Case3 二つの妄執 - 第09話
拘置室の扉が軋んだ音を立て、一人の男が姿を現した。
「んー……ジャックか」
ゴッドリーはやる気のない口調で応じる。いい加減、拘置されるのにも飽きてきたらしい。入ってきたアンダーソンは、苦笑でそれに応じた。
「お前が来るのは珍しいな。で、何の用だ?」
姿勢を正すこともせずに尋ねるゴッドリーに、アンダーソンは静かに言った。
「あなたがドイル・ホバート殺害時にいたという、酒場の主人の証言が取れました。見慣れない男がいたということで、覚えていましたよ。これで、あなたの無罪が証明されました」
しれっとアンダーソンは言った。
実を言えば、ゴッドリーが勾留された翌日にはアンダーソンは刑事に調査させ、ゴッドリーのアリバイを成立させていたのだ。だが、それを今日まで伏せておいた。それは、名刑事をあわよくば協力させようという意図でもあり……かつての先輩に対する配慮でもあった。
「なるほど」
ゴッドリーも苦笑した。
「それで、事件は解決したのか?」
皮肉げに笑って尋ねるゴッドリーに、アンダーソンは静かに笑った。穏やかなその表情から、内面を察することは出来ない。
だが、それが何かを言おうとしているときの表情だと、付き合いのあるゴッドリーは知っている。怪訝な顔をして口をつぐみ、後輩に先を促した。
「私が説明するよりも、もっと確実なものがあります。どうぞ」
そう言ってアンダーソンが差し出したのは、ドイルの遺した手紙であった。
ゴッドリーは顔をしかめながらそれを受け取り、開く。
その表情がかつての『鬼刑事』のものに変わるのに、さしたる時間は要さなかった。
チャリオット探偵事務所には、いつもの顔ぶれと、客人が勢揃いしていた。
事務所の主人であるラウディ、アバーライン、そしてエリック。偶然ではなく、アバーラインがラウディに頼んでエリックも呼んだのだ。
「で、何なんだ、いきなり」
ラウディはいつも通りの面倒くさそうな表情でアバーラインに尋ねた。
「ドイル・ホバート殺しの捜査が無期限で凍結になった」
アバーラインは見るからに苛立った口調でそれだけを呟いた。その言葉に、ラウディは眉を跳ね上げ、エリックは目を丸くする。
「な……何で?」
エリックがおそるおそる尋ねる。内容もさることながら、アバーラインの苛立ちに怯えているらしい。
「突然の総監からの中止命令だったそうだ。アンダーソン警部もかなり憤っておられたが、なす術もない」
「つくづく大変だな、公僕ってのは」
ラウディが嘆息混じりに言った。
「しかしまあ、よっぽど面倒くさいことにならなければ、凍結命令なんぞ出ないだろう? そんなにまずいことをやったのか、捜査本部は」
「馬鹿を言え。我々は正当な調査をしていた」
ラウディの言葉に、アバーラインが苦い口調で応戦する。
「それは……凍結の命令が下ったというのは、ヤードの総監からですよね? でも、総監に何か、ドイルの奴について握りつぶさなくてはならないようなことでも……」
おずおずとエリックが尋ねる。アバーラインは息を吐き、心なしか声を潜め、二人に囁いた。
「アンダーソン警部の話では、総監の直接の命令というわけでもなさそうだったそうだ。総監もどこかからその指示を受けて、実行したと思われる……」
言いかけるアバーラインに、ラウディはますます顔をしかめた。
「ちょっと待て、仮にも相手はヤードの総監だろ? そんな奴に圧力をかけられる連中って言ったら……」
ラウディが呟くように言う。エリックがはっとした顔をし、アバーラインは重苦しい表情で頷いた。
首都警察本部は、内務省の下位機関である。当然、政府の方針には従うわけだが、それでも法と議会が要請する理屈は必要になる。アバーラインの口調からは、そういったものはかぎ取れない。
「……政府か誰か大物の、内々の圧力ということですか」
エリックの言葉に、ラウディとアバーラインが二人して頷いた。
政府が秘密裏に処理する、また大物の政治家が個人的に行ったなら、今回のような形になるだろう。そして後者だとして、仮にも警察の総監に圧力をかけられる存在など、極めて少ない。
「…………」
重苦しい沈黙が場を支配した。市井の殺人事件だったはずが、どこの大物がそんな介入をしたのか。
「だが」
ややあって、アバーラインがぽつりと口を開いた。
