黒き河を往け

Case4 親愛なる女王陛下 - 第08話

 ヴィクトリア広場。現在水晶宮が建設されている、万国博覧会の会場である。
 水晶宮の中は広く、また様々なものが置かれているため、一時的に隠れるには適当だろう。警備の人間もいるのだろうが、それはこの際考えない。
 あの隻眼の男には一時的に目くらましをかけたが、男は姿が見えずとも気配を読む。姿が見えずとも、ラウディたちの向かった方向は分かっているであろう。視界が封じられているのは特定の空間内だと男が気付くまでの、本当にわずかな間の時間稼ぎでしかない。
「くそっ!」
 夜の街を疾走しながらラウディは舌打ちした。
 もう春とはいえ、夜はまだ冷え込む。冷たい空気が、疾走によって熱くなった身体をわずかに冷ましてくれた。事務所のあるフロレス通りからヴィクトリア広場までが、さほど遠くないのが唯一の救いだ。
 シルーズとタクトも、ラウディにきちんと付いてきていた。シルーズは子供としては俊足だし、タクトも生活の中で鍛えられているのだろう。
(しかし、これからどうする)
 咄嗟に男に目くらましをかけてしまったが、これも失敗だったかもしれない。シルーズとタクトの逃走も、子供のやることと誤魔化した方が賢かったのではないか。だが、もう後の祭りだ。
 この場は逃げおおせても、ラウディたちの本拠たる事務所は既に知られている。あの場所に戻るのは危険きわまりないが、かといって、他に行く場所もない。
 自分一人ならまだどうとでもなる。だが、今は他に二人も面倒を抱えているのだ。
(……くそっ!)
 目の前に、月明かりに煌めく水晶の宮殿が見えた。
 

「簡易式か」
 主人が呟いた。
 ラウディ・チャリオットが起動した術は、男の視界を奪ったが、少し移動したところで効果が途切れた。おそらく、指定範囲に対して仕掛ける術だったのだろう。そのまま追うかどうかわずかに逡巡したところに、主人が現れた。
「正確な起動でした。術者としては熟練かと」
 淡々と男が言う。
「ふむ……行き先は分かっているのか?」
「はい」
 ラウディがヴィクトリア広場、と言ったのは男も聞いていた。だからこそ、追うかどうか迷ったのだが。もしそれがなければ、すぐに気配を追って走り出しただろう。
「どういたしますか」
「我らもそこに向かうまでだ」
 主人が言い、ふと、髭をわずかに震わせて笑った。男が視線だけでその意図を問う。
「いや、何。おもちゃの宮殿であの男の置き土産と話すのも酔狂だと思ったまでだ」
 くつくつと、低い笑い声が響いた。
 

 水晶宮の中に入り込んだ際の功労者は、タクトだった。
 何しろ彼は、以前にも金を払わずに潜り込んだ前科がある。どうすれば警備の人間の目をくらませられるか、ほとんど勘で察することが出来るのだ。目端が利くと言うべきか、三人はさほど苦労せずに中に入り込んでいた。
「うう……ほとんど見えない」
 何しろ夜の宮殿である。天井のガラス越しにわずかに月光が入ってくるものの、展示物が林立しているお陰で見通しはひどく悪い。それを狙ってこの場所に来たのだから、文句は言えないが。
「明かりとか……」
「馬鹿か。そんなもの点けてたら、ここにいますって言ってるようなもんだろうが」
 ラウディは嘆息した。
「言っておくが、この場所に逃げ込んだことは向こうに知られてるぞ。すぐに追ってくるか、家を占拠するかは知らんがな」
 走っている時には考えないようにしていたのだが、こうなると、今の状況はあまりにも悪い。相手の目的も出方も見当が付かない。
 この状況で隠れていると、かえって万が一の際の対処がしにくくなると、今は特に物陰に隠れたりはしていない。悠然と、誰もいない通路を歩いていたりする。
「……と、これって」
 すぐ側にそびえ立つ柱を見つけたシルーズが、手を触れつつ呟いた。
 先日博覧会に来た際に見た、昇降機《エレベーター》である。華やかに見えた最新鋭も、今は不気味な影を落としていた。
「今見ると――」
 言いかけたシルーズの口を、咄嗟にタクトの手が塞いだ。その前にラウディが踏み出し、強く振り子の石を握りしめる。
 目の前で、隻眼の男の姿が、他のどれよりも暗い影を落としていた。
 

