暁の大地

57.決戦前夜

「……さすがに、あの馬鹿騒ぎに付き合う気にはなれないか」
 テントに入ってきたカシュラルが苦笑した。椅子に腰掛けてカップを手にしていたダレットは、顔だけ振り返って応じる。
 決戦の目前。敵軍を一気に叩き潰す予定日の、前々日の夜。無論、それは敵も気付いているはずで、明後日が勝負になるはずだった。
 その戦意高揚のため、外では大規模な酒宴が催されている。だが、それに付き合う気にはなれず、一人、無人のテントで時間を潰していたのである。
 さっさと寝てしまえば良いのかもしれないが、外であれだけ騒がれてはそれも無理だ。
 それに……
「酒か? そんなものを……悪いことは言わん、止めておけ。長く剣を握っていたいのであればな」
 近づいてきたカシュラルがダレットの側にあるものに気付き、咎めるように言う。酒宴の会場から貰ってきた……もとい、くすねてきた酒瓶だ。
 王都にいた頃から、酒など滅多に飲まなかった。無論、舞踏会やら何やら、公の場に出れば付き合いで少しは口にしたが、好きで飲むことなどまるでなかったのである。
 飲めないわけではないのだが、下戸なのですぐに酔ってしまうのだ。それは父や姉たちも同じだったし、兄にだけは酒は飲ませるまいと小さい頃に決意していたが。
 だが、今日はそれでも酒に手が伸びた。別に飲んでいて楽しいわけでもないのだが、つい口にしてしまう。
「……恐くはないのか? お前は」
 ちびりちびりと酒に……仕方のないことだが、あまり質の良いものではない……口をつけながら、ダレットが言う。
「戦争。大勢対大勢の殺し合い、か……。一歩間違えれば、お前が死ぬかもしれないんだぞ?」
 そう。死ぬかもしれない。
 死ぬような思いをしたことは何回もある。キルファと出会い、旅に出てからは何度も。魔物と戦い、エルフと戦い、死ぬ覚悟をしたことは何度もあった。
 だが、それでも決して『慣れる』ことなどない。その感覚が、麻痺することなどない。
 いや……
(慣れたらいけないものなんだろうな、これは)
 ダレットはこんな風に思う。
 恐いと思うから逃れようと、はね除けようと……生き続けようと努力する。その感覚を失ったら、死ぬことに気付かずに突っ走ってしまう。いわば本能だ。恐いと思うことは、生き物が生き続けるための。崖の寸前で己を引き留めるための安全装置だ。
 人間にしろエルフにしろ、生き物である以上はいつかは死ぬ。それは、ただ一つ確実なことだ。だが、せめて死ぬその寸前まではせいぜい悪あがきしてやろう、ダレットはそう思っていた。
 もしかしたら、『死ぬ』ことを受け入れた瞬間こそが、本当の『死』なのかも知れない。
 ダレットにしても、外の兵士たちもそれが分かっているから……だから、必死でそれを誤魔化そうとする。酒と、大量の食べ物と。それで少しでも気分を紛らわそうと。これからの、逃れられない運命に立ち向かうために。
 ここからでは分からないが、おそらくはエルフの陣営も同じようなものだろう。
 ダレットは黙って酒を喉に流し込む。さほど強い酒ではないが、アルコールがじんわりと身体に染み込んでいくのが分かる。心地良い酩酊感。このまま眠ってしまって、明日も明後日も……これまでと同じように平穏ならば、どれほど幸せだろうか。
「恐い……か。そう思うのが、当然なのだろうな」
 ダレットにしてみれば当然の言葉だったが……カシュラルは何やら衝撃を受けたらしい。ぼんやりと、ダレットの言葉を反芻している。
 ダレットにはその意味がよく分からない。黙って酒を口にしている。
 だから、気付かなかった。
 カシュラルがふわり、と手を回す。
「…………!」
 背中からカシュラルに抱きすくめられ、ダレットはカップを手にしたままの体勢で硬直した。
「なっ……なん……」
 突然の出来事に頭が真っ白になる。言うべき言葉は頭の中でぐるぐると回り、ろれつの回らない呟きが漏れるだけである。
 カシュラルの息遣いがはっきりと感じられる。背中に押し当てられる、柔らかく温かい感触。長く伸ばした髪が軽く首筋をくすぐる。
(まずい。これは……非常にまずい……)
 額から脂汗がだらだらと流れる。
