51.鎮圧戦
目の前に広げられた地図を前に、カシュラルは思わず顔をしかめた。
両手を広げたくらいの大きさの地図には無数の書き込みがなされ、あちこちに印が付けられている。そのほとんどが、ある直線上に集中していた。
王都ラインガルドと、アウィス平原という場所を結ぶ直線上である。
「ラインガルドの軍を移動させたとして、アウィス平原に到達するまでに三十日間。大軍となれば更に速度も落ちるし、何より補給経路の確保も……」
「メルセリア地方領の兵を徴発したとして、どれくらいで集められる?」
「もとより物資の後援と地方軍の徴発は要請済みですが、詳しい日数までは入ってきていません。ただし距離からして、やはり三十日前後……」
カシュラルと同じ服装の男たち、つまり軍部の人間たちが地図の前で議論を繰り広げている。あれこれと言い合いがなされるたびに、地図の書き込みが増えていく。
エルフの反乱の鎮圧。そのための会議であった。将軍補佐の地位にあるカシュラルも、当然その場にいる。側で喚き立てている男たちも、彼女とほぼ同等の地位にある人間たちである。
エルフの不穏な動きに対し、帝国側は徹底的に初期対応が遅れた。軍備、兵士、共にかなりの数が一箇所に収束してしまっている。地方の警衛兵による鎮圧などは不可能であった。帝国側も軍を発動させなければ鎮圧出来ない。
建国以降も、反乱は度々あったことだ。だが、建国時にはほとんどのエルフは力を失っており、その後の反抗も小規模で、大軍を動かすような事態にはならなかった。
五十年ぶりの『戦争』。それが間近に迫っている。
「…………」
びっしりと書き込みがなされた地図を眺め、カシュラルは唇を噛んだ。
「レストラード補佐は何か?」
男の一人に名前を呼ばれ、カシュラルは顔を上げる。地図を一瞥し、口を開いた。
「ここまで事態を運んだ奴だ、首謀者は相当頭が切れることは確かだ。だからこそ、ここに兵士を収束させた意図が分からん」
エルフの兵が集中している箇所……おそらく戦場になるであろう箇所をこつこつと指さし、カシュラルは言う。アウィス平原という開けた場所だ。近くに、アウィステリアという規模の大きいエルフの居住区がある。
「いくら兵となる連中を集めても、エルフは元々人間に比べて絶対数が劣る。ならば奇襲戦法が常套手段だ。わざわざ戦場での対決にする理由が分からない」
兵士の数で劣る場合、それを補うのは策略でしかない。奇襲、拠点制圧などだ。これは『反乱』であり、互いに宣戦布告をして行う『戦争』ではないのだから、むしろ奇襲をかける方が普通であるように思われる。それなのに平原に兵を集めるなどと言うのは、大軍で攻めかけてくれなどと言っているようなものである。
戦場での戦いの場合は、まずものを言うのは兵士の数だ。一人で数人を相手に出来るような練度の高い兵士が、それほど多くいるとは思えない。帝国軍とエルフの反乱軍の頭数の差というのは、練度の差で対抗できるようなものではない。
人間とエルフの総人口の比率は、おおよそ八対二である。生物としての差なのか、現在は人間の方が圧倒的に数が多いのだ。兵士の数の差もほぼ同等、しかも帝国側は訓練を受けた兵士であるのに対し、エルフは基本的に素人の集団である。勝負になるわけがない。
アウィス平原付近の地形についても検討してみたが、数の差をひっくり返すだけの謀略が使えるような点は見られなかった。
