Case5 愚者と賢者の正義 - 第02話
万博開催中から始まった議会改革論議は、万博が終了しても続き、議会は混迷の様相を呈していた。
第一次選挙法改正がなされたのは十五年ほど前のことだが、それによってラヴェット広場事件などの労働者運動が起こり、更なる改革は必至と以前から言われていた。マーグレット女王をして、議会改革の必要性を言わしめたほどなのである。
そのため、議会改革法案そのものは、唐突に出てきたものではない。実を言えば、二年ほど前にも一度提出され、その時には否決されている。この時法案を提出したのは保守党で、穏やかな変革を望んだものだったが、保守党内で意見の折り合いがつかず、結局廃案となった。
今回法案を提出する中心となったのは、自由党の指導者、ウォルポールである。彼は前回の経験から、大胆な手に打って出たのだった。すなわち、前回よりも急進的な改革案を提出することによって、保守党の分裂を引き起こすこと。
当初ウォルポールが提出した法案の、基本路線は以下の二つである。
前回の改正において、納税額により有権者が定められ、いわゆる中層階級はほぼこの範疇に入った。次に選挙権を拡大する層は、まぎれもなく国の大部分を占める下層階級だが、完全な普通選挙制によって一気に全てに選挙権を与えるのではなく、納税額の境界線の引き下げにより、徐々に選挙権を拡大するという、歯止め条項が組み込まれていた。また、ある種の特権階層に「二票目」を保証し、既存権益との兼ね合いをはかっていた。
もう一つは、地方税の納入者に対し、個人納入を行っている者のみに戸主選挙権を設定することである。地方税の納入方式には主に二種類あり、一つ目は前述の個人納入、もう一つは戸主は家賃と一緒に払い、家主が一括納入する方式である。これの目的は、個人納入を政治参加への適正の試金石とすることであったが、実態としてはむしろ地方ごとに大きなばらつきがあり、あまり理論的な案とは言えなかった。
このように、当初提出された法案は、さほど民主的とは言えないものであった。だが、ウォルポールの目論見通り、保守党の意見は大いに割れたのである。
長期にわたって議会改革の必要性は言われており、またこの言葉がたびたび持ち出されてきた経緯から、何らかの形でこの問題に決着をつけなくてはならないというのは、自由党にしろ保守党にしろ、議員たちの共通認識であった。だが、「何らかの形」の認識においては、個々人によって大きくずれがあった。
まず、保守党の中でも、労働者階層にはまったく選挙権を認める必要がないとする派閥。歯止め条項を欲しないが、さりとて完全な戸主選挙権――歯止め条項がなくなったときにおのずと実現される内容――をも欲しない穏健派。一部には大規模な改革を望む一派もおり、彼らは歯止め条項の撤廃を望んだ。
このように、保守党内でも意見や目的がばらばらに分かれてしまい、指導者に従うという雰囲気ではなくなってしまったのである。更に、地方税の納入方式の導入により、大いに混乱させられていた。
これに対抗する手段として考えられるのは、まず団結してウォルポールの法案を葬り去り、しかる後に彼らの案を提出するというものであったが、その道は、前回の失敗によって既に塞がれている。この時点では、まさにウォルポールの戦術は成功したのであった。
無論、自由党内でも異論がなかったわけではない。だが彼らは、権益以上に、「自分たちが改革の主役たる」ことに酔っていた。長らく対立していた保守党を出し抜き、自らの手で、長年の懸案事項だった議会改革に決着をつけることに。そう仕向けたのはウォルポールの手腕であったが。
こうして改正法案は提出され、論議を引き起こす。その過程で、法案は大きく変形していった。
歯止め条項を盛り込んだことからも分かるように、ウォルポールは当初から、現在のエーデルランドの貴族政の変化を望んだわけではない。むしろ、選挙権の拡大によって貴族政は盤石になると考えていたくらいである。だが一連の修正動議を通じ、法案は政治権力の均衡をも変えてしまうものとなっていた。
修正動議の第一が、有権者の居住資格――選挙権は戸主に大して与えられる――を二年から一年に短縮すること。第二は、十二ヶ月間部屋を占有した間借り人にも選挙権を与えること。そして第三は、前述した、地方税の納入方式による制限を撤廃すること。
納入方式は地方によって差が大きいため、数十人しか有権者が増えない選挙区もあれば、一気に増える地区もあった。ウォルポールはこの潜在的な不平等を理論的に説明しきれず、政府は修正を受け入れたのである。これによって、一気に五十万ほど有権者は増えた。
こうなってしまえば、特権階級への特別選挙権は大して意味を持たない。一気に膨れ上がった有権者に対し、ごく一部の「二票目」など無意味である。それはあっさり撤回された。
