Case3 二つの妄執 - 第05話
「な……」
その報告を聞いたアバーラインは、一瞬、顎が落ちるかと思った。
アバーラインは、アンダーソン警部の下で捜査に従事することが多い。そのため、現在担当している事件は、先日起きたドイル・ホバートという男が殺された事件だ。
その重要参考人を見つけたと聞いたときは、この事件は早々に解決するかと思ったものだ。だが、その参考人の名が問題だった。
「ジョージ・ゴッドリー……本当に『あの』人か?」
そう聞き返す声は、呆然としている。
「そうみたいです。主任と顔見知りのようでしたから。今、主任が話をしてますけど」
ゴッドリーを連行してきたらしい、まだ若い刑事は、そうアバーラインに告げた。
「……分かった。それについては主任の指示待ちだ。我々は通常の捜査を続ける」
冷静を装ってアバーラインが言うと、若い刑事は頷き、離れていった。
(……まさか)
だが、内心はまだ動揺している。
アバーラインは、ゴッドリーと直接の面識はない。アバーラインは犯罪捜査部発足時には別の部署におり、その後異動になったのだ。だがそれでも、一年足らずしかいなかった『鬼刑事』は有名であり、アバーラインも刑事となったときには、密かに彼を目指そうと思ったものだ。
その鬼刑事を、まさか取り調べる立場になるとは。
いや、ゴッドリーが犯人のはずはない。彼はまさに犯罪者の天敵だったのだから。
そもそもゴッドリーには動機がない。確かにゴッドリーは、未解決で終わらせてしまったマクレイン事件について悔しい感情を持っているだろうが、その容疑者であったドイルを殺す理由は見つからない。ゴッドリーとしては、是が非でも証拠を揃え、『捕らえ』たかったのであろうから。
「殺す……理由がありそうなのは」
動機がありそうなのは、別の人間だろう。マクレイン事件の概要を思い出しながら、アバーラインは呟く。
そこに、先程の刑事が再び戻ってきた。
「どうした?」
いぶかしげな表情をしながら尋ねる。
「はあ……何だか玄関に、この事件の詳しい内容を教えろとか喚いている奴がいるとかで」
戻ってきた刑事も、困った顔をしながら言った。
「さっさと追い返せ、そんな連中は」
アバーラインは呆れ顔で言う。実際、何か事件が起きるたびにそういった連中はいるのだ。下世話な新聞記者だったり、野次馬根性の飛び出した人間だったり、相手にしていたらきりがない。
「はあ、それはそうなんですけど」
なおも刑事は言いにくそうに続ける。
「エリック・マクレインって確か……その、十年前の事件の関係者ですよね?」
その名前に、アバーラインは再び目を見開いた。
「エリック・マクレインは、マクレイン事件の被害者の夫だ。……まあ、その男なら被害者のことを知れば押しかけてくるかもしれんな」
自分でも驚くほど冷静に、アバーラインは後輩に答えていた。
「……どうします?」
情けない顔で後輩が尋ねてくる。そのくらい自分で判断しろと思いつつ、アバーラインは嘆息した。
「分かった、私が行こう。お前は聞き込みに戻れ」
そう言い、アバーラインは歩き出した。
とりあえず、いつまでも入り口で喚かれても迷惑なので、空き部屋の一つにエリックを案内した。
「生憎と、外部の人間を入れることはあまりない場所でしてね、ここは」
エリックに座るよう促し、自分もソファに座りながらアバーラインが言う。エリックは、殺風景な部屋を見回しながら、はあ、とそれに生返事をした。
「ええと……本当なんですか? その、ドイル・ホバートが殺されたというのは」
エリックが気弱そうに尋ねてくる。どうもアバーラインに怯えているようだ。確かにアバーラインはいかつい顔つきと上背で、犯人を恫喝するには向いていたが、客人の相手をするには不適当と言わざるを得ない。
「それは間違いないことです。新聞にも掲載されていたはずだ」
「はあ……同姓同名、とかじゃなくて、本当にあいつなんですよね……?」
エリックの言う『あいつ』とは無論、かつての妻の愛人のことだろう。アバーラインは頷いた。
「まだ、十年前の事件に関わった刑事もおります。その中で以前ドイル・ホバートを見たことのあった者が確認しました。間違いありません」
淡々とアバーラインが言う。次の瞬間、エリックの表情が一気に脱力したようだった。
(まあ……無理もないが)
黙り込んでしまったエリックを見ながら、アバーラインは思う。
かつてエリックが強硬にドイルが犯人だと主張していたのは、アバーラインも聞き及んでいる。その恨み骨髄の相手にいきなり死なれたのでは、無理もないだろう。
「それで……犯人は捕まったんですか?」
