69.過去の呪縛
ハンザの村での事件の後、リュシウスは村を出た。村人の大半が死亡した以上、もう生活共同体としては成立しなかったからだ。何より、それ以上悪夢の起こった地に留まりたくなかった。
しばらくは、あちこちを転々としていた。各地を旅するうちに、彼は未だ根強く続くエルフの抵抗運動に巻き込まれることとなる。
ハンザは王都に近いため、その圧迫も厳しかった。だから抵抗など考えられなかった。が、辺境などでは、まだまだエルフも力を持っており、人間と争いを続けていたのだ。
圧迫されているとは言っても、ハンザは平穏だった。屈辱の平和か誇りの争いか。どちらが良いのか、そんなことを考える余地もなかった。
最初は、医者の真似事が出来ることを見込まれてのことだった。だが、長く留まるうちに運動の中枢に入り込んでおり、自衛のために覚えた剣は見る見る上達し、何よりも、策士として彼は天才的な才能を発揮した。
「皮肉なものです。人を救うために医術を学んでいたはずが、人殺しに関することばかり上達したのですから。未だに、医者としては三流ですよ……キルファは器用でしたけどね」
言って、リュシウスは肩をすくめた。
何のために戦っているのか。ハンザから遠く離れた地で、ずっと疑問に思っていた。
その頃だろうか。
一度見たきりのあの笑みが、忘れられないことに気付いたのは。あの風変わりな女性の姿が、脳裏に焼き付いていることが。
おそらく――自分は彼女を愛しているのだと。
どんな手を使ってでも彼女を手に入れたい、と思うようになったのは。
そして。彼は出会った。
古い古い記憶に。伝承の真実に。……戦いの意味に。
「……それが、あの<鋼鉄の女神>か?」
「そうです。まあ、正確に言うならば、あれのことを知っている同種の存在、と言ったところですが」
持って回った言い回しに、カシュラルが顔をしかめる。だが、リュシウスもそれ以上説明する気はなさそうだ。
頭角を発揮しつつあった自分に、あの少年は自ら近づいてきた。彼の口から、リュシウスは真実を聞き……少年の案に乗った。
大義名分はあったかもしれない。この世界の真相に関わった誇りはあったかもしれない。
それでも……
リュシウスが少年と手を組んだのは、自分の中のたった一つの真実を手に入れるためだ。
「……どうしてそれが、あの反乱になる?」
不機嫌そうな顔でカシュラルが訊いた。元々が特殊部隊の出身の彼女は、確かに壊し潰しが専門だが……別段、好きでやっているわけではない。武力に訴えなければならないこと自体が、一つの敗北なのだ。
「結果として、貴女は私の元に来たでしょう?」
リュシウスは苦笑する。
「まあ、貴女が鎮圧に出てくるとまでは期待していませんでしたが。それでも、少しでも近づく機会ができるかもしれないと思えば、躊躇いはしませんでしたよ。
どうにかして帝国の……王都の中にまで入れれば、と思いました。おそらくそこにいるだろうと思っていましたから。私には、たまに貴女の風評を聞くしか術はありませんでしたが……」
帝国の<戦女神>と言えば、それなりに名の知られた存在だ。帝国の軍と日夜戦っているエルフたちは、恐怖の対象としてその名を囁いていた。その中にありながら彼女に思慕の情を抱いているというのは、あまりに皮肉な矛盾ではあったが。
「そこまでいかなくとも、少しでも貴女に近づきたかった。側にいてくれなくても、せめて同じ場所に立てるくらいにはなりたかった。流れる血という溝を吹き飛ばして、たった一言だけ、胸を張って言えるようになりたかった」
流れる血という束縛、その溝はあまりにも深い。軋轢は簡単にはなくならない。世界が変わるには、長い時間が必要かも知れない。自分の生きているうちは無理かも知れないけれど。
いつかは――同じ想いに苦しむ者がいなくなるように。
それが、他のエルフたちとリュシウスの決定的な差だった。人間という種族の殲滅を望む他者に対し、リュシウスが望んだのはあくまで共存だ。たった一人、溝の向こうにいる女性に手が届けばそれで良かった。
己の欲望のために世界さえも変えようと思った。そう言われれば、何も言い返せないが。戦を引き起こし、傷ついた少女すら利用したのだから。
「ねえ、カシュラル……」
リュシウスが言い、ふと表情を変えた。
