をあっさりと受け、弾く。力を流され、ダレットの体勢が一瞬崩れた。
そこに、今度は男が踏み込んでくる。体勢を崩したダレットに、すくい上げるような下からの一撃。それを、ダレットは咄嗟に引き戻した剣の柄頭で撃ち落とした。同時に、無理な体勢から一歩跳んで後退する。
どうにかして間合いを取って、体勢を立て直さないとまずい。だが、男がそれを許すはずもなかった。
ダレットが後退するより速く、男は更に一歩踏み込む。剣は先ほど撃ち落とされたせいで使えなかったが、その代わり……
「がっ!」
拳が腹に叩き込まれた。これにはたまらず、ダレットは剣を落として地面に膝をつく。相当強く入ったせいで、呼吸すら苦しい。
が、とどめのように、肩に剣を叩き込まれる。今度こそ、ダレットはまともに地面に倒れ込んだ。顔面を地面にくっつけたまま、動こうともしない。
「おい。とっとと起きろ。この馬鹿が」
男はと言えば、何事もなかったかのように涼しい顔つきで、ダレットの脇腹を軽く蹴飛ばした。足元で小さく苦鳴が聞こえたが、完全に無視している。
「さっきのっ……一撃で、勝負はついてたじゃないですか……何だって、肩をまた殴りますかね……」
しばらくして、よろよろとダレットは立ち上がった。服についた土埃をはたこうともせず、先ほど取り落とした剣を拾う。
訓練用の模擬剣だった。一応刃は落としてあるものの、それ以外は真剣と同じだ。きちんと刃筋が立っていれば斬れることもあるし、金属の棒であるからして――殴られれば当然痛い。
「あんな無理な体勢から後退なんぞしようとするからだ。下手に下がったら追い打ちを掛けられるだけだとさんざん言ったろうが」
「口で言われた気はありませんけど。代わりに殴られましたが」
尚もぶつぶつと言っているダレットの頭を、男はもう一度拳で殴った。ダレットは頭を押さえ、恨めしげに男……自分の師匠を見上げる。
この男に剣術を習って随分になるが、ずっとこんな調子だ。今更文句を言っても仕方のないことは知っているのだが、習慣的に口答えしてしまう。
「やかましい。一々揚げ足を取るな。罰として素振り百回追加だ」
淡々と男は言った。途端にダレットが顔を引きつらせる。
「すいません……それで、合計千三百回になるんですけど……」
「今までの累積だろうが。自分が悪いんだ、俺に文句を言うな。ついでに、終わるまで夕飯は抜きだと親父殿に言っておいてやる」
ダレットはがっくりと肩を落とす。ふと横を見れば、日がもうすぐ沈むところだった。今から素振り千三百回では、夕飯が食べられるのは一体何時になるのだろうか。その前に餓死しそうな気がした。
「お腹すいた……」
尚も恨めしげに男を見遣るダレットに、男は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ガキみたいな声を出すな。大体が、戦場にいたら食べたいときに食べられないのが普通なんだよ。三日三晩飲まず食わずなんざざらだ。そのくらいで一々文句を言うな」
「うう……ここは戦場じゃなくて自分の家なのに……」
呟いて、ダレットは遠くを見る。広大な建物が、夕日を受けて紅く染まっていた。
帝国の宰相を務める、国の重鎮の邸宅だ。庶民の家などとは比べものにならないほど広い。ダレットたちがいる場所も、小さな森のようだが、実際は庭の隅だ。
「さて、俺は戻るか。お前は素振りやって後片付けをするまで夕飯抜きだ。喜べ、きちんとお前の分まで平らげておいてやる」
男はそれだけ言い捨てると、すたすたと屋敷の方に戻っていった。自分の家ではないのに、やたらと偉そうな態度だ。
ダレットはため息をつくと、自分の身体を見下ろした。運動しやすい服を着ているが、あちこちが破れてぼろぼろになっている。ついでに擦り傷、青痣だらけだ。まあ、いつものことなので、今更愚痴を言うこともなかったが。骨を折ったり斬られたりしないだけ、今日はましだった。
しばらく息を整える。そうしてから、ダレットはまた模擬剣を手にすると素振りを始めた。小さく口の中で数を数える。
日が落ちた庭の片隅で、ダレットはずっと剣を振っていた。
ぼんやりと手にした本に目を落とす。辛抱強く、文字を目で追っていたが……
