66.敵
「う……」
カシュラルは小さくうめいて身じろぎした。
うっすらと目を開ける。ぼんやりと周囲を見回すと、自分が何処かの部屋の一室で寝ていることが分かる。が、見覚えはない。
身を起こすと、側にいた男と目が合った。
「あ。おはようございます」
リュシウスが間延びした口調で言ってくる。それをカシュラルはぎろりと睨み付けた。
「随分な歓迎だな。有り難くて反吐が出てくる」
「……申し訳ありません」
まだ嫌味を言うカシュラルに、リュシウスは再び謝罪で応じた。
「さっきのは、ただの軽い脳震盪だったみたいですから、特に悪影響はないでしょう。まだ気分が悪いですか?」
「最悪だ」
心配そうに言ってくるリュシウスに、カシュラルは憮然として応じた。先程の怖気が再びこみ上げてくるような気がして、思わず自分で自分の身体を抱く。裂かれた軍服の上から着せられていたものがリュシウスの上着だと気づき、険悪な顔をしてそれを放った。
「何処だ? ここは」
先程連れて行かれた牢は、こんなに明るい部屋ではなかったはずだが。
「私の部屋です。ご不満でしょうけど、他に場所もなかったもので。ここは結構狭いんですよ、貴女がいた王都と違って」
リュシウスは肩をすくめた。何かごそごそと作業をしている。
ややあって、白い湯気が立ち上り、かすかな芳香が部屋を満たす。リュシウスは手にしたカップをカシュラルに渡した。
反射的にそれを受け取って、カシュラルは眉をひそめた。カップを満たしているのは茶の一種らしいのだが、あまり慣れない匂いだ。
「……毒でも入っていると思いましたか?」
探るように、慎重に匂いを嗅いでいるカシュラルに、リュシウスはまた苦笑した。
「ただの薬草茶ですよ。少し慣れないかもしれませんけど、落ち着くにはこれが一番ですから」
言って笑うと、リュシウスはもう一つのカップにも同じ薬草茶を注ぎ、呑気に口をつけた。それを確認してから、カシュラルも渡された茶を飲んでみる。確かに、悪いものではない。
かすかに甘い味と芳香は、カシュラルに懐かしさと縁遠さを同時に感じさせた。
今はもう忘れてしまったもの。まったく思い出せない、故郷の風景……
黙って茶を飲んでいるカシュラルを見て、リュシウスは小さく笑った。
「お気に召しましたか? 何だったらまだありますけど」
リュシウスが愛想良く言ってくる。何だか情けなくなってきて、カシュラルはカップを置いた。何が悲しくて、敵の大将に茶を振る舞われなくてはならないのか。
「……要らん」
言って、カシュラルはため息をついた。
「少しはその恐い顔をどうにかして欲しいんですけどね……別に今すぐ殺そうというわけではないんですから」
「今すぐには、な」
リュシウスの言葉尻を捉え、カシュラルは嫌味に笑う。
「貴様には悪いが、私を捕らえておいたところで大して役に立つとは思えんぞ。交渉の駒にもならん。王都の連中が、私を取り返そうとするはずがないからな……さっさと死ねばいいとでも思っているのだろうさ」
自分の失態にほくそ笑み、それから帝国軍の敗北に慌てふためく王都の軍の上層部の連中の姿が、目に浮かぶようだ。カシュラルは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「まあ、未来は誰にも分かりませんから。それに、殺して失うものはあっても、得るものなど何もありませんしね」
「とりあえず、一人分の食料は増えるぞ」
空になったカップに視線を落とし、カシュラルは言った。リュシウスが苦笑する。
「とにかく」
会話を断ち切るようにカシュラルは言った。
「牢に戻る。処刑台からお呼びがかかるまではおとなしくしているさ」
突き放すように言ってのける。破れたままの服の襟を掴んで胸元を隠すと、カシュラルはベッドから飛び降りた。
扱いは悪くなかった。
牢は重苦しくはあったが掃除は行き届いていたし、きちんと食事も届けられる。世話をしに訪れる連中の態度も丁寧ではあった。