有権者が増えれば、問題となるのは議席の再配分である。この改革によって増えるのは主に都市部の有権者であるから、人口の少ない地方から、多い都市に議席を再配分しなくてはならない。かつて保守党は議席の再配分に対し、大いに抵抗したのだったが、一連の混乱で、均衡についての考えなどどこかに消し飛んでいた。保守党の一部もこの修正動議に賛成を投じ、法案は更に「民主的」なものとなった。
これらの動きは、保守党の一員たるチェンバレンにとっては、まさに破滅への道標に等しいものだった。彼は、労働者階級に一切の選挙権を与える必要はない、と考えた一派である。
この法案によって有権者となるべく議論されているのは、都市職人層であり、節制を美徳とし、上の階級を目指す人々である。チェンバレンからすれば、選挙権とは彼らの努力によって――つまり、収入を増やして納税額を上げれば――与えられるものであり、それこそが制限選挙制の長所であるとした。選挙権を拡大することは、それの価値を貶めることに他ならなかったのである。
一言で言って、チェンバレンは民主主義に恐怖していたと言って良い。それは、彼のいくつもの弁論によって示された。
チェンバレンは、民主主義は三つの悲惨な結果をもたらすと言った。第一は、政治権力を無知の人々によって移行させることで、知的な統治が不可能になる。二つ目は、数の論理によって議会を構成するとき、真のリーダーシップが失われる。三つ目は、政策が選挙戦の場となれば、労働者階級は、選挙権を目的に対する手段に使うようになるだろう。
チェンバレンは、五人の「ほどほどの秀才」よりは、一人の「孤独な天才」を好む質であった。そして、自分はその「孤独な天才」であると自負していた。力のある者についてはそれを認めるが、それ以外への目は非常に冷たいものだったのである。労働者階級という、彼からすれば「無知であり、闇雲であり、感情的」な人々が国政に足を踏み入れるなど、言語道断であったろう。
チェンバレンほど明確に言葉にすることはなくとも、選挙権の拡大、それがもたらす未来への恐怖を理解する人々はいた。彼はそういった人々に言葉巧みに近き、協力を取り付け、保守党内に一つの派閥を形成していた。だがその派閥が、ウォルポールが仕組んだ通り、保守党の分裂を引き起こしてしまったのである。
法案が下院を通過し、議会改革がなされるのは、もはや時間の問題となっていた。それは時代の流れと言えたかもしれないし、偶然の所産、ウォルポールの暗中飛躍の賜物であったかもしれない。
この法案が成立すれば、エーデルランドの「民主化」への偉大なる里程標となるだろう。だが、それでもなお、人々の「完全なる平等」への道のりは遠かったのである。
「うわ……」
シルーズは新聞を見つめ、思わずうめいた。
万博も終わり、新聞はまた面白おかしく書き立てるための事件探しに余念がない。しかし、今日ばかりは、どの新聞も同じ事件を大々的に取り上げていた。
「下院議員、変死体で発見……」
見出しに大きく書かれた文字を声でなぞる。それがどれほどの大事かは、子供のシルーズにでも何となく予測がついた。
ただでさえ、選挙法の改正を巡って議会は混乱しているのである。その渦中にあるはずの下院議員が不審な死に方をした。人々がこの事件におののき、様々な憶測を並べるのも当然だろう。
議会改革と何らかの関係があるのか、偶然なのか、変死とあるがその死因は何なのか。考えだしたらきりがない。シルーズも思わず背筋を震わせた。
「…………!」
記事を読み進めて行くと、そこには更に衝撃的な事実が記されていた。
少し前にも一人、同じような死に方をした人物がいた。彼は議員ではなかったが、下院議員の一人に付き、秘書のような役割を果たしていた人物だったらしい。その事件の際は、重要人物でなかったこともあり、大きく取り上げられなかったが、「二人目」の事件が起こったことにより、にわかに取りざたされるようになっていた。
二人とも、議会に何らかの形で関わっていた人物である。事件の関連性を疑うのは当然のことだろう。
「…………」
シルーズは実のところ、どういった人々が政治を執り行っているのかなど、考えたこともない。以前に事務所に男爵が訪れたこともあったが、政治もそれに関わる人々も、まったく別の世界だと思っている。どんな法律が世の中には存在するのかさえ興味がない。ただ、自分たちが平穏に生きていられればそれで問題はなかった。
だがそれでも、この事件が、あってはならないことであるのは分かる。世界に冠たるエーデルランドの、それも中枢で、議員の変死など。
「ラウディ!」
思わずシルーズはラウディを呼んだ。大人であり、他の庶民よりいくらか法や歴史の知識のある彼なら、何らかの見当がつくのではないか。
「んー……」
昨日は外に出かけ、なかなか帰ってこなかったラウディだが、今日はいつも通り、昼間から長椅子で寝そべっている。シルーズが呼ばわると、ラウディはのっそりと起き上がり、シルーズが振ってみせた新聞に視線を落とした。
