79.すべての痛みに意味があるなら
青空に、ぴしり、と亀裂が走る。緑の森も、硝子が砕けるような硬い音を立て、静かに崩壊していく。
ささやかな平穏の終焉。それを、ダレットは唇を噛み締めて見つめた。
「どうして……」
キルファが目に涙を溜めて言う。姿こそまだ小さな子供だったが、その口調は、確かにダレットが知っている彼女のものだ。
「……お前の言ったことだよな。現実逃避はするな、って」
唇を噛みつつ、ダレットは言った。今更ながら、罪悪感が心を支配する。
「ここに逃げているのも一つの手かもしれない。けれど……現実には、何が変わるわけでもない。むしろ悪化するだけだ。そうと知っていて、現実を放棄するほど……」
ダレットはキルファを見据えて、言った。
「――お前は弱くはないはずだな?」
ぴしり、と決定的な亀裂が走る。
青空と緑の世界の向こう。崩壊した硝子の向こうに見えるのは……紅い炎。
「……これは」
気が付けば、世界は完全に変わっていた。夜空に浮かぶ月と、地上でごうごうとうなりを上げる炎。そして……
「う……」
ダレットは思わずうめいた。
血だ。まさに『血の海』という表現が相応しい、紅く染め上げられた大地。血と炎がお互いを染め合う、まさに紅い世界。
リュシウスの言葉が蘇る。これが、二年前の事件か。
「あ、あ……」
がたがたと震える少女の声。
血の海と、原型も留めないほどに破壊された遺体の山の前で、地面に座り込んでただ震えるだけの少女がいた。いくらか成長してはいる……十を幾つか過ぎたばかりか……が、間違いなく、これもキルファだ。
歯の根が噛み合わないほどに震えて、ただ目の前の紅い惨劇を見つめている。それだけが、世界の全てとでも言うように。
これが、現在の『キルファ』の根幹を占める出来事。全ての始まりの時。
この、紅い恐怖の中で……彼女は必死にもがいていたのだ。
(あ……)
うめきつつ、ダレットは炎に向かって一歩を踏み出した。精神世界のことだ、熱さなどは感じないが、代わりにとてつもない圧迫感がダレットを襲う。
それでも、無理矢理に前に出る。と、がたがたと震えていたキルファが、びくっと身体を震わせ、ダレットを見上げた。
「あ……誰っ?」
キルファは恐怖に、猫のように瞳孔を見開いている。
「誰……ねえ、誰なの? 来ないでよ! ねえ、来ないでったら!」
キルファが錯乱状態で叫ぶ。と同時に、襲いかかる圧迫感が更に強くなる。無意識のうちの拒絶反応といったところだろうか。
キルファの『自我』が防衛本能として起こす反発ではない。明らかに、彼女自身の意志だ。
「来ないで! 来ない……見ないで、お願い!」
両手で頭を抱え、尚もキルファは叫ぶ。ふと自分の両手を見て――真っ赤に染まった手のひらに、更に愕然とする。
「あ……あたしが、やった……?」
呟く。と、また世界が暗転した。
今度はダレットも見覚えのある風景だった。広がる平地……アウィス平原。そこには、数え切れないほどの人間、エルフの兵士がひしめいている。
そこにそびえ立つ銀色の巨体。<鋼鉄の女神>だ。
<鋼鉄の女神>が魔法陣の光を纏う。ダレットは、嫌な予感がした。
衝撃と共に、不可視の刃が暴れ回る。ややあって、そこには無数の死体が転がっていた。ダレットも見た、あの惨劇だ。
「はあ、はあ……」
身体を揺さぶる衝撃に耐えたせいか、キルファが大きく息をするのが聞こえてくる。
「え……」
戸惑いの口調。首を傾げ、恐る恐る、外の風景に意識を集中する。
一面、血の海になっていた。
「…………!」
言葉も出ない、とはこういうことを言うのだろう。キルファが息をのみ、目を見開くのがはっきりと感じられる。
――また自分がやった。自分のせいで、大勢の人々が死んでしまった。
自分のために。自分の――
「ああああああ……」
言葉にはならない。だが、強烈な感情がダレットにも押し寄せてくる。確かに、意識をはっきりさせておかなければ、巻き込まれかねないほどの強さだ。
それほどまでに、キルファの意志……自己嫌悪は強烈だった。
――どうして自分は生きているのだろう。これほどまでに罪を犯して、何の関係もない人たちを殺して、それでもなお。生きている資格なんかないのに。リュシウスも、いっそのこと殺してくれれば良かった。でも、あの男はこう言ったっけ。利用して苦しませることが私の復讐だ、と。成る程、それは正しいかもしれない。でも、もう耐えられない。
もうごめんだ。この世界も、復讐劇も、自分が犯した罪、これから犯すかもしれない罪、全部が!
