34.別離
うっすらと目を開けると、少女に黒い刃が迫っているのが見えた。正確に、切っ先は銀髪の少女を狙っている。
(駄目だ……駄目だっ!)
狭い檻の中でもがくように、心の中で絶叫する。
慌てて跳ね起きる。矢のように、咄嗟に少女の前に飛び込み、彼女を突き飛ばした。次の瞬間、腹に猛烈な痛みを感じ……
(……無事だったか)
最後に、一緒にいた少女が無傷でいるのを確認し……そこで、意識は途切れた。
「う……」
男は全身から汗を流して苦悶している。うなされてでもいるのか、時々何かを呟き、顔をしかめている。
栗色の髪が、汗でべっとりと額に張り付いている。丁寧に汗を拭いながら、少女は心配そうに男の顔を覗き込んだ。
まだ若い男だ。二十歳を幾つか過ぎたくらいだろうか。優男と言える容貌で、割と整った顔形をしている。長身の割に痩せているが、よく見れば筋肉がしっかりとついているのが分かる。それでもいかつさを感じないのは、この甘い顔立ちのせいだろう。
こんな辺境には珍しい、何処か洗練された雰囲気を持った青年だ。まあ、重傷を負って倒れているところしか見ていないから、実際のところは分からないが。が、この想像は間違ってはいないだろう。
少女は側の小さな机の上に置かれた短剣に目をやった。今まで少女が見たこともない、豪華な装飾が施された短剣。実際に刃物として使えるのかどうかは疑問だったが、これにはそれ以上の意味がある。
「どうだ? シェルタ、その人の様子は」
そこに、もう一人の人間が入ってきた。少女……シェルタノート・トゥールーズの父親だ。
「うん、まだ目を覚まさない。何だかやたらと苦しそうだし……大丈夫かな」
「まあ……腹にあれだけの怪我をしたら、ちょっとやそっとじゃ目を覚まさないだろうな。だがまあ、コッフェルの爺さんは命に別状はないって言ってたし、あと数日もしたら目を覚ますんじゃないか?」
「……あのよぼよぼの爺さん、本当に大丈夫なの? この間さ、ラスツィがあの爺さんに薬をもらったら、余計に頭が痛くなったとか言ってたけど」
少女が口を尖らせて言った。
コッフェルの爺さんと言うのは、この小さな村のただ一人の医者である。辺境では医者というのは貴重な人材だったが、どうにも最近、ボケてきたとのもっぱらの評判である。シェルタが心配するのも無理はない。
「まあ……元々は名医だった人だし、他に医者もいないしな。信じるしかないだろうさ」
汗だくで苦しんでいる男の様子を見ている限り、本当に大丈夫なのかと叫びたくなるが、腹を大きく切り裂かれていた男を治療したのはあの老人だ。それに、自分にはまったく病気や怪我の知識はない。しぶしぶながらシェルタは父親の言葉に頷いた。
「ま、しばらくは看病してるしかないだろうな。済まないがもう少し、様子を見ててくれ」
父親はそれだけ言って部屋を出ていった。後には、シェルタとベッドで眠りつづけている男だけが残される。
「ふふ……」
何処か楽しそうに、シェルタは男の看病を再開した。重傷で発見された男の手当てを最初は嫌がっていたシェルタだったが、基本的に人の世話をやくのが嫌いではないのだろう。
ごそごそと額に当てていた布を取り替えながら、シェルタはふと呟いた。
「そう言えば……まだこの人の名前も知らないんだよね、わたし」
この村に来た時から意識を失っていたから、当たり前の話ではあるのだが。それなのにこれだけ熱心に男の看病をしている自分が、シェルタには何処か誇らしく思えた。
村の側に広がる、森の中。
キルファも、サリクスも、疲れきった顔で座りこんでいる。二人とも黙ったままで、重苦しい沈黙が立ちこめていた。
「……大丈夫かしらね……ダレット」
ぼそりとキルファが呟く。木に背中を預けたまま、動く気力もないらしい。
「多分な……村の連中がちゃんと連れていったみたいだし。まあ……嬢ちゃんの作戦勝ちっていったところか」
「何の勝負よ……」
二人ともまるで覇気のない口調でやりとりする。その雰囲気はやけに暗く、そこだけ頭上に黒い靄《もや》が立ちこめているようにも見える。事情を知らない者が見たら、一歩後ずさるかもしれない。
「後は、あの村の連中に任せるしかねえな。しかし、意外だったな……嬢ちゃんがあんなことを言い出すんだから」
「あたしの手には負えなかったもの……あそこで大見得を切っても、何の意味もないでしょう……」
「まあ、そうだけどな……」
また二人揃ってため息をついた。
話は数時間前に遡る。
魔物を倒した後、重傷で意識を失ったダレットを前に、二人は頭を抱えていた。
「駄目ね……あたしの手には負えない。……と言うより、こんな森の中じゃ治療なんて出来ないわ。ちゃんとしたところに連れてかないと。何処か、一番近い村に……」
そこまでキルファが言ったところで、二人は揃ってぱん、と手を叩いた。
「ダレットが狼退治なんかを引き受けてきた村……あそこは人間の村だから、どうにかなるかも」
「急いで戻って……間に合うか? 多分、数時間はかかるぞ?」
「応急手当をして、ぎりぎりってとこね。ま、普段剣振り回してるから、普通の人間よりは頑丈だと思うけど。とにかく、急がないと……」
ダレットの腹に手際良く包帯を巻きながら、キルファが言う。サリクスがひょいとダレットの身体を抱え上げ、歩き出しながら思い出したように言った。
