Case4 親愛なる女王陛下 - 第02話
博覧会の主たる内容は、無論展示なわけだが、その他にも催し物が行われている。
その中でも人々の人気を集めたのは、音楽会であった。会場の一角で楽団が曲を奏でるのに、人々は通り過ぎ、あるいは立ち止まって耳を傾ける。
近年、入場者の階級を問わない音楽会が盛んに行われ、音楽を楽しむ市民の数も増えてきているが、入場料は決して安くはなく、生活の余裕がない市民にはまだ縁のない娯楽であった。一食分の入場料で展示を楽しんだ上、音楽も聴けるのだから、この催しが人気を集めたのも自然であろう。
シルーズも、音楽にはあまり縁のない市民であったから、聞こえてくる旋律にうっとりと耳を傾けていた。先程まで、昇降機に乗せてもらって思い切りはしゃいでいたとは思えない風情だ。
ラウディも、人混みには辟易していたが、音楽そのものは嫌いではない。少しばかり立ち止まって楽団を眺める程度のことはする。素人のラウディには、旋律を奏でる楽器がどのようなものなのか、まったく分からなかったが。
(……そういや、あまり音楽を聴くなんてことはなかったな)
以前姿を消したラウディの妻は、外出することを好む質ではなかった。カフェなどに行けば歌姫が音楽を聴かせてくれるものだが、二人で出かけるようなことはあまりなかったのだ。一緒に行けば良かった、などと思っても、もう手遅れなのだろうが。
演奏に耳を傾けているのは二人だけではなく、大勢が集まって同じような様子で佇んでいる。上質の音楽は、えてして人の心を穏やかにしてくれるものだ。
しばし、二人は群衆に交じり、音楽の波に揺られた。
シンシア・クラート夫人は、優雅に旋律に耳を傾けていた。
彼女は妹夫婦と一緒に、この万博に繰り出してきた。普段は節約に余念のない彼女だが、今日ばかりは精一杯めかし込み、着飾ってきた。気分は、社交場に出かける上流階級のご婦人方だ。
会場を訪れて、まず水晶宮に圧倒された。その後、力強く動く蒸気機関に目を丸くしたところで、一服し、音楽の演奏を聴くことにしたのだ。実は、管弦楽になど縁のない彼女だが、少しばかり演奏に不満があるような顔をしてみた。ただのめり込んで聴いているだけでは、何だか田舎臭いではないか。
馬鹿みたいに演奏に夢中になっている妹をちらりと見、ささやかな優越感から苦笑する。と。
ぴり、と変な音がした。小さい音だが、聞き間違いではない。
(……?)
シンシアは眉をひそめる。何の音だか知らないが、やけに近いところから聞こえた気がする……
びりり、と、今度ははっきりと聞こえた。そして、その音の発生源も。
「うそっ?」
思わず声を出してしまう。隣にいた夫が、怪訝そうな顔をして自分の方を見た。
(背中!)
布が裂けるような音は、自分の背中から聞こえた。いや、ドレスが背中から破れたのだ。よりにもよって、この会場で!