「圧力などかけられたということは、我々の捜査が間違っていなかったということだ。的はずれの捜査をしていたのだったら、放置しておけばいいはずだからな」
自分を励ますかのように呟く。それには同感だったので、ラウディは小さく頷いた。
「……ということは、ある程度、真相は分かっているのですね?」
エリックが尋ねた。アバーラインは黙ったままだ。
実を言えば、ここにエリックを呼んだのは、判明したマクレイン事件の真相を話すためだ。アバーラインがアンダーソンに話をし、内密にするということで了承を取った。本来なら捜査内容を軽々しく民間人に話すことは出来ないが、エリックはまったくの部外者というわけでもない。十年間苦しんだ男に、それが救いになるのかは分からなかったが。
「まず、十年前のマクレイン事件からだが」
アバーラインは口を開いた。
「ドイル・ホバートは、あのラヴェット広場占拠事件において、中心にいた。そして、イーシャもまた、その関係者に近しい位置にいた」
「そこらへんは俺も知ってる。そっちにも話した」
ラウディがエリックを視線で示した。
ラウディがエリザベータに調査を依頼したのも、この情報だった。ラウディは、ドイルが労働者運動に関わったのなら、イーシャもそうだったのではないか、と仮定したのだ。その結果は、既にエリックにも話してある。
「あなたが奥方と知り合うより前、イーシャとドイルは恋仲だった。いずれは結婚するつもりだったようだ、とスエルドが言っていた。だが、ラヴェット広場の暴動で、立場が危うくなり、イーシャはドイルと関わり続けるのが恐くなった」
アバーラインの言葉を、エリックはうつむきながら聞いている。
「そして結局イーシャは、まったく関係のないあなたと結婚することにした。だが、ドイルはそれには納得できなかった。しばらく後にイーシャの元を訪れ、結婚を問いつめるようになった」
イーシャがたびたびドイルと会っていたのは、エリックも知っている。一度、仕事に行くふりをして、妻を尾けたことがあるのだ。それを、エリックは不倫だと思った。
実際には、ドイルとイーシャはよりを戻していたわけではなかった。が、過去を探られたくないため、イーシャは夫の誤解を解かず、ただ「もう別れた」と言ったのだろう。
「そして、何回目かに会ったある日、二人は口論になった。もう終わったことだとイーシャは言い、不誠実をドイルは責めた。激昂したドイルは、たまたま持っていたナイフでイーシャの腹を滅多刺しにして殺害した」
静かにアバーラインが続ける。エリックが目を見開いた。それは……
「殺害後、ドイルはナイフを川に捨てて処分した。返り血を浴びたコートは、焼き捨てた。そうして証拠を隠滅した」
「……その話、前に聞いた記憶があるぞ」
アバーラインの言葉を遮り、ラウディが胡散臭げな顔で言った。
「そうだな。以前に私が話した」
アバーラインは当然といった顔をしている。
「確か、ゴッドリーさんはそう言っていました。返り血を浴びたコートがあれば、何よりの証拠になるからと……」
エリックが十年前から焼き付いたままの言葉を辿る。
「まったくその通りだ。十年前の、ゴッドリー警部の推理は正しかった」
アバーラインが、わずかな感慨を込めて言った。
エリックの表情が変わる。十年間の、自分の恨みは的はずれではなかったのだ。
「……しかし、ドイルは死んだんだろ? 何か、自白でも取ったかのような詳細さだが」
ラウディだけが、不審そうな顔を見せた。
「遺書があった。……いや、本人は遺書のつもりはなかっただろうがな。ドイルが泊まっていた宿に、新聞社に宛てた手紙が発見された。内容は、十年前の事件について、自分が犯人だと告白したものだった」
新聞社などに、「自分が犯人だ」と過去の事件を告白した手紙を送る人間は、時々いる。もっとも、迷宮入りしたかつての事件について、死に際に「世間をびっくりさせてやろう」とばかりに自分が犯人だと名乗る愉快犯も多いようだが。
「このエーデルランドにも、告白のためもあって帰ってきたようだな。奴なりに十年間、罪悪感があったのだろう」
「だからって、今更それが何の意味が……」
エリックが呟く。それは予想された反応ではあったが、ラウディとアバーラインは暗澹たる気分にさせられた。