 ダレットに恋人がいたためしはない。王都では浮いた噂の一つもなかった。姉が三人もいるから、女性が苦手というわけでもないのだが、単に恋愛沙汰に踏み込もうとしなかっただけだ。女性に幻想を抱かなかったと言うべきか。
 とは言うものの。
 ダレットも一応、男である。『女』に興味がないわけがない。若い女性、しかもとびきりの美女がすぐ側にいて、その身体が触れているとなったら……考えることなど一つである。
 それでも、普段なら慌てて振り払っただろう。だが生憎と、ダレットは多少の酒を口にしてしまっていた。
 酒のせいで若干鈍った理性と、欲望が見事に拮抗した。脂汗だけを流し、ダレットはかちこちと身体を固まらせている。その頭の中では、理性と欲望が不毛な争いを続けていた。
 そんなダレットの苦悩に気付いているのかいないのか、柔らかくダレットの身体に腕を回したまま、カシュラルは呟いた。
「恐いと言うなら……私だって恐いさ」
 ダレットの耳元で囁く。首筋に触れる息遣いに、流れ出る脂汗の量が若干増加する。
「戦いに出るのが、ではなくて。毎日の、平穏が……己を見失ってしまいそうで」
「…………?」
 ダレットが不審げな顔をする。
「……私が何処の出身かは、貴方も話くらいは聞いたことがあるか?」
 カシュラルはダレットのような名門の出身ではないし、元々は正規軍の出身ですらない。何年も前に、正規軍に『異動』しているだけだ。そんな彼女が司令官の地位にあることは、例外中の例外なのである。それが自分の父の差し金だとまでは、ダレットは知る由もなかったが。
 以前の縁談騒ぎの際に聞いた話を、ダレットは必死で思い出す。
「確か……何年か前に統合された特殊部隊だったな。名前は……」
「<楔>」
 吐き出す息に載せて、カシュラルがその名を呟く。
「私たちは敵地に打ちこむ楔。そのためだけの存在だった。ただ、敵を蹂躙する『強さ』だけを与えられた。強さだけを求めて……だから、それ以外には何も知らなかった」
 私兵部隊<楔>。数年前……ダレットが騎士の叙勲を受けるよりは前だが……に起こった反乱の中核を成した部隊だ。
 ある貴族が、他の貴族を巻き込んで大規模な反乱を起こしたのだ。その貴族が、反乱の切り札とするべく育成した私兵部隊が<楔>である。
 王都はともかく、辺境にはまだまだ貧しい地域は多い。生まれた子供を育てることが出来ず、間引きのように親自身が殺すことすらある。その人物は、そんな子供を金で買い集め、兵士として育成した。そのうちの一人がカシュラルだ。
 育成などという生易しいものではなかった。訓練とも言えないような潰し合い。何年にも及ぶ訓練過程で子供たちは選別され……無論、落第した者は皆死んだ……生き残った子供たちは、常人離れした『強さ』を手に入れた。
 だが、<楔>が完成された部隊として機能する直前に、反乱は王室と首脳部に漏れてしまう。それでもその人物は反乱を強行したが……所詮、悪あがきに過ぎなかった。首謀者たる貴族は捕らえられて処刑、カシュラルたち<楔>の兵士も軍部の管轄下に置かれる。
 本来ならば、彼らも全員処刑するべきだったろう。だが、一人一人が常人離れした戦闘能力を持った<楔>の力を惜しんだ当時の将軍が、<楔>を特殊部隊として軍に編入したのだ。
「……でも、それでめでたしめでたし、とはいかなかった」
 ダレットの耳元で囁くように、カシュラルは昔話を続ける。
「私たちには、『強くなる』こと以外には何の価値も見出せなかった。ずっとずっと、閉鎖された世界で生きてきたからな。
 この『帝国』という社会に、どうしても馴染めなかった。武器を手にしない世界など、考えられなかった。私たちにとって、この『平和』は異世界でしかなかった。
 表舞台に引っ張り出されて……大勢の仲間が耐え切れないで、自ら死を選び、あるいは狂っていった。殺傷事件を起こして、仲間に処分された者すらいた。あの悪夢のような訓練過程から解放されて、正直、これで生き延びたと思った。でも、本当の意味での戦いはそれからだったのだな。
 今でも『正常』な状態で残っている仲間はほんの数人だけ。書類を見れば分かるが、現に、特殊部隊<楔>が動いた事件というのは今まで存在しない。
