Case5 愚者と賢者の正義 - 第03話
ラウディは、今まで運命というものを信じてはいなかった。
世の中は、所詮偶然の積み重ねで動いているのである。その中にはたまには自分に縁の深いものもあって、それを特別と感じることもあるかもしれないが、本質ではないだろう。死後の世界にある審判も、天国と地獄も、さして興味はない。
だが、巡り合わせというか、逃げようのないこともあるのだと、ラウディは思わずそんなことを考えていた。
事務所の応接室。相変わらず手入れも良くないその部屋に、二人の男がいた。一人はラウディ、そしてもう一人は今日の客人である。
ラウディの目の前にいるのは、初老の男である。髪にこそ白いものが混じり、顔にもいくつもの皺が刻まれていたが、対して雰囲気はまったく頼りなさを感じさせない、背筋の伸びた男だった。
「お目にかかれて光栄ですよ……パニッツィさん」
ラウディは思わずそんな言葉を口にした。客人……パニッツィは、もとよりたまには新聞に名が載るくらいの人物だが、最近は特に大きく取りざたされている。
国立博物館の館長。それが、この客人の現在の職である。
サムエーレ・パニッツィ。エーデルランドでは珍しい名を持つこの男は、元々は大陸からの亡命者である。若くして政治運動に身を投じ、故郷にいられなくなった彼は、ほぼ無一文でこのケインズにやってきた。当初は大学で外国語を教えていたのだが、やがて博物館内の図書館に職を求め、刊本部に配属された。
博物館には図書資料を扱う部門が二つあり、写本部と刊本部に分かれるが、その差は大雑把に言って、肉筆の資料か印刷資料かである。大陸で活版印刷が発明されたのが四百年ほど前のことで、それから一気に図書資料は増えた。であるから、写本部の管轄はそれ以前の手書きの本もしくは肉筆の原稿など、対し刊本部の管轄は、近年の印刷資料、そしてこれからも大量に発刊されていくであろう書籍である。方向性も異なり、写本部は古文献などの研究に熱心だが、刊本部は大量の新刊を網羅することに精力的である。
パニッツィはかねてよりその精力的な仕事ぶりで知られ、長く刊本部の部長も務め、一介の職員から館長にまで上り詰めた。いわゆる叩き上げの典型である。
刊本部長時代から、パニッツィの手になる業績は多いが、その主たる二つは、目録規則の整備と大型閲覧室の建築である。博物館は毎年、前年に新しく収集した文献の一覧――目録を発行するが、それまでその記述方式は一本化されておらず、また増えた資料に対して整理が追いついていなかった。それを改め、目録規則を制定したのである。
二つ目の大型閲覧室は、増える一方の図書資料に対応するため、新しく円形の大型閲覧室を博物館内に新築したのである。巨大な円形の閲覧室は特徴的で、また彼の発案になる数々の工夫も取り入れられ、国立博物館を代表する場となった。これによって博物館は大いに市民に開かれた場となり、事実、図書の閲覧者も増えた。
それらの業績をもって、亡命者から館長にまで上り詰めた彼だが、ここ最近は新聞や、挙げ句には議会でも批判を一身に受けている。その理由は無論、博物館の周辺で起こった、二件の変死事件のことである。
一人目のライナスは、博物館のすぐ側の道路で発見されたから、博物館がさほど注目を浴びることはなかったが、二件目のユーワート議員は、誰もいないはずの書庫で発見された。閉館後に戸締まりをしたはずのところに、被害者と、もしかしたら加害者がいたとなれば、館長が警備の不備を問われるのも仕方のないことではあろう。
ラウディも新聞は見ているから、パニッツィが槍玉に上げられているのは知っていたが、まさかその人物が自分のところを訪れるとは思わなかった。ラウディは半ば感心したような顔で、パニッツィを眺めていた。
「ここの探偵は、探し物が専門だと聞いたが、それは間違いないな?」
パニッツィが口を開いた。いくらか訛りの混じったエーデルランド語である。見た目は厳めしい男だが、その口調は若々しく、重々しさよりも覇気を感じさせる。
「まあ、そういうことが今までは多かったですね」
ラウディは言った。『探し屋』が師から受け継いだ二つ名であろうと、そう断言してしまうと逃げ道がなくなる。
ラウディの言葉に、パニッツィは頷いた。ラウディの思惑など、この男には見透かされているのかもしれない。
「何を探すのかはっきりしていて、それを見つけてこいというのなら俺もやぶさかではないんですが、最近は、何とも言えないものを探して来る人が多かったですがね」
パニッツィを牽制する意味も込めて、ラウディは言ってみた。だが、パニッツィは顔色一つ変えない。
「それが何かはっきりしているのだったら、わざわざ探偵など頼まん。犬にでもやらせる。仮にも専門職を名乗るなら、相応の頭脳が前提だ」
パニッツィはあっさり言ってのける。これにはラウディも引きつった笑みを浮かべた。
「おそらく、私の依頼もお前には厄介なものだろうよ。持ち込んだ私も厄介者だろう」
