20.魔物
上の階の床が抜けた。
二人とも、すぐには理解できなかった。大量の石の欠片や埃と共に落下してくる黒い影を、呆然と見ているだけだ。
咄嗟に顔を覆う。舞い上がる埃を払いのけ、その向こうにあるものを見て、二人は愕然とした。
「な……」
二人の呟きが見事に重なる。
黒い影が、一瞬、笑った気がした。三つある眼が、ぎらりと光る。
『逃がさん』
今まで聞いたこともない、異質な金属質な響きを持った声で、それは言った。
その頃には、舞い上がって視界を邪魔していた埃もおさまり、異様なその姿があらわになる。
巨大な体躯を、黒く艶やかな毛並みが覆っている。全体の印象は、羽根の生えた狼とでもいったところか。だが、四本の足は長く、先端には鋭い爪が生えている。背から伸びる羽根は、蝙蝠のものによく似ていた。
口からは牙が覗き、目は三つ……普通の狼と同じ場所に二つ、額に一つ……ある。ごたまぜのような印象を受けたが、その姿には、不思議な均衡と美しさがあった。
「これって……」
「魔物……って奴かしらね」
キルファは呟きつつ、じりじりと後ろに下がる。が、すぐに置いてある古い机にぶつかり、後ずさるのを止める。目の前の巨躯が落下してきた衝撃で、狭い部屋の壁は崩れ、置いてあったものが片っ端から吹っ飛んでいる。
魔物。目撃例は多数あるのだが、一向にその正体が掴めない、得体の知れない生き物をまとめてそう呼ぶ。極端な話、新種の動物でも、王都の学会が承認するまでは『魔物』扱いなのだ。
だから、目の前の生き物と魔物と呼ぶのは正しいだろう。正しいが……間口が広すぎて、推測しても何の意味も持たない。
実際、目の前にいるものは、二人が今まで見てきた世界から大きく外れたものだった。
『魔物……か』
だが、それは、キルファの呟きに反応した。
『貴様等から見ればそうだろうな。だが、私から見れば、貴様等が魔物だ。
所詮……相容れぬもの同士は、お互いを罵るしかない』
淡々と魔物は言う。血の色の瞳が、悲しげに輝いた。
ただの動物とは違う。明らかな知性を宿している。キルファは、ますます分からなくなった。
三つの瞳がキルファを睨み据える。足をがたがたと震わせながらも……キルファは大声で怒鳴った。自分の中の恐怖を誤魔化すかのように。
「訊きたいことが山ほどあるわ」
『ほう……?』
魔物が爪と牙を使えば、ダレットとキルファなど、一瞬にして殺せるだろう。おそらくはそれを知っているせいだろう、魔物はキルファの言葉に律儀に応える。
「まず。城のそこかしこにあった死体は……あんたが殺したの?」
『そうだ』
魔物は即答した。
どの死体にも、抉ったような傷があった。腐敗が進んでいたのではっきりしなかったのだが、魔物の爪でやられたと考えれば、辻褄は合う。
「何でそんなことを」
横からダレットが非難めいた口調で言う。
『それは勿論……邪魔だったからだよ』
にやり、と魔物が笑った気がした。
「じゃあ……ここの領主も、もしかして、もう……死んでるとか」
魔物は黙って、その爪で、一緒に落ちてきた石の山を指差した。石床の残骸に埋もれるように、二つの死体がある。一つは男、もう一つは女。今までの死体とは一線を画した豪奢な衣装を着ていた。
おそらくは、この街の領主と、その夫人だろう。二人とも、とうの昔に死んでいたのだ。
「二つ目に訊きたいことは……あんたの存在を、街の連中は知ってたのね?」
「……どういうことだ?」
魔物より先に、ダレットが聞き返した。
「街の連中がここに入ってこなかったからよ」
横のダレットを振り向くでもなく、キルファは断言した。
「この城の様子がおかしいことは知ってるはずなのに。外から見ただけのあたしたちでも気がついたくらいだしね。でも死体が放置されたままだったし、あたしたちが逃げ込んだことを知ってもここまでは追ってこなかった。
つまり、こいつを恐れて近づかなかったわけ。違う?」
『御名答』
「あたしも……気付くのが遅かったわ」
キルファが苦々しげに言った。
「少し考えれば分かることだったのに。そのせいで逃げ遅れてしまった……」
キルファが唇を噛む。
「それでさっき、急いで逃げ出そうと言った訳か」
「そういうこと。まあ、あの時はまだ犯人がこの城にいるんじゃないかって思っただけで、まさか魔物だとは思わなかったけどね」
