Case4 親愛なる女王陛下 - 第07話
刑事二人の訪問からの十日間は、こともなく過ぎた。
アンダーソンが危惧した、タクトを『消そう』とする連中の影が見えることもなく、またケインズにおいても、爆破事件以降は大した事件は起こっていない。とは言え、万博開催中の事件で首都警察本部の威信は大いに傷つけられており、これ以上何かが起こったら市民の反発は免れなかっただろうが。
それを差し引いても、ここ数日のチャリオット家は平和だった。なぜなら。
「……こうか?」
事務所で預かっているタクトが、ペンと紙を手に格闘している。が、ペンの持ち方がまず、棒を持つ際の握り方だ。その持ち方でまともに文字を書こうとしても無理だろう、と、様子を横で眺めていたラウディは思った。
「違う、こう。それだと変な絵にしか見えないわよ」
「悪かったな、変な絵で」
唸っているタクトの横で、シルーズが紙を覗き込んでいる。タクトの書いた、ミミズがのたうち回っているようにしか見えない線の連なりを眺め、思わず天を仰いだ。
「いきなり続けて書くからまずいのよ。一文字ずつ書いてみなさいよ」
シルーズがペンを取り上げ、文字を書いて見せた。ペンを返すと、タクトはシルーズの書いたものを睨みながら、たどたどしい手つきでそれを真似てみる。
子供二人の様子を眺めながら、ラウディは嘆息した。
タクトをしばらく預かれ、とアンダーソンに言われたものの、それがいつまでになるかも分からず、その間はおおっぴらに動けもしない。緊張感を持ち続けるにも限度があり、厳しい状況であった。今のところ、平穏ではあるが。
シルーズとタクトもそれは理解しているようだが、子供二人には、外に出て遊ぶことも出来ないことのほうが問題らしかった。「暇ーっ」とシルーズがひたすら呟いていたのが一日目。そして、暇つぶしに、タクトに読み書きを教えることを思いついたのが三日目だった。
ケインズは世界でも有数の大都市であるが、この街でも、識字率は半分を割る。教育を受けられる環境にある者とそうでない者、その差は激しい。下層階級で、文字の読み書きをこなせる人間はごく少数だった。
ラウディは、その「ごく少数」に含まれる。シルーズも読みはほぼこなし、自分の名前だけは書くことが出来る。だが、移民のタクトは、読み書きがまるで出来なかった。よく見かけるいくつかの単語については判別が出来るようだが、文章を読むことは無理だ。
そこでシルーズは、まず一つ一つの文字と簡単な単語の読みを教え、その後に、タクトの名前の書き方を教えていた。エーデルランドが法治国家である以上、下層市民でも書類にサインする機会はある。最低限、自分の名前は書けなくてはならない。
そして、ラウディが渡したサインの手本を前に、少年は格闘しているのであった。
そのタクトを、シルーズは飽きることなく面倒を見ている。普段の彼女なら、覚えが良いとは言えないタクトを前に癇癪を起こしそうなものだが、その様子もない。むしろ、出来の悪い弟を溺愛する姉のような雰囲気すらある。
「…………」
どことなくというより、見るからに楽しそうなシルーズを眺め、ラウディは思わず遠くを眺めた。
「子供は気楽で良いな」
ラウディは呟くと、鬼の興味が逸れている間にと、昼寝を決め込むことにした。大きく伸びをすると、ラウディは読んでいた新聞を適当に放る。
ばさりと床に落ちたそれには、選挙法改正における両党の攻防と、保守党の不利が記されていた。
珍しく、夢を見た。
過去の記憶を辿る夢。普段は思い出しもしないのに、夢ならば鮮明な光景となるのが不思議だ。
十年近く前のことになるだろうか。まだ自分は子供で、見覚えのある老人と一緒にいた。
老人の前で、自分は<追跡>の術を使っていた。だが、手にしている振り子は、今『自分』が使っている黒い賢者石のものではなく、ただのガラスだ。
