74.願い
まず、白と黒が目に入った。
突如として、目の前にふわりとそれが広がった。ダレットの視界からリュシウスの姿が消え失せる。
(…………?)
それが何を意味するのか、ダレットは理解しない。ただぼんやりとした思考でそれを見つめる。
握った長剣から、確かな手応えが伝わってくる。柔らかく、嫌な感触。知っているわけではないが、確信する。……人の身体を貫く手応えだ。
――終わった。
そう確信するが……勝利の高揚感などまったくない。虚無感に埋め尽くされながら、ぼんやりと手にした長剣に視線を落とした。
銀色の刀身を紅いものが伝っている。考えるまでもない。血だ。
その刀身と血に沿うようにして、ダレットはぼんやりと視線を前に移した。
その表情が、緩慢な動作で変わっていく。
「あ……」
その声が誰の口から漏れたものか、はっきりとは分からなかった。
目の前に立ちはだかる白と黒の色彩。白いドレスと……長い黒髪。
ドレスが、見る見るうちに深紅に染まっていく。
「……カシュラル?」
ダレットはかすれた声で呟く。吐き出す息に声を載せるようにして、呆けたように目の前の女性を見つめた。
手にした長剣とカシュラルを交互に見つめる。長剣の切っ先は間違いなく、カシュラルに吸い込まれていた。
「……あ……?」
思考が状況を理解しようとしない。また呆然と呟くダレットに、カシュラルはふっと微笑んで見せた。
「済まんな」
彼女はそれだけを囁く。以前に一度だけ見た、優しい笑みだった。
(何が……)
何が――起こったのだ?
ダレットがゆっくりと後退する。その動きに合わせて長剣が引き抜かれた。空中にカシュラルを縫い止めていた楔がなくなる。
紅く染まった自分の腹を満足げに眺め……カシュラルはゆっくりと床に倒れた。
その向こうにリュシウスが見えた。
これ以上はないと言うほどに目を見開いて、呆然と前を見つめている。後ろに突き飛ばされたらしく、尻餅をついていた。誰が突き飛ばしたのかは、考えるまでもない。
そのまま、誰もが動けなかった。時が凍り付いたかのように、沈黙が場を支配する。
「う……」
倒れたカシュラルが小さくうめいた。
その声に、弾かれたかのようにリュシウスが動いた。慌ててカシュラルに駆け寄る。ダレットはと言えば、呆然とその光景を見つめているだけだ。
「どうして……」
ぴたぴたとカシュラルの頬を叩き、リュシウスは呆然と呟く。その言葉に、カシュラルはにっと笑ってみせた。
「……悪いな……手出しをして。……だが……」
言いかけたところでカシュラルはむせた。血を吐き、顔を苦しそうに歪める。リュシウスは呆然とカシュラルを見下ろした。
どんどんドレスと床が紅く染まっていく。その分だけ、カシュラルの貌から血の気が失われていく。
黒曜石の輝きを放っていた瞳も、もはや虚ろに情景を映すのみとなりつつあった。
「あ……」
リュシウスの口から声ともつかない息が漏れた。
他人の死を何度も看取ったことのあるリュシウスだから分かった。――もう助からない。
ぼんやりと霞む心の何処かで、冷静に彼自身が告げていた。意識の中に響く声に、リュシウスははっと我に返る。
「どうして……どうして!」
浮かぶ言葉はそれだけだ。狂ったようにそれだけを繰り返すリュシウスを見上げ、カシュラルは子供をあやす母親のように笑った。だが、リュシウスはそれに応えることは出来ない。
「……ひと……つ……だけ」
消え入りそうな声でカシュラルが囁いた。リュシウスがはっとして、カシュラルの口元に耳を寄せる。気配でそれを察したのか、安心した顔でカシュラルは続けた。
「我が侭を……聞いて、くれる……」
カシュラルは血の混じった声で続ける。リュシウスに手を伸ばそうとしたが、力が入らないのか、もがくように身をよじるだけで届かない。
「もう少し……だけ……私の、側に……いてくれるか?」
最期に、たった一つ望むならば。一つだけ、願いが叶うならば――
「あ……」
リュシウスが泣き出しそうな顔をした。
伸ばされたカシュラルの手をしっかりと握る。両手できつく包み込み、大きく何度も頷いた。
握られた手から、確かな温もりが伝わってくる。それを確かめるようにして、カシュラルは安心したように大きく息を吐いた。
親の腕の中で眠る子供。そんな表情だった。
カシュラルの身体から徐々に力が抜けていく。目もかすみ、視界が失われていく。もはや、痛みも感じなくなっていた。暗く、重たい浮遊感が身体を支配する。
最後に残るのはかぼそい糸。たった一つ、握られた手から伝わってくる温かさだけだ。
(……これだけを)
信じていればいい。ずっとずっと欲していたものを。
「……あったかい」
呟き……カシュラルは静かに目を閉じた。
私兵部隊<楔>は、反乱のために作られた部隊だ。
