Case3 二つの妄執 - 第02話
頭上を、鳥が群れをなして飛び去っていく。
空を見上げて鳥の数を数え、もう渡り鳥の季節かと、ジョージ・ゴッドリーは呟いた。
手にしていた鍬《くわ》を置き、伸びをする。まだ腰に気を遣うような年齢ではないと思っているが、農作業は重労働だ。少しくらい休んでも罪にはなるまい。
近くの切り株に腰を下ろし、ゴッドリーは何とはなしに周囲を見回した。
小さな木の小屋。ささやかな畑とそこで育つ野菜。地平線の一部がくすんで見えるのは、あの辺りは工場が多いから、その煙のせいだろう。
この小さな場所が、今の自分が生きる場所だった。
あの、人が溢れる大都市にいたのは以前のことだ。今戻っても、自分を受け入れてくれる者はいない。
「……九年か」
もうそんなになるか、と呟く声には、わずかな感慨が混じっていた。
あの街――ケインズを離れたときには、これから自分は生きていけるのだろうかと思ったものだ。だが結局、今も自分は生きている。
「こんなところで恥をさらしながら……か」
自嘲の笑みを浮かべる。
名刑事との評価を受けていたのは昔のことだ。マクレイン事件で彼は職を追われ、故郷である郊外の農村に戻った。以来、そこで農作業をしながら生活している。
それに呆れずについてきてくれた妻も三年前に他界し、子供たちも既に家を離れた。一人寂しく老年期を迎えようとする男。それがゴッドリーだった。
その姿に、かつての名刑事の面影はない。
先日、久々に鏡を覗き込んだ。そこに映る男は見るからに情けない老人で、これが自分かと恐ろしくなり、思わず顔を背けてしまった。それ以来、鏡を見ていない。
(このまま死ぬのか、俺は)
名誉も何も奪われたままで、ここで誰にも知られず。ケインズを追われた十年前は、それが怖くてたまらなかった。だが最近は、それを恐れる気力すら失せてきている。
それこそが本当に恐れるべきものなのだ、とうすうす気づいてはいても。
「…………」
再び畑を見回す。今日のところは、こんなところで良いだろう。少し早いが、家に戻ってゆっくりしよう。
そう思い、ゴッドリーは農具を片づけて小屋の中に入ろうとする。
「ん……?」
扉のすぐ側にある郵便受けから、何やら紙片の一部が飛び出しているのを見つけた。
この郵便受けが仕事をしたのは数年ぶりだ。若い頃に故郷を飛び出してケインズに移ったゴッドリーには、未だ付き合いのある幼なじみなどはおらず、ケインズでの知己たちも、彼が職を追われた経緯を知っているため、ろくに連絡も取ろうとしない。
「物好きもいたもんだが……」
そう呟きつつも、口元は自然にほころぶ。他人に自分のことを気にかけて貰えるというのは嬉しいものだ。田舎で世捨て人のような生活をしていても、それは同様である。
封筒をひっくり返し、差出人の名前を確認する。
「……エーカー?」
差出人、ジョセフ・エーカー。かつて刑事をしていた時の部下だ。そそっかしい男で失態も多かったが、反面性格は素直だった。そのためか憎むに憎めず、ゴッドリーはあれこれと世話を焼いたものだ。ゴッドリーの退職が決まったときも、一緒に憤ってくれた数少ない人間だった。
ゴッドリーがこの地に移ってきた当初は、随分まめに連絡をくれたものだが、最近は滞りがちだった。そのエーカーが、何の用だろうか。
「ふむ……」
怪訝な顔をしつつ小屋の中にはいると、いそいそと封を切る。癖のある、読みにくい字も今は懐かしい。出てきた手紙に、食い入るように目を通した。
「…………」
文面は短いものだった。だが、それを読んでいる間、息をするのすら忘れていたかのようだ。読み終えると、ゴッドリーははあはあと大きく息をした。
何度も何度も読み返す。内容を頭の中で反芻する。告げられた一つの事実だけが、頭の中をぐるぐると回っているようだ。
ゴッドリーは大きく息を吐き――
「…………」
とりあえず、夕食の支度を始めた。
ランプの光が、ゆらゆらと部屋に陰影をつける。ケインズではガス灯も普及してきているが、それは街灯に限られ――中毒の危険性がある上に、まぶしすぎて室内には不向きなのだ――、まだ一般家庭で使われるのはランプである。
夕食は食べた。雑務もこなした。後は眠るだけ……その状態になってから、ゴッドリーはもう一度、夕刻に届いた手紙を取り出した。
もう一度、最初からゆっくり内容を読み返してみる。