「いっ……いやあっ!」
背中から服が破れるなんて。この群衆の中で服が脱げてしまったらどうしよう。恥ずかしい、どころの騒ぎではない。もう女として生きていけない。
そんなことを真っ白になった頭で考えつつ、とりあえず、背中に手を回し、服がずり落ちないようにしてみる。淑女らしからぬ行動だったが、そんなことを言っている場合ではない。
「おい、お前……」
夫が眉をひそめて近寄ってくるのに、シンシアは涙混じりの声で言った。
「ピン貸して、ピン! 何とか背中……」
彼女が訴えるのに、夫はますます怪訝な顔をした。何をやっているんだ? と言わんばかりの表情だ。実際、そう言うつもりで口を開いたのであろうが。
「背中……って、どうかしたのか?」
「破けちゃったのよ! ああ、やっぱり無理矢理着たのがまずかったのかしら……」
何しろ若い頃のドレスを引っ張り出したのだ。自分ではそれほど体型が変わったつもりはなかったが、年月とは無情なもので、しっかり服はきつくなっていた。それでも、今日ばかりはと何とか身体を押し込んだのが、裏目に出たのだろうか。
「背中……破けて? 何を言ってるんだ?」
訳が分からない、といった表情の夫に、今度はシンシアが怪訝な顔をした。
「え……?」
呟き、無理矢理手を背中に回し、服をさわってみる。特に変わったところはなかった。それに、腕を動かしても、特に違和感はない。いささか動きづらいドレスのままだ。
それでは、さっきまでの自分の慌てようは。
「気のせい……?」
シンシアは呆然と呟いた。先程までの自分の慌てようは、全てただの徒労だったのだ。
ぺたんと床にへたりこむ。どっと疲れが出た気がした。
それを、夫が囁くように言った。
「いいから、さっさと立ってその荷物をどうにかしろ。ほら、皆お前を見てる……!」
夫はいたたまれないとでもいった様子だ。ふとシンシアは我に返り、周囲を見回す。
さっきまで持っていた手荷物は、慌てた拍子に、そこらに散乱してしまっていた。その中を、自分は変な体勢をとったせいで着崩れかけたドレスを着て、へたりこんでいる。
今度こそ、それは気のせいではなかった。
見れば、妹は呆れ返った顔をしている。周囲の人間も、苦笑し、あるいはあからさまに嘲笑うような顔をしていた。楽団だけは、彼女の騒ぎようなどお構いなしに演奏を続けていたが。
「…………!」
一瞬にして、顔が真っ赤に染まる。
シンシアは慌てて立ち上がると、素早く手荷物を拾う。そのまま楽団の一角から走り出す。夫が慌てて後を追うのも構わず、彼女は会場を飛び出していった。
タクト・ダグラスは、けらけらと笑っていた。
会場の物陰。機械の裏側に隠れ、タクトは一人笑いをこらえられなかった。一応、口元に手を当てて自制してみるが、本当なら、誰彼構わずに肩を叩いて同意を得たい気分であった。
「あー、面白かった」
そう言う彼の手には、細い棒が握られている。その正体に気づく人間はあまりいまい。ひとしきり笑って気が済むと、彼はまた物陰から出ようとした。
さて、次は誰で遊ぶか。それとももう帰ろうか。
「どうすっかなー……」
「待てい」
鼻の頭など掻きつつ歩き出そうとしたタクトは、後ろ襟をむんずと掴まれた。
慌てて後ろを振り返る。まさか、ここに自分がいるのに気づく人間がいるとは。これが、会場の警備員だったりしたらまずい。
どうやって振り切ったものか、一瞬にしていくつかの算段をしながら振り向いたタクトが見たのは、赤毛の少女であった。
ふわふわとした赤毛は、二つに丁寧に結われている。いかにも女の子らしい可愛い服は、彼女のどことなくふてぶてしい雰囲気に、似合っているのかそうでないのか、判断が難しいところだ。
年齢は、大体自分と同じくらいか。そこまで観察し、タクトは緊張を解いた。大人でないならどうとでもなる。
「……何だよ、お前」
意識して険悪に言ってやる。この年頃の少女なら、それだけですくみ上がりそうなものだが、この少女は怯えた様子一つ見せない。
