黒き河を往け

Case3 二つの妄執 - 第01話

 朝目覚めれば、何より大切な人が隣にいる。
 今思えば、それがどれだけ幸せだったことか――
 

「うー……」
 気の抜けたような声とともに、ラウディはのろのろと身体を起こした。
「朝か」
 まだ半分落ちた瞼のままで、一目瞭然なことを呟いた。
 窓のカーテンの隙間からは光が差し込み、外からはもう活動している人々の喧噪が聞こえてくる。今日は晴れらしい。爽やかな朝であった。
 だが、そんな明るい一日の始まりも、この男にはさしてありがたいものではない。彼にとっての朝とは、もはや当たり前となった事実の確認から始まる。
「…………」
 一人で眠るにはやや大きいベッドの、自分の隣に視線を落とす。
 そこには、くしゃくしゃになったシーツと毛布があるだけだった。そこに『何か』を感じるのは、多分、自分の気のせいなのだ。
 気のせい。その通りだ。今ここにいるのは自分だけなのだから。
「…………っ!」
 思わずシーツを鷲掴みにする。シーツにますます皺が寄るのには構わず、ラウディは荒く息を吐いた。
 頭の中で、ゆっくりと幻影が消えていく。
 柔らかく長い金髪。すうすうと寝息を立てる小さな顔。華奢な肩と細い手足、女らしさを象徴する胸のふくらみ。
 だが、その影は残る。彼女の姿が消えた跡にはぽっかりと空白が残り、皮肉にも明白に、彼女が存在したことを知らしめてくれる。
(……ああ)
 三年前から己の心を穿つ空白は、ますます輪郭をはっきりさせるばかりで、決して消えることはない。それはあまりにも苦しいのに、今やこの空白だけが、自分に残されたものだった。これを失うのは何よりも怖い。
「端から見たら、ただの未練たらしい男なんだろうな、俺は」
 呟き、自嘲気味に笑う。未だその影を忘れられず、空白にすらしがみつく哀れな男。
 彼女のほうは、もうとっくに自分のことなど忘れているかもしれないのに。
 かつて自分を魅了したのと同じ笑みを、知らぬ男に向けているかもしれないのに。違う男の腕に抱かれているかもしれないのに……
「……くそっ」
 泥沼に落ち込んでいく思考を、何とか食い止め、現実に意識を引き戻す。今は朝だ。いい加減起きないと、またあの小娘にやかましく言われる。
 二人用の、大きめのベッドから抜け出すと、顔を洗おうと部屋の外に出て行く。冷たい水は意識を引き締めるはずだったが、ラウディの瞼はまだ落ちかけたままだ。
 ごそごそと寝間着から着替える。いつも通りの白いシャツとズボン。シルーズはシャツにアイロンなどかけないので、ラウディが自分でやるしかないのだが、それはさぼって久しいため、着るシャツはいつも皺が寄っている。だが、それに気を払うほどの気力も沸かない。
 髪には三秒ほど櫛を入れただけだった。寝癖のついた髪が、それできちんとまとまるわけがない。短めの髪は好き勝手な方向に撥ねているが、それも気にするでもなく、ラウディはのろのろと居間に向かった。