「だあああ、やってられるかっ!」
まったく保たなかった。ダレットは分厚い本を放り出し、机に突っ伏す。うたた寝でもしようかと思ったが、後ろにいる人物には気付かなかった。
「おい」
上から降ってくる声に、ダレットは顔を引きつらせると体を起こした。
「兄さ……兄上」
ダレットによく似た貌に、まったく違う表情を浮かべた男がいた。ジェラルド・コルフォース。ダレットの兄で……王城に登城するようになって数年が経つ。
「またお前は……大体が、これは一月前の課題ではないか? 未だに終わらないのか、お前は」
言って、ジェラルドは先ほどダレットが放り出した本を指さした。表紙には、それが歴史の教科書である旨が記されている。
「俺は兄さんみたいに頭良くないし」
「私と比べても意味がないし、頭が悪いだのどうのと言った問題ではない。単にお前の意欲の問題だろう」
正解だった。ダレットが特に学科の成績が悪いのは、最初からやろうとしないからだった。やっても出来ない、とはまったく話が別である。結果は変わらないが。
「剣に熱心なのは結構だが、それだけではまったく役に立たんぞ。周りの人間に馬鹿にされない程度の教養は要る。お前の場合、問題外だ」
ジェラルドは言ってため息をついた。権謀のうずまく王城に身を置いているだけあって、その言葉には現実味がある。いくら父が宰相であるとは言っても、それだけで周りの人間は納得しない。認めさせるだけの力量が要るのだ。
そして多分、兄はそこで通用するだけの能力を持った人間だった。
「お前もいい加減、身の振り方を考えろ。剣に没頭しているのもそろそろ終わりだ。私が言うのも酷だが、いつまでも家でごろごろしているなどという選択肢は認めないぞ。十五歳ともなれば、登城してもおかしくない年齢だ」
貴族の家では、家の爵位を継げるのは子供の中で一人だけだ。このコルフォース家の場合、それは兄に決まっていた。長男ということもあるが、資質を見ても誰もがそう思うだろう。
となれば、次男のダレットは自分で道を選択しなくてはならない。それは分かっている。だからこそ、余計に人並み以上の力が必要になるのだが……
「…………」
ダレットは兄から視線を逸らし、机の木目を眺めた。複雑な曲線を描く木目同様、自分のこれからもいたく複雑怪奇なものに思えた。
剣で斬って、それですっぱりと物事が解決出来るなら。目の前の敵を倒せば、それで済むならどれだけ楽か――
「剣……、か」
ふと、ダレットは呟いた。
「帝国騎士?」
ダレットの呟きを聞きつけ、男は呟いた。
帝国騎士。これは俗称で、正式名称は王宮騎士団団員。国王直属の近衛兵で、国の精鋭中の精鋭の集まりだ。
「俺に出来ることって言ったら、それくらいしか思いつきませんから」
いくらか声のトーンを落として、ダレットは言った。
あれから、ダレットなりにあれこれと考えた。その上での結論である。
コルフォース家の爵位が手に入らない以上、貴族として国政に参加するには、自力で功績を挙げて爵位を新しく賜るしかない。だが、自分の能力を考えたらそれは不可能に近かった。となれば、残る道は軍、騎士団、何処かへ養子にでも行くこと。
貴族の子供となれば裕福だし、自由であるようにも思えたが……実際にはあまりにも狭い世界だった。自分の思う道を選ぶ、それすらままならない世界なのだ、貴族社会というのは。それが、平民の上に立つ者たちに課せられた枷だった。
ただの政治の道具にされるのはごめんだった。父はそれを強制しないだろうが、コルフォース家と縁続きになりたいという人間は多いはずだ。そんな連中に身を預けるなど、死んでも嫌である。
残った選択肢の中で騎士団を選んだ理由。ダレットなりに何となく、『騎士』の一語に憧れていたのかもしれない。帝国騎士は国の精鋭として、常に尊敬と畏敬の代名詞として語られる。
とにかく。ダレットの言葉に、男は露骨に苦々しい顔をした。
「……無理ですか? やっぱり」
騎士団の入団試験は過酷を極めることで知られる。いちばん大きな要素は武術だが、その他にも様々な試験がある。身分は問わないから、毎年、とんでもない難関となる。
毎日毎日、目の前の男に軽くあしらわれ、ぶん殴られているのだ。完全に馬鹿にされているのかもしれない。