不満と言えばただ一つ……破かれた軍服の代わりに与えられた服が、女物のドレスであったと言う事だけだ。
「…………」
備え付けの小さな椅子に腰掛け、カシュラルは嘆息した。
アウィステリアに連行されてきてから五日。初日こそ暴行されかけたが、その後はそんな騒動もなかった。リュシウスの指示が徹底したせいだろう。兵士たちの態度からして、あの男が実質の司令官だと思って間違いないはずだった。
あの男は、恨みと策略を使い分ける程度の頭は持っている。戦場での戦いが戦いとも呼べないような結末になってしまった以上、この鎮圧戦は、敵の総司令を捕らえた反乱軍側の勝利と言えるだろう。後は、これに慌てふためく王都の反応次第だ。
リュシウスの人の良さそうな……しかし食えない笑みを思い出し、カシュラルはまた息を吐く。捕虜となった時点で、自分は意見する権利の一切を失っているのだ。他人が自分の進退を決めるのを、黙って待っているしかない。
腹立たしいが、それが現実である。
実際、牢の外がどうなっているのか知る術はないのだ。一緒に捕らえられてしまったダレットの消息すら不明である。おそらく、自分と似たような立場だとは思うのだが。
捕虜となってむしろ問題なのは、ダレット・コルフォースの方だろう。国王の従弟、宰相と王女の次男。そんな人物があっさりと敵の手に落ちるなど、屈辱以外の何者でもない。交渉の駒として有力なのは彼だけで、総司令とは言え、上層部といつもいがみ合っていたカシュラルに、王都が今更こだわるわけがなかった。
(また……見捨てられた、か)
これで再び逆戻りだ。何の役にも立たない、誰も見向きもしない用済みの駒に。軍服も刀も奪われてしまった今、他に彼女に出来ることはない。
ぼんやりと自分の両手を見つめてみる。
カシュラルの身体は細く、しかし胸や腰は豊かだ。すらりとした長身に長い手足。おおよそ女性が憧れるであろう要素を全て持ち合わせていたが……手だけはそうはいかない。
幼少の頃からずっと刀を握っていた手は、ごつごつと角張っている。剣だこは完全に手のひらに馴染んでいた。肌の白さだけは、他の部分と変わらなかったが。
「…………」
王都で見た、貴族の奥方や姫君たちを思い出す。男と同じ格好をしてそこらを走り回っている彼女に、軽蔑の視線を向けてきた女性たち。その当時は、カシュラルも彼女たちに憐憫の情を覚えるだけだったが……今だけは、あの女性たちの小さくて柔らかな手がうらやましく思えた。
自分の着ているドレスを見下ろす。白を基調とした、簡素な意匠のものだ。このドレスと角張った手があまりにも似合わなくて、一人、自虐めいた笑みを浮かべる。
「結局……何にもなれない半端者ではないか、私は」
兵士として武器を振るうこともままならず、今更普通の女に戻れるわけもない。出来損ないの、不格好な人形。カシュラルに、今の自分はそう見えた。
何として自分は死んでいくのだろう。無様な女の出来損ないか、屈辱の司令官か。自分の死骸を見下ろして、人々はどちらだと思うのだろうか。
「…………」
両手で顔を覆う。涙が出てくるわけではなかったが。泣いた記憶など、彼女にはない。生まれたての頃は、彼女も普通に泣いたのだろうが……もう、泣き方など忘れてしまった。
泣き方だけではない。自分には……本当に、何もない。
「はあ……」
泣き笑いのような表情で、ため息をついた。
と、その時。
「あの……」
おずおずとした声が聞こえた。若い女性の声だ。
扉の鉄格子越しに、エルフの若い女性が顔を覗かせていた。年頃は、カシュラルとそう変わらないだろう。何か手にしているようだ。
「食事をお持ちしましたが……」
「ああ、そこに置いておけ。適当に食べる」
おどおどとした女性に、カシュラルは必要以上に無愛想に答えた。
この女性は、自分の身の回りの世話をするように命じられているようで、一日に数回ほど顔を出す。敵の総司令だとか言う女に、あからさまに脅えた様子を見せていた。愛想を振りまく義理もないので、カシュラルの方も適当に答えるだけだ。
