黒き河を往け

Case5 愚者と賢者の正義 - 第04話

 ケインズのような人間の密集した大都市でも、少なからず、人目につかない場所というのは存在する。
 再開発によって放棄されたり、無計画な建築や道路の敷設の結果生じた、街の死角である。そこを見つければ、大都市で密会することもさほど難しくはない。
 そんな場所の一つ。入り組んだ路地の中にある、くず資材が積み上げられているだけの場所に、一人の少女と二人の男がいた。
 赤毛を二つに結わえ、不安そうに男たちを見上げているのは、シルーズである。その前で、以前と同じく<邪眼>の男を従え、チェンバレンは悠然と微笑んでいた。その顔や穏やかではあったが、孫を愛でる老人といった種類のものではなく、強いて言うなら、絵画に描かれた聖人である。
 つまり仮面のような笑み。静けさの裏にあるものを読み取ることが出来ず、シルーズは思わず背筋を震わせた。
「相当怖がられているようだな、私は」
 チェンバレンは苦笑した。ようやく、シルーズも反射的に口を開く。
「当たり前でしょう! この間は、ものすごく怖かったんだから……」
 万博会場で出会った際、チェンバレンはシルーズとタクトに向けて術を放っている。それはラウディによって二人に命中することは避けられたが、恐怖の記憶というのは簡単には消えない。
「それについては詫びよう。あの時は、お主についてはよく知らなかったものでな」
 チェンバレンは素直に言った。シルーズは怪訝な顔をしてチェンバレンを見上げる。
 街でいきなり出会ったチェンバレンは、シルーズに、話があるからついて来いと言った。人目につきにくい場所はと問われ、シルーズがこの場所を言ったのである。「死角」は地元の人間でもなければ気づきにくい。
 もっとも、シルーズにも打算はあった。この場所そのものは人目につきにくいが、すぐ近くにいつも人がいる道路があり、大きな声を出せば誰かが気づく。チェンバレンに敵意が感じられたら、その時は遠慮なく騒いでやるつもりでいる。
 ラウディと何らかの関係があるチェンバレンが、ラウディに近しい場所にいるシルーズに、何らかの興味、もしくは利用価値を感じてもおかしくはない。だが、それはただの子供に対して「詫びる」という言葉まで発せさせるものだろうか。
「…………」
 問いたげに見上げてくるシルーズに、チェンバレンは再び笑った。
「いったい何の用かと言いたげだな」
 苦笑して言うチェンバレンに、シルーズは何回も頷いた。
「シルーズ・シェル・カティオ。……この名に間違いはないな?」
 チェンバレンが唐突に問うてきた。シルーズは眉をひそめながら頷く。
「シェル・カティオ……カティオ家の裔《すえ》がこのような場所にいるとは思わなんだ」
 チェンバレンの呟きに、シルーズは訳が分からないといった顔をした。
「シェル・カティオと言えば、あの獅子王に連なる家であるのに。……もしかして、何も知らんのか?」
 呟いてから、シルーズの表情に気づいたのであろう、チェンバレンが問いかけてくる。シルーズはこくこくと頷いた。
「自分の名前の『シェル』の姓が、王族から臣籍に下った者の姓であるということくらいは知っているだろう?」
 言われ、シルーズはとりあえず頷いた。似たようなものとして、騎士の『イル』の姓はアバーラインが持っているので馴染みがあったが、『シェル』については耳にすることも少ない。知ってはいたが、実際、今自分はただの市民なのだから、大して気にもしていなかった。
 チェンバレンが言う、カティオ家とやらについてはまったくの初耳である。父も同じく『シェル・カティオ』と名に付くわけだが、そんなことは一言も言っていなかった。
「まあ、理屈としては分かるけど……それが何なの?」
 思わずシルーズは尋ねた。今まで気にもしていなかったことを唐突に言われ、戸惑っている。
「カティオ家というのは、獅子王の三男を祖とし、七年戦争の時には宰相を輩出した家だ。このエーデルランドでも屈指の名家と言って良いが」
 チェンバレンが説明した。とは言え、シルーズは、辛うじて「獅子王」や「七年戦争」の単語を聞いたことしかない。ラウディはいくらか国史についての知識もあるようだが、シルーズはそういった勉強をほとんどしたことがなかった。読み書き、初歩の算術が出来るだけでも、同い年の子供たちに自慢できるのである。
 思い切り眉をしかめて考え込んでいるシルーズに、チェンバレンが苦笑したようだった。
「世が世なら、お主は大貴族の令嬢なのだ。……これなら分かるだろう」
 チェンバレンの言葉に、シルーズは頷くより先に目を丸くした。
 大貴族の令嬢。そんなことをいきなり言われても、まったく実感がわかない。貴族の姫君たちがどんな人々なのかも知らない。とりあえず、毎日パンの値引き交渉になど行かないのだろう、くらいの想像はつくのだが。
「……はあ」
 間の抜けた声を漏らすことしか出来ないシルーズに、チェンバレンは更に続けた。
