黒き河を往け

Case3 二つの妄執 - 第08話

 男は、物音を聞きつけ、怪訝な顔をして家の扉を見やった。
 何しろ、数日前に警察の人間が訪れたばかりである。あの刑事は何とか立ち去ったが、まだ油断出来るわけがない。このケインズからすぐに離れるべきだったのかもしれないが、『奴』の事件と前後して自分も姿を消しては、かえって墓穴を掘る可能性が高い。
 今は夜である。怪しい者がうろつくには良い頃合いだろう。
 男は警戒し、いつも以上に背を丸めながら、ゆっくりと扉に耳を付け、向こうの様子をうかがった。
「…………」
 誰か人がいる気配はない。男はほっと息を吐き、部屋の中に戻ろうとする。
 が、背を向けた男の背後で、扉がぎい、と鳴った。
「……っ!」
 男は恐怖に顔を引きつらせながら、慌てて振り返った。振り向こうとして体勢を崩し、転びながらようやく扉に顔を向ける。
 そこには、一人の男が立っていた。
 男は、一瞬、精巧な人形でも見ているかのような錯覚にとらわれた。無論、扉から入ってきたのだから、その侵入者が人間であることは確かなのだが、あまりにも、人に本来あるべきもの……気配や雰囲気といったものが感じられないのだ。
 直感的に悟る。――まともな人間ではない。
「お、お前……」
 男は引きつった唇でようやくそれだけを呟く。ずるずると身体を後退させるが、何とか立ち上がる。そこまできて、ようやく男は侵入者を観察した。
 まだ若い男だ。黒髪に黒ずくめの衣装と、それだけで不吉さを感じさせる男だが、もっとも目立つのはその左目だろう。
 侵入者の左目が何を映しているのか、見ることは出来ない。侵入者の左目は、黒い眼帯で覆われていた。
 隻眼の侵入者は、緑の右目で男を一瞥する。その様相から、感情を察することは出来ない。
 侵入者がナイフを取り出したのを見、男は明確に侵入者の意図を悟った。
「あ、ひ、ひいっ……」
 男はきびすを返して逃げ出そうとする。が、扉は侵入者の後ろにあり、家の外には逃げられない。男は絶望的な顔になるが、やがて、今まで自分が暖まっていた暖炉に気がついた。
 男は暖炉に駆け寄ると、横に積んであった薪を一本掴む。そのままそれを火に突っ込み、先端に火を移すと、侵入者に向き直った。炎で男を追い払うか、倒すつもりなのだろう。
 男が震えながらも薪を構えるのを、侵入者は淡々と見つめている。それを止める様子もない。
「あああああっ!」
 とうとう恐怖が限界に達したか、男が侵入者に炎をかざして襲いかかる。
 そこで初めて、侵入者が口を開いた。
「かっ!」
 ただ一言、気合の声を発する。
 次の瞬間、部屋は時間が静止させられていた。
 侵入者は声を発しただけで、ほとんど身体を動かしていない。そして……襲いかからんとした男は、その途中の体勢のまま、身体の動きを止めていた。
 男の手にしていた薪の炎が揺らぐ。それだけが、この静止が幻なのではないと、時間の経過を示していた。
「あ……、な……」
 動きを止めた男がうめく。いや、動きを止めたのではない。――いきなり動けなくなったのだ。
 硬直した男に、侵入者が静かに歩み寄ってくる。その眼帯がいつの間にか外れているのに、男はようやく気づいた。
 露わになった左目は、右目とやや色合いが違う。隠されていた瞳は、氷のごとくに冷たく男を見下ろしていた。
 動きを止めた獲物に、侵入者は悠然と歩み寄った。その手のナイフが光るのを、男は唇をわななかせながら見つめている。
 無論、意識は必死に逃げろと叫んでいる。だが、いくら叫んでも念じても、己の身体は動かないのだ。
 凍り付いた手から、薪が落ちる。敷物に火が移るのにも構わず、侵入者はナイフを振り上げた。
 男が最後に見つめていたものは、自分の身体に突き刺さるナイフではなく、ただ、男の左目であった。