だから、部隊の兵士は全員、身元が不明でなくてはならなかった。貧しい地域に生まれ、四歳の時に親に売られて入隊した時点で、カシュラルは戸籍すら失っていた。この世界に、頼れるものなど何もなかった。たった一人きりで、同じ境遇の子供達を蹴落とさなければ、生きていけなかった。
だが、十三歳の時に<楔>は崩壊。今まで生きてきた世界も、意味も、全てを失った。空虚さだけを抱えて生きるのがあまりにも恐くて、正規軍に異動した。
それが正しかったのか、未だに良く分からない。だが……今の、自分には過ぎた死に方を考えたら、正しかったのだろう。
数え切れないほどの人々を殺した。そんな自分のことだ、泥まみれで無様な死に方をするのだろうと思っていたが――幸運なことに、自分の隣には温かな手がある。
皮肉なものだ。反乱軍から正規軍に入ったけれど、結局自分は最期に再び反旗を翻した。よりにもよって、反乱の首謀者をかばったのだから。これを知って、帝国のお偉方はどんな顔をするだろう。これだから卑しい女は、と言って嘲るだろうか。だが、それでも構わなかった。誰が何と言おうと、自分はこう望んだのだ。
望めば何でも出来るのだ。やっと分かった、自分が望むもの――たった一人に側にいて欲しかった、彼を護りたかった……それだけだ。何かを成せて、欲しいものに手が届く。それ以外の何を望むだろうか。
一人の男。リュシウス。初めて、『自分』を望んでくれた存在。
嬉しかった。語りかけられた言葉も、強く抱きしめられた感覚も、今も鮮明に描き出せる。それがつまり、自分が生きているのだと教えてくれたのだから。
ずっと、人々が何故一人を怖がるのか分からなかった。確かに、一人でも死なないでいることは出来るけれど……きっと、誰かと出会って初めて、人は自分が生きていることを悟るのだ。
沢山のことを教えてもらった。触れた手の温かさも、優しい言葉の嬉しさも。もしそれが具現して目の前にあったら、思い切り抱きしめているだろう。きっとそれが、冷たい世界で、自分が知らぬままに捜し求めていたものだったのだろうから。
そして今も、自分の隣には彼がいてくれる。
それだけで十分だ。
だから。
願わくば、最期にあなたに言葉が届くように。精一杯の感謝をこめて。
ありがとう、と。
それから――……
握った手から力が抜ける。
カシュラルが目を閉じ、ふうっと大きく息を吐いた。それきり、胸が上下しなくなる。
――死んだ。
心の何処かで、冷ややかに自分自身が告げた。だが、リュシウスは呆然と横たわる身体を見下ろす。
静かに眠るその表情は、艶やかな大人の女性のものでありながら、何処かに童女のような無垢さを残していた。母の腕の中で眠る子供のように、安心しきった顔で目を閉じている。
凛とした強さと、子供のような純朴さ。対極とも言える二つを同時に宿していたのが……この女性だったのだ。
だが、もう彼女が目を開けることはない。
「あ……」
嘘でしょう、と呟けたならむしろ幸せだったろう。目の前の純然たる現実は、はっきりとした死の手触りを持っている。それを否定することは出来なかった。
この手触りは感じたことがあった。二年前……それまでに持っていた全てを失った時だ。
あの時は、一人の少女に全ての憎悪を向けることで正気を保てた。だが――今は?
この現実の引き金となったのは、まぎれもなく自分だ。全てを自分が望み、実行し……その結実として、目の前で彼女は死んだ。
(これが……)
これが報いか。
二年前、家族の全てを見殺しにしたことの。大勢の人々を謀かったことの。一人の少女の心を利用したことの……
「は……ははっ……」
滑稽な話だ。だが……もうどうでもいい。
もう、自分には何も残らない。戦の……勝利の向こうに望んだものは、たった一人の女性はもういないのだから。そんな戦に何の意味があるだろう。それだけが全てだった自分は、もはやただの虚ろでしかない。
(……ああ)
たった一つだけ……残ったものがあった。
『――もう少しだけ、私の側にいてくれるか?』
彼女がたった一つだけ、自分に望んだことだった。己は何を望むのだろう、とずっと探し続けた彼女が見つけた答え。
彼女が望むなら、自分はいつまでも彼女の傍らにあったことだろう。それこそが、自分自身の望みでもあったのだから。
彼女の、この望みだけは満たしてやりたかった。
たとえ、それが何を意味していても――
「…………」
リュシウスは床に転がった自分のレイピアを手に取った。恐ろしいほど手に馴染む剣の、その切っ先を見つめる。
そのまま、晴れ晴れとした表情で傍らのダレットを振り返る。呆然として立ちつくしているこの男に、静かに告げた。
「ダレット・コルフォース」
己の名に反応し、ダレットの身体がびくりと震えた。
「あの子を……私の『妹』を頼みます。私がもはや何を言っても通じないでしょうが、貴方だったら」
その言葉は果たして届いたのか。ダレットは虚ろな表情を変えなかったが、リュシウスは満足げに息を吐く。
次の瞬間、レイピアの切っ先が喉に食い込んだ。
