暁の大地

70.白紙の未来

 刃がきらめく。
 真っ直ぐに自分に向かって放たれた長剣は、違わずに心臓を貫いた。
 痛みはない。ただ、冷たいものが身体に食い込む感覚だけが、はっきりと感じられる。
 次の瞬間、意識が暗転した。足元が消え失せ、暗闇の中に落ち込んでいく。
 最後に見えたものは……何よりも焦がれたものだった。
 以前は取った手が、今度は届かない。かつて差し伸べられた手は、何の迷いもなしに自分に剣を向けた。その剣が、自分を貫いた。
 それでも仕方ないとは思う。自分に他人を恨む資格などない。他人に殺される理由が自分にはある。自分に刃を向けたのが、他でもない彼だっただけ……それだけで十分だ。
 満足はない。心残りもない。ただ……あるべきものが、あるべき場所に戻っただけ。
 それでも、と最期に尋ねる。
 ねえ、ダレット。
 あたしは――どうすれば良かったの?
 呟きはそれが最後。目を閉じ、少女は意識を手放した。

 目の前に横たわる少女を前に、少年は顔を手で覆った。その姿から窺えるのは、どうしようもない悔恨。
 鋭いが、確かな意志の輝きを持った瞳の少女だった。だが……今の少女の瞳は、何も映さない。何も示さない。硝子玉のように、周囲の風景を映し込むだけ。
 これでは、人形と同じだった。
「キルファ・インシード……」
 少年は呟く。少女の名前だ。
「済まない……」
 それは、誰に向けられたものだったのか。言葉を理解し得ない少女か、少年に運命を与えた存在か。
 最悪の可能性を回避するための仕掛けが、少年たちであるはずだった。だが、少年の起こした行動は、最悪の結果をもたらした。大勢の人間とエルフが死に、切り札となるべき少女は己を見失った。自分が『生きている』と言う事すら、理解してはいまい。
 誰も責めることは出来ない。この事件に関わった人々、それぞれが望む結末に向かって動き……結果として起こった事態だ。噛み合わなかった善意が、一人の少女の上で収束した。
「僕は、どうすれば良い……?」
 この少女には、笑っていて欲しいと思う。それこそが、自分が存在する理由だから。だが、方法が思いつかない。この少女が望むもの。一体、何なのだ?
 垣間見た少女の記憶。炎と血の紅に彩られた世界から、未だに抜け出せていなかった。
 どんな世界を生きてきたのだろう。この少女を紅い世界に追い込んでしまったものもまた、自分たちであるかも知れなかったから……少年は、少女に謝罪の言葉を述べる資格はなかった。
 記憶を辿る。必死で、残された情報を探る。ふと、一点に意識が止まった。
 冷たい世界の中の、ほんのわずかな温かい記憶。少女に差し伸べられる大きな手。戸惑いながら取った手からは、ただ、優しさと温もりが伝わってきた。
 たった一つの、少女の居場所。
 ――一緒にいても、いいの?
 少女の問いを、肯定してくれた人間。
 だが、現実は残酷だ。少女をこの世界から切り離したのは、少女が居場所と望んだ人間だった。疾《はし》る剣のきらめきが、はっきりと映像として残っている。
「どうすれば……」
 無限の袋小路に落ち込む思考。少年は金色の髪を掻き、ひたすら頭を抱える。その動作は人そのものだったが……悩み、考えているこの『自分】は、本当に考えていると言えるのか、ふと疑問になる。
 所詮は、自分は複雑な構成の上に作られたただの人形だ。自分が悩み、行動しようとすることそれ自体が、自分が道具たる証拠なのかもしれない。自分が望むこと、それは自分の主人が望んだことだからだ。
「…………」
 少年ははあ、とため息をつく。
 もし、あの<鋼鉄の女神>のように何の思考もなく動けるように作られていたら、こんなに苦しむこともなかっただろうに。
 割り切れない思考の複雑さが、今は無性に恨めしかった。