 起こったのは、下町での小規模な火事であった。
 ぎっちりと立ち並ぶ家々の一軒から出火したのだ。放っておけば多数の死傷者が出るところであったが、たまたま通りかかった人間が早くに発見し、消し止められた。
 人口過密状態の下町では、火災の際は、いきなり炎に焼かれて死ぬ人間よりも、煙を吸い込んで動けなくなり、そこを焼かれる人間のほうが多い。建物の構造や過密状態であることもあり、空気の通りが非常に悪いのだ。
 ケインズでは数十年前に大規模な火災があり、その時は多くの建物が消失し、同時に死傷者も多数出た。その火災を経験した人間も多く、火災には敏感だ。
 とは言え、小火程度ならさほど珍しい事件でもない。特に今は暖炉に火を入れる季節であり、扱いをしくじることも多々ある。だが、煤だらけの部屋から死体が出てきたとなれば話は別だ。
 遺体の身元はほどなくして知れた。スエルド・ノーツという、その家に住んでいた中年の男だ。炎によって焼かれていたので判定は困難だったが、状況や衣服などから間違いないだろうと思われた。
 問題はその死因だった。焼死ではなく、心臓を刺され、即死だったと思われる。殺人事件と断定されたことにより、事件は犯罪捜査部へと移管されたが、被害者の名を知った犯罪捜査部は愕然とする。
 ドイル・ホバート殺人事件。その最有力容疑者であった。
「…………」
 スエルドの事件の概要を記した紙に目を通しつつ、アバーラインは不機嫌に顔を歪めた。
 スエルド。先日、イーシャ・マクレインについて聞くためにアバーラインが訪ねた男である。ラヴェット広場事件の中枢にいた人物でもあり、ドイルの知己でもあった。
 それと同時に、アバーラインが会ったときには本人には伏せたが、ドイル殺しの容疑者でもあった。ドイルの遺体の状況から、顔見知りの犯行の可能性が強いとされていたため、捜査本部はドイルの顔見知りを中心に捜査していたのである。
 ドイルの遺体の発見当時、犯人らしき人物を見かけたとの目撃情報があった。やけに背中の曲がった男。
 アバーラインがスエルドに目星を付けたのは偶然であったのだが、目撃情報と体格が一致したため、スエルドが犯人の疑いが濃厚とされていた。参考人として事情聴取しようとした矢先、殺害されたのである。
 容疑者であろうと、先日顔を合わせたばかりの人間が殺されたと聞いて気分が良いわけがない。アバーラインは思いきり顔をしかめ、若い刑事などは、それに怯えて遠巻きに彼を眺めている。
「……事件の詳細は配布した資料に書いてあるので、そちらを参照するように」
 捜査本部の刑事たちに指示を出す主任のアンダーソンにも、いい加減疲れが見え始めている。
「スエルドの最近の動向についても、ほぼ確実と思われる情報が集まった。
 ドイル・ホバートが帰国した後、スエルドは何人かと会っている。ラヴェット広場占拠事件の関係者や、周囲の証言による、彼の知己たちとは一致しない」
 静かにアンダーソンは続ける。
「つまり、現時点で推測される状況とはこうだ。
 ドイル・ホバートを殺した犯人は、スエルドである可能性が高い。だが、黒幕は別にいる。黒幕はスエルドを何らかの手段で脅し、彼にドイルの殺害を迫った。そして、その後に口封じを行った。
 無論、二つの事件がまったく関係のない可能性もある。だが時期からして、その可能性はあまり高くないと思う」
 アンダーソンの言葉に、アバーラインは小さく頷いた。周囲を見回してみても、主任の言葉に異論を差し挟む同僚たちはいない。アンダーソンの推測は証拠がなかったが、状況と矛盾はしなかった。
「しかし、スエルドの殺害現場は火災にあっており、たとえ証拠があったとしても、消失してしまっている可能性が高い。犯人がそれを目的として放火したと考えられる。早くに火が消し止められたことは、犯人にとって誤算だっただろうが」
 顔をしかめつつ、アンダーソンが言った。ドイル殺しはまだ目撃証言があったために絞り込めたが、スエルドの事件は証拠がほとんどない。難航するのは目に見えていた。
 一つの事件が終わりそうだと思ったとたんに容疑者を殺されては、疲れもするというものだ。基本的に犯罪捜査部という部署は後手後手に回ることを余儀なくされるが、こうも立て続けに事件が起こってはたまらない。
 いつになったら解決するのか。それが、捜査に携わる刑事たちの本音であった。
「スエルドの家宅が消失してしまったため、ドイル殺しの証拠……本当に奴が犯人だったとしたらの話だが……も焼けてしまった可能性が高い。しかし、我々としてはそちらから調査していくしかない。鑑識の増員を要請するが、まずお前たちが頼りだ」
 アンダーソンが向かって言ったのは、鑑識課の担当官たちだった。以前アンダーソンに手紙のことを知らせた若い担当官が、緊張した顔で頷く。
 この時代、まだ指紋などといった科学的捜査は行われていない。指紋による捜査が発明されるのは、数十年ほど後のことである。物的証拠は用いられるが、あくまで犯人の残した遺留品といった類のもので、捜査の重点はもっぱら目撃情報や不在証明《アリバイ》に置かれる。そのため、鑑識課もそれほど予算を回されず、人員も少ないのだった。
「スエルド殺しについては、また別に捜査本部が発足することとなる。我々の捜査はあくまで、ドイル殺しに関することだ。他の容疑者についても平行して捜査を進めるように」
 そう言い、アンダーソンは説明を締めくくった。会議室に集まった他の刑事たちが、会議の終了を受け、ばたばたと立ち上がる。
 アバーラインも息を吐くと、会議室を後にした。
 