(普通ならば、自爆行為だとでも思うのだろうが。これほど頭の切れる者が、今更そんな真似をするか? ……何かしらの罠だと考えるのが普通だが……)
罠だとして、その罠がまったく見抜けないのだ。カシュラルも頭脳戦には多少の自信があったが、その自負すら崩れていくような感覚。
何かがあるのだ。自分には見抜けない何かが。
だが、カシュラルほどには他の人間はこの点を深刻に考えていないようだった。
「所詮、エルフなどその程度の連中だと言う事ですよ」
すぐ下の地位にある若い男が、苦笑しながら言って寄越す。他の人間も同感であるようだった。なおも渋い顔をしているカシュラルをよそに、また議論を始める。
「…………」
その横で、彼女はひとり拳を握り締めた。
「……馬鹿な」
自分の上司、つまり将軍の前でカシュラルは思わず呟いた。
「そうだ。不服か? カシュラル・レストラード将軍補佐」
カシュラルの前で、執務椅子に深く腰掛けた中年の男が、嫌味に笑って言った。鼻で笑ってみせると、腰掛け直す。
カシュラルは再び渡された書類に目を通し、読み直す。だが、何回読んでも内容は同じだった。簡潔極まりない内容。今回の鎮圧戦の編成表だ。
「馬鹿な。これだけの数で……」
もう一度呟く。遠征させる兵士の数が、カシュラルが予想していたものより遥かに少ないのだ。さすがにエルフの兵士に比べれば多いが、全力とはほど遠い。メルセリア地方領の兵を入れれば数は増えるが、それにしたところで士気の低下は否めない。
「鎮圧に本腰を入れる気があるのか?」
思わず地の口調で上司に向かって詰め寄る。だが、将軍は再び鼻で笑っただけだった。
「本腰? 馬鹿はそちらだ、レストラード。エルフの馬鹿共が身の程知らずに楯突いてきただけだ。それに、どうしてこちらが本気になる必要がある。
……それとも、それだけの数では不安か? <戦女神>などと呼ばれていい気になっている貴様が。普段は少数精鋭がどうのと言っている貴様が、自分が総司令になると途端に恐がって増援を要求するのか?」
言って、将軍はにやにやと笑った。カシュラルは渡された編成表の一番上に記載されている名前に目をやり、唇を噛む。
総司令官、カシュラル・レストラード将軍補佐。つまり自分のことだ。
将軍……軍の上層部の思惑は分かっている。寡兵《かへい》でもって、エルフの反乱を鎮圧して来いというのだ。無茶苦茶な要求である。それを、よりにもよって自分に。
(……それほどまでに、私の存在が鬱陶しいらしいな)
以前のアワード将軍の事件を筆頭に、自分を排除しようとする動きは時々はあった。だが、今回は問題が違う。一歩間違えれば帝国の存在にすら関わりかねない出来事に、そんなつまらない権力争いを持ち込もうというのだ。
寡兵で戦場に送り出し、苦戦して戦死でもすればそれで良し、勝利したとしても、何だかんだと現地での事務処理を押しつけるつもりなのだろう。是が非でもカシュラルに苦渋をなめさせたいらしい。
まさか帝国が負けるとは思っていないのだろう。だからこそ、こんな真似をしでかす。大軍を派兵するのに、将軍自らが戦場に立たないこと自体が尋常ではない。国王自らが出陣するわけにはいかない……それはすなわち、『帝国』の権威の揺らぎを象徴する……ものの、軍の上層部が王都から動かないとは。
(そんな、そんな場合ではないのだ! 本質が分かっているのか?)