「そういう意味じゃない。違うが……止めておけ。お前には無理だ」
淡々と男は言う。理由もなしに断言され、ダレットは眉をつり上げた。
「そういう意味じゃないって……どういうことです? はっきり言えばいいじゃないですか、弱いんだから無理だって」
「違う」
男は言ってため息をついた。
「天狗になられても困るから言わなかったが、強いんだよ、お前は。そんじょそこらの奴らなんか相手にならない位にな。下手な騎士なんかよりはよっぽど強いだろうさ」
「……でも、毎日毎日師匠に殴られてますよ?」
「そりゃあ、俺はもっと強いからだ。この俺が一から仕込んでやったんだ、お前も強くて当然なんだよ」
ただ聞けばとてつもなく傲慢な台詞だったが、男……自分の師匠の力を知っているダレットは何も言わない。黙って話を聞いている。
「それでも、お前には騎士様なんぞは勤まらない。役が違う」
「だから、その理由は何なんですか! 言ってくれなきゃ分からないじゃないですか!」
ばん、とダレットは机を叩いた。それを、男は冷ややかな視線でもって見つめる。
「お前……騎士が何のために存在しているか、くらいは言えるな?」
男の鋭い視線に見据えられ、ダレットは思わず身体を固まらせた。
「国王の直属の近衛兵。独断で動かせる、国王の権利の象徴……ですか?」
教本の内容をそのまま暗唱するダレット。小さい頃から繰り返し言われてきたので、さすがにこのくらいは言えた。
現在の帝国では、国王とて法に拘束されるというのが原則となっている。それを覆せる例外が、王宮騎士団だ。貴族と法に縛られず、国王が独断で動かせる兵力。実質的な権力は持ち合わせないが、ある程度は越権行為も認められる。
「まあ、そうだな。この国の制度の要。国王が国王たる所以の具現、ってところか。
……そこが、お前が無理だって理由だ」
「…………?」
ダレットは眉をひそめた。
「ここまで言ってもまだ分からんか。
まあ仮に、お前が騎士様になれたとしよう。となれば、いざとなったら全力で国王なんつう存在を護らなければならないことになる。お前の命と引き替えにしても、な。
それでお前が納得できるか、って聞いてるんだよ」
「…………」
ダレットは黙り込んだ。
「軍人でも傭兵でも、戦争屋を生業にするってのはそういうことだよ。騎士団も、いくら美辞麗句で着飾ったところで、真剣振り回すことには変わりないからな。
……いいか」
男は猛禽のように鋭い眼差しになった。元々きつい目つきであることもあって、視線がそのまま刃になって向かってくるような気がする。
「実戦ってのは、一度負けたら次はない。何せ、死んじまうからな。生き返るって芸当は、人間だろうがエルフだろうが無理だ。
だから。最終的に勝敗を決めるのは、剣の技量でも何でもない。執念だよ。どれだけ生き残ることに執念を向けられるか。より強く執着した奴が勝つ。お前が騎士ってな立場にそれだけ執着出来るか、ってことだ」
騎士が存在する理由。この国の要、国王の近衛兵。だが、それは……
あまりにも漠然としていて、形を為さない。大きすぎて、全体が見えない。自分がそれだけの感情を向けるに足りるものか――まったく分からない。
「俺は傭兵やってたけどな。俺だって、何回も死にそうになった。重傷負って敵の中に取り残されて、今度こそ駄目だ、って何回思ったか。でも……最後の一線で諦めなかったから、今こうやってここにいる。
本当に強いのは、何も持たなくて身軽な奴じゃない。一杯何かを背負って、こだわるものがある奴だ。何に代えても護るものを持っている奴だよ。
俺はさんざん人殺ししてきたから、今更言い訳じみたことは言わない。個人的に言えば、あの騎士の胡散臭い美辞麗句ってのが死ぬほど嫌いなんだよ、俺は。何をどう誤魔化したところで、所詮人殺しの予備軍だからな。
さて、そこでもう一度考えてみろ。真剣持って人を斬って、それでも足りるものをお前が持っているか。……これだけは覚えておけ」
一瞬、男の視線が鋭くなった。
「敵なら殺して良いなんて理屈はどこにもねえんだ。敵なら殺して良くて、味方なら悪いなんて理屈はな。それは理屈じゃなくて、個人個人の感情だ。