「見てたわよ」
少女……シルーズは、ぎろりとタクトを睨み返し、それだけ言った。
「あんたでしょ、さっき、あのおばさんの背中を引っ掻いたの。ばれてないつもりでも、あたしはそうはいかないわよ」
タクトの手に握られているのは、こすり棒というものだ。別に大したものではなく、これで布をこすると、破れたような音がするだけという代物である。だが、上手く使えば、先程のようなちょっとした騒ぎを引き起こすのも可能ということだ。
「…………っ」
タクトは、手にしたままだったこすり棒を忌々しげに見つめた。それを、シルーズは勝ち誇った顔で眺めている。
「で? お前は何しに来たんだよ?」
こうなったら開き直り作戦だ。こすり棒を投げ捨てると、タクトはシルーズを睨み返した。シルーズが何やら詰まった顔をする。
「ええと……そりゃあ、あんたが悪いことしてたから、叱りに来たのよ!」
反論は一瞬どもってからだった。腰に手を当て、必要以上に大声で言う。それを聞き、タクトはやっぱりこの服は似合ってないな、などと思った。
「別にいいだろ、あのくらい。だってさ、あのおばさんの顔見ただろ? つんと澄ましてたのがさ、あんな慌てるなんて、見ないと損ってくらいだったじゃないか」
思い出し笑いをしながらタクトが言う。
「まあ、そりゃまあ……って、何言わせるのよ」
シルーズは思わず同意しかけ、それから慌てて首を振る。この少年がいたずらをしていたのを咎めに来たのに、それを肯定してどうするのだ。
「やっぱりお前も面白がってたんじゃないか」
「馬鹿言わないで、あんたみたいなのと一緒にしないでよ」
シルーズはむきになって否定する。その頃になって、ようやくタクトは飲み込めてきた。要するに、たまたま自分がやらかしたのを見つけ、勢いだけで追いかけてきたらしい。大人たちのように、殴るとかこの場から追い出すとか、そういった目的はないのだ。
タクトはまたけらけらと笑い出した。シルーズがむっとした顔をし、怒鳴り返す。
「って、何が面白いのよ」
「いや、お前が」
思わず答えたタクトは、次の瞬間、シルーズの繰り出した拳をこともなげに避けた。シルーズが目を丸くする。
「……やるわね」
思わず両拳を胸の前で握り、シルーズは完全に戦闘態勢だ。いたずらを叱り飛ばす次は、相手との真剣勝負らしい。
「お、やるか?」
避けはしたが、シルーズの一撃のキレはなかなか良かった。好敵手かもしれない、などと思いつつ、タクトもシルーズを挑発する。
「……ってそうじゃない、こんなところで喧嘩してどうするのよ」
我に返ったらしい。慌てて戦闘態勢を崩すと、タクトに食ってかかった。
「最初にむきになったのはお前だろ」
「あんたのせいよ!」
即座にシルーズは怒鳴り返してくる。そのまま、子供二人はぎりぎりと睨み合った。しばらくそのままお互い黙っていたが、やがて疲れてきたので、どちらともなく力を抜き、息を吐く。
「……まあいいわ、これに懲りたら、二度とあんな真似はしないことね」
先程のやりとりのどこに懲りればいいのか、タクトはよく分からなかったが、とりあえず黙っておくことにした。また不毛な口喧嘩が続くだけだろうという想像は付く。
「……ところで、あんた、そんな格好で来たの?」
シルーズが言った。タクトは、つぎはぎのあるシャツとズボンといった格好だ。下町ではありふれた格好かも知れなかったが、皆が正装で来るこの場には似つかわしくない。子供であるせいか、あまりそれに目をやる人間はいなかったようだが。
「しゃあねえだろ、そんな金はないんだから」
タクトがどこかふてくされたように言った。
「金はないって……まあうちも貧乏だけどさ、でも、それじゃあ入り口でつまみ出されない?」
「冗談、あんな奴らに俺がつかまるか」
言ってタクトは鼻を鳴らす。
「もしかしてあんた、金払ってない?」
ぼそりと呟いたシルーズに、タクトは当然、とでもいったように胸を張った。