十年前、ゴッドリーはドイルが犯人だという証拠を挙げられなかったが、反面ドイルが犯人でないという証拠もなかった。逮捕はされずとも、周囲からの色眼鏡越しの視線は残り、ドイルもケインズでは過ごしにくかったのだろう、ゴッドリーの退職後に彼も海を挟んだ隣国に渡ったという。それは、ゴッドリーも風の噂で聞き及んでいた。
そのドイルが最近、ケインズに舞い戻ってきたというのだ。それが、かつての部下からの連絡だった。
「…………」
手紙を前にしてゴッドリーは黙考する。
本来なら、もう自分には関係のないことだ、とかつての部下を叱責するべきところだ。マクレイン事件は十年前のことであり、自分はもはや何の権限も持っていないのだから。外国に渡ったドイルが、故郷が懐かしくなって戻ってきても、何の不思議もない。
だが……
(それでいいのか)
心のどこかで、そう囁く声が聞こえる。
鬼刑事、名刑事と言われた男も墜ちたもんだ。たかだか退職させられたくらいで、自分には関係のないことだと無視を決め込むのか。いったん引き受けた事件なら、地の底まで犯人を追っていって捕らえてみせろ……
警部時代のゴッドリーは、明快な推理もさることながら、その執拗さで知られていた。己の推理に確固たる自信を持ち、何度も何度も自分の足で現場を調べ、食らいつく。その成果が数々の難事件の解決だったわけだが、彼を尊敬する人間が多いのと同じくらいに、その執拗さを恐れる人間が多かったことも確かだった。
「…………」
いつの間にか、ゴッドリーの目つきは触れれば切れそうなほどに鋭くなっていた。
それは、余生に希望を持てない老人のものではない。目の前の困難に挑もうとする男のものだ。
ゴッドリーは立ち上がる。その目に迷いはなかった。
今度こそ真相を突き止める、そんなご大層な理想はない。十年前に出来なかったことだ、今となっては当時の何倍も困難だろう。
ただ知りたかった。
鬼刑事、ジョージ・ゴッドリーの、最後の推理が正しかったのかどうか。
黙々と、ゴッドリーは旅の荷造りを始めた。
「まったく、あの馬鹿、少しは整理とか何とかしなさいよねっ!」
頭に三角巾をかぶり、手にははたきという格好で、シルーズは喚いた。
事務所の掃除をしているのだ。ラウディはまったく整頓などに気を遣わない男のため、シルーズがそういった雑用をすることになる。もっともシルーズもしょっちゅう掃除をするわけではないため、事務所から埃が消えたことはまったくないのだが。
今日シルーズが手を付けようとしたのは、ラウディの私室だった。物などにはまったくこだわらないラウディであるから、小物がやたらと多いなどといったことはない――ベッドの辺りなどは、恐ろしいほどの殺風景である――のだが、机とその側の棚には、冊子や新聞が山積みになっている。
新聞が毎日数種類、年鑑といった冊子類。それは年々たまる一方だ。探偵という職業柄、必要となる資料は多く、捨てるわけにもいかないのである。きちんと整理をしなければ役に立てることも出来なさそうなものだが、ラウディ曰く「どこに何があるかは覚えてるから良いんだよ」ときた。
「だったら一番下の新聞を山を崩さずに取り出してみなさいよ」
山積みになった紙を前に、シルーズは毒づいた。
紙の束というのは、体積の割に重量がある。子供のシルーズでは、それを全部避けて掃除するなどということは出来ない。積んだ束の上にはたきをかけるだけだ。
ぶつぶつと言いながら、それでも手際良く掃除をしていく。一枚だけ飛び出した新聞があり、日付を覗き込んでみたところ、三年前のものだった。
「そんな前からさぼってるわけね、あいつ」
嘆息する。
実のところ、シルーズがラウディの事務所に居候するようになったのは一年強前からなので、それ以前のラウディについてはあまり知らない。ラウディはシルーズの母の弟……叔父に当たるが、それまではあまり付き合いがなかったのだ。
そんなわけであるから、初めてラウディに<術式>を見せられたときなどは、目を丸くしたものだ。それから一年、あまり見かけない在野の術者をこき使う程度には、その存在にも慣れたが。
文句を言いつつも、基本的にシルーズは何か作業をするのが好きな娘だ。口ほどには面倒くさそうでもなく、掃除を終わらせると、部屋を見回した。
「よしっと」
ふう、と額の汗をぬぐう。
「……しかし」
気になるのは、乱雑に積み重ねられたままの年鑑だ。分厚い本のため、シルーズが簡単に動かせる物ではない。だが、せっかく掃除したのに見た目が散らかったままというのは気に食わない。
「何とか動かせないかしらね、これ」