大声で喚きたい気分だった。首謀者の正体も思惑も見えないこの状態で、身内でいがみ合って自分の首を絞めている場合ではないのだ。
だが、カシュラルは将軍の行動の理由を何となく理解している。
建国戦争から五十年。初代国王をはじめとする建国戦争時の軍人たちはほとんどが亡くなってしまっており、それ以降は大規模な戦いはなかった。『平和』という名の停滞に慣れきってしまっているのだ。だから、危機の本質に気付かない。
「この馬鹿どもが……」
将軍に聞こえないように呟いた。
「何か不服か? カシュラル・レストラード将軍補佐」
将軍が、もう一度嫌味に言って寄越す。まさか呟きが聞こえたとも思えなかったが。
「辞令はお受けします……ですが、総司令として要求します。兵士の増援を」
食いしばった歯の間から絞り出すように、カシュラルは言った。
「戦う前から臆病風に吹かれたか? 帝国の<戦女神>が。貴様が赴けば必ず勝利をもたらすと、下級の兵士どもは言っているようだな。ならば<女神>の力を見せてみろ。風評などではない、純然たる事実として」
「そういう問題ではない!」
堪忍袋の緒が切れ、とうとうカシュラルは将軍の執務机に拳を叩きつけて喚いた。
「我々の任務は女神の力を見せることでも何でもない、確実に勝利することだ! それなのにわざわざ確率を減らしてどうする? 私が<女神>だろうが何だろうが知ったことか。勝算のない戦いをするのがどれだけ愚かなことか、それくらいは貴様とて理解しているだろう!」
カシュラルの剣幕に将軍は思わず後ずさり、それでも虚勢を張って言い返してくる。
「口のきき方に気を付けろ、レストラード。わしがその気になれば、ただの一言で貴様を牢に送り込むことも可能なのだぞ? その首を刎ねることもな。命が惜しかったら、命令を素直にきいていればいいのだ」
「別に、今更惜しむような命でもないさ」
将軍の言葉に、カシュラルは一瞬だけ自虐めいた笑みを浮かべてみせる。
「それほどまでに私が邪魔ならば、さっさと処刑台にでも送り込めばいい。そうして鎮圧戦には貴様が行け。敗北して貴様等が慌てふためく姿を、私は土くれの下から眺めて笑い飛ばしてやる」
淡々と言い、カシュラルは冷ややかに笑った。その顔は、気の弱い者なら腰を抜かしかねないほどのものだ。将軍も例外ではなく、椅子からずり落ちかけて震えている。
「さっさと選べ。私を処刑にでもして敗北するか、素直に兵士の数を増やすか」
先ほどとは完全に立場が逆だった。上司の前で、カシュラルは腕組みなどして冷たく笑う。将軍ががたがたと震えるのを、何の感慨も見せずに眺めている。
「わ、分かった……」
かなりの時間が経って、将軍が消え入りそうな声で呟くのが聞こえた。
間近に迫った『戦争』に慌ただしく動き回る人々は、軍の人事に困惑し、あるいは痛快とでも言ったように笑った。
総司令はカシュラル・レストラード。将軍補佐の地位にある、<戦女神>だ。その手腕は以前から認められていたにしろ、二十歳そこそこの女性に全軍の指揮権を与えるというのだから尋常ではない。
いつもの略式の軍服ではない、正装のマントを翻して王城を歩きながら、カシュラルは自分にまとわりついてくる視線の数々に顔をしかめた。
「…………」
ため息をつき、王城の内部を見回すが、そこでまた眉をひそめる。
毛足の長い緋色の絨毯、壁に飾られた名画の数々や装飾品。庶民が見たら目を回しそうな光景だが、生憎とカシュラルは何の興味もない。こんなものに金をかけるのもおそらくは王家の義務なのだろう、そんな風に思っている程度だ。見栄を張るのも仕事のうちと言うことである。
(ご苦労なことだ。私には美術品の価値などは分からんが、しょうもない税金の無駄遣いだな)
嘆息する。以前訪れたことのあるコルフォース邸などは、宰相の屋敷ながら、内部は意外に質素だったものだが。あれは、単に主人の性格が出ていただけなのだろう。
王城の最上階、謁見の間に到着する。物腰の優雅な侍女に控えの間に通されながら、カシュラルは軽く唇を舐めた。
(さて。茶番の始まりだな)
彼女にしては珍しく、不敵ににやりと笑った。