この水晶宮に入場するには、当然入場料を払って券を買わなくてはならないわけだが、タクトはそれをせずに会場に潜り込んだのだ。
シルーズは唖然とする。その前で、タクトがぱたぱたと手を振った。
「これだけ人がいるんだ、俺一人くらいばれやしねえって。慈悲深い女王陛下のことだ、子供一人くらいは大目に見てくれるだろうさ」
肩をすくめてタクトは言う。シルーズはますます唖然とするしかなかった。
「……ねえ、それとさ」
どことなく言いにくそうに言ったシルーズに、タクトは首を傾げ、先を促す。
「あんた……イエド人?」
シルーズの問いに、タクトは肩をすくめて見せた。
エーデルランド人は大抵、白い肌をしている。対し、タクトの肌はやや浅黒く、髪は黒かった。顔立ちも、よく見てみれば微妙にエーデルランド人とは違う彫りの深さが見て取れる。
それは、イエド人と呼ばれる民族の典型的な特徴だ。世界のどこにも安住の地を持たない、流浪の民。
「まあな」
タクトはあっさりそれを肯定する。このエーデルランドにおいても例外ではなく、イエド人は蔑視の対象であるにも関わらず、だ。だが、タクトの表情からそれを悲観している様子は見受けられない。
シルーズはまじまじとタクトを見た。正直、彼女はイエド人とまともに話をしたのも初めてだったが、ここまで堂々としたイエド人というのは聞いたことがない。
「人の顔を見て面白いか?」
タクトが言って寄越す。シルーズははっと我に返った。悪いことを聞いたのかもしれない、と慌てて視線を逸らす。
「あ……ごめん」
シルーズはうつむきながら謝る。それに、タクトはぱたぱたと手を振った。
「まあ、気にするな」
けろりと言ってのける。シルーズは再びタクトに視線を移した。だが、それは義憤からではなく、目の前の同い年ほどの少年が、何だか急に大きく見えたのだ。
タクトは無断で会場に潜り込んだのだから、警備員を呼んでも間違いではあるまい。だが、こうも堂々とされると、そんな気も失せてくる。
「……あ」
シルーズがはっとした顔をした。いたずらを見つけるなり、タクトを追いかけてきてしまったので、ラウディとはぐれてしまった。まだあの楽団の近くにいればいいが、そうでなければ、何とかラウディを捜さないと家に帰れない。
「……どうしたんだ?」
タクトが怪訝な顔をする。
「いや、いい加減連れを探さなきゃ。そうしないと家に帰れない」
そわそわと焦りだしたシルーズに、タクトは頷いた。
「えーと、じゃあ……」
ラウディを捜すべく駆け出そうとしたシルーズは、最後に振り返り、タクトに尋ねた。
「じゃあ、あんたの名前は?」
「タクトだ。タクト・ダグラス」
あまり聞かない名前だった。イエド人独特の名なのだろうか。
「お前は? 教えたんだから、そっちも聞かせろよ」
「シルーズ・シェル・カティオ。シルーズでいいわ」
シルーズはそう名乗り、にっと笑った。
「どこらへんに住んでるんだ?」
何とはなしにタクトは尋ねる。どうしてそんな言葉が出たのかは、自分でもよく分からなかったが。
「『探し屋』よ!」
シルーズはそれだけ答え、にっと笑った。
「じゃあねっ!」
シルーズは身を翻すと、物陰から駆け出していく。
タクトが後ろで手を振ったようだった。
その頃。
「畜生、どこに行きやがった、あの暴走小娘……」
ラウディはぶつぶつと言いながら、歩き回っていた。
隣で演奏を聴いていたと思ったのだが、突然どこかに走り出してしまった。捕まえようにも、人混みにもまれて、気が付けば姿が見えなくなってしまったのだ。
ただでさえ広い会場なのに、この人出である。子供一人を捜すのは相当に骨だ。当然だが、この時代、迷子案内などというものはない。
「くそっ、置いて帰ってやろうか、あの馬鹿娘」
なおもぶつぶつと言う。だが、言うだけで終わってしまうのが、現実の悲しさであった。
結局、数時間後に二人は再会出来たのだが、それは、もう閉場だからと警備員に追い出された入口でのことであった。
ラウディが、珍しくシルーズを叱り飛ばしたのは言うまでもない。