お願いだから――誰もあたしに近寄らないで!
「…………っ!」
目の前の光景にダレットは硬直した。
<鋼鉄の女神>の前で、長剣を構える自分。何も考えず、知ろうともせず、剣を肩に引いて……
「……止めろ!」
制止は届かない。無意味だ。これは、過去の再現なのだから。
銀色の切っ先が宙を走る。それは正確に<鋼鉄の女神>の心臓部分に突き刺さった。
不意に、聞こえていたキルファの声が止まる。荒れ狂っていた感情の波が、一瞬にして静まり返る。まるで時間が止まったかのように。
ぷつっ――と、世界から一切が消え失せた。
音はない。光もない。目の前に広がるのは、永遠の虚無と静寂。
(ああ……)
闇に身を委ねながら、キルファは大きくため息をついた。
ここには誰もいない。何もない。だから……何も起こり得ない。一切は変化せず、ひたすら永遠が続く。
何と落ち着くのだろう。この暗闇は。
(死んだ、のよね……あたしは。死んだら全部が消えてしまうって母さんは言ってた気がするけど、変に意識だけ残ってる。実際はこんなもんなのかしらね? それとも、あたしの死に方が中途半端だったの?)
とりとめもなく考える。答えてくれる者など誰もいないと知っていたが、疑問はあとから沸いてくる。
(けれど、これでも良いかもしれない。ここなら、誰も傷つかない。あたしも他の人たちも。あたしがいなければいい……そうしたら、誰も死ぬことはない。どうせ人間とエルフは地道にいがみ合いを続けるんだろうけど、それはそれで本人たちの望んだことだし)
キルファは知っている。伝承の真実も、何もかも。<鋼鉄の女神>に残っていた情報が、彼女に全てを教えた。だが、そんなものはどうでもいいことだ。
昔の人々が自分に何を望もうと知ったことか。そんなものを一方的に押しつけられて、どうしろと言うのか。
(あたしが生まれたのはただの偶然。父さんと母さんがいたから。それだけのことに勝手に意味なんて見出されても、いい迷惑よ、こっちは)
自分には、何の価値もないのだから。そんな自分が、どうして『希望』でなどあるものか。
(ずっと一人でいればいい。そうすれば、何も起こらない。何も……)
ふと……何か、違和感がかすめた。だが、正体は分からない。圧倒的な安心感に、ささやかな感覚はあっさりと吹き散らされた。
ふっ……と、意識が闇に溶けるような感覚。心地良さだけを味わいながら、キルファは眠るように考えるのを止めた。
そのまま、何もしなかった。
あたしに近寄らないで。そうすれば、誰も傷つくことはないから。
キルファの声に、ダレットは唇を噛んだ。
悔しさだけが募る。そんなに……そんなに自分はちっぽけな存在だったのだろうか?
ここにいる。彼女の隣にいて、嬉しいと思った人間が。それでようやく、自分の進むべき道を見出せた人間が。
自分は傷ついてなどいない。彼女を憎いなどと感じてはいない。
それは……キルファには届いていなかったのだろうか。それほどまでに、彼女の中で自分は小さかったのだろうか。
信頼してくれていると思ったのは――ただの自分の幻想だったのだろうか。
「俺は……」
ダレットは呟いた。
周囲に広がるのは一切の暗闇。どうして自分が立っているのか、それすらも謎のような場所だった。足を動かしてみても、前に進んでいるのか、いまいち自信が持てない。方向という概念すら、思わず馬鹿馬鹿しくなるような場所なのだ。
ダレットは足を止める。そうして、上を見上げた。
そこにキルファがいるとは思わない。この世界全てが、彼女自身なのだから。だから、自分自身の意志を示すように、ダレットは決然として上を見上げ、言った。
「キルファ」
出来るだけ揺るぎのない声で、はっきりと――一呼吸置いて、告げる。
「俺は許さないからな。こんな場所に逃げて、全ての可能性を放棄するような真似は。
綺麗事を言って、何もかも放り出すよう真似は!」
暗闇に声が響く。その時、確かに世界が震えた。キルファの意志で構成された世界が。
ただ静かだった暗闇が、徐々に渦を巻き始める。
「確かに、お前のやったことってのは許されるようなことじゃないだろうな。それは否定しない。認めなくてはならないことだ、前にお前の言った通りにな」
