78.かぼそい絆
いつか自分が言った言葉。
『誰にだって、生きていく権利はあるさ。生きていれば、楽しいことも、嬉しいこともある。そんな思いをすることは……出来るんじゃないかな』
こう彼女に向かって言ったのは、いつのことだったろう。大して昔のことでもないはずなのに、今では遥か昔の出来事のように思える。
こう言った時は、何も知らなかった。一人の少女が抱えたものの重さも、血に染まった自分の剣も、何もかも。だからこそこんな言葉が言えた。
今にして思えば、それがどれだけ薄っぺらいものであったことか。これで彼女を救えると思っていたのだから、笑い話としか言いようがない。
今は、何も分からない。浮かぶのはただ一つだけ。
(どうしたら……良い?)
問いかけてみても紫の瞳はダレットの顔を映しこむだけで、答えなど見えるはずがない。だが、それでも何か光を求めて見つめずにはいられなかった。
「俺は……」
「今のところ、死んではいないけれど。本人が生きる意志を放棄してしまったのなら、本当にそうなるのも時間の問題だ」
少年が先程の解説をもう一度繰り返す。ダレットはそれを睨み付けた。分かっている、そんなことは!
「<女神>を介してちょっと様子を見てみたけど、駄目だね。完全に意識を閉ざしちゃってる。まったく『外』のことを認識してない」
(…………?)
少年の言葉に、ダレットは眉をひそめた。
「……様子を見てみた、って、どういうことだ?」
ダレットの問いに、少年は肩をすくめて答える。
「言ったでしょう? 僕には他の『遺産』に干渉する能力があるって。それを応用しただけだよ。
魔法は『場』と意識を繋げて起動させる、ってことくらいは聞いたことがあるでしょう? この子が<女神>の主人である間は、この子の意識と<女神>はずっと意識を同調させたままなんだよ。<女神>もとどのつまりは魔法の結晶だからね。
で、僕は他の『遺産』に……それを構成する魔法に干渉する能力がある。<女神>に干渉すれば、それと繋がっているこの子の意識も多少は流れ込んでくるんだよ。実際、この子が意識を閉ざしてしまう前は、断片的に記憶も見えた。あなたのこともそうやって知った」
そう言えば、この少年は最初からダレットのことを知っているような口ぶりだった。それはこういう理由だったのか、とダレットは今更ながら頷く。
「もっとも、垣間見えるってだけだけどね。こちらから知りたいことを探ることは出来ない。意識に侵入しようとすればまず弾き返されてしまうからね。基本的に、この子は『使用者』で僕や<女神>は『道具』だから。この子の意思に反するような真似は出来ないんだ」
少年の説明を、ダレットはぼんやりと聞いていた。半分も理解出来ていないが、聞き返してもどうせ結果は一緒だろう。
だが、何となく理解したことはあった。
「つまり……キルファの意識に干渉出来るってことか?」
ダレットの言葉に、少年は苦笑する。
「理論上はね。けど、この子の自我がまず反発してくるし、何より意識を閉ざしたままのこの状態じゃあかなり難しい。
……何か思いついたことでもあったの?」
ダレットの表情の変化に気づいたか、少年が首を傾げた。
少年の言葉通り、ダレットの顔からぼんやりとした色は消えていた。むきになっているように、少年に向かってまくし立てる。
「お前、キルファが『自分が生きている』ことを認識していない、って言ったよな? ……だったら、直接干渉してそれを認識させてしまえば、それで大丈夫なんじゃないのか?」
勢い込んで言うダレットに、少年は再び苦笑した。
「まあ、理論上はそうなんだけど。言ったと思うけど、干渉してもまず跳ね返されるから、かなり難しい……」
少年の言葉をダレットは聞かず、さらに一気にまくし立てた。
「俺が、意識に干渉することは出来るか?」
少年が曖昧に笑った。
「あなた、人間でしょう? 人間は魔法を使えない……『場』に意識を繋げる能力がないんだよ。そうである以上、基本的に無理だってことくらい……」
「そうじゃない」
少年の言葉をダレットは遮った。
「俺も、魔法の理論くらいはキルファに聞いたことがある。『場』に意識を繋げてその法則を少しだけ書き換える……ってな。この場合、魔導士の方から『場』に干渉することになるんだろう?