「しかし、いつ見てもたるんどるな、貴様は」
 アバーラインはそのいかつい顔つきを更にしかめて見せた。
 アバーラインは事務所の応接間で、シルーズの持ってきた紅茶に口を付けている。アバーラインの来訪をシルーズに告げられ、応接間に入ってきたラウディを見たアバーラインの第一声がそれだ。
「別にあんたには関係ないだろうが」
 言ってラウディも顔をしかめた。が、そう言われても仕方がない。元々よれていた服は、椅子にだらしなく座っていたせいで、更に磨き――というか何というか――がかかっている。
「で、今日は何の用だ?」
 しかめ面のままラウディは切り出した。この知り合いに、客としての愛想を忘れて久しい。さんざん腐れ縁でこき使われれば、そうもなろうというものだが。
「先日の事件で、まだ処理し切れていない書類があってな。貴様が関わっていたことは非公式になっているが、アンダーソン主任が『善意の一市民』への謝礼を渡すとおっしゃったのでな、その手続きだ」
 数ヶ月間ケインズを騒がせた、切り裂き魔事件のことだ。解決したのは一月ほど前のことだが、未だ事務処理は続いていたらしい。
「面倒なもんだな、公僕ってのは」
 ラウディは嘆息した。
 警察と言っても、巡回や犯人逮捕だけをしていればいいものではない。国家組織に属する人間である以上、ついて回るのが書類仕事というものである。日々の報告から何やら、面倒なことこの上ないが、提出しないと後々厄介なことになったりする。
「それを言うな」
 言いつつ、アバーラインは肩が凝ったとでも言わんばかりに首をごきごきと慣らした。
 用があるならラウディを警察本部に呼び出せば良かったものを、わざわざ彼が書類を抱えて事務所を訪れたのも、もしかしたら書類仕事からの現実逃避なのかもしれない。
 押しつけられた書類に目を通しつつ、ラウディは顔を引きつらせた。
「……名前を書く欄が何ヶ所あるんだ、これ」
 中流階級以上はともかく、下層階級でまともに読み書きの出来る人間は少数派だ。ラウディはその少数派に属し、よほどの専門用語でもない限り、読み書きはこなせる。他の大多数は読めても書けなかったり、書けても自分の名前だけだったりする場合が多い。
「そのくらいで文句をたれるな。我々はその何倍も書いているんだ」
「そりゃ、あんたたちはそれが本業だからだろ。こちとら『善意の一市民』なんだよ」
 ぶつぶつと言いつつ、それでも臨時収入には勝てず、ラウディは書類に書き込んでいく。とは言え、所詮お役所のくれる報酬なので、たいした額ではないのだが。
 隣では、シルーズが臨時収入に目を輝かせている。彼女はアバーラインに、福音をもたらした天使を見つめるがごとき視線を向けていた。
「しかしまあ、『善意の一市民』がいなければ事件を解決できない犯罪捜査部ってのも、なかなか悲しいもんだな」
 ラウディはアバーラインに意地の悪い視線を向けた。
 むう、とアバーラインがうなるが、結局言い返せずに視線を逸らした。
 切り裂き魔事件を、捜査本部としては通り魔事件と見ていたのだ。そのため、特に被害者たちの関係については探らなかった。それが仇となり、解決が遅れた。もっともラウディとて、偶然シーラ・ハイドの名前に行き着かなければ同様だったわけだが。
「貴様がおかしいだけだ。捜査は現場を自分の足で歩くことから始めるものであってだな。実物を見もせずに捜し物をするなど邪道だ、邪道」
 アバーラインがうなるように言い返してくるが、シルーズは何とはなしに、だだをこねるように言い訳する子供を連想した。
「その邪道に頼り切ってたのはどこの誰だったんだか」
 ラウディが肩をすくめる。久々にこの警部を言い負かす爽快感に、ラウディはにやにやと笑った。
「万年人手不足だからな、うちの部署は。まったく、犯罪は増えても予算はちっとも増えん」
 珍しく、アバーラインが愚痴をこぼした。
 前の首都警察本部総監であったウォーレスは、何かにつけて犯罪捜査部を軽視した。彼は辞任したが、その影響が簡単に消えるわけがない。
「ま、世の中ってのは、悪と戦う前に予算と戦わにゃならんもんなんだよ」
 金がないと喚くのはどこも同じらしい。ペンを走らせつつ、ラウディもそれに同意した。
「かつてのゴッドリー警部のような人物がいてくれれば、人が少なくても何とかなるのかもしれんがな」
 独り言のように言ったアバーラインの言葉に、ラウディとシルーズは揃って首を傾げた。
「誰? その……ゴッドリー警部って」
 二人を代表してシルーズが尋ねる。
「何だ貴様たち、ゴッドリー警部を知らんのか。……まあ、シルーズは知らなくとも無理はないが」
 アバーラインが言う。
「俺も知らないぞ、そんな奴は」
 ラウディが手を挙げる仕草をして言うのに、アバーラインは呆れた顔をした。
「なんだ貴様、あの名刑事を知らんのか。それでも探偵業か」
「知らん。名刑事って、そんな内部の評価を俺が知るか」
 ラウディが肩をすくめる。
「まあいい。ゴッドリー警部は、十年ほど前に犯罪捜査部にいた刑事だ。私は当時は違う部署にいたから顔を合わせたこともあまりないが、その推理力はまさにヤード随一と言われていてな、刑事にかかればどんな難事件もたちどころに解決と言われ……」
 何やら熱弁を振るいだしたアバーラインを、ラウディが遮った。
「十年前って、犯罪捜査部ができたばかりの頃じゃないか?」
 ラウディの問いに、アバーラインはああ、と頷いた。
 首都警察本部が発足したのは四十年ほど前だが、そこに犯罪捜査部という部署が創設されたのは十年ほど前のことである。実際は、まだ新しい部署なのだ。
「ゴッドリー警部は犯罪捜査部の発足時からいた刑事だ。元々は巡査だったのが、創設にあたって刑事として引き抜かれたらしい。つまりその頃からその敏腕ぶりで知られていたのだな。
 それから数々の難事件を解決したのだが、不幸な事件があって、一年足らずで退職せざるを得なくなってな。今も惜しいと私は思っている」
 最後はうなるようにアバーラインは言った。
「……不幸な事件?」
 シルーズが鸚鵡返しに尋ねる。
「厄介な事件が起こってな、その捜査の主任がゴッドリー警部だったのだ。しかし、とうとう犯人が挙げられず、あちこちから叩かれて、その責任を取る形で退職された。周囲はゴッドリー警部に期待していただけに、その反動も大きかったのだろうな」
 まったく残念なことだ、とアバーラインは付け加えた。
「十年前……事件……ねえ」
 ラウディが記憶を探る。十年前と言えば、ラウディはまだ探偵などではなく、下町の少年にすぎなかった。<術式>の修行をしていた頃だ。
「……もしかして、マクレイン事件のことか?」
 思い出したように言うラウディに、アバーラインは頷いた。
「そういやあれも随分騒がれたっけな。今日び、解決してない事件なんてごろごろしてるが。……何だっけか、あれも変な殺され方をしたんだっけか」
 記憶を辿るように、ラウディは呟いている。話から一人置いていかれたシルーズが、所在なげに尋ねた。
「何、そのマクレイン事件って」
 ラウディとアバーラインは顔を見合わせる。ラウディが肩をすくめてみせると、アバーラインが、かつての事件の概要を話しだした。
 