かつて、朽ち果てた街で出会った住民たちに……命を守るために、言われるがままに人殺しをしていた連中に、彼女は同じ言葉をぶつけている。
「あの時、言ったよな。罪を償える方法なんてのは存在するのか、って。
それで? お前の見つけた方法ってのがこれか? 全部放り出して、一人で閉じこもるだけか。だとしたら随分な方法だな」
冷徹な口調。それはダレットも自覚していたが――無視して続ける。
「お前は何もしていないよ。ただ、がたがた震えているだけだ。自分のやったことの修復もしないで……それで満足か?」
返答はない。だが、明らかに気配が変わってきている。
「ここで全てを放棄するか。これから少しでも後悔したものを取り戻すか。
考えろ。そして答えろ、キルファ・インシード!」
周囲の暗闇が渦を巻く。それは一ヶ所に集まり、やがて、一つの形を取った。
「…………!」
闇の中から現れた少女の姿。
キルファは、凄まじい形相でダレットを睨み付けていた。
「あんた……」
キルファの口調に、かすかに嘲りの色が混じる。
「あんたもしつこいわね。こんなところまで追っかけてきたわけ!」
キルファは、今は<鋼鉄の女神>の主人だ。ダレットがキルファの意識に干渉していられるのは、あの少年の能力を用いて<鋼鉄の女神>の力を借りているためだから、ダレットがこの場所にいる理屈は、キルファはたちまちのうちに理解している。
「俺が考えなしの馬鹿だってのは、お前だって知ってるよな」
言って、ダレットは皮肉げに笑って見せた。
「だから、こんな無茶な真似もするさ。別に今に始まったことでなし」
「そうね。そうだったわね……」
キルファが呆れたようにため息をつく。
「それで。一体あんた、何しに来たの?」
「そりゃ無論、人の苦労も知らんでぐーすかと寝ているボケ娘を叩き起こしに」
「……苦労してたの、あんた? それはこっちの台詞よ。あんたにつき合って、あたしがどれだけ苦労してたと」
「こっちも色々大変だったんだよ。二回も牢に放り込まれるわ、死ぬ気で脱走する羽目になるわ」
そこまで言って、ふとサリクスのことを思い出す。あの場を一人に任せてしまったが……大丈夫だろうか?
まあ、あのサリクスのことだから、とは思うものの、今は信じることしか出来ない。
「はいはい。それはご愁傷様。それで、何しに来たわけ? 叩き起こすって……
馬鹿じゃないの? 死んでる奴をどうやって起こすのよ。あんただってそれくらいの理屈……」
「死んでるなら、こうやって喧嘩なんて出来ないだろ」
ため息をつきつつ言うダレットに、キルファの表情がかすかに変わった。
「生きてるんだと、お前は。お前が勘違いしてるだけでな。
だからさっさとその死んだ振りを止めろ。そうしないと本当に死ぬぞ」
「……別に良いんじゃない? それでも」
淡々とキルファは言った。
「どうせ、死にかけてる奴が本当に死ぬだけの話でしょ。大して何か変わるわけでなし」
他人事のような口調。ダレットが眉を寄せるのに気付いているのかいないのか、キルファは淡々と続ける。
「大体、あたしにとどめ刺したのあんたじゃないの。別に、そのことを追及するつもりもないけどさ……人に剣投げつけた奴が何を言うのか」
ダレットは唇を噛む。理由はどうあれ、それは違えようのない事実だ。
「ま、あんたのことだから、知らなかったんだろうけどね……そこまで頭回らないし。
それで、自分が人殺しになるのが恐いから、それを白紙撤回しに、こうやって他人の意識にまでちょっかい出しに来たわけ」
意地悪くキルファは言う。
「――人殺し、か」
キルファの言葉に、ダレットはかすかに笑った。どうしようもない自嘲と哀しさの混じった表情。キルファが怪訝な顔をした。
「もう遅い。今更撤回したところで……」
ダレットは呟く。キルファはその意味を理解していなかった。
「最初に会った時にも言ったわよね。あんたの満足のために生きてやる気はないって」
唇の端を歪め、キルファは言う。決定的な一言。
だが。
「別に、俺のために、なんて思わないけどな……俺はそこまで傲慢にはなれない。
お前はどうなんだ? ここで死ぬまで引きこもっているか、もう一度戻るか。
答えろ。お前自身の意志は、どうなんだと聞いている」
今度は、キルファが沈黙した。
