46.騎士の誓約
ざあっと夜風が髪をなびかせる。
「…………」
キルファは黙って草の上に座り込み、夜空を見上げた。月が少し欠けている。あの狼との戦闘……無様に気を失ってこの村に運び込まれてから数日が経っていた。
明らかに異物であるハーフとエルフ、キルファとサリクスの二人に村の人間はあまりいい顔をしなかったが、お互い、慣れてきていた。親しげに話をするわけでもないが、露骨に嫌悪を露わにすることもない。
だが、だからといって簡単に癖が抜けるわけでもない。人々が家に戻る夜を見計らって、キルファは外に出てきていた。体力も戻ってきていたし、シェルタの家の宿屋に押し込まれていても気詰まりだ。
ハンザの村は辺境だったから、この村はどことなく故郷を思い出させる。閑散とした雰囲気は、懐かしさと哀しさを同時に感じさせた。ダレットなどは山中にいると人恋しくなるようだが、キルファはこちらの森や山の中のほうがいくらかでも落ち着いた。
「はあ……」
背後を半眼で見据える。習慣的に辺りの気配を探り、誰もいないと確信した時点で、ようやく安堵の息を吐いた。昔からの癖で、スラム時代に技能として叩き込まれた。自分の行動に何処か虚しさを感じるものの、実際、役立つ習慣だった。
少し前までは。
「信用……ね」
ぽつりと呟く。
シェルタに言われ、ダレットに訊かれた。ぼんやりとした意識の中で何か言った気がするのだが、思い出せない。
信頼。あまりにも空々しく響く一言。
今まで、周囲の人間が全て敵だった。そんな状況で、誰かを信用など出来るわけがない。信じるというものがどういう感覚なのか、いまいち分からない。
誰も信じてこなかった気がする。他人も――そして、自分自身も。
(…………)
虚しいことだと分かってはいる。だが、脱却する術が見つからない。
自分の膝を抱き、顔を埋める。そうして小さく縮こまっていれば、少しでも誰かとぶつかる……そして傷つく可能性が減るような気がした。
不意に、がさりと後ろで音がした。
「……何やってるんだ? お前」
ダレットだ。気配は少し前から捉えていたが、放っておいたのだ。無視を決め込もうかとも思ったが、声をかけられてようやく後ろを振り向く。
治りかけの状態で走り回り、また傷が悪化していたはずだが、平気な顔をして立っている。いくらか回復したのかもしれない。
「大概頑丈にできてるわよね……あんたも」
思わず呟く。あの大怪我を目の当たりにしているから尚更だ。それに、キルファはダレットが療養している場面を直接見ていない。
「まあな。やっと普通に動けるようになった」
まだ力を入れると多少は痛むが。ダレットはキルファの後ろに佇み、彼女を見下ろす。
「……で、何の用?」
「お前、何だかやけにきつく当たってないか? ……用ってほどでもないが、なんか一人でぼーっとしてるから、何をやってるのかと思ってな」
ダレットが顔をしかめつつ言った。だが、キルファは別に態度を変えた覚えなどない。いつも通りに顔をつき合わせているだけだ。
「……知らないわよ、そんなもん」
キルファが眉をひそめた。
「ぼーっとしたいこともあるわよ。どっかの誰かが大怪我した挙げ句になおかつ馬鹿やらかすもんだから、こっちは疲れまくってたし」
「悪かったな」
嫌味混じりに言うキルファに、ダレットが苦笑して応じた。
「まあ、詳しい事情はサリクスの方から大体聞いたけどな。……その、なんだ」
ダレットは一瞬言いよどむ。そして、キルファの頭をぽんと叩いた。
「心配かけたな」
微笑しながら言う。キルファは一瞬ぽかんとし、それから顔を真っ赤にして、立ち上がって喚き散らした。
「だっ……誰が心配したってのよ! 自分で剣の前に飛び込む大馬鹿を! 自業自得よ、ちっとは痛い目見た方が……」
背伸びするような格好で喚くキルファを、ダレットは苦笑して眺めた。その姿は、いつもよりずっと幼く見える。ようやく年相応になったと言うべきか。
黙って銀色の頭をくしゃくしゃと撫でる。子供扱いされたとでも思ったのか、キルファが目に見えて憮然とした顔をした。
「悪かったな」
ダレットが呟く。何処か皮肉めいたものすら感じさせる微笑。
「悪かったわよ、こっちがどれだけ苦労したと……」
尚もキルファは喚き散らす。そうして――不意に気付いた。
「へ……?」
目の端に雫が浮かんでいる。動いた拍子に、涙はきらめきとなって地面に落ちた。
キルファは自分の目をこすり、信じられないと言った様子で両手を見下ろす。
(……泣いてる?)
