61.暴走
ぼんやりとした空間に、涼やかな声が流れる。
『秩序と混沌の支配者よ・姿なき世界の王者よ・我・汝に請わん・汝が力・仮初めなれど・我に与えん……』
淡々とキルファは呪文を詠唱する。これ以上はないと言うほどに、精神が澄んでいくのが分かる。集中に邪魔な雑念の一切が消え失せ、脳裏には純粋に魔法の構成のみが浮かぶ。
(ねえ……リュシウス)
キルファは思う。ふと、柔らかな笑みが浮かぶ。母が子に見せる、慈愛に満ちた微笑にも似ていた。誰かが見ていれば、たまらなく美しいと思うだろう。
(あんたの大切な人たちを奪ったのは、間違いなくあたし。でも、あたしにも生きたいと思う自由はあるはずなのよ。それくらいは許されても良いでしょう?
だからね。あたしはあんたの思い通りにはならない。その代わりに、これ以上生きようと思うことも止める。
目の前で消えてあげるわ、憎い仇としてね)
『空と大地を渡りしものよ・風よ・精霊よ・我が意に従え……』
<風刃>の呪文である。以前に一回だけ使ったことがある。初めて唱えて……ハンザの村で、男たちを跡形もなく引き裂いた魔法だ。
あの男たち……リュシウスの血縁も含まれていたはずだが……と同じ末路を辿ってやれば、彼の気も少しは晴れるだろう。納得するとはいかないにしろ。
『剣と化せ・刃と化せ――』
ふっとキルファは笑う。泣き笑いのような表情を浮かべ、彼女は最後を宣言した。
『鋭利なるその身をもって・敵を切り裂け!』
敵。それは他の誰でもなくて、自分だ。
他の誰かを傷つけなければ生きていけないような。
<鋼鉄の女神>の本来の力が発動する。魔法が起動する手応えを確かに感じ取り、キルファはにやりと笑った。
<鋼鉄の女神>の周囲を、鮮やかな虹色が彩る。
女神が薄い紗のベールを纏ったかのように、銀色の身体を虹色の光が取り巻く。それは心臓の鼓動のようにうごめき、形を絶えず変えていく。
虹色の光が複雑で幾何学的な紋様を描いていっているのだ。光の糸が、女神を彩る紗を織り上げていく。
「魔法陣……!」
ブランシュが感嘆の声を上げた。
魔法は、強制的に『場』を書き換えることで起動する。普段はその際にわずかな反動が魔導士に来るのみなのだが、あまりにも強力な魔法を起動しようと……一度に大規模な書き換えをしようとすると、魔導士のみならず、反動が中途半端な魔法として作用してしまうのだ。それが、魔法陣と呼ばれる現象である。
魔法の出来損ないが生み出す、虹色の紋章。滅多な魔法で発生するものではなく、数十人単位のエルフの魔導士が分担して魔法を起動した場合にのみ、見られる現象として知られている。一級の魔導士であるブランシュでも、見たのはこれが初めてである。
「これが……あの遺産の力」
<鋼鉄の女神>を操っているのは、たった一人の少女のはずだ。如何にハーフが強力な魔法を使えようと、さすがのキルファにも一人で魔法陣を発生させる力はない。
<鋼鉄の女神>の本当の力。兵器として与えられた最大の役割……それは、強力無比な魔法の増幅装置であった。操縦者が起動した魔法を、何倍にも何十倍にも増幅する。
単純な好奇心と興奮から身を乗り出すブランシュとは対照的に、その隣のリュシウスはまともに顔を引きつらせた。
彼は、<女神>から流れてくる呪文を聞いている。呪文を聞けば、魔導士が何の魔法を起動しようとしているかは読みとれる。キルファが唱えているのは、あの<風刃>の呪文だ。
(――まさか)
ざわりとした悪寒が走る。まさか、とは思う。だが。
キルファの気性は知っている。気丈に見える反面、あまりにも脆い部分を持ち合わせている。そこにつけ込んだのは他ならぬ自分だが、自分が望んだ以上のものを、彼女が心に抱いてしまったとしたら。
「止めなさい!」
キルファに向かって叫ぶ。だが、彼女の耳に届くわけがない。
リュシウスの突然の狼狽に、横のブランシュとウィレムが怪訝な顔をする。
「ブランシュ。<女神>に向かって攻撃出来ますか?」
リュシウスの突然の言葉に、今度はブランシュが狼狽する。一瞬遅れて答えた。
「無理です、私の魔法なんて通用しません」
「無理なのは承知です、とにかく何か衝撃でもぶつけて下さい! 止めないと……」
リュシウスが喚く。ブランシュに命ずるのももどかしかったのか、自分でぶつぶつと呪文を唱え出す。だが、リュシウスの力では<女神>まで魔法を届かせることすら出来ない。ブランシュの力でもやっとだ。
「……何だって……」
事情の飲み込めていないウィレムが、のんきに首を傾げて問いかけてくる。
「自爆するつもりなんですよ、あの子!」
リュシウスが叫んだ。
「<鋼鉄の女神>を道連れにしてね――よりにもよってこの場で!」
叫んで歯噛みする。キルファが大人しく従っているので、それに安心してしまっていた。気の毒だと思わなくもなかったが、己の利益が優先してしまっていた。
まさか、こんな形で牙を剥かれるとは。
ふと、昔の……ハンザの村にいたころの情景が浮かぶ。いつも母親にべったりとくっついていて、自分が頭を撫でてやると、にっこりと笑ってぱたぱた後をついてくるような少女だった。
自分も、彼女も変わったと思った。だが、自分にはこんなにも自己中心的に変貌したのに、彼女の本質は変わっていなかった。あれほど他者に拒絶されても、愚かしいほどに優しい。誰かを傷つける自分を、何よりも許せない。
(くそっ!)
