58.決戦開始
夜が明け、太陽が山の端から顔を出す。平原を、暁の光が照らし出す。いつもと変わりなく、そしてこれからも変わらないであろう光。気が遠くなるような時間、ずっと繰り返されてきた営みだ。
が。
その、太陽の下で行われようとしていることは……流れゆく平穏とは、あまりにも違っていた。
エルフにしてみれば反逆の決戦、人間にしてみれば反乱軍の鎮圧戦。
二つの思惑を持った二つの軍隊が揃い、相対している。
何が起こるのか。それが、どういう結果をもたらすのか。
それは……誰も知らない。
「良いか。我々の目的は、あくまでも馬鹿げた反乱を止めることだ。そんなもののために、貴様等帝国の兵士を失うわけにはいかない。エルフの殲滅はその次だ。
命令だ、無駄死にだけはするな。被害を最小限に抑えることこそが最上の勝利だと思え!」
朗々としたカシュラルの声が響き渡る。
決戦当日。今まさに戦が始まろうとしている。直前の、鎮圧軍の総司令……カシュラルの訓辞だ。奇襲部隊として別行動を取った軍隊はこの場にはいないが、正面からぶつかる兵士の全員が、黙ってカシュラルの言葉を聞いている。
元々が一般兵からの叩き上げである彼女は、特に下層の兵士からの支持が強い。現場の感覚というものを彼女は知り尽くしている。まさか一緒にテーブルを囲んで酒を飲むわけにもいかないので、気心が知れているとは言い難かったが、一般兵にしてみれば戦いのイロハも知らない貴族の息子に指揮を執られるよりもよっぽど心強いだろう。
――無駄死にだけはするな。
何があっても生き残れ。総司令の訓辞としては少々異例の言葉である。だが、それが彼女の本心だった。
(この者たち一人一人にも……家族もいれば、大切な者もいるはずなのだ。彼らがいなくなれば、悲しむ者たちが)
何も持たない自分と違って。カシュラルは少々自虐めいた笑みを浮かべ、居並ぶ男たちを見回した。大半がカシュラルよりは年上だったが、静かに彼女に従う意を見せている。
カシュラル・レストラード。帝国の<戦女神>。
彼女が赴いた戦場には、決して敗北はない。それはほとんど信仰のように、兵士たちの間に浸透していた。いつからこの二つ名が囁かれるようになったのかも覚えていないが、今は役に立つ。
不安からくる恐怖が、戦場では己の身を滅ぼす。少しでもそれを払拭しなくてはならない。
風に長い黒髪をなびかせ、カシュラルは婉然と微笑んだ。絶世の美貌の、勝利の女神の微笑。カシュラル本人は、自分が決して勝利の女神ではないと知っていたが……敢えて、今はその二つ名を利用していた。精一杯に<女神>を演じる。
「帝国に敗北はない。勝利は我々と共にある!」
沸き上がってくる罪悪感を必死に抑え、彼女は堂々たる声で宣言した。
(……役者だな)
ダレットは内心呟き、密かにため息をついた。
王宮騎士団という地位はさておき、実際には飛び入り参加に近いダレットには、特に指揮すべき部隊が与えられたわけでもない。一応は幹部と同等の立場を与えられているが、客人に近かった。総司令として全軍の前に立つカシュラルを横目で見ながら、横に控えている。
横で見ているだけでも、兵士の士気がどんどん上がっていくのが分かる。これがカシュラルの……<戦女神>の力ということなのだろう。
今のこの陣営は、辺境にあるという土着の宗教を連想させた。カシュラルという巫女、もしくは女神を崇め奉り、彼女を守ることに至上の誇りを覚える男たちの群れ。
だが、カシュラル本人にはそれは苦しいだろう。彼女もまだ、自分自身に何ら価値を見出せていない。それでも、<女神>という信仰が利用出来るならば、他人を騙して自らに仮面をかぶせ、利用しなくてはならない。そういう立場だ。
カシュラルの内面をダレットは垣間見ている。だから、ただ嘆息することしか出来ない。
いつかは彼女にも来るのだろうか。
仮面を投げ捨て、本来の自分で堂々と歩ける日が。
アウィス平原は、この時期には朝に濃い霧がかかる。そのため、向こうのエルフの陣営はぼんやりとしか見えない。だが、決戦が始まれば霧は晴れるだろう。
戦場。己の命をすり減らし、敵と相まみえる場所……
もしかしたら信頼できたかもしれない、自分に好意を寄せてくれたかもしれない者たちを、何の恨みもなしに殺さなければならない。殺さなくても、動けないようにしなければ――自分が殺される。戦場とは、そういう場所だ。
師匠から、ダレットはそう繰り返し聞かされてきた。ヴァルレッドの言葉が脳裏に蘇る。
『罪悪感だの名誉だの、そんなものは捨てちまえ。そんなもんにこだわっている奴から死んでいく。命乞いをされて見逃した敵に後ろから刺された奴もいた。