ようやく十年前の事件の真相が明らかになった。それは望んでいたことのはずだったが、憎むべき男はもはやおらず、時が逆巻くわけもない。取るべき道は、憎悪を失った空虚を心にはらむか、なおも過去の残影を抱いて憎み続けるか、だけだ。
エリックを見たときに思ったことだ。きっと自分が依頼を達成しても、この男は救われないだろうと。だが、いざ目の目の前にすると、嫌悪感すら生まれる。
「それで、マクレイン事件については犯人が死亡したために、今後も特に裁判などは行われないこととなった。とりあえず、これについてはいずれ公表するつもりだが、公式には迷宮入りだな」
公式な迷宮入りというのもおかしなものだが、アバーラインはそう言って、確認のつもりか、エリックに視線をやった。エリックは暗い表情のままだったが、ゆらりとその頭が動く。頷いたつもりらしい。
「まあ、マクレイン事件はそれで良いとして。……そのドイル殺しが何で捜査凍結になったか、見当くらいは付いてるんだろ?」
いくらか野次馬根性を見せて、ラウディは尋ねた。アバーラインは否定はしない。
こちらは本当に、公表など出来ない情報だ。アンダーソンにも了承など取っていない。だが、エリックは無関係とは言えない人間である。ラウディにしたところで、以前さんざん事件に関わったのだから、今更機密情報に触れるなと言っても無意味だろう。
「…………」
そんなことを考え、アバーラインは二人に向き直った。
「ドイルはローデシアに向かい、そこであちらの無政府主義者の大物とも接触していたようだ。ローデシアの連中は連中で、このケインズにも勢力を伸ばしたがっているから、お互いに利害は一致したのだろうな。そこで奴は十年ほど活動していた。
そして、このケインズに戻ってきた。それは……」
「……こっちで中心となって活動するため、か」
ラウディの言葉に、アバーラインは頷いた。
「エーデルランドに帰ってきてから、ローデシアからの亡命者などにも接触していたようだな。このケインズに活動拠点でも作るつもりだったのだろう」
面白くもなさそうにアバーラインが語る。警察官の彼にしてみれば、それは厄介事でしかないのだろう。
「だが、そうされては困る人がいた……と」
声をひそめるようにして、エリックが言った。
現在のケインズの体制の変化を嫌う者。それはまぎれもなく、現在の為政者たちだ。そのうちの誰かが、ドイルの行動を危険視し、あるいは疎み、殺害させた。
総監に圧力をかけたのは何者か、とは誰も言わない。それを知ったら、ドイルの次に消されるのは自分だ。それくらいのことは三人とも理解している。
「その人物とやらも表には出たくないようだがな。だから直接自分の手を下さず、知り合いのスエルドなどを使ったのだろう。そして……捜査が進んだのを知って、スエルドも捨て駒として殺した」
ドイル殺しに関して、目撃情報がかなり集まったことからも、下手人が素人だったことが知れる。スエルドとて最初は『仲間』であったドイルの殺害に反抗したのだろうが、それを諦めさせるほど、黒幕の人物は大物だったということか。
(……もしかしたら)
続けようとした言葉を、アバーラインは飲み込み、顔を俯かせた。
スエルドを用い、かつ殺害した黒幕が、警察に圧力をかけられるほどのものなら、捜査本部の動向は当然監視されていただろう。もし捜査本部がスエルドの存在に行き着かなければ、そのまま放り置かれていた可能性が高い。だが、スエルドに偶然行き着いてしまった刑事がいた。
それがアバーラインだ。ドイルの手紙の裏付けを取るため、アバーラインが目星を付けて接触したのがスエルドだった。だが、監視者に話した内容までの判断は出来まい。『駒』に警察が行き着いたと思い、口封じの判断を行った可能性は高かった。
(……私は)
私は何も恥じることはしていない。偶然の結果であり、自分が行かなくともスエルドが犯人であることは遠からず知れただろう。そう何度も心の中で呟いてみても、自分が殺人の契機となってしまったかもしれない、心の中の苦さは消えない。
「…………」
沈黙が場を支配する。三人とも、背筋が寒くなるのを意識せずにはいられない。自分たちにはまったく関係のない世界であった、現在の貴族たちによる統治、それをかすめてしまったのだ。
「……なるほどな」
