暁の大地

00.全ての始まりの時

 漆黒の闇の中に、真紅の飛沫が舞った。
 大量の真紅の液体が噴き出し、大地に撒き散らされる。人の……血液が。
 音はない。光もない。
 だが――『それ』は確実に、目の前に迫っていた一人の男を切り刻んでいた。
 一瞬前まで刃物を手に自分に襲いかかろうとしていた男が、あっけなくヒトとも呼べないような幾つもの肉塊と化して転がる様を、少女はぼんやりと見つめていた。
 大量の返り血が降り注ぐ。が、それを拭う気力も避ける気力もないままに、少女はその遺体を見つめた。見つめ続けた。
 それしか出来なかった。
「あ……あああああ……」
 呻き声が、その小さな口から漏れる。何時の間にか、少女は大地に膝をついていた。
 そこでまた、愕然とする。
 大地に転がる遺体は、一つだけではなかった。もはや何人いたのかも判別できないほどに徹底的に破壊された遺体は、ただの物体となって少女の周りに転がっている。
 そして、流れ出る血が大地を紅く染めていた。染みこんでも染みこんでも間に合わないほどに大量に流れ出る血は、大地を流れ、少女の周りに紅い絨毯を作り上げていく。
 その紅い世界の中で、少女はただただ、呆然としていた。
 何が起こったのか。そんなことは理解している。けれど。いや、だからこそ――少女は動けなかった。
「…………!」
 静かだった世界に、さざ波が走る。人々のざわめき。
 少女は恐怖に身体を硬直させた。その間にも、幾つもの足音がどんどん近付いてくる。
「なっ……」
 駆け寄ってきた男の一人が、目の前の惨劇を前にうめき声を発する。当たり前だろう。
 つい先程まで一緒に生活し、共に笑い、同じ時を過ごしてきたはずの人々が――物言わぬ物体となって転がっているのだから。
 死に支配された世界の中に少女が一人佇んでいることに、人々が気付くまでにそう時間はかからなかった。
 この少女は……
「貴様が……」
 駆け寄ってきた何人かのうちの一人が、食いしばった歯の間から絞り出すように言う。
「貴様がやったのか?」
 少女は無言。だが、それはつまり肯定の証だった。
「てめえ……!」
「エレナが泣いて頼むから今日まで生かしておいてやったんじゃないか!」
「今まで置いてやっていた恩も忘れやがって、しかも、しかもこんな……!」
 さすがに強面のその男も、目の前の惨劇を口にすることに一瞬の躊躇があった。その代わりに、呆然と座りこんだままの少女の胸倉を掴み、引っ張り上げる。
 元々が小柄な少女だ。あっさりとその身体は宙吊りにされ、そして大地に叩きつけられる。
 殴る、蹴る、少女はされるがままになっていた。立て続けに加えられる力に、華奢な身体はすぐに悲鳴を上げて動けなくなる。少女は苦悶の表情を浮かべた。それも、無意識のうちだ。
 痛い、と思うことはなかった。思考を……何かを思うことを、心が拒否していた。
 考えれば、認めてしまうことになるから。自分がやったことを。
 が。
 それでも……心の何処かが叫んでいた。