「そいつがあんたの『主人』か」
 男の後ろの人影に視線をやり、ラウディが言った。大柄な体躯の男とは対照的に、小柄な姿である。浮かび上がる影からして、男ではあるようだが。
「そうだ」
 嘘をついたり居丈高な態度を取るわけでもない。そのくせ話も通じない。厄介にも程があると、ラウディは目の前の男を心の中で罵った。
 小柄な男が前に出てきた。それでようやく、顔が判別できるようになる。
 老境にさしかかったくらいの年齢の男だった。上品に灰色の髪を撫でつけ、揃いのスーツとコートは浮かび上がる輪郭すらも美しい。
 エーデルランド人なら誰もが憧憬の視線を向けるであろう、『紳士』。印象を一言で言うならそれだ。だが、それだけの老人でもない。感心すると同時に直感する。
「……何者だ、あんた」
「ふむ。『置き土産』がこんな若造とはな」
 ラウディと老人、二人の言葉が同時に響いた。
 ラウディは怪訝な顔をする。老人の言葉の意味が分からない。先程の男との会話を考えても、脈略がなさすぎた。
「……何なんだ、それは」
 顔をしかめて言うラウディに、老人が苦笑したようだった。
「私の顔を知らんのでは無理もないか」
 呟くと、老人はこつりと手にしていたステッキで地面を叩いた。
「マークウィス・シェル・チェンバレン。そう名乗れば分かるか?」
「――――!」
 老人の言葉に、さしものラウディも凍り付いた。
 チェンバレン。まぎれもなく、それはこの国の最高権力者の一人の名だ。保守党の最高実力者にして二大政党の立役者。
 新聞の風刺画にはよくこの老人も登場するが、小柄という特徴こそ捉えてはいるものの、あまり似てはいないのだなと、ラウディは思わずそんなことを考えた。
(……いや)
 そんなことはどうでもいい。この国の重要人物である男が、何だって今、自分の目の前にいるのだ。
「あんたは……」
 口が渇く。喉がひりつくのを感じながら、ラウディはそれだけを絞り出した。
「貴様はラウディ・チャリオットとか言ったか。ふむ、戦車《チャリオット》の名にはあまり似つかわしくない若造よな」
 チェンバレンはラウディの名を正確に言った。隻眼の男もラウディの名を知っていたのだから、チェンバレンが知っていても当然のことではあったが。
「……あんたが」
 真っ白になっている意識を何とか引き戻し、ラウディは口を開いた。必死で言葉を探す。
「保守党のあんたが、何だって俺なんぞに用がある。議員ってのはそんなに暇なのか」
 最上級の敬語を用いるべきなのかもしれないが、口をついて出たのは、結局いつも通りの憎まれ口だった。だが、それをチェンバレンは不快とは感じなかったようだ。苦笑して口を開く。
「暇ではないが、貴様には用がある。このような場所で話すことになるとは思わなかったが、それも一興ではあろうて」
 暗がりに浮かび上がる発明品の数々を一瞥し、悠然とチェンバレンは言った。それが絵になっていると思ったのは、さすがの風格だからだろうか。
「……用、ね」
 最初にそう伝えてきた隻眼の男は、黙ってチェンバレンの後ろに佇んでいる。二人に交互に視線をやり、ラウディは言った。
「俺はあんたなんぞ知らんし、用はない」
「貴様にはなくとも、こちらにはあるのだ。フォワードの置き土産が、我らの行動を阻害してくるとあらばな」
 チェンバレンの言葉尻を捕らえ、ラウディは目を見開いた。
 フォワード。それは彼の師の名のはずだった。今は墓の下に眠る老人。
 フォワードの置き土産――つまり、死後に残された弟子という意味だろうか。自分がフォワードに術を学んだことは、身内すら知らないというのに、目の前の男は、いったいどこまで自分のことを知っているのか。
「爺さんのことを知っているのか」
 背中に冷たい汗を感じながらラウディは言った。言いつつ、必死に考えを巡らせる。
 術を自分に教えた老人。かつては貴族に雇われていた術者。チェンバレンの持つシェルの姓は、王族を祖とする貴族のみが持つものだ。
「……ふむ」
 ラウディの様子に、チェンバレンも考え込んだようだった。
「フォワードからは、私のことは聞いておらなんだか」
 チェンバレンが小さくため息をついたようだった。
「こちとらごく普通の庶民なもんでな。あんたみたいな有名人とは縁もゆかりもない」
 ラウディは肩をすくめようとしたが、実際の動きは相当にぎこちないものだった。