「この世界をどう思います? 人間とエルフという似たもの同士が、お互いを必死で削り合うこの世界を」
「似たもの同士……だと?」
人間とエルフの差。長い耳に、魔法という胡散臭い奇跡。実は大きいことではないのかも知れないが……小さくもない。
「実際はこんなもの、髪の色ほどにも違いませんよ。よく似ているから、あの子……キルファのような混血児も生まれ得る。瞳の色こそ変わってしまいますけど、それ以外は何の変哲もない、普通の子供ですよ、あの子は。
それなのに。……何処かおかしいと思いませんか?」
「…………?」
目の前の男が何を言わんとしているのか。カシュラルは怪訝な顔をする。
「もし、それが――全て、何者かの思惑通りだったら。貴女はどうします?」
リュシウスの言葉に、カシュラルは返す言葉を持たなかった。
まさか。そんなことが……
そう思うのだが、ふとあの<鋼鉄の女神>の姿を思いだす。強烈無比な殺戮兵器。もし、あれだけの力があれば……
「どういう……こと、だ?」
かすれた声でカシュラルは訊いた。
リュシウスは哀しげに笑い、古い古い伝承を語り出す。もはや誰も知らないはずの、真実を。
進むにつれ、カシュラルの顔色が変わった。
「……まったく、至れり尽くせりの扱いだな。有り難くて涙が出てくる」
カシュラルは大仰にため息をついた。聞こえよがしに呟きつつ、着ているドレスに手をかけた。軽い衣擦れの音と共に、白いドレスは足下に落ちる。
「それはどうも……、と。お願いだからそのドレス、もう少し丁寧に扱ってよね」
「衣服の扱いなぞ私は知らん」
隣に佇んでいる、赤毛のエルフの女……ブランシュが、愚痴を言いつつドレスを拾い上げる。乱暴に下着も脱ぎ捨てると、すたすたと歩き出した。
そして、側にあった小さな泉に身体を沈める。それを、ブランシュは険しい顔つきで眺めていた。
アウィステリアに連れてこられて一週間と少し。何せ二人しかいない捕虜である上、地位が地位であるから、リュシウスの個人的な配慮もあるのだろうが、扱いは極めて良かった。たまには牢から出されて水浴びなどもさせてもらえる。ブランシュは、その見張りだ。
カシュラルは最初に「良いのか? その隙に逃げ出すぞ」などと言ったものだが、「服なしで逃げ出したかったらどうぞ」と返され、黙って従った。服はブランシュがしっかりと抱えている。
実際、牢に放り込まれていてもやることがない。身体がなまるのを恐れて、目を盗んで運動などもしてみるが、狭い部屋で出来ることなど限度がある。本もたちまちのうちに読み尽くしていた。暇つぶしと言う点では、有り難い配慮である。
水の中に身体を沈めると、長い黒髪がゆらゆらと動く。そのままぼうっと青空を見上げた。以前、少し深い場所を見つけて潜ってみたところ、逃げるとでも思ったのか、ブランシュが慌てて魔法の火球を水の中に放り込んだため、それ以来やっていない。
色々なことが頭の中をよぎる。
王都のこと、軍のこと、ダレットのこと。そして……リュシウスの話。
自分が女だという自覚はある。だが、そのことを鬱陶しく思ったことはあっても、誇りに思ったことはない。彼女にとっては、それは男との先天的な身体能力の違いを見せつけられているに過ぎなかった。
だから分からない。一人の男にそこまで想われたとして、一体どうなるのか。彼が何を望んでいるのかも見えないし、ましてや自分がどうすれば良いのかなど。
自分には縁のない世界だったのだ。本当に。
リュシウスをはじめとして、他の者たちには皆、それぞれ望むものがある。理想であれ、一人の女であれ。
だが……
(私が望むもの……一体何だ?)
まったく分からない。
<楔>にいた頃は、ひたすら強さだけを求めた。潰し合いの中で、そうでなければ生き残れなかったからだ。その後正規軍に志願して、将軍補佐にまで上りつめた。だがこれも、昇進しなかったからどうなると言われれば、大して問題はない気がする。
用済みの駒のままで朽ち果てるのが恐くて、正規軍に異動した。だが、そこで何を望んだのだろう。ただ、上から与えられる任務に忠実であっただけだ。
それはつまり、<楔>から離れようと、ずっと駒のままだったのではないか? 変わりたいから逃れたのに、結局何も変わっていないのではないか?