ようやく、ラウディが一言呟く。一瞬後、三人が揃って大きく息を吐いた。
「とりあえず、私の話はこんなところだ。無論、他言は無用だぞ」
目を切れ上がらせ、アバーラインが二人に言う。ラウディは平然と頷いたが、エリックは一瞬身体を硬直させ、それから何度も首を縦に振った。
「……チャリオットさん」
エリックを見送ろうと事務所の入り口に出たラウディに、エリックは寂しげに言った。
「私は結局、どんな夫だったんですかねえ」
呟くようなエリックの言葉に、ラウディは答えられなかった。
イーシャが男としてのエリックを愛していたのか、それは分からない。真相を知った後で考えれば、打算で結婚したとも思える。それは、彼女にしか分からないことだ。
「結婚してくれと言ったのは私だったんですよ。イーシャがためらいもせずに頷いてくれたときは、自分ほど幸せな男はいないだろうと思ったものだったんです。でも、それも……」
誰に聞かせるでもなく、エリックは呟いている。その目はラウディではなく、過去の残影を見つめていた。
「ただ、側にいてくれたら良かった。多分、あの時、私は幸せだったんでしょう。だから、イーシャが殺されたときは、ドイルやゴッドリーさんがどうしても許せなかった。
だが……イーシャは私といて、幸せだったんですかね」
エリックは寂しく呟いた。
(……ああ)
ラウディはそれに答えられない。恐ろしい。目の前の男を見ていたくない。そう心は叫ぶのに、身体を動かすこともままならず、息が止まるような錯覚に捕らわれる。
目の前の男。それはまさしく、ラウディの鏡だ。
あの三年前の朝。
いつも通りに目覚めたラウディは、横で眠っているはずの妻がいないことに気づいた。最初は自分より先に起き出したのだろうと思い、次に家の中にいないことを怪訝に思い、一日経っても彼女が帰ってこず、身の回りのものが持ち出されていることに気づき……狂ったように彼女を捜し回った。
だが彼女は見つからなかった。
毎日足が痛くなるまで歩き回り、疲れ果てて家に戻っても、わずかな物音に反応しては彼女が帰ってきたのかと跳ね起きた。そんな日々が続き、彼女がもう帰ってこないのだと何とはなしに悟ったあとは……何もかもがどうでも良くなった。
どうせ、何をしても無意味なのだ。そう思うようになってから、ラウディは周囲に気を払うことを止めた。自堕落な生活をして、それでも死ぬ気にはなれずにたまにだけ依頼を受け……そんな生活をし、現在に至っている。
その中で、一つだけ変化があったが。一年ほど前、音沙汰のなかった姉が突然現れ、娘を押しつけて新大陸に旅立ってしまった。幼い頃の姉によく似たその娘は、とにかく口やかましく、ラウディにあれこれ言ってくる。
妻が何を思っていたのか、どうして黙って姿を消したのか。それはまったく分からない。その思慕の情を捨てることも出来ず、ただいない相手にお前は何を思っていたのかと問いかける、その点でラウディとエリックは互いが鏡なのであった。
呟き続けるエリックの姿は、ただ哀れだ。だがそれは、自分の姿なのかもしれない。
(違う……俺は違う)
そう心の中で呟いてみても、どんどん気力がそげ落ちていく。遠からず、自分もこの男と同じように、ただ恨み言を呟き続けるだけになるのではないか。いや、もうそこまで落ち込んでいるのではないか。
「あ……」
空気が粘性を帯びて、そこを必死に泳ごうとしているかのようだ。動けずに立ちつくすラウディをエリックは不思議そうに眺めていたが、やがて、ささやかに笑った。
「それでは、お世話になりました」
そういって小さく頭を下げる。
実際には、今回ラウディが調べられた情報というのは少なく、アバーラインからもたらされたものがほとんどだったわけだが。それでも依頼人は丁寧だった。
「……はあ」
ラウディは何とか意識を引き戻す。それでも間の抜けた声を漏らすことしかできなかったが。
もう一度礼をすると、エリックは去っていった。その背中を何とはなしに見送り、ラウディは心の中で呟く。
俺は違う。エリックの妻は永遠にこの世から失われたが、自分の妻はまだそうと決まったわけではない。まだ、きっとこの世界のどこかにはいる。
ならば、尋ねることができる。彼女と再会さえすれば。
(お前……)
金髪の幻影に向かって、呟く。
(――今、何をやってる?)