おぼつかない手順で、かなりの時間がかかったが、それでも一応は的中を叩きだした。だが、それを老人は険しい顔で見ている。
「……何だよ、爺さん」
老人に、自分は口調を荒くして言った。これでも、前に比べればかなり上達したのだ。ただ術を行使するのに五年はかかると言われるのに、二年足らずで扱いの難しい<追跡>を使えるようになったのだから、誉めてくれても良さそうなものなのに。
「ふむ……こちらに問題はないな」
脈略のない老人の呟きだったが、あまり気にしなかった。この老人が、自分に理解できないことを呟くのは、珍しいことではないからだ。
この老人と出会ったのは、下町の裏通りだった。ぼろきれをまとって道の端に座り込む老人に、「まさか死んでないだろうな」と近づいてみたのが最初だ。幸いにして生きていたその老人が、いきなり「<術式>を学んでみる気はないか」などと言いだし、好奇心から思わず頷いてしまったのが二年ほど前。それから、暇を見つけては老人のところに通い、教えを受けている。
老人に教えられたものには、今は失われつつある<術式>だけでなく、国の歴史や読み書きといった教養も含まれていた。それに関しては、老人に教えを請うて正解だったと思っている。
だがそれでも、通りすがりの少年に己の知識を叩き込む、その真意は分からない。だが、考えても分からないし、聞いても老人は答えないだろうと、知ることを放棄していた。
「これで、もう一度やってみろ」
そういって老人は、懐から黒い石を出して渡してきた。見慣れない形の、石の結晶。
だが、夢を見ている『自分』は、その石が何であるか知っている。今の自分の持ち物である、賢者石の振り子だ。
「そいつが賢者石だ。お前の構成にも合っているはずだ」
老人が言う。
簡易式は、術者の身体の構成と体外に記述した魔法陣を組み合わせて回路とする。そして、賢者石と呼ばれる稀少鉱物もまた、魔法陣としての特徴を持っていた。
自分に合った賢者石を追加すれば、体外に記述する魔法陣の量は減らせるし、また制御も格段に楽になる。簡易術者には、喉から手が出るほど欲しい代物だ。
目を見張る自分に、老人はつまらなさそうに言った。
「そいつはくれてやる。お前が使え。だが、それが万能だとは思うな」
興奮に冷や水を浴びせるような言葉に、自分はいくらか気分を損ねたが、頷いておいた。
「けど……何で?」
術の行使を補助する道具というのは、いくつか存在する。だが、そのいずれもが相当に稀少かつ高価で、滅多に手に入るようなものではない。この黒い石も、その類であることは確かだ。
「お前のほうが、わしよりは先まで生きるだろう。それだけだ」
言って老人は肩をすくめた。実際、その数年後にこの老人は亡くなった、と思い出す。
「……この国には」
ふと、老人が遠くを眺め、呟くように言った。
「まだ、この国が誰のものか分からん奴らがいるのだ。だから、それはお前に渡しておく。お前は間違いなく、この国の一人だから」
その言葉の意味は、やはり、自分には分からなかった。
目を開けてみれば、窓から、夕暮れの赤光が差し込んでいた。
「……と、随分と寝てたな」
最近長く昼寝したことがなかったのは、無論、その前にシルーズが叩き起こしに来るからだ。ラウディは伸びをすると身体を起こした。横を見れば、まだシルーズとタクトはペンと紙と格闘している。
何とはなしに、ラウディは懐を探り、振り子を引っ張り出した。その先端にぶら下がる黒い石。かつて師から譲り受けた賢者石だ。
ぼんやりと夢を反芻する。過去の、どうということはない一日。
「フォワード・アンガス」
ふと呟いてみたのは、老人の名だ。とは言え、これが本名だったのかは定かではないが。いつも爺さん爺さんと呼んでいたので、教えられたこの名で呼ぶことはとうとうなかったように思う。