 勿体無いから残しておいたが……その実、扱いに困ったのだろうな。軍の上層部も」
「じゃあ……お前が、がむしゃらに軍の中で上を目指したのは……」
 特殊部隊として軍に編入された後、カシュラルは志願して正規軍に異動している。そこから彼女は実力でのし上がって見せた。
「ただ恐かっただけだ。あの場で狂って死ぬのが。死にたくなかったし、自分がただの用済みの『駒』、殺人人形だとは思いたくなかった」
 心なしか、自分を抱く腕に力が込められたような気がした。
「だが、今だに……あの頃の自分に戻りそうな気がする。目の前のものは全て敵で、殺さなければならないような感覚がするんだ。
 王都のあの人間たちを見ても、どうしようもなく恐くてな。皆で私に襲いかかってきそうで、どうしたら殺せるか……気がつくと、そんなことばかり考えている。
 だから……恐い。いつか、本当に自分が自分でなくなりそうで。何もかも分からなくなって、周りのもの全てに向かって刀を振り回しているのではないのか、とな」
 耳元で淡々と語られる話。それはあまりにも壮絶で、哀しくて……大勢の人間の中で育ったダレットには、想像することすら出来なかった。
「……済まない」
 大きく息を吐いて、カシュラルはダレットから離れる。ダレットはとりあえずほっとした。これ以上、蛇の生殺しのような状態が続くのはさすがに辛い。カシュラルの方は『男』と言うより、大人にしがみついて泣く子供の感覚だったようだが。
「悪かったな。いきなり愚痴を聞かせて」
「いや……」
 心なしか視線を落とすカシュラルに、ダレットは言って曖昧に笑った。ここで変な考えを起こしたなどと知られたら、次の瞬間に半殺しにされる。カシュラルに手を出そうとして返り討ちにあった人間の数は、両手では数えられないはずだ。
「……少し惜しかったかな」
 ぽつりとカシュラルが言った。その意味が分からず、ダレットは首を傾げる。
「何がだ?」
「あの縁談だよ。しょうもない策略だったが、貴方が夫になるというのも、それはそれで面白かったかもしれない」
 言って、カシュラルは肩をすくめて笑う。先程の柔らかな感触を思い出し、ダレットは再びだらだらと汗を流した。
 からかっているようにも見えないのだが……どうにも、事の本質が分かっていないようである。<楔>という閉鎖された空間で育ったからだろうか、どうにも感覚がずれているような気がしてならない。
「……それだけは勘弁してくれ」
 呟き、大仰にため息をついてみせる。だが、カシュラルは少し寂しげに笑って続けた。
「気に触ったなら謝罪するが。……何となく思っただけだ。少しでも自分のことを知っていてくれる人間がいるというのは、思いの外に心地良いのかもしれない、とな」
 人が、一人では生きていけない理由。側にいてくれる誰かを必死に求める理由。
 生きている人々、誰もが弱い。だから、支えてくれる誰かを、自分のことを知って……それでも存在を認めてくれる誰かを、必死で探す。少しでも前に進むために。少しでも、自分が強くあれるように。
 それはカシュラルも例外ではないのだ。
「明後日……か」
 ダレットは呟く。立ち向かわなくてはならない、『運命』。
「ああ……貴方は、決して前線には立つな。後ろの本営にいろ」
 カシュラルが言う。総司令官としての、絶対の命令だ。だが、ダレットは顔色を変えた。
「馬鹿な……! そりゃあ……恐いし、誰かを斬るなんて絶対にやりたくない。それでも……」
 混戦などという作戦を提案したのは自分なのだ。それなのに一人だけ前線に立たないというのは、何か逃げ出すような気分がして嫌だ。
「理由を言え! 何か、宰相の子だから死なれたら困るなんて理屈か? お前の口からだけは聞きたくなかったぞ、それは」
「今更この鎮圧戦に罪悪感を感じている人間に、戦場に立たれたのではこちらが困る。ましてや、それが帝国騎士となればな」
 カシュラルは冷徹な口調で言った。
 実状はどうあれ、王宮騎士団というのは国の精鋭として、常に畏敬の念を持って語られる存在だ。この帝国を、国王を、正義を護る者として。反乱軍を鎮圧するための戦とあらば、特に『帝国の正義』の具現たる騎士の存在価値は大きい。カシュラルが、無理矢理ダレットを参加させた理由だ。