「嘆かわしいことよな。成り上がりの商人たちが出しゃばると思えば、あの名家の末裔がこんなところにいるとは」
 チェンバレンが嘆息したようだった。
「つまり、あたしの先祖は王様で、貴族様だった、と」
 シルーズが呟くのに、チェンバレンは大きく頷いた。自分の姓を考えれば、それは言われずとも分かることではあったのだが、まるで初めて知ったことのようだ。
「で、それが何の関係があるの?」
 ただ、下町の少女に先祖のことを教えに来たわけではあるまい。チェンバレンがシルーズに接触してきた理由は何か。シルーズの問いに、チェンバレンの目が細められた。
「カティオ家というのは、このエーデルランドの歴史に多大な影響を与えた家だが、悲しいことに、現在は没落してしまっている。お主も、祖のことはまったく知らなんだようだしな」
 チェンバレンが、細めた目でシルーズを見下ろした。
「私はそれが惜しいと常々思っている。高貴なる血筋は、そうと認められるべきなのだ。そうは思わんか?」
「……と言われても」
 シルーズは困惑した返事をすることしか出来ない。唐突に言われても、頭が混乱するばかりである。だが。
「お主はそこらの人間とは違うのだ」
 チェンバレンのその一言だけは、なぜか、シルーズの心にすっと入り込んできた。
 街の友達とも知り合いの人々たちとも違う。高貴なる一族の末裔。
「…………」
 いつの間にか、シルーズは目を見開いていた。自分は違う。その一言は、少女にはあまりに蠱惑的だった。
 黙り込んだシルーズに畳み掛けるように、チェンバレンは続けた。
「お主が望むなら、私がカティオ家の再興に手を貸そう。あの名家とあらば、他の連中も無下にはすまいよ。そうなれば、お主は名実共にカティオ家の主だ」
 そうすれば、名実共に『貴族の姫君』になれる。自分が周囲とは違うのだと――特別なのだと知らしめることが出来る。
「あ……」
 唐突に降って湧いた話。まるで現実味がない。だが、目の前には、同じく『シェル』の名を持つ大貴族にして政治家がいる。彼が言うのなら、間違いはないのだろう。
 今まで話に聞いたことがあるだけの、貴族たちの優雅な生活とやらには、あまり興味はなかった。良くも悪くも、まったく別の世界だったのだから。だが、自分は実は偉い人の子孫なのだ、そんなささやかな優越感は快楽だった。
「……でも」
 シルーズは口を開いた。どこか恍惚とした顔から一転、険しい顔つきになる。
「家を再興させてくれるとか言ってるけど。その見返りは何? いくら何でも、それが無償でやってくれるわけがないってことくらいは、あたしにも分かるわ」
 鋭い声でシルーズは言った。
「さすがに聡いな」
 それに、チェンバレンは面白そうに答えた。少女の視線を真っ向から受け止める。
「ますます、市井に埋もれさせるのが惜しくなった。さすが、あの宰相の末裔よな」
 チェンバレンは感心したように言っている。それを、シルーズは睨みつける。
「お主は話が早そうだから、こちらも簡潔に言おう。ラウディ・チャリオット……お主の保護者にして叔父。それが、私の求める見返りだ」
 その一言に、シルーズは目を見開いた。チェンバレンがシルーズを知ったであろう経緯を考えれば、それは一番の可能性であったはずなのだが、まるで、シルーズ自身に用があるように思わされていた。
「私はあの男の力が欲しい。あれだけ優秀な術者もまた、市井に埋もれさせるわけにはいかん。だが、あの男は一度私に反旗を翻したな。
 私の言うことに耳を貸さずとも、近しい存在であるお主の言なら、あの男も耳を傾けるだろう。端的に言えば、あの男を説得することが、お主に力を貸す条件だ」
 静かに、しかし重く鋭く、チェンバレンは言った。
「……もし、あたしが言っても、ラウディが首を縦に振らなかったら?」
 シルーズが問うた。この老人が、力がありかつ意に添わぬ人間を、そのまま放置しておくとは考えにくい。
「その時は、あの男が持つ賢者石を奪取してくることだ。あれがなくば、<追跡>は行使が難しいからな」
 つまり、ラウディが意に添わぬなら、賢者石の振り子を奪うことで無力化するつもりなのだ。それが出来るのは確かに、近しい場所にいるシルーズのみであろう。
「さして難しいことではあるまい。それだけで、お主は力と富を手に入れられる」
 誘いかけるようにチェンバレンが言ってくる。それを、シルーズはとろんとした顔で聞いていた。ラウディを取るか、貴族の地位を取るか。自分に課せられたのはつまり、そういう選択肢だ。
(……これ以上)
 考えてはいけない。目の前の男の話を聞いてはいけない。そんな警鐘が頭の中で鳴る。だが少女には、優越感はあまりに魅力的だった。自分は特別、その一言。
「無論、無理強いはせんがな。そのままでいたいのなら、それも良かろう。
 ――さて、どうする?」
 チェンバレンの問い。目の前の男を、シルーズはぼんやりと見上げた。
 