 カシュラルは風になびく黒髪を押さえ、ぼんやりと目に映る風景を眺めた。
 アウィステリアはエルフの居住区としては大きいが、所詮は田舎だ。家々が立ち並ぶ区画、そしてリュシウスら『反逆者』の拠点となっている地区もあるが、畑や草原が広がる区画も多い。
 小高い丘の上から、カシュラルとブランシュは広がる麦畑を見下ろしていた。
 今は収穫の時期だ。刈り取られるのを待つばかりの、黄金色に光る小麦が一面に広がっている。豊穣のその色に、カシュラルは目を細めた。
 無論、以前にも小麦畑を見たことはある。だが、それを心地良いものだと感じたことは今までなかった。彼女に、それだけの心の余裕はなかったのだ。
「……何か楽しいの?」
 ブランシュが呆れ返ったように尋ねてきた。それをカシュラルは憮然として睨む。
 捕虜とは言え、日光がまったく射し込まない牢を除けば、カシュラルとダレットへの待遇は良かった。監視がつくのは仕方ないが、たまには外に出ることも許される。
 ブランシュ一人なら、素手のカシュラルでも倒せるかも知れない。だが、その後追っ手を振りきって脱出するには不利な条件が多すぎた。リュシウスも、何処までなら自由にさせられるかくらいは見極めているだろう。そのため、カシュラルはおとなしく捕虜に甘んじている。
 ぼんやりと夕暮れの小麦畑を眺めていたカシュラルは、ふと背後に気配を感じて振り返った。反射的に腰に手をやるが、今、彼女の手元に刀はない。
「どうも」
 リュシウスだ。一人で、すたすたと気軽に二人の方に向かって歩いてくる。
「良いのか? たった一人で出歩いて。不用心なことだな」
 仮にも敵の司令官の前で。カシュラルは嫌味に笑った。
「これでも結構警戒してるんですよ。以前のような目にあってはたまりませんし」
 カシュラルが以前にリュシウスを暗殺しようとして失敗した時のことだ。リュシウスは苦笑し、カシュラルは思わず鼻白む。リュシウスは腰にレイピアを帯びていたが、果たしてどれだけ使えるものやら、カシュラルにも判断がつかない。素人というわけでもなさそうだったが。
「ご苦労なことだ」
 それだけを嫌味に言い、大仰に嘆息して見せた。リュシウスはまた苦笑する。
「お気に召しましたか? この景色が。私も結構気に入ってるんですよ……綺麗でしょう」
 小麦畑を、夕暮れの空が更に紅く染め上げる。遥か向こうの地平線に日が沈みかけ、ぼんやりとたなびく雲は薄い闇色を纏っている。
 カシュラルの白い肌とドレスもまた、夕日に紅く染まっている。それを見て、リュシウスは目を細めた。
「ブランシュ」
 リュシウスが部下を振り向いた。意味ありげに目配せする。この場から離れてくれ、という意味だ。
 軍には、ブランシュは聞くことが出来ない機密事項もある。そういうことは初めてではなかったから、ブランシュは小さく頷いた。だが、一抹の不安を表情に見せ、リュシウスを見上げる。
「……たらし込まれないで下さいね」
 それだけをぼそりと言い、ブランシュは立ち去った。リュシウスが何とも言えない表情を浮かべる。
 ブランシュにすれば、それは遠回しに心配する言葉だったのだろう。だが、事実その通りだったりするリュシウスとしては、引きつり笑いをするしかない。
「……何だ?」
 ブランシュの気配が消えたのを確認してから、カシュラルは声をひそめて尋ねた。
「ラインガルド……帝国の王都の方の状況ですけど」
 リュシウスは、変わらずのんびりとした笑みを浮かべたままで話す。
「混乱状態、というのが正解のようですね。まさか貴女の敗北は予想していなかったようです。……まあ、実際には帝国軍が敗北したわけではないにしろ、壊滅的な被害を受けたことは事実ですから。加えて、総司令と騎士団員が揃って捕虜となっている。
 今から叩き潰そうにも軍がない。地方領の兵士を総動員するよりは、こちらの動きの方が速いでしょう。大規模な派兵をしてしまった王都は、現在はがら空きの守備ですからね……かといって、譲歩案など欠片も思いつかないようです」
 カシュラルは顔をしかめた。混乱した軍会議の様子が、目に浮かぶようだ。あの無能どもが、と心の中で罵る。
 軍が壊滅的な被害を受けたのは、エルフたちとて同じだ。だが、<鋼鉄の女神>は変わらず健在である。<女神>を加えれば、帝国とエルフの戦力差は、差とも呼べない大きな溝となる。人間に、遺産に対抗する術はない。
「しかし、随分と情報が速いな」
 アウィステリアと王都は、早馬で片道十五日ほどの距離である。あの鎮圧戦から、まだ一月も経過していない。連絡員の往復は不可能なはずだ。
「こちらには魔法での通信という手段がありますから。定時連絡ならば、距離制限なしで情報を得ることが可能ですからね」
 <幻話>の魔法ならば、王都の状況をそのままアウィステリアに伝えることも可能である。カシュラルはその魔法の存在を知っているわけではないが、大筋は理解したようだ。
「しかし、そんなことを私に話して良いのか?」
「構いませんよ。どうせそのくらいは承知でしょう。魔法を使われていると知ったところで、人間にそれを阻止する術はないのですから」
 リュシウスが皮肉げに笑った。
「さて、王都はどう出るかな……」
 カシュラルが呟いた。何処か他人事のような口調だ。
 大多数の人間は、エルフへの譲歩など意地でも認めないに違いない。だが、これ以上の戦の無益を悟る人間もいるはずだ。例えば、現在の宰相などは。国王もあまり戦は好まない性質のはずである。
