Case5 愚者と賢者の正義 - 第06話
「国立博物館図書館、ねえ」
目の前にそびえ立つ書架を前に、ラウディは呟いた。
パニッツィから依頼があったのは一週間ほど前だが、正直、また手がかりもつかみきれていなかった。そのため、現場である博物館を訪れてみることとしたのである。
一人目の被害者が発見されたのは博物館の塀沿い、二人目は、一般利用者が入ることの出来ない書庫である。ラウディがパニッツィの依頼を受けたことは伏せられているから、その書庫に入ることは出来ない。閉館後ならば、パニッツィに頼んで入れてもらうことも可能かもしれないが。
「…………」
今ラウディがいるのは、大型閲覧室である。円形の構造を持ち、外枠の書架には膨大な図書資料が収められ、内側には利用者のための閲覧責が並ぶ。十数年前、パニッツィの尽力によって造られたこの建物は、名実ともに博物館の中心となった。
利用者は誰もが閲覧机で黙々と本に向かっており、また足音なども響きにくい構造になっているため、ちょっとした物音でも目立つ。ラウディの呟きにも、すぐ側を通った男が不快な視線を向けていた。
博物館は国民全てに門戸を開いているが、ラウディはここを訪れたことはあまりない。七、八年前までしかラウディは新聞や年鑑などの資料を持っていないため、それ以前のものを調べる際に、何度か訪れたくらいである。
書架はあまりにも大きく、資料は膨大であるため、利用者が自分で本を見つけることなど不可能である。そのため、ほとんどは館の人間に目的の書名を告げ、閲覧席まで配達してもらうという利用方法を取る。
そんなわけで、本を読むという目的のないラウディには、少々居心地の悪い場所であった。周囲の視線も気になるので、適当に本を一冊借りるか、などと考える。
(……本、ねえ)
文学などは知らないし、と考えかけたところで、パニッツィの言葉が脳裏に浮かんだ。被害者は二人とも、おそらく毒殺。
ラウディは職員のところに行くと、毒に関する本はないか、と聞いてみた。まだ若いながら、目を神経質そうに細めた職員は、露骨に顔をしかめた。
「毒と申されましても、色々と種類があるんですよ。全てを一冊にまとめたような本ですか、それとも特定のものに対する文献ですか」
職員はにこりともせずに聞き返して来る。図書館業務は客商売とは言わないが、もう少しの愛想はあっても良いのではないか、などとラウディは思った。
「そうですね……たとえば刃物に塗って傷を付けると、すぐに死んでしまうような猛毒とか」
ラウディの言葉に、職員は不審の視線を隠そうともしなかった。確かにこんな注文を聞いたら、いったいこの男は何をやらかす気なのかと思うだろうが。
とは言え、いちいち利用者の目的を勘ぐっていたら図書館員など勤まらない。職員はそれ以上何も言わず、文献を探しに行った。ラウディが席で待っていると、ほどなくして本が二冊届けられる。
書名は『毒物大全』、『致死性の薬物』。ぱらぱらとめくったところ、前者は文字通り事典、後者は特に猛毒と呼ばれるものに絞った資料であるようだった。愛想は悪いが、あの職員の仕事は悪くない。
「ふうん……」
とは言え、パニッツィから聞かされただけの情報で、毒の種類を特定するなど不可能である。遺体を調べた警察なら可能かもしれないが。適当に流し読みしつつ、ラウディはぼんやりと考える。
なぜ、二つの事件はこの博物館で起こったのか。手に付いた二つの傷。書庫。言葉がぐるぐると頭の中を回る。
手元の本に視線を落としてみた。毒物の本。ラウディの前にも、何人もがこの本を読んだであろう。彼らは何を思って、この本の頁を繰ったのだろうか。
「…………」
何かが引っかかった。図書館では、同じ本を何人もが読む。
「……ならば」
ラウディは立ち上がった。何だって、今までこんな単純なことに気づかなかったのか。
パニッツィはこの館にいるが、一利用者であるラウディがすぐに彼に会うことは不可能だ。何らかの形で連絡を取り、パニッツィに出て来てもらうしかない。
先程の職員に本を返すと、ラウディは歩き出した。
図書館を利用するのは、大学の教授や学生、知識人に留まらない。無論、字が読めなくては話にならないので、下層階級の人間――ケインズにおいても、下層階級の識字率はそれほど高くない――が訪れることは少ないが、広範な人間が図書館を訪れる。
その中には当然、政治家も含まれる。過去の議会に関する資料も所蔵されているし、立法に関わるならば、それに関する知識を得なくてはならないからだ。