「あれが何を考えていたのかは知らんが。……だが」
 チェンバレンの視線が途端、鋭くなる。思わずラウディは身をすくませた。
「それでも私の道を阻害するか。やはり置き土産よ」
 チェンバレンは一人で納得しているようだが、ラウディには訳が分からない。思わず顔をしかめた。
「一人で納得されても俺は訳が分からん。俺はあんたとは一切合切関係ないし、今後も関わる気はない。それで十分だろう」
 息苦しさを覚えながらラウディは言った。相対するだけでとてつもない圧迫感がある。チェンバレンも、後ろの隻眼の男も。
「ならば言い方を変えよう」
 だが、チェンバレンは引き下がらない。余裕めいた笑みを浮かべたまま続けた。
「お前と警察はいかなる関わりがある」
 今度こそ、ラウディは顔色が変わるのを誤摩化せなかった。
 今、警察との関わりを問うてくるのなら、それは間違いなく術による爆破事件のことだろう。だが、それをなぜ目の前の男が知っているのか。
 それはつまり――
「……あんたが」
 ラウディは喉がひりつく感覚を覚えながら呟いた。
 アバーラインがラウディの知己であること、その上司であるアンダーソンが最近ラウディと接触していたことは、調べれば分かることだろう。だが今、爆破事件を捜査する警察、またその周辺の動きを、わざわざ探る動機などいくつもない。その首謀者でもなければ。
 ラウディの呟きは耳に入っていたはずだが、チェンバレンは何も言わなかった。ただ、その笑みをわずかに深めただけだ。
 まったく、タクトの危機感は卓越していたと言わざるを得ない。真っ先に自分を狙うであろう人間から逃げ出したのだから。だからといって事態は好転しなかったのだが。「だが、あんたも馬鹿なことをしたもんだな」
 精一杯の笑みを見せ、ラウディは顔を上げた。とはいえ、冬なのに額から伝う汗は隠せなかったが。
「俺も警察も、まさか犯人があんただなんて思いやしていなかったんだ。わざわざ出てこなけりゃ、どうせ捜査は暗礁に乗り上げていただろうよ」
 これは嘘ではない。ラウディが警部ら二人に術式の説明をしてから数日が経っているが、その間、捜査が進展したなどという連絡は入っていない。
「だろうな」
 だが、チェンバレンは笑みを崩しはしなかった。むしろ苦笑したようだ。
「その余裕ってのは、今から俺たちを殺すから話しても構わんってことか?」
 ラウディの冗談めいた……しかし本心からの問いに、チェンバレンは苦笑のままだった。肯定はせずとも、否定もしないようだ。後ろには変わらず隻眼の男が控えている。
「……で、わざわざあんたがお出ましになった理由ってのは?」
「先ほど言った通りだ。フォワードの置き土産に用がある。もっとも、何も知らんようだったということだけは分かったがな」
 チェンバレンが苦笑を深める。
「そりゃあ、こちとら庶民にあんたとの関わりなんざあってたまるか」
 言ってから、ラウディの脳裏に師の姿が脳裏をよぎった。下町でぼろを被っていた老人。つい先ほどまで、そう思っていたのだが。
「それだけ分かったら十分だろう。俺は金輪際あんたと関わる気なんかない。だからとっとと帰れ」
「嫌われたものだな」
 チェンバレンが笑いながら言った。ラウディが恐怖しているほどには、目の前の男は自分に敵意を抱いていないらしい。それが解せない。
「人間かっさらってきて爆弾に仕立てるような奴と、お近づきになりたい奴がいるか」
 売り言葉に買い言葉とばかりに言ってみる。だがその一言に、チェンバレンの目がすっと切れ上がった。
(……まずったか)
 再び背に冷たいものを感じる。もしこの男の機嫌を損ねてしまったら、自分たちは一巻の終わりだ。
 チェンバレンは顔を上げた。だがその表情に、ラウディへの敵意や憎悪は感じられない。
 己の意思に絶対の正義を持ち、他者を率いてのける、為政者の表情だ。
 堂々たる表情、朗々たる声で言ってのける。
「我が親愛なる女王陛下のためだ」
 その一言に、ラウディは目を見開いた。女王マーグレット。この国が戴く冠。だがなぜ、今その名が出てくる。
「私はそれほど長話が好きではない。だから率直に言おう。ラウディ・チャリオット、お前は女王陛下に忠誠を捧げる気があるか?」
 その一言に、ラウディは言葉を失った。

 

 
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