 だが、その当の騎士が、敵に刃を向けることに躊躇いを覚えていたとしたら。その躊躇は、すぐに士気の低下となって周囲に波及してしまう。司令官としては是が非でも避けたい事態だろう。
 心の奥底を見抜かれ、ダレットは言葉に詰まる。
 ダレットを見て、カシュラルはふっと笑った。いつもの刃のような微笑ではなく、ただの柔らかい笑み。見慣れないが……それはたまらなく美しかった。
「だが、貴方はそれで良い。今更変わろうと思うな」
「…………?」
 カシュラルの言葉の意味が分からず、ダレットは首を傾げる。
「この国に、わざわざ『騎士』などというものが存在するのは何故だと思う? 成る程、国王の近衛という点では特異な存在だが……それだけを追及するならば、軍部に特殊な部署でも作っておけば済むことだ。それなのに、わざわざ軍部とは別に騎士団などというものを存在させておく理由」
「…………」
 ひたりとカシュラルに見据えられ、ダレットは押し黙る。
「一般兵だろうが総司令官だろうが、戦場に立つことには変わりない。己の手で誰かを殺す、もしくはそれに手を貸すことは一緒だ。その手を血に染めてな。
 人々は強さには憧れるけれど、血は恐れる。罪悪を背負うことをな。誰かに勝つということは、誰かの意志や希望を押し退けて、それでも前に進むことだ。決して切り離せないことなのだが……それでも、な。
 だから、人々は憧れるんだ。誰よりも強く、かつ潔白な存在にな。誰も傷つけずに、それでも勝利し続けられる者に。強さや優しさ……そんな、憧れの象徴として。正義という、何よりも不確かなものを少しでも保証してくれる者として」
 自分と同じ正義を共有する者が、誰よりも強い。それが、どれだけ人々の心の支えになることか。
「つまり……綺麗事というお飾りだ、と?」
 飾り物。それは、王都にいた頃からダレットも感じていたことだ。だが、それがたまらなく嫌だったから、ダレットは王都を飛び出したのだ。それなのに、カシュラルは自分に飾り物でいろと言う。ダレットは険悪な表情を浮かべた。
「確かに貴方の言う通り、飾り物だ。絵空事の理想論。だが、それでも……その飾り物に救われる者が少しでもいたとしたら。誰かの手助けになれるとしたら、決して無価値な飾り物ではない」
 騎士。確かに、その概念は曖昧だが……もし何処かに、騎士に憧れ、誰かを助けようとする者がいたとしたら。決して、それは無意味ではない。
「だから、中には貴方のような人間がいても良いのかもしれない。刃を向けてくる敵にすら、対等な立場で優しさを向けられる騎士が。どんなに青臭くてもただの綺麗事でも……必死にそれを叫び続けられる人間が」
「――綺麗事を言ってるから俺なんだよ」
 カシュラルの言葉に、ダレットは何処か吹っ切れた表情で言った。
「そうだな」
 カシュラルも笑ってみせる。何処か、『母親』のような温かさを感じさせた。
 普段はあまり意識することはないが、間違いなく彼女も女なのだ。先程の柔らかい感触を思い出し、ダレットの額から再び汗が流れる。それを見て、カシュラルが首を傾げた。
「だが、今回はそうはいかない。妥協しろとは言わない、だが辛い思いをすることは覚悟してくれ」
「…………」
 カシュラルの言葉に、ダレットは今度は応えない。黙って、まだ手にしていたカップを握り締めている。いつの間にか、カップは空になっていた。
「明後日……か」
 ダレットは呟く。
 決戦当日。この平原を舞台に、長らく争い続けた二つの種族がぶつかる日。これが最後になるのか、これからも続く争いの一つの経過に過ぎないのか……それは分からない。
 誰も争いたくなどない。傷つきたくないし、誰かを傷つけたくなどない。
 それでも、争いは続く。人々の弱さ故に。生き続けようとする意志故に。
(…………)
 何が起こるのか。その果てに、何が待っているのか。
 それは誰も知らない。  

 

 
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