目の前の男とて、政治家との親交は深い。再び事務所を訪れたパニッツィを前に、ラウディはそんなことを考える。
「私が呼ばれたということは、依頼が早々に果たされたと思っていいのか?」
ラウディと向き合うなり、パニッツィはそう口を開いた。
「まさか。いくつかお伺いしたいことがあったもので」
ラウディは苦笑しながら言った。
「単純な話ですが。例の殺されたユーワート議員、彼が最近図書館から借り出した本の記録というのはありますか?」
ラウディはいきなり本題に入った。パニッツィの目が一瞬にして鋭くなる。
「それならば可能だ。利用者の記録もこちらにある。探せばすぐに見つかるだろう」
パニッツィは即答した。だが、それにラウディは硬い表情を崩さない。
「なぜ図書館で事件が起こったか、ですが。俺の考えですけど、それはおそらく、単純に毒が仕込まれたのが本だったからではないかと」
ラウディは淡々と言う。それに、パニッツィの顔が一瞬にして怒りに染まった。
「殺そうとするなら何かを持たせれば良い、とあなたは言いましたね。図書館にあるものと言ったら、それはあの山のような本ですよ。
図書館の本には、誰もが触れることが出来る。二人の被害者に同じ本を借りるように仕向け、それに毒針を仕込んでおくことも出来たのではないですか」
ラウディの言葉を、パニッツィは黙って聞いている。
「だが、どの本を使ったのかまでは、俺には調査のしようがありません。それはあなたの仕事になってしまいます。……それに」
ラウディは続けた。パニッツィは鋭い顔つきのまま、先を促す。
「二人目の被害者が見つかったのは、一般の利用者が立ち入ることが出来ない書庫だった。そこに入り、かつ閉館後もいたというのは不自然でしょう。……誰か館内の人間が手引きした、とでもいうならともかくね」
パニッツィは目を見開いた。下で握られた拳がわずかに震える。
「もしかしたら、書庫には被害者しかいなかったのかもしれません。こっそりそこで本を読むように仕向け、毒に触れさせて殺害した。無論、そこには凶器の本も落ちているわけですが、書庫に本が一冊落ちていたところで、誰も気にもしないでしょう。内部の人間なら、周囲が遺体に気を取られている隙に凶器を回収することも容易い」
怒りに染まっていたパニッツィの顔が、今度は青ざめた。この感情の起伏の激しさは、彼が受け継いだ故郷の気質なのだろう。
「現時点では、俺に推測がつくのはここまでです。これ以上は、あなたの記録と記憶に頼らなければ」
静かにラウディは言った。パニッツィはそれに我に返ったようだ。
「となれば、ユーワート議員の遺体が発見された際の、職員たちの動きを調べるのが第一なわけだな。先程ユーワート議員の利用記録、と言ったが、もし館内の人間が本を渡したなら、馬鹿正直に利用者記録に残っているとは考えにくい」
さすがパニッツィは冷静だった。ラウディは、あ、という顔をする。
「とは言え、そう簡単には行かんかもしれんな」
パニッツィが苦い顔で言った。ラウディは怪訝な顔をして先を促す。
「あの日は、私は所用があって館に行くのが遅かった日でな。遺体が発見されたのは朝だが、その時私はいなかった。
だから、あの時職員たちに指示を出したのは私ではない。その日早朝からいた、写本部長……マッデンという男なのだが、彼だ。だが、あの男が容易に私の問いに答えるとは思えん」
パニッツィは言って嘆息した。
「それはどういうことで?」
「単純だ。奴と私は気が合わん」
あっさりとパニッツィは言った。ラウディは思わずがくっと脱力する。
「あの、古いものばかりをありがたがって、まったく進歩というものを見ようとしない男が、私は気に食わん。向こうもまったく反対のことを言っているだろうがな。それはともかく、そんなわけで、私が尋ねたというだけで回答を渋る可能性が高い」
苛立ちを隠そうともせず、パニッツィは言った。指で机を軽く叩く。
「……まあ、それは俺の力の及ぶ範囲ではないので、お二人に何とかしてもらうしかありませんが」
ラウディは苦笑しながら言った。学問の場である博物館でも、人間関係のいざこざからは逃れられないらしい。
「ともかく、それに関しては、俺よりあなたの方が適任でしょう。いかんせん、部外者の力の及ぶところではありませんからね。その結果次第で、俺の仕事は終わるかもしれませんし、再び……かもしれないと」
ラウディは言った。息を吐き、ふと前を見ると、パニッツィもまったく同じ動作をしている。