だったら、逆に『場』から意識に繋げてやることは出来ないのか、って聞いてるんだ」
ダレットの言葉に少年は目を丸くし、その場で固まった。
もしダレットの言葉が可能だとすれば、少年と<女神>を間に挟んでやればダレットの意識をキルファに接触させることも可能なわけだ。
「何を言ってもキルファが聞かない、ってのなら、直接叩き起こしてやるしかないだろ。結構無茶苦茶だけどな」
ダレットは肩をすくめた。
「……結構、なんてもんじゃないよ」
ややあって、ようやく少年が口を開く。
「やったことなんて……いや、思いついたことすらなかったから分からないよ、出来るかどうかなんて。だから安請け合いは出来ないけれど。
……でも、否定する要素もない。本当にとんでもないことを思いつく人間だね、あなたは」
言って、少年は繊細な顔に似合わぬ野太い笑みを浮かべた。
「何も考えてない、とはよく言われたが、逆は初めてだな」
今度はダレットが苦笑する。
「ともかく、出来るかもしれないならとっととやってみてくれ」
外科手術の台に上がる患者のような風情で、ダレットが言う。もっとも、肉体と心であるという差を除けば、それほど変わりないかもしれなかったが。
「……ねえ」
いきなり静かな口調になって、少年が言った。
「あなたがそこまでこの子にこだわる理由は、何?」
ひたりをダレットを見据え、少年は言った。だが、その目は何かに縋り付いているようにも見える。
「誓ったからな。……それだけだよ」
そう。確かに彼女の前で誓ったのだ。護ってやる、と。
それくらいは護りたいではないか。せめて、自分で言ったことくらいは。
何も知らず、考えず、己の剣を血で染めた。今となってはもう、それしか自分には縋るものがない。
「……けれどね」
静謐な口調で少年は続ける。
「あなたがこの子に望むものと、この子が自身に望むものが同じとは限らないんだよ。
あなたはただこの子が死なないようにと思っているのかもしれないけれど、一度この子ははっきりと死にたいと思ったんだよ。その結果として、こうなっているだけで。
この子が見たくないと目を閉ざした現実を、もう一度見せ付ける権利があなたにある?」
「……それで止める、って言うんだったら、俺はこいつを信用していないことになるじゃないか」
少年に、ダレットはぎこちなく笑って答えた。
「それくらいの強さは持っていると思うから、こうやって言っている」
ダレットの言葉に、少年は嘆息した。
「他人に頑張れというのは、残酷だよ。他人に苦しみを乗り越えることを強要しているんだからね。それは美しいけれど、痛みを知らない者に言われても何の手助けにもならない」
少年の言葉に、ダレットは唇を噛む。いくら自分が何か言ったところで、結局は他人なのだ。彼女の問題は、彼女が答えを見つけるしかない。
それでも。一人きりでないということは、支えにはなるはずだ。そう信じる。
――信じるしかない。
「……今度は俺が訊いていいか?」
ダレットの言葉に、少年が首を傾げる。
「お前がキルファにここまで関わろうとする理由は、何だ?」
ひたりと少年を見据え、ダレットは言った。
「俺をここに連れてきたのも、あれこれ説明したのも。キルファの様子を見てみた、とも言ってたよな。……その理由は?」
「僕は所詮、命じられた真似しか出来ないからね」
言って、少年は自嘲気味に笑った。
「僕も『遺産』だからね。それを解放すべき資格を持った者に仕えるべき道具だ。遥か昔の人々が、かすかな希望として残したもの。
……だから、その資格のあるこの子のことを案じるくらいは良いでしょう?」
だからこそ、キルファの意識の中に垣間見た男をここに連れてきた。
「……大体、分かった」
ダレットは冷たく呟く。
「お前にとってはキルファが最優先で……そのために俺を使おうとしてるってことか。リュシウスは思惑が外れたから、今度は俺を」
「そう思ってくれて構わない。おおむね事実だから」
二人は揃って冷たい笑みを浮かべた。
「けどまあ、俺も同じことを言っておくか。俺はお前の手駒になる気はない。ただその方が得策だと思うから、お前のやることに便乗するんだ、と」