どうして涙など出てくるのだろう。今は哀しくも辛くもないのに。むしろ……
「え……」
呆然としているキルファを、ダレットは穏やかな表情で眺める。
「泣きたい時には泣いて良いぞ」
のんびりと笑ってダレットは言った。
「いきなり偉そうな口利かないでよ! 大体、誰のせいだと……」
キルファは途中まで勢い込んで言い、愕然とする。……誰のせい?
「何だってあんたのせいであたしが泣かなきゃ……」
呟く。拭っても、ぽろぽろと涙はこぼれてくる。顔が火照っているのが感じられる。
夜風がまた頬を撫でる。その冷たさを心地良く感じ……キルファの心の中で、ぴしりと何かが弾けた。
意地なのか、今まで積み上げてきた矜持なのか。たった一人という感覚。
堰を切ったように涙が溢れてくる。マントの端でそれを拭い、布に顔を埋めた。泣いている顔など、断じて他人に見られたくはない。
ダレットが黙って近寄ると、髪を手で梳くように撫でた。
「…………!」
キルファの顔が真っ赤になる。突き飛ばして怒鳴り散らしてやろうと思ったのだが、身体が思うように動かない。それどころか、いつの間にかダレットの服を掴んで俯いていた。
「心配……したわよ」
自分が何を言っているのかも分からなくなってきている。嗚咽に混じって、ぽつり、ぽつりと呟く。
「どうしようかと思ったわよ……いきなり倒れて、動かなくて……死んだらどうしようと思った……」
自分のせいで、また誰かの命が失われたら。しかも、それが自分に手を差し伸べて、護ってくれた者だとしたら。
いや――そんなことは関係ないかもしれない。単純に、あまりにも恐かった。
目の前の男を失うのが。
あとは言葉にならない。キルファは服の裾をぎゅっと掴んで嗚咽する。
「……もう二度と、あんな真似はしない」
キルファの頭に手を触れながら、ダレットは静かに言った。
「強くなる。お前も、自分も護れるくらいには」
自分の腕の中の少女を見据え、決然とした口調で言う。キルファが上を見上げ、ダレットの顔を覗き込む。目を大きく見開いていた。
「……あたしは」
ぽつり、とキルファが呟く。
「ただ泣いて、騎士に護られてるだけのお姫様じゃない。自分自身で必死にあがいて、走り回れる。たとえ、それがどぶの底でもね」
誰かに頼ろうとすることが許せなかった。社会の底辺にあって、出会う者皆に蔑みの視線を向けられても、それでも必死に一人で抗ってきた。それを今更崩されてたまるものか。
(――たった……一人?)
不意に違和感と虚しさを感じる。そう、少し前まではそうだったかもしれない。
けれど――今は?
目の前に佇む男は、確かに、自分に手を差し伸べてくれた。その身を盾にしてでも護ろうとしてくれた。
その理由こそ分からないけれど。でも……一つだけ、言える気がする。
今は――一人きりではないのかもしれない。
「…………」
黙り込んでいるキルファを、ダレットは優しげな視線で眺める。そうして付け加えた。
「お前が弱いから護る、って言ってるんじゃない。弱いよ、俺もお前も、この世界の皆が。強い人間なんていない。でも、弱いから強くなろうとするし、抗おうと出来る。
あがくのは、何も一人じゃなくてもいい。誰かと一緒なら、その分だけでも強くなれる。一人じゃ無理でも、誰かと一緒なら出来るかもしれない。そういうことだよ。
お前の側にいて、強くなれるようにする。俺自身の意志として」
ふと、ダレットの脳裏に以前に聞いた言葉が蘇る。
『そういうのを何て言うか知ってる? 偽善、って言うのよ』
彼女のため、などと言うつもりはない。自分自身の意志として、誰かの幸福を望むこと。それは許されるはずだ。
「…………」
キルファの目から、またぼろぼろと涙がこぼれる。しゃくり上げながら、それでもぽつりと言った。
「……本当に?」
恐い。何をどう信じたらいいのか分からない。信じると言うことが何なのか、感覚が意識の外殻を滑っていくようで、はっきりしない。
「ああ」
ダレットはふわりと笑い……ふと、何かを思いついたような顔をした。
キルファの前に片膝をつく。そうして、彼女の左手を取った。指輪の蒼い石が一瞬きらめく。
「何を……」
キルファが何か言いかける。が、次の瞬間に頭が真っ白になった。
ダレットが白い手の甲に軽く口づける。古くから伝わる、騎士の誓約の作法。
姫君と、その前にかしずく騎士。そんな構図だった。
今のダレットは、仕えるべき主君も国の名誉も持たない。手にしているのは、自身の想いと護るべき少女だけ。
突然の出来事にキルファは呆然としている。一瞬だけ、手に柔らかく温かい感触があったが、それがずっと頭から離れない。
「なっ……なに……」
完全に混乱しているキルファに、ダレットは立ち上がると肩をすくめた。