 灯した蝋燭は指先ほどにまで短くなり、火は消えかけていたが、その前にいる男は、それすら気づいていなかった。
 積み上げられた冊子類、紙の束が特徴的な部屋。そこで、部屋の主たる男は懊悩の表情を見せていた。
 初老の男である。白髪が混じり始めた髪はきちんと撫で付けられていたが、同じく整えられていたであろう服は、彼の苦悩を表すかのごとく、ややよれて見える。額に何本も刻まれた皺、細い目は、神経質そうな印象を周囲に与えるだろう。
 男……国立博物館写本部長、ケネス・マッデンは、神に祈るかのように蝋燭の火を見つめた。息を吐くと、火はわずかに揺らぐ。
「私は……」
 その呟きを聞く者はいない。マッデンは自室に他人が入るのを嫌うため、ノックなしに部屋に入る者などいなかったし、そもそも今は深夜である。他の館の職員たちは皆帰宅してしまっている。
(あの忌々しい亡命者も)
 亡命者とは、現在の館長パニッツィのことである。パニッツィのことを考えた瞬間、マッデンの表情に憎悪にも似たものがよぎった。
 この博物館において、館長は<第一の司書《プリンシパル・ライブラリアン》>と呼ばれ、図書部門の長が館長を務めるのが恒例である。その立場を巡り、かつてマッデンとパニッツィは、大いに争ったのであった。
 博物館に入った当初から、マッデンとパニッツィは競争関係にあった。ほぼ同じ時期に博物館に入り、それぞれ二つの図書部門、写本部と刊本部に配属された。そこで経験と実績を積み、地位を上げ、それぞれの部門長となった。
 となれば、次に狙うのは館長職である。二人はそれぞれ、懇意にしている博物館の理事や政治家に働きかけたのだが、結局パニッツィが館長に任命された。誇りある博物館の長の地位を亡命者風情に与えるのかと、マッデンは大いに反論したが、その決定が覆ることはなかった。
 館長職を巡る確執を抜きにしても、そもそもが、この二人は気が合わなかった。いかにもエーデルランド人らしい気質の、保守的かつ気の細やかなマッデン、故郷の大陸南部の気風を色濃く持つ、豪快な『改革者』パニッツィ。数十年の博物館勤務において、この二人の意見が一致したことはただ一回、職員の新規採用の際に一人の不採用を決めた時だけだったというから、二人の反りの合わなさも相当なものである。
 二人の勝負は、大抵において、パニッツィに軍配が上がってきた。改革を押し進め、『シチリーの噴火山』とも呼ばれたパニッツィーーパニッツィは、大陸南部のシチリーという国の出身である――の栄光の陰で、マッデンはいつも苦い思いをさせられてきた。
 それが、マッデンには我慢ならなかった。どいつもこいつも、結局あの亡命者に尻尾を振ってしまう。嘆かわしい。エーデルランド人の誇りを持つ奴はいないのか、と。
「あ……」
 そのマッデンに、一人だけ、同じことを言った人間がいた。エーデルランド人の誇りを忘れてはならないと。そしてその男は、マッデンにある誘いをかけてきた。
 誘いは、マッデンにはあまりにも魅力的だった。あの忌々しいパニッツィに一泡吹かせることが出来る。博物館をエーデルランド人の手に取り戻すことが出来る。上手く行ったら、次の館長にマッデンを推薦するともその男は言った。
 だから、マッデンは一も二もなく誘いに乗った。彼に課せられた仕事は、マッデンの立場からすれば簡単なものでもあったから。
(……ああ)
 だが、その結果までを、マッデンは予測することが出来なかった。それが今、彼を悔恨の感情に沈めている。
 最近、この博物館で起こった事件。使い走りの男と自由党の議員、二人が変死した。それが結果だった。
 男の誘いに乗った時点で、後ろ暗い仕事に手を染めることは覚悟していた。だが、誰が死ぬことになるのかまでは、当初マッデンは知らなかったのである。気がついた時には、もはや後戻りは出来なくなっていた。
 変死した二人目、ユーワート議員は、マッデンにも関わりがあった。特に懇意にしていたわけではないが、会ったことはあったし、彼の功績はマッデンも知るところであった。
 五年ほど前にエーデルランドでは、全国の一定人口以上の都市全てに公立図書館を設置すべし、という図書館法が成立した。その図書館法案を中心になって提出したのがユーワート議員だったのである。
 全ての市民に図書を無料公開すべし。図書館法は、この原則に貫かれている。何人にも学ぶ権利はあるのだと。それは、また国立博物館の理念でもある。
 パニッツィと反目しても、マッデンもまた、生粋の図書館職員であった。愛する図書館における功労者を陥れることに恐怖を覚えないわけがない。いや、やった当初は割り切ったつもりでいたが、じわじわと罪悪感と後悔がマッデンを蝕んでいた。
「私は……」
 教会に行って告解をしたら、神は聞き届けてくれるだろうか。それとも警察に行くべきなのか。だが、そうすれば、次に消えるのは自分となるだろう。あの男が裏切りを許さないことは、周知の事実だ。
「ああ……」
 跪いて許しを請う罪人のように、マッデンはうめく。彼は目の前に置いてあった包みを手に取ると、それを幼子のように抱きしめた。

 

 
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