どうして、もっと早くに見抜けなかった。どうして、そんな子供を利用したりしようとした……
「止めろ!」
音声を飛ばす魔法は、もう消滅している。だが、それにも気付かずにリュシウスは叫んだ。届かないと、悟ってはいたが。
「止めろ――!」
<風刃>の魔法が起動する。<鋼鉄の女神>の周囲を風が取り囲み、すぐにそれは真空の刃と化す。
刃は、真っ直ぐに己の主――<女神>に向けられていた。
(ここであんたたちが頼ろうとした切り札が木っ端微塵になれば、間違いなく帝国の軍が勝つ。あたしが死ぬのが家族を奪われたあんたの復讐、あんたの目論みを潰してやるのがあたしを利用しようとしたあんたへの復讐。これでちょうど良いでしょう?)
キルファはふわりと笑う。その笑みは晴れ晴れとしていた。これでようやく逃げられる。あの紅い記憶からも、うなされては何度も何度も跳ね起きる夜からも。
あとは、必殺の刃が自分の身体を引き裂くだけ。
だが。
「…………っ!」
突如として、キルファを強烈な衝撃が襲った。
<鋼鉄の女神>が光を纏ったのを見て、カシュラルは顔色を変えた。
カシュラルは、魔法陣という現象のことなど知らない。だが、その力を使おうとしているということだけは見当がつく。
(まさか!)
何を考えているのか。この場に大規模な魔法を撃ち込めば、エルフの兵士たちも巻き添えになってしまう。
咄嗟に、カシュラルは叫んでいた。考えるよりも先に、生存本能が身体を動かす。
「全員、伏せろ!」
怒鳴るなり、騎馬から飛び降りる。<鋼鉄の女神>が光の紋様を吹き散らし、今度は風を纏ったのを見て、また叫んだ。
「人間でもエルフでも構わん、全員、伏せろ! 来るぞ!」
あらん限りの大声で叫ぶ。
根拠などないが、確信だった。――あの力は、確実に自分たちに叩きつけられる。
帝国の兵士たちは、素直に総司令たるカシュラルの言葉に従う。だが、エルフの兵士たちは嘲るような視線を向けただけだった。
エルフにしてみれば、<鋼鉄の女神>は自分たちの切り札なのだ。それにどうして脅える必要があろうか。
「馬鹿か、貴様等!」
カシュラルは更に怒鳴る。
「無差別攻撃だ! 死にたくなかったらおとなしく伏せろ! 今から逃げても間に合わん!」
焦燥に顔を歪めて喚く。本能が、必死に警告を発している。
風が形を変えた。鋭く尖り……<鋼鉄の女神>に叩きつけられる。
(…………?)
吹き荒れる風に散らされる髪を押さえながら、カシュラルは怪訝な顔をした。が、次の瞬間に硬く目を閉じて地面に身を伏せた。髪を押さえて身体を小さく丸める。それしか出来なかった。
――来る!
<鋼鉄の女神>の身体が強烈な光を発する。風が突如としてその身を翻し、戦場に叩きつけられる。見えぬはずの風の刃が、はっきりと見えた気がした。
(――――!)