自分が生き残りたいなら他人を殺せ。どんなに卑怯でも無様でも構わない、ただ生きていたいならば、な。生きて、もう一度会いたい奴がいるなら……躊躇うな』
この話をされた当時のダレットは、まだその意味が理解できなかった。露骨に嫌悪の表情を浮かべるダレットに、師はため息をついて先を続けたように思う。
『お前がお綺麗な思想を抱いたまま死にたいってのなら、俺は別に止めはしない。それはお前の考え方だからな。名誉とやらを抱いて朽ち果てろ。
ただ、俺はそのお綺麗な死に方ってのは教えてやれねえぞ。知らねえからな。俺が知ってるのは、ただがむしゃらに剣を振り回して生き延びる方法だけだ』
どんなに『卑怯』な戦い方であろうと、それが実際に役立つとなれば、ヴァルレッドは迷わずにダレットに教えた。隠し武器の使い方、敵を自分の盾とするような戦法。それを学んだ当時のダレットは、そんな戦い方が役立つ日が来るなどとは思いもしなかったが……
(現に今、俺はこうやってここにいる)
戦場という世界に。ダレットはまた嘆息した。
(……何で、こうも馬鹿なんだろうな。人間もエルフも。誰も彼もが)
誰もが望んでいるはずがないのに。自分が傷つくことなど、誰かを傷つけることなど。……こう思うのは、自分が綺麗事にこだわっているからというだけかもしれないが。
あるのは、たった少しの違いだけ。容姿と能力。それを除けば、両者はまったく変わらない。だが、その間の溝はあまりにも深い。
キルファはどんな思いでこの溝を見ていたのだろう。どちらにも属さず、自由でありながら……同時にとんでもない孤独を内にはらんだあの少女は。
多分、冷笑していたのだろう。彼女には、この戦争などは、自分で自分の首を絞めているようにしか見えていないはずだ。自ら滅亡の道を進んでいるようにしか。彼女には、人間もエルフも大して差はない。ただの憎悪と恐怖の対象だ。
所詮は、同じ穴の狢《むじな》だ。自分が今ようやく悟ったことを、あの少女はずっと昔に気付いていたのかもしれない。
「…………!」
カシュラルが戦闘開始を宣言した。凛とした声に従い、兵士たちが一斉に動き出す。
だが、ダレットは動けない。総司令の命令で、後方の本営での待機が命じられている。
苦い思いで、ダレットは男たちの群れを見送った。
「さて。戦闘開始です。……いよいよですよ」
傍らのウィレムとブランシュに向かい、リュシウスは囁いた。ウィレムは面白そうに笑い、ブランシュは相変わらずの何処か憮然とした表情だ。
リュシウスは、立場上は軍師だ。彼自身が戦場に立つことはないし、前面にも出ない。後方で、作戦を立案しているだけだ。だが、実質の指揮はこの男が執っていることを、エルフの軍の誰もが知っている。
リュシウスの視線の向こうで、大柄な中年の男が怒鳴っている。軍の司令官だ。だが、この男とて、リュシウスの指示を忠実に実行しているだけに過ぎない。
『良いか。我々の目的は、あくまで帝国の不当な圧迫を抜け出すことだ。己の私怨のためではない。そのことだけは肝に銘じておけ!』
聞こえてくる言葉に、ブランシュが軽く眉をひそめた。説明を求めるように、リュシウスに顔を向ける。
「我々はあくまで反逆者ですから。理想だけは高く掲げておきませんと。己の私欲に走った瞬間に反乱軍が瓦解することは、歴史が証明してくれていますしね」
リュシウスは、軽く肩をすくめてそう答えた。
『私利私欲のみでこの場にいる者は、今すぐに立ち去れ。我々が戦うのは、あくまで自由と平等な権利のためだ。個人個人の恨みは、今は二の次だ。平等に恨みを晴らす権利を得るのだと思っておけ』
リュシウスの言葉に裏付けられた言葉がまた聞こえる。実際、指揮官はいかにも勇猛果敢といった風情の男だ。兵士の士気が上がっていくのを眺め、リュシウスは冷たく微笑した。
「でもまあ、実際に働いてもらうのはあの方々というわけではないんですけどね……」
リュシウスがぽつりと呟く。ブランシュがまた顔をしかめた。
「……良かったんですか? あれで」
ややあって彼女が問いかけてくる。
「随分、気にしてらしたじゃないですか。あの子のことを。それなのに……」
「まあ、気にはしてました。心配でなかったと言えば嘘になります。ですが、優先順位の問題ですね」
ブランシュの言葉に、リュシウスは淡々と答えた。納得はしかねたようだったが、ブランシュもそれ以上は尋ねない。
「本来ならば、知恵で戦うべきなのです。我々は己の牙と爪にしか頼れない獣ではないのですから。こんな力に訴えなければならないこと自体、一つの敗北ですよ……でも」