 生きたい、と。

 腹を蹴られ、咳き込みながらも、少女は何かを呟く。だが、激昂し、興奮して少女に暴力を加えている男たちはそれに気付かない。
『秩序と混沌の支配者よ……姿なき世界の王者よ……我……汝に請わん……汝が力……仮初めなれど……我に与えん……』
 会話するときに使う言語とは違う言葉。けれど、確かに意味を持ち……そして力を持つ言葉。
 魔法言語、と呼ばれる言葉だった。ほとんど無意識に、少女は言葉を紡ぎ続ける。
『来れ業火……示せ爆炎……その紅き焔にて……我が前の災厄を滅ぼせ……その力……』
 そこで初めて、なされるがままになっていた少女の瞳に光が宿る。大地に転がったまま、その瞳だけが鋭い刃となって男たちを見据えた。
 ――鮮やかな紫の瞳が。
 そして、少女は宣言する。男たちへの死刑宣告を。
 男たちが慌てて後ろに下がるが……遅い。
『……今ここに顕わせ!』
 少女の叫びが夜空に弾ける。そして。
 ごうっ!
 突如として、辺りの空間に異変が生じる。『何もなかった』はずの場所から突然噴き出した炎は、瞬く間に輪を描いて広がる。
 少女の周りの男たちを巻き込んで。
 炎に飲み込まれた男たちが苦悶し、もがき……そして力尽きるのを、少女は静かに見据えた。紫の双眸が、紅い惨劇を映している。
 よろよろと立ち上がり……先程受けた傷のせいで、あちこちが痛んだが……そして、黙って燃え上がる炎を見つめる。
 紅蓮の炎しか視界に入っていないかのように。それだけが、世界の全てとでも言うように。
 また誰かが駆け寄ってきてはいたのだが、大地に流れる血と、紅い炎と、そして佇む少女と。それらから、起こった出来事を推測するのはそう難しくない。もう、少女に手を出そうとする者はいなかった。
 血と炎と、そして沈黙。それだけが、この狭い世界を支配する。
 どれくらい――そうしていただろうか。
 少女は思い出したように、傍らを見上げた。相変わらず紅い色彩しか映っていない、ぼんやりとした瞳ではあったが。
 そこには、燃え上がる小さな小屋があった。今日まで……ついさっきまで、彼女が生活していた家だ。先程少女が生み出した炎は、家をも巻き込んでいたのである。この様子だと、跡形もなく燃え尽きるだろう。
 だが、それを惜しむような気持ちは沸いてこない。今の少女に、そんな感傷は持てなかった。
 ふらふらと、機械的な動きで燃え上がる家の中に入る。大した家具も置いていない部屋に、一つだけ不釣合いなものがあった。
 棺である。上に置かれた小さな花が、弔いが行われたことを示していた。昼間に、少女自身が置いたものである。
 一瞬だけ、その棺に目をやり……大した感傷も何も見せなかったが……少女は、まだ燃えていなかった物入れから大きめの布を引っ張り出した。闇色の外套である。それと、持ち出したのは少々の金。それだけだった。
 思い出を示すようなものは何一つ手にせず、少女は燃え上がる家から抜け出した。その次の瞬間に、小屋を形成していた柱が崩れ、小屋は崩壊する。一瞬遅れれば、少女もまともに崩壊と炎に巻き込まれていただろうが……それでも、おそらく少女の無表情は変わらなかっただろう。
 家に入ったのにはそれなりの目的があったが、たとえ失敗してここで死んだところで、思い残すようなことも何もない。
 燃え上がる炎が生み出す熱風が頬を叩く。それに顔をしかめて、ようやく少女の表情にかすかに感情の色が戻った。
 家の側、先程の惨劇の情景を見渡す。
 夜空に挑むかのように燃え上がる紅蓮の炎、大地を染め上げる紅い血、自分を虚ろな瞳で見つめる幾つもの遺体。
「ああ……ああ、あ……」
 言葉にしたいことは幾つもある。が、それは形を成さず、ただのうめきとなって口から漏れる。
 どうすれば良かったのか。どうしたら良かったのか。
 ――自分は一体何なのか。
「…………」
 少女は黙って後ろを振り向く。そこには、無限の闇がぽっかりと口を開けていた。少女の家のすぐ側には深い森がある。
 先程家から持ち出した外套を羽織ると、闇に飲みこまれるかのように、少女は森に向かって歩き出した。
 明かりと言えば、燃え上がる彼女自身の家と夜空に浮かぶ満月だけだ。その中で子供一人で森に入るのは自殺行為とも言えたが……それを指摘してやるような存在はいない。何せ、この場で意志を宿している存在は少女だけなのだ。
 少女は無言のまま森の中を歩き出す。が、少し歩いたところで立ち止まると、家を振り返った。松明ほどの大きさの炎が、木々の間から覗いて見える。
「……行くね」
 それだけを、少女は呟き……そしてまた、歩き出す。
 少女を見送るのは、幾つもの物言わぬ遺体だけだった。

 そうして、この不可解な物語はいったん幕を閉じる。
 二年後、新たなる物語の始まりまで――  

 

 
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