老人の素性も真意も、今は全て墓の下だ。もう問うことは出来ない。フォワードの知人だったエリザベータ――ラウディにエリザベータを引き合わせたのも、フォワードだったのだ――なら、その断片は知っているのかもしれないが。
「…………」
だが、いつも通り、ラウディはそこで考えるのを止め、振り子を再び懐に戻した。
夜、静かに明かりが灯る部屋の中。
「あなた自らが出向かれるのですか?」
男は主人に問うた。片方しか露わになっていない目に、困惑の色が浮かんでいる。
「わしが出て行ってまずいということもあるまい」
そういう主人は、既に外出着である。そのまま議会にも出かけられそうな格好で、街……それもイーストサイドに向かうにはやや不釣り合いであったが、単に彼はこれ以外の格好を知らないだけの話だ。
「は」
そう言われれば、男に命令を拒む理由はない。意見することはあっても、男が主人に反論することはない。
静かに男は足を踏み出した。
こん、こん、と扉を叩く音がした。
「…………!」
今は夜。まだ人々は寝入ってはいないだろうが、人を訪ねるのには遅い時間だ。そんな時間に緊急の用があるのなら、丁寧に扉など叩かず、外から怒鳴り立てているのだろう。
ラウディがシルーズとタクトに目配せする。子供二人は慌てて奥の部屋に飛び込み、鍵を掛けた。完璧ではないが、誤魔化すくらいのことは出来るだろう。
それから、ラウディはゆっくりと扉を開けた。
「誰だ、こんな夜中に……」
いつも通りを装いながら、ラウディは面倒くさそうに言った。こういう時は、あまり感情が表に出ない自分の性質をありがたいと思う。
が、顔を上げた瞬間、ラウディは表情を凍り付かせた。
目の前に佇むのは、若い男が一人。年齢はラウディとさほど変わらないと見える。黒髪に黒のコートで、明かりを持たずに歩けば夜の闇に紛れてしまいそうだ。
だが、男を特徴づけているのは、隠された左目だろう。男の片目は眼帯で覆われていた。
「――誰だ、お前」
そう言う口調が強ばったのは仕方ないだろう。直感的に悟る。――『まっとう』な人間ではない。
目の前にいながら、生身の人間にあるべき温度が感じられない。彫像のほうが、まだ『人間』の側にいる気になれるのではないか。
「ラウディ・チャリオットだな」
陰鬱な口調で隻眼の男は言った。
ラウディは咄嗟に考えを巡らせる。『目撃者』のタクトを狙ってきたのかと思ったが、この男は自分の名を言った。ならば、その意図は何か。
「だったら、何の用があるんだ」
『
「人違いだ」などという誤魔化しはきくまい。冷たい汗が流れるのを感じながら、ラウディは答えた。
「貴様に用がある。……あとは」
そう言い、男は部屋の奥の扉に視線を巡らせた。
「そこにいる二人もだ。……気配からして子供といったところか」
男が示した扉は、先程シルーズとタクトが隠れ、鍵を掛けた扉である。熟練の戦闘者は、姿を見ずとも人間の気配を読み、行動するという。この男はそれに達しているのだ。
ラウディは、男のコートの下が一部膨らんでいるのに気付いていた。おそらくは拳銃。
「いきなり夜にやってきて、はいそうですか、なんて素直に話を聞くか。用があるなら事務所が開いているときにしてくれ」
ラウディは冷静を装いつつ言うが、内心の動揺は男には悟られているだろう。逃れられない。男の目的が何なのかまだ分からないが、自分たちに利するものではあるまい。
(……頼むから出てくるなよ)
扉の向こうのシルーズたちに念ずる。二人も、会話に耳を立てているだろうから、飛び出してくるようなことはないだろうが。
「我が主は忙しいのでな。このような時間の訪問の非礼は詫びよう」
いくらか予想外の言葉が出て、ラウディは怪訝な顔をする。非礼と言ったことと……『我が主』の一言。