「けっこう様になってただろ? 一応、俺も前は騎士やってたわけで……」
照れくさそうに言う。だが、最後まで言うことは出来なかった。
「きゃあああああああああっ!」
ようやく混乱から脱却したキルファが、甲高い悲鳴を上げる。その声に、村人全員が何事かと外を覗いたほどだ。
弾かれたかのように手を引っ込め、握り締める。顔を林檎のように真っ赤にして、怒鳴り散らした。
「何するのよっ! この変態、女の敵っ!」
喚き散らす。ダレットが思わず一歩後ずさるのには構わず、キルファは尚も言い続ける。どうやら相当びっくりしたらしい。
キルファの両手に、魔法のように何本もの投げナイフが握られる。そうして、それを一気に投げつけた。
「うあっ!」
ダレットが慌ててそれを避ける。身体をずらし、避けきれないものは手で掴み取る。一瞬の攻防の後、両者が揃って大きく肩で息をした。
「し、死ぬかと思った……」
「いっぺん死んできなさいっ!」
キルファは尚も喚くと、拳を繰り出した。横腹に鉄拳が叩き込まれる。華奢なその腕に似合わず、結構な威力だ。
「痛っ……そこ、腹の傷……」
塞がりかけた傷口にまともに一撃を食らい、ダレットが地面に膝をついた。顔面が蒼白になり、脂汗をびっしりとかいている。
とりあえずは気が済んだのか、キルファが仁王立ちになり、はあはあと大きく息をした。
「いたっ……死ぬ、本気でっ……」
「もういっぺん腹に大穴空けてりゃいいのよ! 何すんのよいきなり!」
びくびくと痙攣まで始めたダレットの前で、キルファが無意味に偉そうな口調で怒鳴り散らす。
だが、その顔はどこか嬉しそうだった。
「うーん……結局ああいう展開になるんだよなー、あいつら……」
大きな木の陰で、サリクスは一人ぼやき、頭を掻いた。尚も何か怒鳴り散らし続けるキルファの声に、肩をすくめる。
「もうちっと劇的な展開になってもいいと思わねえか? あれじゃあ三流の滑稽話だよ。ったく、俺が吟遊詩人か何かだったら絶対にああいう奴は主人公にしねえぞ、話が進まねえ」
遠くに見えるキルファとダレットを指さし、苦笑する。振り返ったその先にいるのは、シェルタだ。サリクスと一緒になって、陰から様子を窺っている。家の外に出たらサリクスがやけにこそこそ歩いていたので、不審に思って追ってきただけなのだが。
「何て言うのか……何なの、あれ……」
ややあって、シェルタが呆れ返ったように言った。
「仲……良いのよね……? あの二人……」
「んー、特に嬢ちゃんなんて、相当気を許した奴じゃないとあんな態度は取らないからな。照れ臭いんだろ、つまり」
サリクスは言って肩をすくめる。反対にシェルタは泣き出しそうな顔をした。
「わたし……全然知らないで、ひどいこと一杯言っちゃった。どうしよう……それからあなたにも。
その……、ごめんなさい」
最後は消え入りそうな声になった。泣き出す寸前のようなシェルタの頭を、サリクスはくしゃくしゃと撫でた。
「よくできました」
小さな子供にでも言うかのような口調で、にっと笑ってみせる。頭二つ分も大きい男だが、その軽い口調故か、不思議とあまり威圧感はない。
「言えただけでも上出来だよ。それすらも分からない馬鹿が、この世の中には多すぎるからな」
言って、サリクスは肩をすくめる。
「自分の行動が、他人を傷つけていることに気付かない馬鹿がな。誰も傷つけずに生きるなんて真似は不可能だが……その自覚だけはなければならない。多分、そうやって一番傷つけられてきたのが嬢ちゃんなんだろうな。
だがまあ、傷つける奴もいれば、それを癒してくれる奴もいる。……な?」
サリクスは言って、後ろでぎゃあぎゃあと言い争いをしている二人を示した。
「傍からは漫才にしか見えねえけどな。いつもあんなもんだよ、あの二人」
平凡な日常がいつか必ず、傷を癒してくれるはず。
忘れることは出来ない。許されない。けれど……再び立ち上がることだけは。
「ねえ……」
シェルタが、ふと思いついたように言った。
「あなたはいないの? その……誰か」
サリクスはいつも、一歩引いたところから二人を見ている。何かを面白がってでもいるかのように。『監視役』というだけではなくて、決して深入りしようとはしない。サリクスの様子から、シェルタは何となくその理由を察していた。
「さあて」
サリクスは言って、また肩をすくめた。何となく、道化師を連想させる仕草だ。
「ガキ二人のお守りだからな、俺は」
呟き、シェルタを振り返る。
「そろそろ戻るか。いい加減、見つかるとまずい」
あんな場面を陰から見られていたと知ったら、特にキルファはまた暴れるだろう。しかも、彼女はめっぽう勘が良い。
「そうだね」
シェルタも、小さく頷いた。
その向こうで、キルファとダレットはまだ不毛な言い争いを続けていた。