「けど……俺はエルフ、嬢ちゃんはハーフときた。そこにダレットを連れていっても、最悪の場合、追い出されるだけじゃねえか?」
エルフやハーフを人間は嫌悪している。それは時に、彼らと一緒にいた人間すらも範疇に含まれることがある。たとえ重傷を負った者であっても、それは変わらない。
ダレットだけならば、あるいは大丈夫かもしれない。けれど、口論をする時間が命取りになる。怪我人の前で、あれこれ言い争いをしている時間はない。
目の前の命を助けることよりも、時に種族間の感情が勝る。キルファにはむしょうにそれが情けなく思えた。だが、ここでその是非を論じている暇などない。
「要するに、あたしたちの存在がばれなきゃいいんでしょ? だったら……何とかなると思うわ」
「どうするんだ?」
「……これよ」
キルファは荷物の中から、やたらと派手な装飾が施された短剣を引っ張り出して見せた。
応急手当に巻いた包帯を外す。一気に血が溢れ出てくるのを、キルファは泣き出しそうな顔で見ていた。だが、作業をする手を休めることはない。
横では、サリクスがごそごそと別の作業をしていた。森に生える木々や草に、人が歩いてきたような跡をつける。
先程取り出した短剣を、適当にダレットの懐に押し込む。目立たないように、何気なく。
森の中に転がしたダレットから離れるように、二人は木の陰に隠れる。
「それじゃ、お願い」
キルファが囁く。サリクスが無言で首肯し、小さく呪文を唱えた。
どんっと音がして、小規模な爆発が起こる。サリクスが威力を絞った<爆呪>を起動させたのだ。
爆発は、森の土を少々、上に吹き上げる程度の威力しかない。だが、村の側で起こした爆発の物音は、村人を呼び寄せるには十分のはずだった。
ダレットを、行き倒れの怪我人のように見せる。キルファが提案したのはこれだった。
だから、ここまでダレットが自力で歩いてきたかのように偽装し、手当てした包帯を外して他人の痕跡を消した。最後に近くで大きな音を立てて、村人に『行き倒れ』を発見させれば良い。
よくよく考えれば、爆発の側で倒れている人間が切り傷を負っているのだから、不審なところだらけなのだが――キルファ曰く、「普通の人間だったら、血まみれの人間を見た時点でそこまで考える余裕なんてなくなるんじゃないかしらね」だそうだ。
あとは、ダレットが不審な人間として追い出されないかどうかだったが、それはあの短剣が解決してくれるはずだった。
二人は駆け寄ってきた村人に見つからないように、こっそりと様子をうかがう。村人の慌てたような叫び声が段々遠のいていくのを確認し、ようやく安堵のため息をついた。
「なあ……ところで、あの短剣何なんだ?」
周りに誰もいないことを確認してから、サリクスはキルファに尋ねた。
「ああ、ダレットの話だと、騎士の身分証明の印章なんだって。あの村人がそれに気付けば……悪いようにはしないでしょ」
騎士の叙勲を受けたときに下賜される、王宮騎士団の印章。殺傷力はまるでない、儀礼用の短剣だ。王宮騎士団は王の直轄の近衛兵だから、印章には当然、王家の紋章が彫りこまれている。帝国の人間なら、それに気付かないものはいないだろう。
「……騎士だったのか? ダレットって……」
あまり物事に動じることのない男だが、さすがに、サリクスがびっくりした顔をする。帝国騎士が、何だってこんな辺境をふらついているのか。
「あ、知らなかったんだ。確かにあたしは言った覚えはないけど。ま……『元』騎士ね。家出してきたから」
キルファが肩をすくめて見せた。
狼が出ていると聞いて、自分からその退治を引き受けてくれた男が、血まみれで帰ってきた。小さな村は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「とにかく、手当てを……誰か包帯貸せ、包帯。それと、コッフェルの爺さんを呼んで来い!」
「トゥールーズ! お前ん家は宿屋だろ、一部屋貸せ、そこに運ぶ!」
「分かった!」
こんなやり取りが交わされた後。ダレットは宿屋の一室……一番上等な部屋に運び込まれ、辛うじて一命を取りとめることが出来た。かなりの出血だったが、元々鍛えている身体であるから何とか耐え抜くことが出来たというのが、男を診察した爺さんの弁だ。
運んでいるうちに、何やら懐から転がり出てきたものがあった。滅多にお目にかかれない、金や宝石で細工された短剣だ。
「なあ……これって」
拾い上げた男が、そこに彫りこまれた紋章を見た途端に顔色を変えた。
「……王宮騎士団の紋章、だな」
数人の男たちは顔を見合わせ、そして申し合わせたかのように寸分違わぬ動作でダレットを見下ろした。
「……騎士様だったのか? この人」
「間違いないだろう……これを持ってるんだから」
一瞬、あたりは静寂に包まれ……次の瞬間、一同は揃って騒ぎ出した。
「……どうする? 俺たちが狼がどうの、なんて言ったから大怪我をしたとなったら」
「それより、何でこんな辺境に騎士様がいるんだ?」
「誰だよ、狼がどうのなんて話、聞かせた奴!」
しばらく好き勝手に喚きたてた後、慌てて駆けつけて来た村長が、ひときわ大きい声で怒鳴った。
「ええい、とにかく! くれぐれもそそうのないようにすること!」
「……はい」
一同はまた揃って頷いた。
周りのそんな騒ぎなど知るよしもなく、ダレットは意識を失って眠りつづけていた。