自分のために、他の誰かを傷つけられるか。知ってる奴であれ知らない奴であれ、誰かの意志も、もしかしたら命も、奪えるだけの……その罪悪に耐えられるだけの覚悟があるか。それがつまり、剣を握る資格だ。言っておくが、綺麗事じゃねえぞ。こんなものはな」
言って、男はため息をついた。
ダレットは黙ったままだ。
(……何か……こだわるもの、か)
騎士団の役目などと同様、まったく分からない。自分は死にたくはない。ただ……
自分が生き残ってやりたいこと、こだわること、護るもの。他人の命と引き替えにしてもまだ、手に残るもの。
何だろう。それは――?
「……まあ、ここで今すぐ答えを出せとは言わない。だが、考えろ。
それに、俺が反対するもう一つの理由だが……お偉いさんに混じって毎日毎日堅苦しい儀式やってるって柄じゃねえだろ、お前は。親父殿や兄貴は似合ってる気もするが。単純に似合わねえよ、お前にはそんな大仰なことは」
「…………」
ダレットは黙って拳を握り締めた。
男の言う事も理解はしている。だが、ちりちりとした焦燥感が身体を焦がす。いつまでも庇護を受ける子供ではいられない。どうにかして、自力でやっていかなくてはならない……
「……それでも」
顔を上げ、ダレットははっきりと言った。
やってみなくては分からないではないか。何もかも。やる前から足踏みしてどうする?
反対に、男は大仰にため息をついた。
「……これだけ言っても分からんか」
呟き、不意に男は立ち上がった。何かを掴み、ダレットに放って寄越す。
反射的にそれを受け取り、ダレットは眉をひそめた。剣……それもいつも使う模擬剣ではなく、真剣だ。
「そこまで言うなら、見せてみろ。お前の執念ってやつを。俺に勝てたら、とりあえず認めてやる」
ダレットは顔を引きつらせた。ただでさえ毎日こてんぱんにやられているのに、使うのは真剣ときた。刃が当たればそれだけで怪我をするし、最悪、死に至る可能性もある。
ただ。だからこそ見えることもある、と男は言いたいのだろう。極限の状況に追い込まれた時に、どうするか。普段は隠されている、本当の力。
「ま、本当はどっちかが動けなくなるまでやりたいんだがな。それだと殺しちまうから、そこまではやらん。有り体なところで、最初に血を出した方、だな」
「それは決闘の作法なんじゃ……」
思わず突っ込みつつ、ダレットは安堵していた。もしどちらかが生き残るまでやるなどと言われたら、それこそ命がない。
「ここで逃げるようなら、ここで俺がお前を張り倒してやる。そんな腰抜けに剣を仕込んだなんて思うのはごめんだからな」
ここまで言われては逃げられない。自分の長剣を握り締め、ダレットは唇を噛んだ。
どちらも、身長はそう変わらない。男は小柄だし、ダレットもまだそれほど背は高くない。だが、がっちりとした体格の男に比べ、ダレットは細身だった。長剣を構えて立っている姿は、剣に身体が振り回されているようにも見える。
真剣を手に、ダレットは男と対峙していた。
じわりと汗が浮かぶ。剣を握る手からも汗がにじみ出て、嫌な感触が柄に巻いた薄革から伝わってくる。力を抜いているつもりなのだが、息が上がっている。
「力が入りすぎだ。何年やってる」
平然として長剣を構え、男が言って寄越してきた。ダレットとその構えはそっくりだし、手にしている武器も同じだ。男がダレットに剣を教えたのだから当然なのだが。
「分かってはいるんですけどね……」
「最初はどいつもそんなもんだ。そこからどう出るかで、生きるか死ぬかが決まる」
その程度は見極めてやる。言外にそんな響きがあった。
「さて、と。俺は面倒は嫌いだから、とっとといくぞ。負けたら負けたで、自分は所詮その程度だと思っておけ」
言うなり、男は踏み込んできた。鋭い剣先がダレットに向かって繰り出される。
「…………!」
認識するより先に身体が動いた。反射神経……生存本能だけで刺突の一撃を受け流す。身体に染み込んだ剣術が、それだけで一人歩きしているような感覚。
いつも通り。変わらない。そう何回も念じてみるが、常に身体ががたがたと震えているような気がする。たった少し――そう、少し状況が違うだけなのに、何だってこうも身体が動かないのか。
(恐い……!)