 マクレイン事件、というのは、被害者の名前を取ってこう呼ばれている。
 十年前、イーシャ・マクレインという女性が殺された。二十代半ばの女性だ。特筆すべき点はやはりその残虐な殺し方で、腹をめった刺しにされていたのである。
 どんな恨みのある人間の犯行かと、世間は騒然となった。注目される事件の早期解決のために投入されたのが、件のゴッドリーだったのである。
 イーシャの夫はエリック・マクレインという植字工だった。捜査本部がイーシャの周辺を探るうち、夫婦の不仲が知れ、捜査陣はまずこの夫を疑った。
 だが、この夫にはアリバイが成立した。疑いを晴らした夫は、「こいつが犯人だ」と、一人の男の名を挙げたのである。
 夫婦の不仲の理由は、イーシャが不貞をはたらいたためだった。妻の不貞はそれだけで離縁の理由になりうる。離縁すると騒ぐ夫に、イーシャは「もうあの男とは別れた」と言ったというのだ。
 つまり夫の主張は、別れを告げられた妻の不倫相手が、逆上してイーシャを殺したのではないか、というのだ。動機としてはあり得る話だったが、嫉妬した夫の思いこみかもしれず、簡単に逮捕するわけにはいかない。
 ともあれ、次に捜査陣の目はその不倫相手、ドイル・ホバートに向けられた。このドイルにはアリバイが成立せず、捜査陣や世間はこいつが犯人か、と色めき立った。
 更に、ドイルには不審な点がもう一つあった。
 殺人事件が起こったのは冬だった。このケインズの冬は厳しく、毎年その日暮らしの人間たちに凍死者が出る。それなのに、ドイルはコートを持っていなかったのだ。
 それを、イーシャを殺害した際に返り血がコートについたために隠したのだろう、と推理したのがゴッドリーだった。
 ドイルは日雇いの労働者だったから、そう簡単に分厚いコートは買えないはずだ。コートがないとなれば、それなりの理由がなければおかしい。殺人は状況から突発的なものと思われたから、ゴッドリーの説は信憑性があった。
 となれば、何よりの物的証拠はその血の付いたコートである。ドイルの持ち物から血痕のついたものが発見できれば、それ以上の証拠はない。捜査本部はやっきになり、血の付いたコートを探した。
 だが、とうとうコートは見つからなかった。
 証拠を挙げられない捜査陣に、世間や上層部もやがて冷ややかな目を向けるようになった。更に、疑われたドイルは逆に警察を非難したのだ。「確たる証拠もなしに、人を犯人扱いするとは何事か」と。
 捜査陣、ひいてはゴッドリーはさんざんに叩かれた。特に犯罪捜査部は発足してまだ間もなく、今後のためにも失敗は許されなかった。ゴッドリーは犯罪捜査部の面子を丸つぶれにしてしまったことになる。
 結局、上層部から圧力をかけられ、ゴッドリーは責任を取る形で退職させられることとなった。
 主任の退職を機に捜査本部も解散させられ、この事件は未解決のまま現在に至っている。
 

「ほえー……昔もそんな事件があったのねえ」
 シルーズが感心したように言った。十年前と言えば、シルーズはちょうど生まれたばかりの頃だ。
 残虐な殺し方、というと、先日起こったばかりの切り裂き魔事件を思い起こさせる。連続殺人ではないものの、物騒な事件は昔からあったということか。
「その時は『善意の一市民』はいなかったのかね」
 ラウディが意地悪く言った。
「何とでも言え。だがあの一件までは、本当に有能な方だったのだぞ」
 そう言うアバーラインの口調は、どこか子供のようだった。尊敬する人物を語る子供。アバーラインにとって、この人物は憧憬の対象であったらしい。
「まあ、昔のことだ。だが、あの人並の刑事というのは、私は見たことがないな」
 言ってうむ、とアバーラインは頷いた。
「そのゴッドリー警部ってのは、退職後はどうなったんだ?」
 ラウディが尋ねる。
「さあ、そこまでは知らんが、ケインズから離れられたとは聞いたな。元は地方の出身だったそうだから、そちらに戻ったのかもしれん」
 アバーラインが答える。
「ま、そんなもんか」
 上層部から睨まれたのでは、復職も難しいだろう。そう思い、ラウディはそれ以上の興味をなくした。
 臨時収入のため、ラウディは目の前の作業に集中することにした。

 

 
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