67.たった一つの真実
カシュラルは向かいに座るリュシウスを半眼で睨み付けた。
「私に話などしても何の意味もないぞ。要求があれば王都に伝令を飛ばせ」
にべもなく言う。話すことなど何もないと言わんばかりに、カップに口を付けた。優雅な仕草でカップを手にする彼女に、リュシウスが目を細める。
「もう少しその厳しい顔をどうにかして欲しいんですが……ご不満があれば、出来る範囲で対処しますけど?」
「捕虜になって満足する者が何処にいるか」
のんびりと問いかけてくるリュシウスに、カシュラルは身も蓋もなく言う。
「まあ、それもそうなんですけど」
リュシウスも困った顔をする。
「不満と言うならば全部だが、強いて言うならこの服だ。動きにくくて仕方がない」
カシュラルは、言って自分のドレスを見下ろした。
「そうですか? お似合いですけど」
リュシウスが首を傾げる。とは言うものの、この美女ならば何を着せても映えるだろうが。たとえ泥のついた古着を着せたところで、その落差がかえって人目を引くような美貌だ。
「それで、私はあと何日生きられるんだ? 今すぐ殺すのも放っておくのも変わらないなら、さっさと殺しておいた方が賢明だと思うが?」
淡々と言う。別に死にたいわけではないにしろ、このまま蛇の生殺しのように生かされておくのも嫌だった。いや――無様な自分を、これ以上見ていたくなかったのかもしれない。
「我々はそれほど野蛮ではない……建前上はね」
そこで、リュシウスは初めてにこやかな……しかし固定された笑みに変化をつけた。かすかに皮肉の色が混じる。
「貴女を失うのは、帝国としても得策ではないはずですよ。貴女は帝国の<戦女神>だ。その貴女を失えば……見捨てるような決断をすれば、一般兵たちからの反発は免れないはずです」
それは確かだった。決して帝国にとって致命的ではないにしろ、運営に支障をきたすのもまた事実だ。
「だと良いがな」
カシュラルは他人ごとのように呟く。実際、自分の運命を決定するのは自分ではないのだ。
「それに、捕虜はもう一人います。……ダレット・コルフォース、でしたか」
リュシウスの貌に、初めて策士としての色が浮かんだようだった。
「国王の従弟、宰相の息子、官僚の弟、王宮騎士団団員。……仰々しい肩書きですね」
リュシウスは言って肩をすくめる。カシュラルは、ダレットが騒動の挙げ句に家出同然で王都を飛び出したことは黙っておいてやることにした。ダレットには悪いが、彼には『王都の重要人物』でいてもらった方が何かと都合が良さそうだ。
本人はそんなものとはまったく対照的な性格をしていると知っているだけに、内心は複雑なものがあったが。気付かれないように嘆息する。
「まさか、あの場にいるとは思いませんでしたけど」
思い出したようにリュシウスが言った。
確かに、ダレットは最初から鎮圧戦に参加していた人間ではない。ダレットがこの戦に関わったのは、たった一人の少女がいたからだ。
この戦いでのリュシウスの二つの誤算が、戦場でのキルファの暴走とダレットの登場だった。ダレットがキルファを知っていることは様子を見ていればすぐに分かったが、キルファからはダレット・コルフォースなる人物についてはまったく話を聞いていない。
どういう経緯があったら、帝国騎士とハーフの少女が出会うのか。さしものリュシウスもこれには首を傾げていた。どうして、と言われたら本人たちすらよく分かってはいないだろうが。
二人とも、それぞれの考えに没頭して黙り込んだ。ややあって、リュシウスが顔を上げる。立ち上がると、ティーポットを手に取った。
「もう一杯飲みますか?」
相変わらずのにこやかな笑いで、空になったカシュラルのカップを手に取ろうとする。
二人の距離が、手を伸ばせば届くほどに近づいた。
カシュラルの表情がわずかに変わる。
(今だ!)
先程から、ずっと狙っていた機会。それが、目の前にある!
カシュラルは右手を一閃する。その指先が、リュシウスの首筋をかすめるように疾る。
カシュラルの手に、銀色に光るものが握られていた。首筋の頸動脈を切れば、人など一瞬にして殺せる。このため、近づくのをずっと狙っていたのだ。
リュシウスに、避ける術はないはずだった。カシュラルは勝利を確信する。
が。
銀光は、リュシウスの首をかすめただけだった。彼が咄嗟に身体を反らして避けたのである。
だが、リュシウスもその目を驚愕に見開いている。意識が危機を認識する前の、本能だけの行動だったらしい。
(外した!)