単純にそう思った。
自分の命を天秤にかけるということ。それがどういうことなのか、断片だけでもダレットは理解する。
男の攻撃を受け流すと、今度はダレットが反撃に転じる。空気をえぐり抜き、横薙ぎに剣を振る。遠心力を加えたその一撃を、男は受けながら一歩前に出た。遠心力を受け流すには、剣の鍔元に力を加えるのは有効な手段である。
鍔迫り合いになって、男の猛禽のような視線に睨み据えられ、ダレットは思わず歯を食いしばった。腕に余計な力が加わり、変な方向に剣がずれる。
「馬鹿か、お前は」
呆れ返ったような口調。同時にきんっ、と甲高い音がして剣を跳ね上げられ、後ろに突き飛ばされた。辛うじて倒れるのだけはこらえ、剣を構え直す。大きく息が上がっていた。
「話にならんな。戦場に放り出されれば、真っ先に死ぬ奴らと一緒だ」
たとえどんなに訓練で好成績を上げた兵士でも、戦場に立つとたちまちのうちに死んでしまうことがある。今のダレットは、間違いなくその部類に入る。
『実戦』の恐さ。命のやり取りにだけ潜む魔物。そんなものに、完全に魅入られてしまっている。
「恐いだろ? いつもとちょっと違うだけで。当たると斬れる、死んだら終わり。違いっつったらそれだけだ。
でも、その違いは大きい。さて、ここで恐いってがたがた震えて……そこからお前はどうする?」
ここでみすみすやられるか、死ぬ気で反撃に出るか。
たった一歩。極限でのたった一歩が……両者に決定的な差をもたらす。
(あ……)
最後に、足を踏み出させるもの。それは強さでも何でもなく、単純で純粋な意志だ。
生きようとする意志。それ故の力。
(嫌だ……絶対に、イヤだ!)
こんなところでやられてたまるか!
自分が護りたいもの。それは、今はない。でも……いつかはきっと見つけてみせる。
だから、今は。その『いつか』のために――死にたくはない!
「…………っ!」
頭の中が真っ白になる。恐怖も迷いも、何もかもが吹き飛んだ。後に残るのは、たった一つの感情。
「あああああああっ!」
ぎりっと長剣を握り締める。剣の柄が手に馴染んで、身体の延長のようにも感じられる。完璧な一体感。
踏み込み、長剣を振り下ろす。それを男は受け流すと、また肉薄して鍔迫り合いに持ち込んだ。だが、そこまでダレットは予測していたかのように、男の力を巧みに受け流して距離を取った。
(……大したガキだよ、本当に!)