パニッツィは何でもない風で言うが、ラウディはその意味に気づいた。おそらく――いや確実に、あの変死事件に関する何かなのだろう。
引きつった笑みのまま、ラウディはパニッツィの次の言葉を待った。パニッツィは鞄から新聞を取り出し、指先である記事を示す。それは無論、議員の変死事件についてのものである。
「お前もこれについては知っているだろうから、今更詳しくは説明しなくとも良いだろう」
パニッツィの言葉に、ラウディは頷いた。
「知っての通り、最初の事件は博物館の側、二件目は書庫内で起こった。私の管轄下で起こった事件で、それについては釈明のしようがないが」
言いかけたパニッツィに、ラウディは尋ねた。
「二件目はともかくとして、一件目は、たまたま側の道路だったということはありませんか」
言ったラウディに、パニッツィは黙って首を横に振った。
「遺体には、土と引きずったような跡があった。土の成分の鑑定はまだ途中だが、道路をずっと引きずっていくなど、目立ちすぎて、普通の人間ならまずやらんだろう。側にあった建物から放り出すくらいならともかくな」
静かにパニッツィは言った。
「今のところ、まだ変死事件の扱いになっているが、あれはまぎれもなく殺人だ。私の博物館内での」
そう言うパニッツィの表情に変化はない。だが、下で拳が握りしめられたのに、ラウディは気づいていた。まぎれもなく、それは己の庭での狼藉への怒りであったろう。
「確か、一人目は毒死でないか……と言われてましたが。二人目の議員は?」
「遺体の状況がほぼ一緒だった。正確な判定はまだ出ていないが、おそらくそうだろう」
パニッツィは驚くほどこの事件に対して冷静だった。怒るほどに冷静になる質なのか、その静けさが彼を館長にまで上らしめたのか。
「そこまでは分かりました。ですが、ご存知の通り、俺の仕事は『探し屋』です。何を探せとおっしゃるのです?」
ラウディは静かにパニッツィを見据える。それをパニッツィは平然と受け止めた。
「この二件の凶器。それが、お前への依頼内容だ」
淡々とパニッツィは言ってのけた。
「……凶器? この事件は毒死だと、先程あなたはおっしゃいませんでしたか?」
「死因が毒だとしても、どうやって毒を与えたかだ。騙して飲ませる、気絶させて針を打ち込む、何らかの方法はあるはずだ」
ラウディの疑問に、パニッツィが続けた。
「その殺害方法は、おそらく二件とも一緒だろうと?」
先回りして尋ねたラウディに、パニッツィは頷いた。
「どちらも、遺体の手に小さな傷があった。外傷の検分は二体とも終わっているが、唯一の共通点がそれだった」
「つまり、加害者は何らかの方法で手に傷をつけ、おそらく刃に毒が仕込んであった……と」
ラウディが呟いた。
「ですが、手に毒を仕込んだ刃を当てる、ですか。そのやり方は……」
「こんなものは簡単だ。考えられることは一つしかない」
たとえば毒のついた刃を振り回したとしても、それが二回とも手に当たる可能性は低いだろう。考え込んだラウディに、パニッツィは呆れたように言った。
「何かを持たせれば良い。気づかれないように小さな針でも仕込んでおけば、それを目当ての人間に渡すだけで事足りる」
パニッツィは言い、肩をすくめた。
「……俺よりあなたの方がよほど探偵に向いていそうですね」
皮肉ではあったがお世辞ではなく、ラウディは言った。
「なるほど、だから凶器、ですか」
ラウディに、パニッツィは頷いた。
「いったい犯人が「何を」渡したのかまでは分からん。それも含め、お前への依頼だ。その、毒の仕込まれた物を発見すること」
パニッツィは言い切った。
「警察も当然、捜査はするだろうが、いかんせん彼らには荷が重かろう。それに、私の博物館で起きた事件だ、出来ることなら私の手で真相を見つけたい」
それが、わざわざラウディの事務所にまでやってきた理由だった。警察、の一言に、ラウディも重い顔をした。
何しろ、議会で法案をめぐって紛糾している中の事件である。もし事件に政治的な意図が絡んでいるなら、また、何らかの形で捜査に横槍が入る可能性も多分にある。
一人目のライナスが仕えていた議員、二人目のユーワート議員はいずれも自由党の所属だった。それから考えても、政治的な意図を疑うことは、杞憂ではないはずだ。
「これで、私の事情は全て話した。引き受けるか?」
問われ、ラウディは顔を下に向けた。
殺害された二人は、いずれも自由党の所属だった。事件に政治的な意図があるなら、対立しているのは、当然保守党だ。
保守党。――あのチェンバレン。
保守党の劣勢は、もはや避けられないところまで来ている。チェンバレンが、非合法な手段をも躊躇わないことがあるのも知っている。無論、保守党にいるのはチェンバレンだけではないが、彼が関わっていることを危惧するのは当然だろう。
「…………」
自分に誘いの言葉をかけてきたあの老人。前回の件ではラウディに「力」を見、それゆえに退却した。今回このパニッツィの依頼を受ければ、再びチェンバレンと敵対することになる。