思った瞬間、手首を取られ、カシュラルは床に叩きつけられる。彼女が跳ね起きるより前に、リュシウスが彼女の身体をのしかかるようにして押さえつけた。
ちん、と小さな金属音が聞こえる。部屋の隅に、銀色の細いものが転がった。
単なる鉄製のスプーンだ。ただし、柄の部分が剃刀のように研ぎ澄まされている。
「これはまた……」
油断なくカシュラルを押さえつけたまま、リュシウスが呆れたように言った。カシュラルが、食事の際に渡されたスプーンの一つをかすめ取り、石壁を利用して柄を研ぎだしておいたのだ。それをドレスの裾に隠すようにして持ち込み、殺す機会を狙っていたのである。
「まったく、油断も隙もありませんね」
自分の下に組み敷いたカシュラルを見下ろし、リュシウスがため息をつく。カシュラルは唇を噛んだ。
どうせ死ぬなら、せめて司令官としてこの男一人でも道連れにしてやろうと思ったのだが……それすらも失敗に終わったようだった。
もう、次はない。確実に殺される。恐怖に脅えてしかるべきだったが――不思議と、心が澄んでいくのが分かる。絶望というのは、思いの外に甘いものだ。
「私を生かしておく限り、こうやってまた貴様を狙うぞ? さっさと殺しておいた方が賢明だと思うがな?」
リュシウスを凄惨な笑みで見上げ、カシュラルは言って寄越す。それを驚きと苦笑が混じった顔で見下ろし、リュシウスはふっと表情を変えた。
泣き笑いのような表情。狂おしいほどの歓喜と、どうしようもない悲哀が同居している。
「それは……」
ぐっと、カシュラルの手首を掴む手に力がこもる。今までの淡々とした穏やかさとは一転、ひどく子供じみた顔でカシュラルを見下ろしていた。
泣き出す寸前の子供のような。
(…………?)
怒り狂うならばともかく、この突然の変化の理由が分からない。カシュラルは怪訝な顔をして自分を組み敷く男を見上げる。
「……そう出来たなら、どれほど楽か知れませんけどね」
ぽつりとリュシウスは呟く。痛いほどにカシュラルの手首を掴んでいたが、ややあって、ゆっくりとそれを離した。カシュラルからのろのろとした動作で離れる。
「何だと言うんだ……」
訳が分からない。身体を起こしながら、カシュラルは呟く。が、次の瞬間にその顔が驚愕に固まった。
「…………!」
リュシウスが手を伸ばす。カシュラルの身体に腕を回すと、引き寄せた。きつくきつく彼女を抱き締める。
体温、息遣い、そんなものがはっきりと伝わってくる。思わず抵抗することも忘れ、カシュラルは目を見開いて硬直した。動けない。
(何の……)
何のつもりだ。そう言おうとするのだが、言葉が出てこない。突き飛ばして思い切り罵倒してやりたいのに、身体が動かない。ただなされるがままになって、立ち尽くすだけだ。
(何をやっている?)
その呟きは、リュシウスにも自分自身にも向けられたものだった。
一番の敵が目の前にいる。さっさと跳ね飛ばして、首の骨でもへし折ってやればいい。それがお前の役目だ。それなのに。
どうして……何もしない?
(答えろ……カシュラル・レストラード!)