男はにやりと笑う。が、すぐにその眼が猛禽のように鋭くなった。実戦をくぐり抜けてきた者だけが見せる表情。
つまり――どちらも本気になった。
最後の一歩が踏み出せれば。恐怖さえ乗り越えてしまえば、あとは身体に染みついた剣術がものを言った。全神経を集中し、勘を総動員する。考えるより先に、身体が動く。
撃ち合い、受け流し、体当たりし、離れる。どれくらいそれが続いただろう。
「はああああああっ!」
男の振り下ろした剣を下から弾き返す。そうして、ダレットは剣を引いて構えた。
右足を大きく前に踏み出しながら、ダレットは全力で刺突を繰り出す。首を狙ったその一撃を、男はぎりぎりのところで見切ってかわす。だが。
切っ先がかすかに首筋をかすめる。次の瞬間、紅い筋が浮かんだ。
最初に血を出した方が負け。それがルールだった。
「――――」
今までの嵐のような勢いが、一瞬にして鎮まる。
剣を止め、ダレットは信じられないといった様子で男を眺めていた。
(俺が……勝った?)
何をどうやったのか、ぼんやりとしか思い出せない。無我夢中で、何も考えている余裕はなかった。
「お前の勝ち、だな。とりあえずは」
面白くもなさそうに男が言った。そうして、かちゃりと小さく剣を動かす。ようやくダレットは気付いた。
自分の首筋にも剣が突き付けられている。刃の当たる直前で寸止めされていた。ほんのわずか、ダレットの剣先の方が速かったのだ。
どちらからともなく、剣を下ろす。条件反射のようにそれを鞘に戻し、呆然とダレットは座り込んだ。
今になって恐怖が沸いてくる。少しでも自分が遅ければ、首を落とされて終わっていた。
ぺたんと地面に座り込んでいるダレットを、男は拳で頭を殴った。
「今回はお前の勝ちだが……『とりあえず』だぞ。実戦だったら、お前の剣が相手をかすめた次の瞬間に、お前は首を落とされてたんだからな」
ダレットの剣はわずかに男を引っ掻いただけだったが、男の剣はまともにダレットに当たっていた。もし直前で男が剣を止めなければ、間違いなくそうなっていた。
身体が震え出す。生死の境界線を垣間見たような、そんな感覚。
人の生き死になどというものは、何かに描かれるような、そう綺麗なものではない。もっとどろどろとした、生き物の根本に潜む何か。それは多分、愛情や憎しみといった、人の抱える感情も同様なのだろう。何が良くて何が悪い、そんな問題ではなくて。
「…………」
男の言葉に、ダレットはぼんやりとした顔のままで頷いた。
しばらくしても動こうとしないダレットに、男は呆れ返った様子で声をかけた。
「それで、どうするんだ? これでもまだ、騎士をやる、なんて言うか?」
男の問いに、ダレットは小さく頷いた。
これから進む道が、正しいのか間違っているのか、それは分からない。本当は、男の言う事が正しいのかもしれない。けれど。
自分で何かを見つけようと思ったら……前に進んでみるしかないのだ。
「まったく、どうしてこうも物分かりが悪いんだろうな、お前は」
言って、もう一度男はダレットを小突いた。
「そこまで言うなら、俺はこれ以上何も言わない。その代わり……これ以上、お前に教えてやる気もない」
男の言葉に、ダレットはゆっくりと顔を上げた。
「こんな物分かりの悪い奴の面倒なんざ、いつまでも見ておれん。俺はただのお前には剣やら何やらを教えたが、『帝国騎士』のお前に教えてやる気はない。だから、これから先はお前が自分でやれ」
「…………」
まだ地面に座り込んだまま、ダレットは男の言葉を頭の中で反芻する。
自分でやる。これ以上は、自分で自分のことを決断しなくてはならない。自分で道を切り開かなくてはならない……
(……同じだ)
ぼんやりとダレットは思う。
先ほどまでの闘いと。ちょっとした判断が生死を分ける。自分で動いた結果が、全て自分に還ってくる。
考えてみれば当たり前だ。生きることと死ぬこと。それは全て……日々の生活の中にあり、延長でもあるのだから。
「……はい」
ダレットは小さく呟いた。
結局のところ。
騎士団の試験には、ダレットは史上最年少記録と共に合格した。だが、同時に男の言葉が正しかったことを思い知らされることになる。
自分の力の持つ意味。何に代えても護ろうと思うもの。
それらを見つけるには、もう少し時間がかかることになる――