その言葉に、アバーラインは反応せず、黙考した。
動機云々を考えるなら、むしろ怪しいのはこのエリックである。妻を殺した犯人――証拠は挙がらなかったが、彼はそう思っていた――がケインズに戻ってきたことを知り、復讐に走った、という構図はしっくり来る。
もっともそれならば、何のためにわざわざ警察にまで来たのか、という疑問が残るが。普通ならまずケインズから離れるところだろうが、その裏を掻くためにここに現れた、という考え方も出来る。疑いだしたらきりがない。
「……いえ、現在捜査中です」
結局、アバーラインはそれだけ告げた。
ゴッドリーのことについては触れない。捜査機密である上、ゴッドリーもエリックにとっては因縁浅からぬ相手だ。
「そうですか……いやですね、あの男がケインズに戻ってきたと聞いて、証拠がないと逮捕できないのなら、今度こそ証拠を見つけてやるつもりでいたんですよ。でも、犯人が死んでしまったら、逮捕なんか出来ないんですよねえ。
……そりゃ、殺されたなんてのは天罰が下ったんでしょうよ。でも、あいつは絞首台に上らなくてはならない奴でしたよ」
ぶつぶつとエリックは言う。アバーラインはその言葉に、思わず寒気を感じた。
(……きっと)
この男の時間は十年前から進んでいないのだ、そんな風にアバーラインは思う。
妻を失ったその時から。犯人だと思いこんだ男の恨みだけを抱き、未来を見ていない。彼にとっては、あの事件はまだ昨日のことなのだろう。
それについて、アバーラインはかけるべき言葉を持たなかった。ただ、自分がそうなったらと思うのは、あまりに恐ろしい想像であることだけが分かる。
だが、嫌悪感はなかった。……自分はどこかで、この男に似た存在を見なかったか。
「いや、被疑者死亡のまま逮捕、ということもありますが」
思わず、アバーラインはそんな見当違いの返答をしてしまった。だが、エリックもそれを真面目には聞いていなかったようだ。
「言っちゃ悪いですけど、前に警察の方は証拠を見つけられませんでしたから、今度は探偵の方に頼むつもりでいたんですよ。捜し物で有名な方なんですけどね……」
そこまで聞いたところで、アバーラインは嫌な予感がした。
「不躾なことをお聞きしますが。その探偵というのは……」
「チャリオットさんとおっしゃる方です。会ってみて驚いたんですが、まだお若い方でしてね」
思わず手を挙げて尋ねたアバーラインに、エリックは何気ない風で答えた。
「……またあの男か」
どうしてあの男は、毎回自分の担当事件に絡んでくるんだ。そう心の中で呟き、アバーラインは思わず顔を手で覆った。
「もしかして、お知り合いなんですか? チャリオットさんと」
エリックが首を傾げて尋ねてくる。
「ええ、まあ……」
思わずアバーラインは正直に答えてしまうが、それにエリックは顔を輝かせた。
「それならちょうど良いじゃないですか。警察とチャリオットさんに一緒に捜査してもらえば、あの事件の犯人もドイルを殺した奴も見つかりますよ」
名案だとばかりに、にこにこ笑ってエリックが言う。が、その一言にアバーラインはがくんと脱力した。
「いや、我々犯罪捜査部としては、部外者に機密を漏らすわけにはいかないのです。そもそも外部の人間と共同捜査などということは……」
アバーラインは反論しかけるが、何しろ以前の切り裂き魔事件でそれと似たことをやっているため、大きな声で言えない。そう言う声は彼には珍しく、自信なさげであった。
「第一、私が個人的にチャリオットと知り合いというだけで、捜査本部にはまったく関わりのないことなのですから」
前回の件で、主任のアンダーソンはラウディについても名前だけは知っているが、まさかアンダーソンもラウディに協力を依頼しろとは言うまい。
「はあ……そんなもんなんですか」
犯罪捜査部も国家組織の一つである以上、融通が利かないのは仕方がない。エリックは落胆した顔をする。
「ともかく、我々は、十年前のあなたの奥方が殺された事件とは別件として、今回の件を捜査します。マクレイン事件が絡んでいる可能性はありますが、それ以外の可能性も無論あるのですから」
声の口調を強くして、アバーラインは言い切った。エリックの気持ちも分かるが、こちらも職務としてやっている以上、一個人の感情に付き合うわけにはいかない。……いい加減、エリックの愚痴めいた話に付き合うのが嫌になったせいもあるが。
「はあ……」
それでもエリックは何か言いたげだった。少し躊躇った後に再び口を開く。
「なら、こちらも独自にその、探偵さんにお願いして構わないのですよね? お互い不干渉で行くのであれば」