どくんどくんと、心臓が早鐘のように高鳴っている。顔が紅潮していることにようやく気付いた。リュシウスの腕の中で、喘ぐように息を漏らす。
以前に乱暴されかけたときは、焦りこそしたが、動揺などまるでなかったのに。たかだか男一人に触れられたからと言って、どうしてこんなに息苦しいのだろうか。
「なに……」
言葉にならない言葉が口から漏れる。大きな手が頬を包み込んだ。
「…………!」
唇に何かが触れる。柔らかく、温かい感触。唇を重ねられているのだと気付くのに、若干の間を要した。
反射的に身体をよじる。が、予想外のリュシウスの力の強さに抵抗出来ない。頭から何もかもが吹き飛んで、目の前の男の存在だけが意識の空白を埋め尽くしていく。
彼女は誰かに触れられるのが基本的に苦手だ。自分に向けられる手は、殴りつけ、地面に叩きつけようとするものばかりだったからである。
だが、これは違う……何とはなしにそう思う。優しさでもって向けられる手は温かいのだと、痛いほどの愛しさで重ねられる唇の感触は甘いのだと、初めて知る。
そっと唇が離れる。もはや己の足で立つことも忘れ去り、カシュラルはかくんと床に膝をついた。喘ぐような呼吸が漏れるばかりで、耳に届くのは自分の心臓の鼓動の音だけである。
(何、何を――何を……)
ぺたんと床に座り込みながら、カシュラルはひたすらそれだけを繰り返していた。
リュシウスの方も、自分の行動に愕然としている。カシュラルを離したままの体勢で動きを止め、立ち尽くしていた。
「あ……? 私は……」
呟き、ぱっと前に伸ばしていた手を引っ込める。顔を真っ赤にして口走った。
「ええと、何かやらしいことをしようとかそういうことではなくて、ああでもいきなりあんなことをしたし、最初からそうするつもりじゃなかったんですけど、ってそうではなくて、ええと――」
ひたすら訳の分からないことを呟いている。狼狽しておろおろとしているリュシウスは、いつもよりもずっと幼く見えた。カシュラルもようやく落ち着きを取り戻し、その様子を見てかすかに苦笑した。
「申し訳ありません、そうするつもりなんかなかったんですけど、ってこれはさっきと同じことだし……」
がりがりと頭を掻きつつリュシウスは喚く。その様子に、平静を崩さない策士という面はまったく見えない。
この男にも、こんな面があるのだ。カシュラルは目を見開きたい気分だった。
しかし。
「……お前は……」
カシュラルは呟く。自分で自分の身体を抱くようにした。
リュシウスは泣き笑いのような顔をする。以前にも一度、見た表情だった。
「ははっ……当分秘密にしておくつもりだったんですけどね……」
いたずらのばれた子供のような顔でリュシウスは言い、肩をすくめて照れ臭そうに笑った。
この男は何がやりたいのだろうか。何を思って自分に手を伸ばしたのだろうか。カシュラルの中に、いくつも疑問が浮かんでぐるぐると回る。
普通の女なら、何の苦労もなしに分かることなのかもしれない。だが彼女には、何か掴みかけてはいるのだが、ぼんやりとして輪郭が見えない。ただ、今までの自分とはあまりにも異質な世界であることだけが分かる。
ふと、以前にこの男に饗された薬草茶の匂いを思い出す。懐かしく、同時に縁遠い、甘い香りだった。
思わず、何もかも忘れて身を委ねてしまいそうになる甘美さ。そこまで考えて、カシュラルははっと我に返った。
「…………っ!」
まだ動悸が収まっていなかったが、跳ねるようにして起き上がる。が、そのままよろめき、側の壁に背中を預けてようやく立ち上がった。
ぎりっとリュシウスを睨み付ける。正気の一歩手前で辛うじて立ち止まる、切羽詰まった視線だ。
己の一切を崩されていくような恐怖感。刀を握って生きてきた過去、それまでに形成された全てが、あの甘さに溶かされていくような気がする。誰にも頼るな。周囲の者は全て敵だ――過去の囁く声が、辛うじて彼女の理性を保たせる。
あってはならないのだ。目の前にある温床に身を委ねるなど。
そんなことがあっては……
「何の……つもりだ?」
ようやく、カシュラルの口から言葉が漏れる。精一杯に怒鳴ったつもりだったが、かすれた呟きにしかならなかった。
目の前の男は、まず抹殺すべき敵だ。何回も自分に言い聞かせる。この策士が、何の思惑もなしにこんな行動を取るわけがない。この甘さは罠だ。きっと何らかの方法で自分を籠絡して、そして……
(…………!)
そこで気付く。
自分に何の利用価値もない。そう言ったのは、他ならぬ自分ではないか。その自分を、今更懐柔してどうなる?
(どうして……)
まだ動悸が収まらない。息苦しさを覚えて、カシュラルは自分の胸に手を当てた。心臓が体内で暴れ馬のように高鳴っている。
カシュラルを、リュシウスは黙って見つめている。狂おしいほどの歓喜、悲哀、空虚……そんな諸々が入り混じった表情だ。
恐る恐る、カシュラルはリュシウスの顔を覗き込む。リュシウスの瞳から目をそらせず、そのまま黙って見つめ合った。
「……一つだけ」
しばらく見つめ合った後、リュシウスがぽつりと呟いた。泣き笑いのような表情で、続ける。
「勝利でも自由でも何でもなくて……欲しいものがあったんです。たった一つだけ」
リュシウスは言い、何処か吹っ切れたように笑った。
(……まさか)
また、カシュラルの身体から力が抜ける。壁に身体を押しつけながらも、翡翠色の瞳から視線を動かせない。
リュシウスは、真っ直ぐにカシュラルを見つめてくる。
口の中が乾く。粘つく、嫌な感触を味わいつつ、それでも言葉は滑り出た。
「――私、か……?」
カシュラルの呟きに、リュシウスは黙って笑って見せた。