言いつつ、本の山に手をかけた。軽く力を入れてみるが、やはり、簡単には動かない。
「うー」
しかし、諦めるのも悔しい。体重をかけ、押し込んでみる。ずずず、と山が動いた。
「これで何とか……」
言いかけたところで、山の一番下にあった本が、机の端を越えた。となると。
「うきゃあああっ!」
甲高い悲鳴と、ばたばたばた、という音が重なる。
積んであった年鑑が均衡を崩し、まとめて机から落ちた。落下した本の一つが、まともにその角をシルーズの足にぶつける。
「くうううっ……」
今のはかなり痛かった。重い本の、それも角である。多分、数日後には大きい青あざができてしまうだろう。骨にひびが入っていそうな気すらする。
「いったあ……」
涙目になりつつ、しばらく手でぶつけたところを押さえていたが、やがて痛みも治まってきたのでよろよろと立ち上がる。本を整理しようと手を付けたのだったが、それが床に積み重なったこの状態は、いったいどうすれば良いのだろうか。
ラウディは今留守なので、シルーズの悲鳴にも飛んでくることはなかったが、自室を散らかされてはさすがに文句を言うだろう。掃除してやるとさんざんに恩を売った手前、それはまずい。
何とか元に戻そうと山を睨んだシルーズは、ふと間に挟まった紙片を見つけた。破れた本のページや新聞とは違うようだ。
「…………?」
興味を覚え、その紙片を引っ張り出してみた。
厚めの紙だった。今までに見たことのない紙だ。だが、問題はそこではない。
「これ……もしかして、写真、ってやつ?」
紙片には、今までに見たどんな細密画よりも正確に、一組の男女の姿が写し取られていた。
写真。それがどんな原理でもって動く機械なのかシルーズは知らないが、風景をそのまま紙に写し取れるのだという。正直、シルーズはその必要性がよく分からなかったが、目新しいものへの興味はあった。
まさかその写真が、自分の家にあるとは思わなかった。無論、シルーズは実物を見るのは初めてである。
「ほえー……」
掃除中であることも忘れ、シルーズは手にした写真に夢中になる。食い入るようにその画を見つめた。
映っているのは男女二人である。となると、まず気になるのは。
「誰だろ? これ」
ということだ。
「……って、あ」
呟いてすぐに気づいた。二人のうち、男の方はラウディだ。気づいてから見てみれば、顔や体格はほとんど変わらない。だが、いつも顔を見ている彼とは決定的な違いがあった。
写真の中のラウディは、髪をきちんと整え、折り目の付いた服を着ていた。やや緊張した面持ちで、前を見つめている。
その姿に、いつものだらしない男の面影はない。写真の中の男はきりっとした雰囲気を漂わせる、見るからに『好青年』だった。そのあまりの差に、すぐには誰だか分からなかったのだ。
これがあのラウディか。呆れるより先に感心した気分で、シルーズは写真を見つめていた。あの男も、こんな顔をすることがあったのだ。
「…………」
だが、男がラウディなのは分かったが、その傍らの女性には、本当に見覚えがなかった。
写真は白黒の濃淡でしか画《え》を表さないので、実際の色は分からないが、金髪と思われる女性の髪は長く、丁寧に結い上げられている。ほっそりした身体に上品な服をまとい、その身体の線は古代の彫刻のような均衡を感じさせる。
肌には汚れ一つなく、目はぱっちりと大きく、小さな唇は愛らしい。白黒の写真の向こうからでも、その透き通った肌と紅い唇が浮かんでくる美人だった。
「これだけの美人だったら……一度見れば覚えていそうなもんだけど」
呟き、シルーズはもう一度首をひねるが、やはり記憶にはない。
写真は、女性が椅子に座り、その傍らにラウディが立つという構図だ。緊張した顔のラウディとは対照的に、女は柔らかく微笑んでいた。男なら誰しもが心奪われそうな笑み。
「誰だろ……この女の人?」
写真を手に、シルーズは首を傾げる。
自分はこの女性を知らないから、写真が撮られたのはおそらく一年以上前だろう。普段のぐうたらぶりから意識することはあまりないが、ラウディとて大人の男なのである。女と関わるのはむしろ当たり前のことだ。
「……って」
そこまで考えて、シルーズは最大の可能性に思い至った。何だって、こんな単純なことに今まで気づかなかったのか。
そこで、事務所の入り口の扉が開く音がした。
「やばっ!」
ラウディが帰ってきたのだ。しかし目の前はこの惨状である。
どうやって誤魔化そうかと、シルーズは頭を抱え、とりあえず隠れてみることにした。