 捜査本部は、主任のアンダーソンの推測に従って捜査を進めることとなったが、その問題点は無論、証拠を挙げることが困難なことだった。容疑者は死亡しており、かつその家宅が消失――建物が焼け落ちることはなかったが、室内の家具などはかなりの部分が焼けた――してしまっている。自白が取れない以上、証拠を揃えなければ有罪とすることが出来ない。
 だが、不本意な形で、捜査本部はドイル殺しの真相を知ることとなった。
「――失礼します」
 アンダーソン主任は、一礼すると、部屋に足を踏み入れた。
 彼が訪れた部屋は、この首都警察本部で一番豪華と思われる場所だった。毛足の長い絨毯に、さほど調度品が多いわけではないが、そのいずれもが一流の職人の手になるものだ。大部屋に雑魚寝しながら捜査することもある、現場の刑事たちとはまるで違う世界である。
 アンダーソンをこの部屋に呼び出した場の主は、無言で彼を見やった。
 灰色の髪を上品に撫でつけ、仕立ての良いスーツを違和感なく着こなしている。確かにこの部屋の主には相応しい。
 だが、その目は訪れた部下を見下すものでしかない。アンダーソンは不快感を感じたが、それを表には出さず、静かに次の言葉を待った。
「君が担当している、ドイル・ホバートが殺された事件についてだが」
 先日ウォーレスの後任として着任したばかりの、首都警察本部総監、ヘンリック・マシューは静かに口を開いた。
「進み具合はどうだね?」
「は、問題なく進んでおりましたが、最有力と思われていた容疑者が死亡したため、確定が困難となっております。容疑者の殺人についてはまた別件となるため、そちらの捜査本部との連絡がまだ……」
 アンダーソンは律儀に報告するが、マシューにそれを聞く気はあまりなかったようだ。軽く手を振り、アンダーソンの言葉を遮る。
 怪訝な顔をするアンダーソンに、マシューは細めた目で彼を眺め、言った。
「総監として命令する。ドイル・ホバート殺しの捜査本部を即座に解散すること、そして今後この事件について一切の捜査を行わないこと。その容疑者の殺害も同様だ」
 淡々と言ったマシューに、アンダーソンは目を見開いた。思わず自制を忘れ、声を大きくする。
「どういうことなのですか、それは! 捜査は進んでおり、もうすぐ真相も判明するはずです……」
 マシューに詰め寄るようにして尋ねる。体格の大きいアンダーソンを鬱陶しそうに眺め、マシューは冷ややかに言った。
「もう一度言う、総監としての命令だ。違反は許さん」
 ただ一言で切って捨てる。その乱暴さに、アンダーソンはかえって落ち着きを取り戻した。
「それは、いかなる理由からですか? 現場の主任として、それを伺う権利があると考えますが」
 アンダーソンが聞くが、マシューはそれにわずかに顔をしかめただけだった。
「口の利き方を考えろ。たかが警部が、私に意見するつもりか?」
「意見は申しておりません。ただ、理由をはっきりさせたいだけです」
 平行線のやりとりが続く。
「その必要はない。君は、私の命令を実行すればいい」
 が、階級社会の中で、さしものアンダーソンもそれに反抗する術は持たなかった。マシューにこう言われては、アンダーソンにそれをはね除けることは出来ない。
 見えないように拳を握りしめる。出来ることなら、この上司を一発殴ってやりたい気分であった。捜査主任になるようになってから、アンダーソン自身が現場に赴くことはあまりなくなったが、彼も元は叩き上げの刑事であり、無法者と対峙したことも何度もある。
 そんなアンダーソンの心情には無関心なのだろう、マシューは机の上にあった書類を整理したりしている。アンダーソンはしばらく黙って立ったままだったが、やがて、いつもより低い声で尋ねた。
「……誰があなたにそれを命じたのですか?」
 アンダーソンの言葉に、マシューの動きが止まった。
「あなたに、この命令を下す理由はないでしょう。ドイルもスエルドも、あなたとの関わりはなかったはずだ。ならば、どこかからあなたが命令を受けたと考えるのは当然のことです。
 ドイルやスエルドの経歴は、我々も存じております。それから考えれば……」
「黙れ!」
 アンダーソンの言葉をマシューが遮る。割り込んだその口調に、先程までの上品な男の姿はなかった。細い目を見開き、血走っているようにも見える。
「それ以上言えば、私も、そして君の立場が危うい。それが惜しいなら、早々に立ち去れ」
 悲鳴のようにマシューが言う。それを今度はアンダーソンが冷ややかに眺め、そして確信した。
(……やはり)
 呟く。とは言え、マシューの命令に逆らうための札にはならない。
「失礼いたします」
 まだ取り乱したままの上司に一礼し、アンダーソンは総監室を後にする。その拳は、まだ固く握られたままだった。

 

 
Copyright©2001-2007 Shu Fujimura All Rights Reserved.