リュシウスの言葉を、ダレットはそのまま繰り返す。
「それで構わないよ。むしろ、その方が良いのかもしれない」
言って、少年は何処か寂しそうに笑った。
「さて、そろそろ始めようか……言っておくけど、相当危険だよ。今まで誰もやったことがないしね。下手をすると、意識の輪郭が曖昧になって混じってしまう可能性すらある」
「…………?」
少年の言葉に、ダレットは眉をひそめることしか出来ない。
「ただ意識を繋げるといったところで、ちょっと事情が違うからね。『場』は基本的に受身で、そっちからは何も干渉してこない。だからこそ、今までエルフが魔法を使っても平気だった。
けど、『人』の意識だとそうはいかない。本能的に接触してきた異物を排除しようとするからね。最悪、お互いが侵食し合って、元に戻らない可能性すらある」
「…………良く分からん。結局、具体的にどうしろと?」
訳が分からず、ダレットは結局そう尋ねた。
「まあ、意識をはっきり持っていろ、ってことかな。あと、そう長時間は保たないよ。拒絶反応はある程度僕が抑えてみるけど、僕の能力はあまり当てにはならないし。
それと、乱暴に踏み込むと、今度こそこの子の意識が壊れてしまうことがあるから気をつけて」
少年は簡単に言っているが、それはかなりの大事なのではないだろうか。話の半分も理解出来ないが、ダレットはぼんやりとそう思う。
「どうしろって言うんだ……」
ダレットのぼやきには耳を貸さず、少年は虚空を見据え、何かを呟いた。おそらくは<鋼鉄の女神>に何かしらの干渉を加えているのだろう。
ややあって。
目の前が光ったような感覚と共に、ダレットの意識は暗転した。
目の前に広がるのは、無限の暗闇。永遠の落とし穴。そんなところだった。
「ぞっとしないな……」
ダレットは呟き、ふと自分の両手を眺めた。光源らしきものは見当たらないが、自分の身体ははっきりと見える。普段通りの自分の手だが……何か違和感がある。地に足がついていないような、そんな曖昧な感覚。
『魔法を使ったことのないあなたには慣れないかな。これが、<女神>と意識を繋げた状態。<女神>の中……とでも言えば分かりやすいかな』
キルファの意識の片隅とでもいったところか。ダレットは所在なげに周囲を見回すが、見えるのは暗闇のみでまったく意味がない。小さく嘆息する。
『とりあえず、あなたには自我を保ちやすいように肉体と同じ姿をさせてあるけど、あの子もそうだとは限らないから気をつけて』
「……どういうことだ?」
『夢の中って、脈略のないものがぽこぽこ出てくるでしょ? それと同じだよ。夢の中のものに現実をあてはめても意味がない。あの子の自我が、あの子と同じ姿をしているとは限らないんだよ』
ダレットはぐしゃぐしゃと頭を掻き、それから言った。
「……つまり、見た目に惑わされずにキルファ『らしい』ものを探せってことか?」
『まあ、そうだね』
本人は丁寧に説明しているつもりなのだろうが、少年の言葉は訳の分からない理屈だらけで、ダレットにはよく分からない。手短に要点だけ言ってくれ、とダレットは悟られないようにまた嘆息する。
『それから、さっきも言ったけど、あまり長くは保たないよ。拒絶反応を抑えるのも限度があるし、あなたにも悪影響が出る恐れがあるから』
「ああ……」
さっぱり分からない。だが、やるしかない。
がりがりと頭を掻きながら、ダレットは一歩前に踏み出した。
そこは、山の中と思われた。
起伏が連なる地の、わずかに開けた場所。小さな畑と指で数えられるだけの家が、ぽつりぽつりと点在している。
「何処だ? ここ……」
ダレットは呟く。王都を出てからというもの、ずっと山の中を歩いてきたが、こんな風景には見覚えがない。
これがキルファの意識が創り出した風景だとしたら、彼女の記憶の一部なのは確かだ。となると……
「これがハンザの村、か?」
リュシウスが言っていた、キルファの生まれ故郷。エルフの小さな村。
ふと遠くに目をやると、小さな人影が見えた。何とはなしにそれに近づき、思わず凍りつく。
四、五歳くらいの少女だった。丁寧に切り揃えられた銀色の髪に、大きな紫の瞳。
(……キルファ?)