だが、その心情は正反対のはずだ。自分の仕事に一段落つけたラウディと違い、パニッツィはこれから、自分の博物館の中の人間を疑わなくてはならない。
だが、その不安や落胆を表に出すことはなく、パニッツィは顔を上げた。
「ともかく、今度はこちらで調べてみよう。その結果如何だ。協力を感謝する」
言って、パニッツイは手を差し出した。
シルーズは思わず嘆息した。
今日も今日とて、ラウディは長椅子に陣取って昼寝している。先程までは客人が来ていたが、彼が帰ってまた仕事をするのかと思ったらこの有様だ。
ここ数日は、格好を整えて出かけたりどこかと連絡を取ったり、それなりに動いてはいたようだが。それでも、この自堕落な様子を見るとため息もつきたくなる。
「ちっとは変わらないもんかしらね、この男は」
シルーズはぼやく。が、その様子に、どこか安堵した感があるのも事実だった。
ここしばらくの、ラウディの違和感。考え込みつつも、無理矢理「いつも通り」をやろうとしているかのような。今こうやって寝ているのも、もしかしたら「通常」を装っているだけなのかもしれないが、まったく違う様相になってしまうよりいい。
「…………」
シルーズは黙り込んで、眠ったままのラウディを見つめた。その様子は、ただの男にしか見えない。女房に逃げられて、いつもぐうたらとしている男。
そして、術の練達でもある。チェンバレンをして欲しいと言わしめたほどの。
「…………」
シルーズの脳裏に、チェンバレンの言葉がよみがえる。ラウディをチェンバレンの傘下に入れる、もしくはあの振り子を奪えば、自分は貴族の姫君になれる。
チェンバレンに囁かれてから、それはずっとシルーズの中に響いていた。『特別』を望むか、この生活を選ぶか。
現在の生活に特に不満はない。だが、目の前に「より良い」と思われるものがあれば、そちらに意識が向くのも仕方のないことではあろう。話にしか聞いたことのない、『上流階級』の世界。
それは別に、シルーズに限った話ではない。ぎりぎりで生活している家でも何とかしてメイドを一人雇って、自分を中流階級に押し上げようとするし、豪商は貴族たちと縁続きになって、上流階級の仲間入りをしようとしている。
より上に。それは、この街や国の人々の共通意識であった。
いつの間にか、ラウディの懐に目がいっていた。ラウディはいつも賢者石の振り子を身につけているから、上着かズボンのポケットに入っているだろう。注意して作業すれば、それを奪うことは容易い。
チェンバレンが言った、ラウディを彼の元に置くこと。それは果たして可能だろうか。一度チェンバレンに真っ向から対抗したラウディが、その意思を翻すことは。何と言ったら、この男は納得するだろうか。
「あ……」
ぐるぐると色々なことが頭を回る。気がつけば、ラウディの顔を凝視していた。ラウディがごそごそと身じろぎし、小さく声を漏らすのに、シルーズはびくりと震えた。
そっとラウディに触れてみる。上着を探ると、小さな硬いものの感触があった。
ほとんど衝動的に、シルーズはそれを引っ張りだしていた。思った通り、紐の付いた黒い石である。くず石炭のように貧相な、しかしラウディにとっては生命線とも言える術の補助具。
ラウディがいつもやるように、手に紐を絡め、じっと賢者石を見つめてみる。だが、術者でないシルーズにとっては、ただの石にしか見えなかった。
ラウディが扱えばものの在処を正確に指し示す振り子も、今は頼りなさげに揺れているだけである。シルーズの未来を示すことはなかった。
それは、自分で決めなくてはならない。シルーズは大きく息を吐き、手を下ろした。
「……どうしよう」
チェンバレンから示された期日はそう長くない。振り子を奪うならともかく、ラウディを『説得』するなら、あまり時間はないと言える。
もし、それが叶ったなら。ラウディがチェンバレンの意に従うことになったら、どうなるのだろう。シルーズはまぎれもなくカティオ家の直系だが、ラウディはその血を引いていない。ラウディが人々の尊敬を受ける立場になるとは考えにくい。
常にチェンバレンの後ろにあった、<邪眼>の男の姿が浮かんだ。チェンバレンに従う影が、二つになるだけの話だろうか。あの<邪眼>の能力と『探し屋』。チェンバレンが望むのはつまり、ラウディの術者としての力量なのだから。
「…………」
そこまで考えて、シルーズは、以前、ラウディに言った言葉を思い出した。今も、その考えは変わっていない。ならば。
シルーズは、手にしたままの振り子をぐっと握りしめる。その目に迷いはなかった。