鎮圧戦の前に感じたあの恐怖が、また蘇る。どうしようもない空虚感、己が何も持たない恐怖。
「むう……」
冷たい水の中で、カシュラルは腕を組んで考え込んだ。
考えてみれば、こんな風に自分についてあれこれ考えることなどなかった。ひたすら、目の前の任務に明け暮れていたからだ。それを奪われることで、己に関して考える機会を得たのだから、皮肉な話ではあった。
「……何やってるの?」
ブランシュが呆れ返った顔で訊いてきた。何とはなしに腹が立って、そのままざばりと水から上がる。布を受け取ると、乱暴に身体の水気を拭った。
「……枝毛が増えるわよ」
「別にどうでも良い」
適当に髪を拭いていると、ブランシュが心なしか棘のある口調で言った。が、別段身なりを気にするようなカシュラルでもない。
(綺麗よね……やっぱり)
目の前のカシュラルを、ブランシュは半ば呆れた思いで眺める。
均整の取れた肢体に、滑らかな白い肌。どんな名のある画家でも決して描き出せはしないだろう、そう思わせるほどに美しい。
しかし。
白い画布に乱暴に筆を走らせたかのように、肌のあちこちに赤い筋が走っている。どう見てもそれは傷跡……刀剣か何かで斬られた痕だ。
帝国の<戦女神>。ブランシュはその二つ名を唐突に思い出す。
カシュラルはブランシュに背中を向けて衣服を着けようとする。次の瞬間、ブランシュの顔が引きつった。
「そ……それ……」
心なしか震える声でブランシュは訊いた。
それも、おそらくは刃物傷だろう。だが、その大きさが尋常ではない。背中をばっさりと剣で切り下ろされたらこうなるだろうか。古傷のようだが、今だに引きつったその痕は痛々しい。
「ん? ……ああ、これか」
顔だけ振り向き、カシュラルは言った。
「昔の傷だ。……伊達や酔狂で、私が今の立場にあるとでも思ったか?」
言って、嫌味に笑ってみせる。そのまま、黙って服を手早く着込んだ。
ブランシュがこの傷に気付けば尋ねてくるであろうことは予測していたが、だからと言って気持ちのいいものでもない。
(…………)
カシュラルは顔をしかめた。脳裏に、思い出したくもない記憶が蘇る。
私兵部隊<楔>の最後。無能な上官のせいで、カシュラルや仲間たちは圧倒的な数の敵を相手にしなければならなくなっていた。情報が漏れたのだろう、分断された挙げ句に待ち伏せをされたのだ。
<楔>の兵士たちは十代前半の子供ながら、誰もが常人離れした戦闘能力を誇っていた。が、それも生かされる場がなければ意味がない。押しつぶされるように、一人、また一人と消えていった。
何をどう戦ったのか、カシュラルはよく覚えていない。無我夢中で刀を振り回した記憶があるだけだ。
そして。
一人対多数の戦いで、敵に背後に回り込まれ……背中から斬りつけられたのだ。十三歳の少女は為す術もなく床に倒れ、そのまま意識を失った。
皮肉なことに、カシュラルが重傷を負った直後、上官は降伏した。そのお陰でカシュラルは手当を受け、一命を取り留めた。
死んだ方が良かったとも思わない。だが、この傷は忘れようもない敗北の証だ。
その後、彼女は髪を伸ばすようになった。長く伸ばした髪で、鏡に映る自分から傷を覆い隠した。傷が消えるわけでないことは分かっていたが。
その美しさと強さを周囲が讃えるたび、彼女には違和感がつきまとった。自分が万能でも何でもないこと、ましてや<女神>などではない何よりの証拠が、この傷跡なのである。だが、周囲に全てをさらけ出すほどの勇気は持てなかった。今となっては、全ては無駄な努力となってしまったわけだが。
「…………」
黙って自分の着ている服を……女物の衣装を眺める。
もう、刀も軍服もない。今まで持っていたものは、全て失った。だが、それでも……
「…………」
そっと自分の肌に触れてみる。死人のように冷たいのではないかという思いがあったが、水に浸かって冷やされた肌の奥に、ちゃんとした温もりがあった。自分でも馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、ほうっと安堵のため息をつく。
他の何を失っても、この温もりだけは残っている。今生きているという事実だけは、変わらず自分の内にある。たった一人の女として存在している。
それだけは確かだ、と言って良いのだろうか。
「――――」
カシュラルはふっと笑った。誇り高い……今までのどれよりも美しい笑みだ。
胸に手を当ててみる。かすかに感じられる心臓の鼓動が心地よかった。
「さて。戻るか」
そのまますたすたと歩き出す。それを、ブランシュが慌てて追った。