届けられた食事を適当に食べる。普段、軍の宿舎で食べていたものよりも上等であるところが、何とも皮肉だった。食べられるときに食べておく……いつ動くことになるか分からないからだ……のも武人の習慣の一つであるので、残すよう真似はしない。
(…………)
ここまで考えてから苦笑する。今の自分が、いつ動くようなことになるというのか。
「……動く、か」
ふと、ぽつりと呟いた。手にしていたものに視線を落とす。
何の変哲もない、鉄のスプーンだ。この場にナイフはない。カシュラルの力を知っている者ならば、たとえペンの一本でも渡したくないに違いない。
だが……
「…………」
カシュラルは冷たく笑い、スプーンを握り締めた。
足音が、カシュラルの牢の前で止まった。
「出ろ」
無愛想な声が命じる。カシュラルは素直にエルフの兵士の言葉に従った。やって来た三人の顔を見渡してみたところ、数日前に自分を犯そうとした男はいない。当たり前と言えば当たり前ではあったが。
「手枷。はめなくて良いのか?」
両手を前に出して見せ、また尊大な口調で言ってやる。が、今回の兵士たちはそれを無視し、カシュラルを先導して歩き出した。
(……随分と影響力の大きい男らしいな)
たちまちのうちに、ここまで軍規を徹底させられるとは。リュシウスに密かに感心する。
(さて、とうとう処刑場かな……)
そろそろ、自分の利用価値のなさに気付いても良い頃だった。置いておく価値のない人間をそのままにしておくほど、無駄なこともない。情けをかけられるような要素もないはずだった。
別にカシュラルとて、さっさと死にたいわけでもない。だが、ここまで来れば覚悟は出来ていた。死ぬような思いをしたこともあるし……今更、自分が生きる理由があるわけでもない。死ぬなら死ぬで構わないだろう。
だが、どうやら行き先は処刑場ではないようだった。歩きながら周囲の様子を窺うが、建物の中をずっと進んでいる。カシュラルが放り込まれている牢のような暗さはなく、明るさと生活感のある区画だ。
(…………?)
彼女が首を傾げ始めた頃、先導の兵士は足を止めた。
「連れてきました」
兵士はカシュラルにではなく、目の前の扉に向かって言う。
「ご苦労様です」
扉の中から声が聞こえる。ようやくカシュラルは思い出した。あの、リュシウスの私室だ。となれば、自分に用があるのもあの男か。
兵士たちはカシュラルを残して立ち去ってしまう。後には、前回と同じようにリュシウスとカシュラルが二人で残った。
「何の用だ? 今更……それに、随分とまた無用心なことだな」
捕らえたとは言え、敵の総司令をわざわざ自分の私室に呼ぶなど、まず有り得ないことだ。カシュラルはリュシウスの考えを見抜くべく、腕組みをし、わざと尊大な口調で言ってみる。だが、リュシウスは穏やかな表情を変えない。この柔らかい笑みが仮面なのか、彼の地なのか、カシュラルにも判断がつきかねた。
「少々、お話したいことがあったものですから」
リュシウスはのんびりと言うと、椅子に座るように勧める。その態度は、友人に対するかのような気安さだ。
かたかたとティーカップを取り出しているリュシウスを見て、カシュラルは呆れたように顔をしかめた。
「……またか」
「趣味ですから」
リュシウスはきっぱりはっきり言うと、カシュラルにカップを差し出した。
「……茶を飲む相手が欲しいなら、他を当たれ」
カシュラルはぼそりと呟きながらカップを受け取る。どうにも、この男と話していると毒気を抜かれてしまう。気が付けば相手の流れに乗せられているのが腹立たしい。
「……それで、用は何なんだ? 茶を飲ませるだけに呼んだ訳でもないだろうに」
カシュラルは意識して険悪な口調で言う。
「それはさっきも言った通り、お話したいことがあったからですよ」
リュシウスはにっこりと言うと、カシュラルに向き合う形で自分も椅子に座った。