キルファが肩をすくめた。
「でも、城の人間が殺されたことを知ってたのに、何で街の人たちは逃げ出したり、近くの街に助けを求めなかったんだ?」
「さあ……って、まさか」
キルファが、魔物を睨みつけた。
「まさかとは思うんだけど。街の人間に、旅人の料理に毒を盛らせてたのも……あんた? ……だとしたら、何でそんなことをしたのよ?」
街の連中の様子……街ぐるみで脱走しようとした二人を追いかけてきた手際を見ても、毒を盛ったのが初めてではないことは想像がつく。
目の前の殺人犯が人間やエルフならば、情報の漏洩を避けるために旅の人間を殺させたとも考えられた。だがこの魔物には、そんな理屈は通用しないだろう。人間が寄ってたかったところでどうにもならないのは証明済みだ。
城の内部の人間を全滅させることが出来た魔物だ。やろうと思えば、街を全滅させるくらいのことは出来ただろう。
それなのに、敢えてそれをせずに城にこもっていた理由。それが分からない。
『そうだ。頭の回転が速いな』
「あんたに誉められても嬉しくないわよ」
苦々しげにキルファが言う。
「しかし何でまた、そんな面倒くさいことを」
魔物はキルファだけを見据えていて、ダレットは眼中に入っていないようだった。そのせいか、幾分、気楽な口調でダレットが訊く。
『復讐だよ』
何処か悲しげに……魔物が言った。
『全員、私が殺すことも出来なくはなかったがな。こんな辺境の街を一つ潰したところで、どうにかなるわけでもあるまい。
だったら、人間同士に殺し合いをさせるのも一興。それだけだ』
「一興って……そんなことで!」
ダレットが声を荒げる。
街の人間を脅し、ここから出て行くことを禁じ……何も知らない旅人が毒を盛られて死ぬのを、街の人間が手を汚すのを、この魔物は笑って見ていたのだ。
「この……外道が!」
ダレットはたまらず、腰から長剣を抜く。今にも斬りかかろうとするダレットを、キルファは静かに制した。
「止めておきなさい。そんな剣一つじゃどうにもならないわ」
『賢明だな』
魔物が笑う。
「……それで。訊きたいことはあと一つ」
『言ってみろ。期待に添えるかどうかは分からんがな』
「あんた……あたしたちをここから黙って出してくれる気、ある?」
静かに、キルファは言った。言いながら心持ち後ろに下がり、懐に手を伸ばす。冷たい金属が手に触れた。
『不可、だな』
言って魔物がにやりと笑った、その瞬間。
ごう!
部屋の中を強風が吹き荒れる。置いてあった家具が片っ端から吹っ飛んで壁に激突した。
「うわっ……きゃあああっ!」
ダレットは辛うじて耐え切ったが、体重の軽いキルファは踏みとどまれなかった。あっさりと吹き飛ばされ、石壁に激突する。
「キルファっ!」
「くあ……」
風が収まったのを見計らい、ダレットが慌てて駆け寄る。頭から叩きつけられたのか、意識がないようだ。内臓も打ちつけたようで、額に脂汗が浮かんでいた。
「くそっ!」
キルファを軽々と抱え上げると、ダレットはくるりと背中を向けて部屋から飛び出した。今までいた部屋は大して広くはない上、動くのに邪魔になる家具も多い。
逃げ出すというのが最善の選択ではあったが……あの魔物がそれを許してくれるとは思えない。だったらせめて、剣を振るのに障害のないところに移動しなくてはならない。
キルファの言う通り、自分の長剣が魔物に通用するのかははなはだ疑問ではあったが。
二階の通路を疾走する。階段を見つけ、急いで駆け下りた。
一階の大広間。そこだったら、多少動き回れるくらいの広さがあるはずだ。後ろから魔物が追ってくるのが分かる。恐怖で萎えそうな身体を、叱咤しながらダレットは走った。
「はあ、はあ……」
ようやく一階にたどり着くと、絨毯の上にキルファを降ろす。まだ、動くのは苦しいようだ。
彼女をかばうように前に出ると、長剣を構えた。
ずん、ずん、と足音が響く。ゆっくりとした足取りで、魔物はダレットの目の前にやって来た。
「くっ……」
剣を持つ手が震える。今まで見たこともない相手。果たして、自分の剣など通用するのだろうか?
だが。
「はああああっ!」
不安の一切を振りきるように、ダレットは魔物に斬りかかった。