 今頃、王都では上層部でも意見が割れているはずだ。カシュラルは唇を噛む。
 自分が捨て駒にされるか、屈辱を承知で解放されるか……その瀬戸際だ。
「まあ、どちらにしてもまだ時間がかかるでしょう。その間は、我々も動くつもりはありません。あくまで脅し、といったところですね」
 つまり、まだ捕虜でいろということだ。リュシウスの話の本題はそれだったのだろう。
「成る程」
 カシュラルが嘆息した。そのまま二人とも押し黙る。
 カシュラルは、また小麦畑に視線を移した。太陽が半分以上沈み、大地も夜の色に染まってきている。吹き付ける風も肌寒くなっていた。
「ああ、もう暗くなりますね……あの畑に何かありますか?」
 カシュラルはずっと広がる畑を見つめている。何処か哀しげな眼差しだ。
「別に……ただ、この地域の子供は貧しいあまりに売り飛ばされることもないのだろうな、と思ったまでだ」
 カシュラルの生まれた村は、大陸の中でも特に土地の痩せた地域だった。実りは少なく、こんな豊穣など望むべくもなかった。そして、その中で生きていかんがため、ある農民の夫婦は娘を売り払った。
 もう、顔も覚えていない家族だ。現在の生死すら不明である。だが……
「――寂しいですか?」
 リュシウスに言われ、カシュラルは沈黙した。
 以前なら、真っ先に否定した言葉だろう。自分の中にある空虚が『寂しさ』であるなどとは。だが、今は……否定は出来ない。
 事実その通りなのだ、と何となく悟ってしまったからだ。
 黙ったままのカシュラルに、リュシウスは小さく微笑んで見せた。
「寂しいなら、そうと言って良いんですよ。それは別に恥じることではないんですから。
 他の誰かに頼っても、支えを欲しても良いんですよ。それでいつか、貴女が自らの足で立とうと出来るのなら」
 リュシウスの言葉に、カシュラルは皮肉げに笑った。
「……私に頼るべき相手などいないさ」
 ぽつりと呟く。彼女にも共に生き抜いた<楔>の仲間、帝国軍の同僚はいる。が、いずれも自らの心をさらけ出せる相手ではなかった。いつ敵に回るか分からなかったからだ。
 カシュラルに、いつもの冷え冷えとした表情が戻る。己の感情の一切を封じ込んだ顔。人はそれを怜悧な美しさと呼ぶのかもしれない。だが……リュシウスには泣いているように見える。
 辛いのを、必死で我慢する子供のような。
「私では……」
 リュシウスは呟く。が、さすがにその後の言葉は飲み込んだ。
 ――私では、貴女の支えにはなれませんか?
 昔のリュシウスにならば、そう言える資格があったかもしれない。だが、こうやって彼女の隣に立つまでに、彼は多くのものを犠牲にしすぎた。
「――私は」
 カシュラルが小さく呟くのが聞こえた。リュシウスは顔を上げる。
「私は何なのかな……一体」
 鎮圧戦に突入して以降、ずっと頭から離れない疑問だ。考えても考えても、答えが見えない。
「貴女は貴女……カシュラル・レストラードですよ。それで十分でしょう?」
 リュシウスが微笑む。
 何でもない、今を生きているたった一人の人間。それだけで良い。
「……それだけで救われる者もいるんです」
 少なくとも、自分は。そうリュシウスは心の中で付け加える。
 だが、カシュラルは自嘲気味に笑った。リュシウスから目をそらしたままで呟く。
「……私には何もないさ。意味も、望むものも、力も、何も」
 何も望まない人形。唯一得た兵器としての力も、活かされる場がなければ意味がない。後に残るのは、無様な女の残骸だけだ。
 ふっと哀しげに笑う。その貌に、リュシウスは泣き出しそうな表情を浮かべた。思わず両手を伸ばし、抱き締めたいような衝動に駆られたが、辛うじてそれは自制する。
「……今生きている、それこそが貴女の力なんですよ。ただ生きていればいい……間違えたらやり直せばいい、意味はこれから見つければいい。これから何かを望めばいい。
 生きていれば、これから何でも出来るんです。何処へだって行ける……」
 そう囁くリュシウスの顔は、懇願しているようにも見えた。必死だったのだろう。
 目の前の女性に、たった一言届けるために。
「未来など、誰にも分かりません。未来は常に白紙なんですよ。もしかしたら、そこに貴女の望むものを描けるかも知れないでしょう?
 描くものはこれから見つければいい……それが、生きると言うことですから」
 リュシウスの言葉に、カシュラルの身体がかすかに震えたようだった。
 ゆっくりと隣の男を振り返る。完全に太陽は沈み、辺りは漆黒に埋め尽くされている。暗がりで表情ははっきり見えないが……闇色の瞳が見開かれているように見えた。
「……これから、か」
 カシュラルがぽつりと呟くのが聞こえた。
 木の幹に身体を預けたまま、カシュラルはぼんやりとその言葉を反芻する。
 今まで、先のことなど考えたこともなかった。考えられなかった。その日一日を切り抜けるのに精一杯だったからだ。けれど。
 これから何が出来るだろう。何をしよう……そう思うだけで、少しでも心が軽くなるような気がする。白い紙を目の前にしたかのような、見渡す限りの草原に立ったような解放感が沸き上がる。
 そう。何でも出来るのだ――自分が望みさえすれば。
「……何かを」
 カシュラルは再び呟く。
「何かを望んでも良いのかな……私は」
「ええ」
 カシュラルの言葉に、リュシウスは笑ってはっきりとした声で答えた。  

 

 
Copyright©2001-2007 Shu Fujimura All Rights Reserved.