ダレットは呆然と目の前の情景を見つめていた。
カシュラルが倒れた。そのドレスがどんどん紅に染まり、リュシウスが駆け寄って呆然としている。二人が囁くように何か言葉を交わし、そしてカシュラルが動かなくなる。
死んだのだ、と心の何処かでは悟っていたが……ほとんど、理解していなかった。
何が起こっているんだ。心はその言葉のみに埋め尽くされる。
どうして、カシュラルは自分の長剣の前に飛び込んだのだろう。その身体で切っ先を受けたのだろう。
どうして……
「は……」
カシュラルの隣に跪いたまま、リュシウスが惚けたように息を吐くのが聞こえた。
その目はカシュラルしか映していない。先程まで剣を合わせていたはずのダレットは、まったく目に入っていない。亡骸の手を己の手で包み込んで、ただひたすら彼女の貌を見つめている。
「……あ……」
ここに至ってようやく、ダレットは事の真相に感づいた。
この反乱を引き起こした理由。かつての知己だったというキルファを残酷な形で利用した理由。それを、ダレットは直感的に悟る。
二人の間に何があったのか、詳しく知る術はない。だが、二人は何らかの形で出会って……リュシウスはカシュラルに焦がれた。何処かで、二人は思いを通じ合わせた。
そして、カシュラルがリュシウスを護ろうとした。かつて自分がキルファを庇って飛び込んだように、彼女はこの男を護る道を選び、そして死んだ。
「…………」
ダレットは自分の長剣を見下ろす。べっとりと血が付いていた。カシュラルの身体を貫いた跡だ。……人を傷つけた、その跡。
(俺が……)
リュシウスを許すような感情は沸いてこない。いかなる理由があろうと、この男のやったことは違えようのない事実だ。だが、それでも何処かで同情している自分がいた。
どうしようもなく……愚かしくも純粋な、たった一つの感情。
(……殺した?)
いつの間にか、ダレットの瞳から狂気の色が消えていた。狂気に身を任せた獣は消え、後に残った本来のダレットががたがたと震え出す。
自分が殺そうとしたのは、絶対に許せないと思った男。だが、死んだのは仲間とも呼べるはずの女性。彼女が死んだのは自分の本意ではない。
だが……狙い通りに男を貫いたとして、それは許されることだったろうか?
誰かを殺そうとした。刃を向けた――その事実は変わるわけがない。
「あ……」
ダレットの口から声ともつかない音が漏れる。
「ダレット・コルフォース」
不意に横から聞こえた声に、ダレットはびくりと身体を震わせた。
ぼんやりとしたまま、声の方向を見る。信じられないほどに優しい表情をした男がそこにいた。笑って、ダレットに一言告げる。
あの子……彼が言うのが誰を指すのか、すぐには飲み込めなかった。だが、機械的な動作で小さく頷く。そうしなければいけない気がした。
男……リュシウスは静かに笑う。そうして、手にしていたレイピアの切っ先を、迷うことなく喉元に向けた。
「――――!」
ダレットが息をのむ。
「やめ……」
反射的に言葉が口をついて出る。だが、制止の言葉は間に合わなかった。思わず伸ばした手は届かず、無慈悲な切っ先がリュシウスの喉に食い込む。次の瞬間、また紅い血が噴き出した。
また、目の前で人が倒れる。手を伸ばしかけたままの格好で、呆然とそれを見つめた。
カシュラルとリュシウス、二人の身体が重なる。床に、半分以上が血に染まったカシュラルのドレスが広がっている。紅い湖に花が浮かんでいるかのようだった。
その様は、まるで一枚の絵のようで……何故だかひどく現実味に欠けていた。夢でも見ているかのように、ダレットはぼんやりと足下を見下ろす。
そのまま、ずっとそうしていた。
脳裏に浮かんだのは、昔に聞いた声だった。幼い頃、小さな世界で憧れ、ずっとその背を追った女性が、優しげな声で問いかけてくる。
『ねえ……人が死んだら、その魂はどうなると思う?』
その問いに、昔の自分は答えられなかった。怪訝な顔をして首を振る自分に、彼女はふわりと優しく……しかし哀しげに笑った。
『エルフだろうと人間だろうと……所詮はただの生き物。死んだら土に還って終わり。それだけよ。
でも、人は死ぬときはそうは思えない。このまま、目の前で誰かが死ぬのは、自分が死ぬのは……消えてしまうのは、あまりにも恐いから。
だから、人々は思うのね。身体が死んでも魂は残るって。何処か遠くに行って幸せに暮らすとか、別の人になって蘇るとか、そんなことを考えるの。所詮は嘘かもしれないけど、それで少しでも心が安まるのだったら、その嘘を否定することは出来ないのよ』
言って、彼女は遥か遠くを見つめて微笑んだ。
あの時は、彼女の言葉の意味が分からなかった。だが、今なら分かる。
嘘かもしれない。でも……今だけは信じてみたい。
ねえ、カシュラル。
もしも、再びこの世界に生まれることが出来たなら。
今度こそ、貴女の隣にいられるように――