「こっちは、あんたの主人とやらに用はない」
突っぱねてみる。強気で出ればいいのか、交渉する姿勢を見せた方が良いのか、それも読めない。
「ならば、明日正式に尋ねれば、我々の話を聞く用意はあるか?」
男が言う。
アンダーソンが危惧した、あの爆発事件の犯人と、この隻眼の男の間に関係は見つけられない。いや、あるのかもしれないが、この訪問とは違うらしい。
ならば、下手に頑なな態度を取るより、交渉して逃げた方が良い。そうラウディは判断した。
「さてね」
言って、肩をすくめてみせる。動きはいくらかぎこちなかったが。
男は考え込んだようだった。二人の間に沈黙が満ちるが、それは、別の物音を二人の耳に届けることとなった。
扉の向こうから物音がする。子供二人を隠した部屋から、がたがたという音。
部屋に二人がいることは、既に男にも知られているから、隠れているのが見つかった、ということにはならない。が、物音から、ラウディはシルーズたちが何をしようとしているのか悟った。
おそらく、窓から外に出たのだ。ラウディが男と話しているうちに、別の道から逃げ出すことにしたらしい。
考え方としては悪くない。だが、この男の前ではあまりにもやり方が稚拙だった。
(藪蛇だろうが!)
心の中で悲鳴を上げる。案の定、男の目が一気に鋭くなった。ただ佇んでいるだけなのに、剥き出しの銃口を突きつけられてでもいるような感覚がある。
「何をするつもりだ?」
男が鋭くラウディに問う。とは言え、別件で狙われる可能性があるから逃げ出した、などと素直には言えない。それに、爆破事件と男が関連しているという可能性も考慮しなくてはならない。
情報が少なすぎる。心の中で、頼みの綱の振り子は頼りなさげに揺れていた。
黙ったままのラウディを前に、男は外に足を踏み出した。子供たちを捕捉する気なのだろうか。
男の後を追い、ラウディも慌てて外に飛び出す。が、抜け出したシルーズとタクトがどこに向かったものか、見当も付かない。ならば。
(くそっ、どうにでもなれ!)
「我が望むは混迷・我が描くは法陣・我が生み出すは無明!」
素早く紋様を切った指が、紅い魔法陣を発生させる。起動した簡易式は、男の姿を風景から消し去った。
<透過>。指定した空間に飛び込もうとした光を全てねじ曲げ、迂回させることで、目的のものを『見えなく』する術である。生き物の目というのは、物体にぶつかり、跳ね返った光を認識することで、ものが在ると判断するのだ。
だがこの術は、言い換えれば、隠す対象となるものにまったく光が届かないことになる。外から中のものを見えなくする代わり、中からもまったく外部が見えなくなるのだ。そのため、かつて奇襲などのために開発されたものの、本末転倒となってしまい、結局ほとんど使われなかった術である。
これで、男の視界はしばらく潰せるはずだ。とは言え、術はそう長くは保たない。それまでに二人を何とかしなくてはならない。
「くそっ!」
舌打ちしながら周囲を見回す。と、道の向こうに、様子をうかがっている赤い髪の少女が見えた。ラウディの簡易式の光に気付いたらしい。
「この馬鹿娘!」
急いで追いつき、とりあえず怒鳴る。本当はそんなことを言っている場合ではないのだが。
「だって、今のうちに逃げなきゃ……」
「それが藪蛇だったんだろうが!」
ぐしゃぐしゃと髪を掻きつつ叫ぶ。だが、もう手遅れだ。
「それで、どこに逃げれば……」
不安げに言うのはタクトだ。命を狙われている――と本人は思った――子供としては、冷静と言えただろう。もっとも、それがかえって仇になったのだが。
逃げる。咄嗟にラウディは脳裏にケインズの地図を展開した。どこだ。逃げ通し、隠れるのに適した場所――
瞬間、閃くものがあった。
「ヴィクトリア広場だ! そこに向かって走れ!」
二人に向かい、ラウディは叫んだ。