間違いようがない。幼い頃のキルファだ。
呆然とするダレットの前で、幼いキルファは走り回っている。だが、一人だけだ。一緒に遊ぶ子供はいない。混血の娘と敬遠されたのだろうか。
キルファは小さな花を見つけて目を輝かせていたが、しばらくしてようやくダレットに気づいたのか、首を傾げてから走り寄って来た。
「だれ? おじさん」
舌足らずな声で、幼いキルファは言った。
(……おじさんて)
ほんの少しだけダレットは傷つく。確かに目の前の少女からすれば、自分は随分年上に見えることだろう。しかしまだ二十歳を過ぎたばかりなのに、おじさん呼ばわりはしないで欲しい。
「おじさんじゃない。お兄さんだ」
言って、ぐしゃぐしゃと銀色の頭を撫でてやる。そうしてキルファの傍に膝をついた。それでようやく、二人の視線の高さが等しくなる。
キルファはダレットの顔を覗き込んでから、やおら手を伸ばしてきた。べたべたと顔を触ったり、耳を引っ張って首を傾げたりしている。
「へんなの」
ややあってキルファは呟いた。どうやら、尖っていない耳が珍しいらしい。ここはエルフの村だからそれも道理だろうが、ダレットにしてみれば尖っている方が珍しいのだ。
「いや、変なのと言われてもなあ……」
どう言っていいか分からず、虚空に視線を逸らして呟く。
(キルファ……だよな。どう見ても)
この特徴的な容姿は間違いようがない。だが、何故こんな子供の姿をしているのだろうか。精神世界に現実を当てはめても意味はないかもしれなかったが。
「ねえ、だれなの? おじ……」
「お兄さんだ」
「う……おにーさん」
記憶も子供の頃に戻ってしまっているのだろうか。本来なら有り得ない質問だ。
「ダレット・コルフォースだよ」
「だれっとこ……るふぉーす? へんななまえ」
どうやら、姓と名の区別がついておらず、全部が名前に聞こえているらしい。
「ダレットで良い、ダレットで」
嘆息しつつダレットが言うと、ようやくキルファは納得したような顔をした。
「ねえ……あなた、おとうさん?」
完全に不意をついた質問に、ダレットは固まった。
キルファは母親がエルフだと聞いた。となれば、父親が人間であるはずである。しかし、キルファもリュシウスも父親については一言も言っていなかった。加えてキルファのこの様子からすると……父親に会ったことがないのだろうか。
「違うよ」
言って、ダレットは曖昧に笑う。
その言葉にキルファは首を傾げたが、また手を伸ばして髪を引っ張ってきた。
「ほんとだ。あたしと、かみのいろがちがう。あたしとおなじいろだ、っておかあさんがいってた」
ダレットの栗色の髪を掴んでしげしげと見つめ、キルファが言った。
(手癖が悪いのは昔からか……)
何だか妙に納得しつつ、ダレットはやんわりとキルファの手を剥がした。不満そうに膨らんだキルファの頬を軽くつねる。
「大人をおもちゃにするな、ってお母さんに言われなかったか?」
「いわれてない」
キルファがきっぱりと即答する。このあたりの性格も幼い頃からのものらしい。
余程に見慣れない人間が珍しいのか、キルファはなおもダレットの髪や服を引っ張っていたが……やがて、ころんと横になってしまった。そしてそのまま動かない。
「……て、おい?」
ダレットは慌ててキルファの顔を覗き込む。幼い少女は、すうすうと小さく寝息を立てていた。
「……いきなり寝るか……」
小さい子供は自分の体力の限界に気づかない。それまで遊んでいたかと思えばいきなり寝てしまうようなことがあるが、キルファもその例に漏れず、ということらしい。
寝顔は、以前に見たものとまったく同じだった。この少女にとって、心から安らげる場所というのはどれだけ貴重であることか。
くしゃくしゃとキルファの頭を撫でてから、ダレットはその場に腰を下ろし、改めて周囲を見回した。
透けるような青空に、広がる森の深い緑。わずかに広がる平地の、柔らかい草の感触。吹き抜けた風がそっと頬を撫でていく。
そこはおそらく……世界で一番平和な場所だった。
不意にダレットは察する。キルファが何故、幼い頃の姿をしているのか。
戻りたかったのだ。この静かな世界に。後悔も何も知らず、ただこの優しい大地に抱かれていたこの頃に。
その気持ちは分かる。今となっては、ダレットも思わずにはいられない。どうにかして、自分の剣が血に染まる前に戻れないか、と。ずっと自責の念に苛まれてきたキルファなら尚更だろう。
けれど。
この世界には……誰もいない。
それは――
「悲しすぎるよ……やっぱり」
ダレットはキルファに囁く。
これだけ世界は広くて、大勢の人々がいるのに。その誰にも背を向けて、一人、小さな世界に沈み込むのは。
不意に、少年の言葉が蘇る。自分のやろうとしていることは、彼女を残酷な現実に引き戻すだけ。
だが。それでも……
ダレットはぴたぴたとキルファの頬を叩く。小さく何かをうめいて、キルファがうっすらと目を開けた。いきなり起こされて驚いたのか、しきりにまばたきをしている。
多少の罪悪感があった。だが、やると決めたことだ。
「起きろ。戻るぞ……本当の世界に」
瞬間、世界に亀裂が走った。