リュシウスはいったん言葉を切り、にやりと笑う。普段の彼にはあまり見られない、獰猛な笑みだ。だが、何故だか違和感を感じさせない。
「力というのは、使いようですから。必要になる場面も、ないわけではない……」
ウィレムには一瞬、リュシウスが何か遠くを見ているような気がした。目の前の戦場ではない。その向こうの何か……この闘いの結末か、更にその先の未来か。それが見通せるようでなければ、軍師など務まるまいが。
軍が動き出す。それを見ながら、リュシウスが呟いた。
「さて、奇しくも女神対女神の闘いですか。どちらの女神に軍配が上がりますかね……」
面白そうに笑う。到底、戦いの結末を案じているようには見えない。
知っているのだ。この、結末を。
「……悪趣味ですよ」
ブランシュが淡々と言った。
「大したものだね……あそこまで状況を持っていけるんだから。本人が分かっているからなんだろうけど」
少年は、目の前の情景を眺めて呟いた。本来ならば、軍の陣営など見えないほどの遠距離なのだが、目の前にはリュシウスの姿が鮮明に映し出されている。
補助魔法、<望遠>の精度を上げたものに、音声を届ける呪文も追加した魔法だ。それだけ高度な魔法となると、ブランシュのような一流の魔導士にすら使用は難しいはずなのだが、少年は気楽な顔で魔法を起動し続けている。
「その思惑は置いておいて、指揮能力に関しては問題はないな……さすがに、僕がやっと探し当てた人物だけはある」
少年は皮肉っぽく笑った。絹糸のような金の髪がきらきらと光る。
「まあ、食えない男だけど利用価値はある。それも、そろそろ終わりだけど」
少年は傍らを振り向いた。何もないはずの一点を、目を細めて凝視する。
「理想、か」
自らに言い聞かせるように、少年は一人ごちた。
「理想と現実は相反するものだけど。けれど、理想がなければ現実なんて有り得ない。所詮、人間もエルフも理想に……欲望と望みに向かってしか動けないから。
僕自身の理想。何なんだろうね……それは」
哀しく少年は笑った。
「ふうん……」
聞こえてくる声に、キルファは鼻で笑った。腕組みなどして、悠然と目の前の映像を眺めている。
今、彼女がいる場所に足場はない。傍から見れば、空中に浮いているように見える。が、不安定さなど微塵もなく、地に立っているのと同じ安定感があった。
周囲はぼんやりとした黄色い光に包まれている。消去魔法の発する光ほど強烈ではないが、温かさを感じさせる柔らかい光だ。そして、キルファを取り囲むように幾つもの切り取られた情景が浮かんでいた。
前方、後方、彼女が望めば、望んだ場所の情景が瞬時に映し出される。今は、エルフと人間の両方の陣営を映し出させているが。さすがに音声は両方同時に聞こえてくると面倒くさいので、片方を遮断している。
実を言えば、今のキルファが探索できるのは単に光と音声……情景と音だけではない。望みさえすれば、周囲の温度、金属反応等々、無数のことを調べ上げることが可能だ。
ただ、人間にもエルフにも備わっていない体機能なのでその情報をどう処理していくか、感覚がいまいち掴めず、結局機能を遮断したままにしてある。戦闘が始まったら全装備を起動させる必要があるだろうが。
「御大層なことを言うのは勝手だし、思っている分にはどうでも良いけど。その陰であたしがどれだけ大変な思いをしてきたか、分かっているのかしらね、あの連中……!」
憎々しげにキルファは喚いた。だが、今この場にいるのは彼女一人で、答えてくれる者はいない。承知の上で、彼女は続けた。
「平和? 権利? 良い言葉よね。誰にだって権利はあるわよ……あたしにだってね! それとももしかして、エルフと人間にしかないとでも言いたいのかしらね? まあ、そうしたらあたしは含まれないわね、矛盾はしてないわ。どうでも良いけど」
暗い表情を浮かべながらキルファは呟き続ける。
「自分たちの為に他者を踏み潰す。ずっと昔からやりつづけてきたことじゃないの。何だって今更、綺麗事を言って正当化する必要なんてあるのよ。戦争なんて所詮、大勢の人殺しだって誰だって知ってることだわ。
踏み潰し続ければ良いのよ……そして、いつか自分が踏み潰されるんだから」
彼女は知っている。かつて、同じ事をやった種族のことを。愚かしくも潰しあいを続け……そして、共に姿を消した存在のことを。
だから、呟いた。
精一杯の侮蔑をこめて。
それは戦場にいる全ての存在に向けられたものであり……同時に、自分に向けられたものでもあった。