「…………」
ラウディは無言。だが、その目が一瞬切れ上がったように見えたのは、シルーズの気のせいではなかっただろう。
「何なのかしら、これ……って、これからどうなるの?」
シルーズは珍しく不安げに聞いた。さしものこの少女でも、「国」の未来に不安を感じざるを得ない事件である。
「さあな」
そう答えるラウディの口調は、いつも通り、そっけのないものだった。だが、その目は今までシルーズが見たこともない鋭さで記事を追っている。
シルーズは思わず気圧され、黙ってラウディを眺めた。一通り記事を読むと、ようやくラウディは息を吐いた。ばさりと新聞を置く。
ラウディが置いた新聞に、シルーズは再び目を落とした。見出しだけ読んで驚いたため、きちんと全部読んでいなかったのだ。
「……国立博物館?」
シルーズは呟いた。新聞には、二つの変死事件の舞台として、その名が記されている。
国立博物館。議院やホール、時計塔といった施設と並ぶ、ケインズの重要施設の一つである。ケインズ国内に限らず、世界中から貴重品を収集し、研究し、広く展示することを目的とした施設だ。
百年ほど前に制定された法令により、この施設は発足した。三つの大きな個人コレクションを国が買い上げ、保管・公開することとしたのである。これに限らず、この博物館は、主に既存のコレクションを買い入れる形で規模を大きくしていった。博物館が主体となって展示物を集めるようになったのは最近のことである。
現在、この博物館はいくつかの部門に分かれ、それぞれ収集・研究を行っている。図書に関する刊本部・写本部、古美術部、自然科学部などで、所蔵物の増大に伴い、現在はいくつかの場所に分割、保管されている。
事件が起こったのは、主に図書資料が保管されている館である。一番最初に博物館が発足した地でもあり、歴史も古い。現在の博物館の中心と言っていいだろう。
一人目の変死者は、ダドリー・ライナス、自由党の下院議員の秘書を務めていた少年である。とは言っても、公式なものではなく、雑用係に近かったようだが。博物館の塀のすぐ側で倒れているのが二週間ほど前に発見された。
そして、今回死んだ二人目が、エドワード・エル・ユーワート議員。「エル」の姓からも分かるように、貴族の家系である。彼は、書庫内で倒れているのを、朝に見回った警備員が発見した。
二人とも争った形跡はなく、ナイフで刺されたなどの目立った外傷もなかった。一人目のライナスについては、毒が死因ではないかと言われているが、二人目のユーワート議員については、これから鑑定が行われるだろう。
この時期に二人が連続して死亡するなど、偶然ではあり得ない。だが、「加害者」の存在がはっきりしない限り、殺人事件としては扱えないのだ。何しろこの事件には、「犯人」の影がない。
ライナスの遺体が発見されたのは屋外だから、深夜なら犯人が逃走するのも容易であったろうが、二人目のユーワートは、一般には解放されていない、誰もいないはずの書庫で見つかった。もし閉館後に何らかの事情でユーワートと犯人が残っており、ユーワートを殺害したにしても、警備員もいた中、どうやってその場から立ち去ったのか。遺体を発見した警備員はすぐに人を呼んだから、発見以降、現場から誰もいなくなるということはなかったはずなのである。
「なぜ、どうやって?」――新聞の一番上に書かれた言葉である。シルーズも、読めば読むほど、そんな気分になってくるのだった。
「ねえ……」
シルーズが振り向いて問いたげな顔をするのに、ラウディは先回りして言った。
「もしかして術で殺したとか言うなよ。そんな都合の良い真似は出来ん」
ラウディは肩をすくめて言った。
出鼻をくじかれたシルーズはむっとしたが、黙り込んだ。先日の<邪眼>についても、得体の知れないながら、あれは術ではないとラウディは言う。ならば、不可解な事件についても、見えていないだけで何かしらのからくりはあるのだろうか。
(それに……)
先日の件で、自分たちが、どこかで己の領分を超えた範囲に足を踏み入れてしまったような予感はある。目の前に現れた老人はまぎれもなく、この国を左右出来る人物だった。
そして、この議会政治を揺るがす事件。悪い予感でしかないが、自分たちにこの事件が関わってこないという保証はない。
「…………」
シルーズは思わず身体を震わせた。
今までは、その日一日のことを考えていれば良かった。金がないと叫んでみても、意外にどうにかなってきたのだ。ただ、平凡な日々の積み重ね。
それに亀裂が入る音が、どこかで聞こえた気がした。積み重なってくる不安に潰されるように。ならば、何を考えたら良いのだろう。一月後か、一年後か。それとも一分後か。
だが、考えずとも、人は時間の流れに押し流されて行く。それは決して細い清流ではなく、黒い濁流だ。先は見えず、ただ揺さぶられるのみ。
(流れの先に……)
先に待っているものは、果たして何か。