「……帰られるのですか?」
後ろから聞こえた声に、ゴッドリーは振り返った。
ゴッドリーがいるのは、ケインズと地方都市を繋ぐ鉄道の駅だ。三十年ほど前からエーデルランドでは鉄道建設が急速に進み、今では主要都市はほとんど鉄道で繋がれている。その中核たるケインズの駅は大きく、利用する人間も多い。
ゴッドリーに声をかけたのは、アンダーソンであった。彼はきちんとスーツとコートを着込み、佇んでいる。その姿は穏やかで、刑事などというより、紳士めいている。
「何でそれを変な顔をして聞くんだ、お前は」
ゴッドリーも怪訝な顔をして聞き返した。事件が終わったのだから、家に帰るのは当然ではないか。
「ですが……もう、マクレイン事件は終わったのですから、こちらに戻られても良いでしょう」
こちら、とはケインズのことだろう。アンダーソンが知るゴッドリーとは、ケインズの全てに通じ、犯人を追いつめる刑事であった。
「何より、十年前にあなたが正しかったことは証明されたのですから。今なら、復職も可能なのではないですか」
アンダーソンが言う。
そう。正しかった。
十年前にゴッドリーが唱えた説は、まぎれもなく正解だったのだ。ただ、証拠品は失われており、それを証明することがかなわなかった。
それこそがゴッドリーの悲願であるはずだった。自説の正しさを証明し、犯罪捜査部に戻ることが希望なのだろうと。だが。
「馬鹿を言え、これ以上年寄りを働かせる気か」
ゴッドリーは顔をしかめて言う。
「はあ……」
アンダーソンはそれが納得いかない様子で、わずかに眉をひそめている。それを眺め、ゴッドリーは苦笑した。
「まあ、今回はお前も思い知らされただろ。警察ってのは正義の使者でも法の実行者でもない、ただの権力の手先なんだってな」
ゴッドリーが言う。アンダーソンはその言葉に表情を暗くした。
『現代の騎士』と揶揄される部下のアバーラインではないが、アンダーソンとて、犯罪者を捕らえるという警察の任務には、正義の守護者という意識があった。だが実際には、権力の前にあっさりと屈するしかなかったのだ。
「は……」
アンダーソンが力のない声で答える。
十年前の事件で、圧力をかけられて退職したゴッドリーを見て、その理不尽さに憤ると同時に、どうして反抗しないのかと、ゴッドリーにもじれったく思ったものだ。だが今回、自分の通った道は同じようなものだった。退職することはないにしても。
「それがお前たちの本質だ。……とは言え」
ゴッドリーはそこで言葉を切り、鋭い目で後輩を見据えた。
「それだけが全てだと思うな。誰が何と言おうと、お前たちは秩序の守護者だ。その誇りを忘れたときにこそ、本当の狗《いぬ》に成り下がる」
静かにゴッドリーは言った。
「――はい」
アンダーソンが答える。その瞳の光こそ、祝福を受け、戦場に旅立つ騎士のものだった。
「ですが、本当に、警察には戻られないのですか?」
「くどい」
なおも尋ねてくるアンダーソンに、ゴッドリーは苦笑しつつ言った。
マクレイン事件の後にケインズを離れたときは、失望しかなかった。これからどうやって生きていこう、果たして自分は生きられるのか、そんな負の感情しかなかった。
それから九年、わずかな畑を耕して生きてきた。朝目覚め、一日鍬を手にし、季節の移り変わりを肌で感じ、祈りを捧げて眠る。そんな単調な毎日だ。
だが。誰を傷つけることもない、傷ついた者を見ることもない、そんな静かな生活も、実は悪くなかったのではないか……。全てが終わった今では、そう思えるのだ。
ケインズを離れて田舎に向かうのは二度目だ。だが今は、わずかばかりの希望を持って路につける。それが心地良い。
ケインズという戦場のまっただ中にいるアンダーソンには、この感情は理解できまい。九年間。残してきた後輩たちも変わったが、同時に、自分も変わっていたのだ。
アンダーソンも、それ以上は何も言おうとしなかった。ただ、再び別れようとするかつての上司に頭を下げる。
「それでは、お元気で」
「ああ」
車掌が笛を鳴らした。発車の合図だ。ゴッドリーが汽車に乗り込むと、汽車は力強く動き出す。
窓から外を眺めるゴッドリーの目には、流れる風景が映っている。今なお、急速な変化を遂げているケインズの眺めだ。
この街がどこに向かうのかは分からない。街を離れる自分に、それを知る術はない。ただ、今だけは祈りを捧げる。
向かう未来が、どうか人々が幸せになれるものでありますよう。
そう心の中で呟き、ゴッドリーはわずかの間、瞑目した。