市民が独自に動くのを、犯罪捜査部が妨害する権利はない。だが、今回は事件が事件だ。エリックの動きが、捜査に障害になる可能性は十分にある。
(後でラウディの奴に念押ししておくしかないか)
そう心の中で確認し、ようやくアバーラインは頷いた。
エリックもこれ以上話すことはなくなったのか、アバーラインにそれを告げると、退席した。エリックを見送り、アバーラインは大きく息を吐く。いつから自分は市民担当課になったのか。
エリックがどうするつもりかはよく分からないが、とりあえず、一度ラウディと話はしておいた方が良いだろう。まったく、腐れ縁だ。
「はあ……」
珍しく、アバーラインは大きくため息をついた。
重要参考人として拘束されたとは言え、アリバイがないということの他に、ゴッドリーに特に怪しいところはなかった。
彼はさすがに捜査の実情を知っていて、刑事たちの質問にも明快に答える。理論的に自分の行動を説明されると、聞いている刑事たちも、それがまったく正しいように思えてくるのだ。
「……まあ、一筋縄では行かない人だからな」
アンダーソンはそう言って苦笑した。さすがにアンダーソンは、ゴッドリーの振る舞いに慣れている。
最初に自らアリバイがないことを暴露したのも、犯罪捜査部に留まるためではないかとすら思える。まだマクレイン事件の解決を諦めていない彼にとっては、捜査本部から情報を得るのが一番早い。
「マクレイン事件の捜査は進めるのですか?」
アバーラインは、傍らの上司にそう尋ねた。
「今のところ、マクレイン事件と今回の件の関連性は見あたらない。だが、可能性は考慮しておくべきなのだろうな」
遠くを睨むようにして、アンダーソンは答えた。
「実は、昨日のことなのですが……」
そう前置きして、アバーラインは、エリックとのやりとりをざっと報告した。アンダーソンが息を吐く。
「そうだな、ならばアバーライン、お前はマクレイン事件についても調査してみてくれるか。調査記録を当たって、現在に関連しそうなものがあったら報告すること。
……本来なら私がやるべきなのだろうがな。以前の担当の一人だったことでもあるし」
「……そうなのですか?」
初耳だ。この上司も、マクレイン事件の捜査本部にいたのか。
「まあ、昔の話だ。……だが、まだあの事件が終わっていない人間は多い」
ふと、そんなアンダーソンの呟きが聞こえた。
アバーラインは、並んでいる拘置室の扉の一つの前にいた。軽く扉を叩く。
扉の向こうには、ゴッドリーがいるはずだ。大先輩を前にするとあって、わずかに緊張していた。
扉の向こうから、怪訝な声が返ってくる。もう、今日の取り調べは終了したつもりだったのだろう。
「失礼します」
拘置室の性質上、鍵は外からしかかけられない仕様になっている。扉を開けると、アバーラインは一礼した。
「何なんだ、お前は」
ゴッドリーがぎろりと睨んできた。アバーラインはゴッドリーを見るのは初めてだが、思い描いていた姿との差に、わずかに目を見開く。
警官や刑事には体格のいい男が多いが、その中で、ゴッドリーは小男だった。歳の割に髪は白く、身体も痩せてひょろりとしている。だが、その眼光だけが誰よりも鋭かった。印象を一言で言い表すなら、『狐』だ。
「ドイル・ホバート殺人事件の担当です」
律儀にアバーラインは答えるが、ゴッドリーはそれにふん、と鼻を鳴らした。
「そんなことは分かってるっての。俺に用があるなら取調室に引っ張り出せば良いだろうが」
じろじろとアバーラインを見ながら言って寄越す。思わずそれにいたたまれなくなりつつ、アバーラインは説明した。
「いえ、あなたの取り調べではないのです。少々、ご協力頂きたいことがありまして」
慇懃にアバーラインは言った。ゴッドリーが怪訝に眉をひそめる。
「被害者は、十年前のマクレイン事件の第一の容疑者でした。そのことと今回の関連は分かりませんが。……それで、もしよろしければ、十年前の事件について教えて頂けないかと」
その言葉に、ゴッドリーが一瞬にやりと笑った気がした。とは言え、すぐにその表情は元のしかめ面に戻る。
「そんなもん、調査記録でも何でも漁れば出てくるだろう。いちいち俺に聞くな」
「それはそうなのですが、……その、以前刑事だったあなたの目から見て、この事件と関わりのありそうなことはあるか、と」
ゴッドリーが、今度こそはっきりと笑った。『狙い通り』といった表情だ。
アバーラインに、ゴッドリーに話を聞きに行くように言ったのはアンダーソンだった。アンダーソンはおそらく、このゴッドリーの反応を予想していたのだろう。