そうなれば、今度こそ、あの老人はラウディを「敵」と見なしてくるだろう。意に添わぬものに対してはあまりにも冷淡なチェンバレンが、ラウディを放置する決断をするとは考えにくい。まがりなりにも「力」は認めているから尚更だ。
(そうなったとして……)
自分を、そしてシルーズを果たして守りきれるのか。
自分一人なら、そこまで深くは考えない。最悪、それこそ目の前のパニッツィのように他国に亡命でもしてしまえば良いのだ。だが、問題はこの事務所の居候だった。シルーズを、自分の問題に巻き込むわけにはいかない。
(だが)
逃げて、逃げ続けられる保証はない。エリザベータから話を聞き、遠からずまたチェンバレンは関わって来るだろうと確信している。ならば、ここで少しでも味方を作っておく方が得策ではないか。
パニッツィは、何人かの政治家とも親交がある。それが彼に館長職を与えたわけではないが、彼の業績は、政治家への影響力あってこそでもあった。諸刃の剣かもしれないが、ここで、目の前の依頼人を取り込んでおくことは無駄ではないだろう。
(どうする、どうする……)
選ぶのは未来。いくつもの札の中から、もっとも幸運であろう一枚を引き抜く――
(戦車《チャリオット》)
不意に、エリザベータに見せられた札の図案が思い浮かんだ。この事務所の看板の図案でもあり……ラウディの姓でもある。
似合わない名だとチェンバレンは言った。正直、ラウディ自身もそう思っている。だが、今ばかりは戦車《チャリオット》になるしかないのだ、そう思ったのも確かなのだ。
(……分の悪い、なんてどころの話じゃないんだがな)
ラウディは嘆息した。だが、座して敗北を待つよりは、死中に活路を見出した方が、まだ気が楽だ。そう思い、ラウディは心の中で苦笑した。どちらかと言えば、あの少女がしそうな思考だ。
「分かりました」
静かに言い、ラウディは顔を上げた。
「お引き受けしましょう。上手く行くとは限りませんがね。正直、手がかりも何も少なすぎる」
ラウディの言葉に、パニッツィは静かに頷いた。
「感謝する。無論、私も出来る限りの協力はする。そう表立ってというわけにもいかんがな」
そう言い、パニッツィは立ち上がった。
事務所に来客があったため、シルーズは事務所から追い出されていた。
いつも通りに、客人に紅茶を出すまではやったのだが、訪れたのは、見るからに「偉そう」な男だった。ラウディに出て行けと睨まれ、シルーズはすごすごと退散したのだった。いつもならばそれでも粘るのだが、今回のラウディはいつもと視線の鋭さが違った。
「……さっきばかりじゃないけど」
ここ数日、ラウディの様子はどこかおかしい。無論、いつも通りに髪は撥ねっ放しだし、昼間から長椅子を占領しているのだが、それは、無理矢理「いつも通り」をやろうとしているようにも見える。考え込み、時折見せる鋭い目つきは、それまでにはなかったものだ。
あの万博会場の一件が絡んでいるのだろうか。ラウディとチェンバレンが話していた内容は、シルーズにはさっぱり分からなかったが、あの二人に何らかの繋がりがあることだけは理解できた。チェンバレンが、今揉めている議会の大物であることも。
「…………」
今までと何かが違う、それはシルーズにも分かる。だが、それは漠然とした不安にしかならず、はっきりとした形をなさない。
事務所でおとなしくしているのも暇なので、シルーズは外に出てきていた。金は小遣い程度しか持ってきていないが、近所をぶらつくだけでも暇つぶしにはなるだろう。パン屋のメルローズのところにでも行って、おしゃべりしてきてもいい。
そんなことを考えつつ、シルーズは道を歩いていた。下町の道であるので、塵こそあまり落ちてはいないが、道幅は広くないし、あまり綺麗でもない。
馴染んだ場所であるので、あまり注意して前も見ずに歩いていた。そのため、シルーズは、危うく他の人間とぶつかってしまうところだった。直前で気づき、ぎりぎりで避ける。
「っと、ごめんな……」
すれ違いざま、一言言おうとしたシルーズは、次の瞬間に顔を強張らせた。
ぶつかりそうになったのは、老齢にさしかかったくらいの男だった。一点ものとして仕立てられた、ぴったりとした三つ揃い、低めの帽子。気軽に街を歩く時の格好だが、見る者が背筋を正さずにはいられないような、静謐な威厳の持ち主だった。
その姿に、シルーズは見覚えがあった。あの夜に出会った老人だ。マークウィス・シェル・チェンバレン。
「――――!」
シルーズは動きを凍り付かせた。因縁は分からずとも、この老人が出会ってはいけない人物であったことは分かる。逃げ出すべきか。だがシルーズは驚愕のあまり、その機会を失った。
顔を強張らせたままのシルーズに、チェンバレンは苦笑したようだった。少女を慈しむように、すっと手を差し出し、口を開く。
「久しいな。シルーズ・シェル・カティオと言ったか……カティオ家の末裔」
その言葉に、シルーズは目を見開いた。