ランカスター・ファーレスト・エルゼシア。帝国の現国王であり、三十代前半の小柄な男だ。その国王が今、自分の前に立っている。
謁見の間、国王の御前で、カシュラルは静かに膝をついた。
軍の出立の前の任命式。カシュラルは総司令官だから、当然その場にいなくてはならない。正装のマントと長い髪を翻し、颯爽と立つ彼女の姿に、あちこちから感嘆のため息が聞こえてくる。それはまさに、<戦女神>の威容を備えていた。
もっともカシュラル本人にしてみれば、こんな儀式などどうでもいいことではあるのだが。内心ため息をつきつつ、作法通りに式をこなしていく。仮にも総司令が手違いをやらかすわけにはいかない。
ちらりと横を見ると、ダレットの兄ジェラルドや父ゴフセフの姿も見えた。二人とも文官の正装をしている。元々コルフォース家というのは文官を多く輩出してきた家柄であり、ダレットのような武人は珍しい。
王宮騎士団も勢揃いしている。形式張った銀色の鎧に、思わず眉をひそめる。あれでは有事の際にも動きにくいだろうに。ダレットの姿と銀色の鎧を重ね、あまりにも似合わなくて、密かに苦笑した。
「カシュラル・レストラード」
横から名前を呼ばれ、カシュラルは顔を上げた。
「貴様に全軍の指揮権を与える。装備、編成は貴様の裁量に一任する。一刻も早く、反逆者共を殲滅するように」
「御意」
カシュラルはまた頭を下げる。これで、儀式はほとんど終了だ。
要職の人間をかき集めて任命式を行ったところで、やることはほとんどない。権力の誇示、戦意の高揚といった意味合いが強い。
最高指揮官の地位を得たことには大した感慨はない。一介の兵士だろうと総司令官だろうと、戦場に立つことには変わりないし、地位などに興味はない。むしろ、権力抗争の結果だと腹立たしくなるだけである。
ただ一つ、興味があることと言えば。
(エルフ側の首謀者。あちらの指揮官の顔は、一度見てみたい気もするな。これほどまでに上手く事を運んだ奴の顔は)
ただ、それにはまずエルフの策略を見抜かなくてはならない。好敵手に当たった時の、全身が高揚する感覚に、カシュラルはかすかに笑った。獣のような、獰猛さすら感じさせる表情が、怜悧な美貌に違和感なくおさまっている。
「軍の本部に戻る。まだ細かい指示が山のように残っているからな」
軍の出立の日程、補給経路、装備編成、指示を出さなくてはならないことは山のようにある。戦場で剣を合わせるだけが『戦争』ではない。少しでも事前準備を怠れば、それはすぐに敗北につながる。いわば、戦いはもう始まっているのだ。
邪魔なマントをむしり取るように外し、部下から愛刀を受け取る。国王の御前では、王宮騎士団を除いて帯剣は許されないからだ。もっとも、その気になれば素手でも人間は殺せるし、カシュラルならば数人は軽くあしらってしまう。この規則にどれほどの意味があるかは、カシュラルも首を傾げるところであった。
すたすたと歩き出す彼女を、部下が慌てて追ってくる。
「お待ち下さい、それほど急がれなくとも……」
「時間などいくらあっても足らん。特に今はな」
にべもなく答えると、歩調を早める。髪がさらりとなびいた。
(……さて。どうなるかな?)
カシュラルは心の中で呟き、唇を笑みの形に歪めた。
扉の外から聞こえたノックの音に、ゴフセフは顔を上げた。わずかに顔をしかめた後、入れと呼びかける。ノックの主は分かっていた。
「……失礼します」
律儀に礼をして入ってきたのは、彼の長男、ジェラルドだ。若い頃のゴフセフによく似た眼差しをしている。が、どこかうつむき加減だ。
「何だ?」
息子がこうやって執務室を訪れた時は、大抵あまり良くない話があるときだと知っている。心なしか声をひそめ、ゴフセフは尋ねた。
ジェラルドは珍しく、しばらく口を開くのを躊躇っていた。考えをまとめるように何回か口の中で小さく呟き、それから話し出す。
「父上ですね? その……カシュラル・レストラードを司令官に任命したのは」
ジェラルドは歯切れの悪い口調で尋ねる。
国軍の管理は軍部の管轄と言えど、大規模な軍の出立となれば当然、国王、そして貴族の承認が必要となる。貴族たちを束ねるのは、宰相たるゴフセフだ。軍の編成、そして司令官の任命についても、ゴフセフは命令を下す立場である。