この二人、どちらがどちらに踊らされているのかも分からない。だが、自分には及びもつかないことだと、アバーラインは密かに息を吐いた。
「とは言っても、俺はドイル殺しの状況くらいしか聞かされていないんでな。あとは、お前の同僚たちがあれこれこっちに聞いてきただけだった」
ゴッドリーが肩をすくめる。
「エリック・マクレインも、今度こそ犯人を捕らえるとやっきになっているようです。昨日、ここにまで押しかけてきましたよ」
「ほう。あの気弱な男も、まだそんな恨みが残っていたか」
ゴッドリーは、むしろ感心したような顔をした。
「まあ、あのエリック坊やは置いておいて、だ。
当たり前のことだが、事件には必ず原因がある。そうでなきゃ事件なんぞ起きん」
静かにゴッドリーが言う。『大先輩』の言葉に、アバーラインは神妙に頷いた。
「まあ、通りすがりの金取りに襲われて死ぬ奴もいるけどな。それにしたところで、たまたま通りかかったという原因はあるわけだ。怨恨だの金の貸し借りだの、絶対にどこかに糸はあるんだ。――何もなしに起こせるほど、『殺人』は軽いものじゃない」
人を殺すというのは、同じ人にとって、とてつもなく大きな賭だ。逮捕されれば絞首台は確実であり、たとえ一生逃げ切ったとしても、常に罪に苛まれることとなる。
「軽いものじゃないし、犯して良い罪じゃない。だが、それが分からん馬鹿が世の中には多すぎる」
それは、長く警官として勤め、『名刑事』と呼ばれた男の本心であったろう。手を血に染めた人間の末路を、彼はさんざん見てきた。
「それはともかく、俺が知っているのはあくまで十年前のことなんだが。……帰国後のドイルの人間関係ってのは探ったか?」
表情を元に戻し、ゴッドリーが尋ねてくる。アバーラインは一瞬硬直し、それから背筋を伸ばして答えた。
「何人か、以前の知り合いのところに顔を出していたようです。旧知の仲の人間を渡り歩くのに熱心だったようで」
記憶を辿りながら、アバーラインが答えた。
「その以前の知り合いってのは、どういった繋がりの人間か分かるか?」
「……それが」
その問いに、アバーラインは表情を沈ませた。
「捜査会議でも、それが疑問になっていました。付き合いがあったことは誰もが認めるのですが、その理由が釈然としませんでした」
「ふん、まあ、そうだろうな」
だが、その答えにゴッドリーは、当然だといった顔をした。
「一つ面白いことを教えてやろう。ドイル・ホバートは、ラヴェット広場の集会の時、警官を負傷させた経歴がある」
ゴッドリーの言葉に、アバーラインは目を見開いた。
ラヴェット広場の占拠事件。十二年ほど前に起こった、労働者たちによる大規模な政治集会だ。あまりに多くの労働者が集まり、興奮状態になったため、広場は一時占拠状態となり、事態を重く見た警察は軍まで発動して、ようやく解散させたのだ。その際には多数の負傷者が出た。
その鎮圧の指揮を執ったのは、前の首都警察本部の総監であったウォーレスだが、彼は数ヶ月前に辞任している。
「まあ、あの騒動は、関係ない奴が投獄されたり主催の人間が逃げおおせたりしたからな。ドイルも投獄はされなかったらしい。もっとも、奴は後で自慢たらたらそのことをあちこち言いふらしていたようだが」
投獄されていないから、ドイルの経歴を記録に当たっても載っていなかったのだ。記録というものはえてして、網羅しきれない事実を生むものである。
「その、奴の以前の知人ってのも、占拠事件の記録を見てみろ。投獄経験のある奴がいるかもしれん」
ゴッドリーは言ってのける。アバーラインは瞠目して頷くしかなかった。
「ジャックはこの事については言わなかったのか。まあ、十年前もこれについては関係ないと考える奴が多かったからな、奴は知らんかったのか」
考え込むアバーラインの横で、ゴッドリーは呟いている。
「ラヴェット広場の事件で……ローデシアから帰ってきた……?」
ふと、アバーラインが呟いた。その言葉に、はっとゴッドリーが目を見開く。
「……おい、それは」
ゴッドリーが、見せたこともない緊張した面持ちで、部下の部下を見据えた。アバーラインはそれに思わず頷く。
「……失礼します!」
一礼だけは忘れず、だが歩くのももどかしいとばかりに駆け出し、アバーラインはゴッドリーの部屋を後にした。後には、唖然とするゴッドリーだけが残される。
「……畜生、しくじったか」
これほど、拘束されている自分の身がもどかしく思ったことはない。以前の立場だったら、そこら中を駆けめぐって情報を集めていたことだろう。今は、あの部下の部下の報告を待つしかない。
「せいぜい上手くやってくれよ」
駆け出していった男の背中に、ゴッドリーは呟いた。