咄嗟に身を伏せたカシュラルの横を、不可視の何かが駆け抜ける。大地を、風が何度も叩いている。地響きすら感じられた。
ややあって、風の暴虐がおさまったのを感じ取り、カシュラルは恐る恐る身を起こす。様子を見るのが恐いなど、初めての感覚だった。
「…………!」
カシュラルは言葉を失い、呆然と立ち尽くした。
何なのかは分からない。だが、むしょうに嫌な予感がして、ダレットは咄嗟に身を伏せていた。
頭上で、風が吹き荒れているのが分かる。子供が雷に脅えるように、耳を塞いで身体を小さくしていた。この力の前には、人はただ脅えることしかできない。
「う……」
周囲が静かになっても、ダレットは起き上がれなかった。ようやく身を起こしたのは、どれくらいの時間が経った後だろう。実際にはそれほどの時間ではなかったのかもしれないが、風が吹き荒れている時間は、ダレットには永遠にも等しい長さに感じられた。
気怠さが襲ってくる。が、そんな感覚は次の瞬間に吹き飛んだ。
「…………!」
言葉も出ない。ただただ立ち尽くすしかない。それでも……目の前の光景から目を離すことが出来ない。
血と……死体の海。そうとしか言いようがなかった。
身体を分断された遺体が幾つも幾つも転がっている。そこから溢れ出る血が、大地を紅く染めている。
「うっ……」
充満する強烈な鉄の臭いと、生理的な嫌悪感に思わず口を押さえながらも、ダレットはよろよろと遺体を確認した。さっきまで自分の側にいたはずの人間の兵士が胴体から二等分されて転がっている。その顔は、あまりにも普段通りで……それがかえって異様だった。痛みを感じる間もなく両断されたのだろう。それがせめてもの幸運とは、お世辞にも言えなかったが。
エルフ、人間、横たわる遺体は両方あった。文字通り、無差別範囲の魔法だったらしい。自分が生き残れたのは、ただ幸運であっただけだと確信する。
それ以上遺体を見ていることが出来ず、ダレットは視線を逸らす。そこにもまた遺体はあったが……その他に、もう一つの痕跡があった。
大地に、一直線の筋が走っている。
(これは……)
ふと、思い出したものがあった。やはり、昔の修業時代だ。
師匠のヴァルレッドと実戦さながらの稽古をしていたときのことだ。ヴァルレッドが手加減したのか、単に運が良かったのか……ダレットは、ヴァルレッドの剣を上から撃ち落すことに成功した。後は一太刀で勝負が決まる。
取った、と昔のダレットは思った。が。
次の瞬間、自分の喉元に剣が付きつけられていた。自分が剣を引き戻し、ヴァルレッドに向けるよりも早く。
『なっ……』
唖然とするダレットの足元に、一筋の筋が走っていた。ヴァルレッドの剣の切っ先が、大地を滑った後だ。それは、まるで熱したナイフでバターを切ったかのように滑らかであったのを覚えている。
今、大地に走っている筋は、その時のものと酷似していた。
(つまり……何か刃みたいなものが、ここを通ったって事か?)
よく見れば……見たくはなかったのだが……転がる遺体は、その筋に沿っている。遺体の切り口も、大地を走る筋を延長してみればその通り道にあるようだ。
この状況から、魔法の効果を推理してみれば、こうなるだろう。とてつもない力と大きさをもった不可視の刃が、縦横無尽にこの戦場を駆け回ったのだ。その軌道上にいたものをことごとく切り刻み、或いは大地を抉りながら。
<風刃>の魔法は、ダレットも食らったことがある。だが、普通のエルフが使う<風刃>の威力は、直撃しても肌を切り裂く程度のものだ。この惨劇の正体が同じ魔法だとは連想出来なかった。
今は死者を悼んでいる暇はない。自分の身を護らなくてはならない。生き残ったのはダレットだけではないようで、立ちあがっている者も見えたが、皆同じように呆然とした顔をしている。
戦場に身を置いた以上、惨劇はある程度覚悟していたはずだが……この状況に耐えられる者は、そうはいまい。
今は、<鋼鉄の女神>は動きを止めている。銀色のその姿を、ダレットはぼんやりと見上げた。大地を染める血とはあまりにも異なる優美さに、違和感すら覚えながら。
「まさか。こんな……」
さしもの少年も言葉を失った。
戦いの舞台となっている場所から、やや離れた位置に少年はいる。相変わらず、探査の魔法を起動させて……<鋼鉄の女神>に備わっている探査の魔法と同種のものである……いたが、映し出された惨劇に顔を引きつらせる。
「あの男……何をやった?」
まず頭に浮かんだのはリュシウスの顔だった。一応、今は手を組んでいる形になるが、お互いに全ての札を見せているわけではない。少年が特に追及しなかったのは、本人から聞かなくても分かるから、という理由もあったが。
持てる全ての力を探査に回す。もはや殺戮劇の舞台となった戦場ではなく、<鋼鉄の女神>に意識を向けた。
ふと、流れ込んできた幻像があった。
紅い炎と血。暗闇。一人で膝を抱える小さな少女の姿……
「そういうことか……!」
少年は歯噛みした。今までただ傍観していたことを、心の底から後悔する。
一番避けなくてはならないことのはずだった。自分の存在理由の全てをかけて。自分が今まで在り続けた意味が、一瞬にして吹き飛んでしまったような感覚。
「くそっ!」
その端正な顔に似合わない舌打ちをする。虚空を見据え、更に深く意識を滑り込ませてみるが、少女の意識を掻き回すだけで、何の光も見えない。
何も見えない。これからどうすれば良いかなど。こんな事態になって、今更何が出来る?
「……畜生!」
顔に似合わぬ乱暴な台詞を吐き、少年は拳を握り締めた。