「生憎と、今の帝国は人材不足だからな……軍は特に形骸化が激しい」
ゴフセフは小さく嘆息した。
建国戦争から五十年。当時の軍人たちはほとんど亡くなってしまっている。その後は大規模な反乱はなく……小さなものや、事件はあったが……、第一線で戦うべき兵士にしても、最近は質の低下が激しかった。例外は傭兵部隊、特殊部隊くらいのものだろう。
「この際面子がどうのとは言っておれん。『戦争』を戦えるのは、この王都では彼女くらいのものだ……彼女一人しかいないことを不運と思うべきか、一人いたことを感謝すべきか」
軍部で権力者同士の争いがあり、カシュラルを排除したい動きがあったのは確かだ。だがそれを逆手に取ったところで、若い女性に全指揮権を与えるにはいささか役者不足である。ゴフセフが軍部に対し、強硬に押し切った結果だった。
ゴフセフは貴族には珍しく、徹底した実力主義だ。特に非常時ともなれば、例外的な人材の登用も躊躇わない。それは息子であるジェラルドも知っているはずだった。
だが、ジェラルドの顔は曇ったままだ。
「それは承知しています。今の軍部で、一番適当な人材は彼女でしょう……しかし」
そこでジェラルドは押し黙る。またしばし黙考してから、唐突に話題を変えた。
「随分昔……まだ幼い頃に、ダレットが師匠に尋ねたことがあります」
いきなり昔話を始めたジェラルドに、ゴフセフはわずかに目を見開いた。
師匠というのは、コルフォース家の兄弟に武術全般を教えていた、ヴァルレッド……当時は違う名前だったが……のことだ。ジェラルドも共に習っていたため、彼のことを師匠と呼んでいる。
「どうしたら強くなれるのか、と。……いかにもダレットらしい質問だと思いますが」
ジェラルドとゴフセフは揃って苦笑する。ゴフセフが先を促した。
「それで、師匠殿は何と答えた?」
「怖さを忘れないことだ――と」
歴戦の傭兵の言葉にしては、逆説的な言い回しだ。ゴフセフの顔から表情が消えた。
「勝つべき戦いを敗北に導くのは、恐怖による迷いです。しかし、敗北すべき戦いを逆転して勝利に導くものもまた恐怖……そういうことでしょう」
人は危機に陥ったとき、恐怖を覚える。負けたくない、死にたくない……そんな単純な想いだ。それは時として、人に爆発的な力を与える。
火事場において、か弱いはずの女性が大きな家具を持って逃げることがあるという。普段は抑制されている本当の力が、限界を超えた恐怖によって枷が外れ、発揮されるのだ。
本当の強さというのは、恐怖すらも己の味方とした時に得られるものだ。恐怖や憎悪といった負の感情すらも糧として、前に踏み込めた時に。
「確かに、レストラード補佐は強い。戦士としても、指揮官としても能力は非凡です……ですが、時々非常な危うさを感じることがあります。人として当たり前の部分が、所々欠けているように見えることがある。
それは、今回もそうです。……たった一つ不安要素があるとすれば、それは果たして彼女は恐怖を感じることがあるか、と」
戦士として誇り高ければ高いほど、己が恐怖を覚えるのを嫌悪する。それは彼女とて例外ではないだろう。自分の意志を抑制する術を知っているがあまり、恐怖すらも自覚しないようになっているのではないか。
「勝利すべき戦においては、彼女は誰よりも強いでしょう。だが、敗北すべき戦においては……」
勝つべき場所で勝利することは出来る。だが、敗北すべき場所……とてつもない不利をはね除け、逆転を引き起こすことは。その原動力たる恐怖を持たないとすれば……
「…………」
ジェラルドが言わんとしていることをようやく察し、ゴフセフは大きく息を吐いた。こめかみを押さえるようにして、口を開いた。
「成る程、な」
それだけを小さく呟く。
「だが、選択肢は変わらない。結局の所、我々には彼女に託すしか方法がない……もはや、祈るしかない。彼女が確実に勝利する戦略をとってくれるのを」
この鎮圧戦が、彼女にとって勝利すべき戦であるように。
それ以上は、ジェラルドも何も言えなかった。執務室で親子で顔を見合わせ、沈黙する。
重苦しい気分を吹き飛ばすには、もうしばらくの時間が必要だった。
