Case5 愚者と賢者の正義 - 第07話
国立博物館の職員たちは、ひそひそと語り合っていた。
この博物館における二人の実力者――館長パニッツィと、写本部長マッデン。この二人の仲の悪さは誰もが知るところで、彼らがいるところでは、もう一人の名を出すことさえも憚られるほどであった。
無論、博物館の運営においてこの二人の意見を無視するわけにはいかないので、定期的な会議では一つの机につくし、細かいやりとりもする。が、前者はいつもぴりぴりしているし、後者は常に第三者を使いに立て、顔を合わせようともしていなかった。
そのパニッツィがマッデンを呼び出したことは、すぐに職員たちの知るところとなった。
あれだけ嫌っていたはずの相手と一対一で話さなくてはならない用件とは、一体何なのか。職員たちは首をひねり、あるいはひそひそと推測を語り合っていた。この青天の霹靂のような出来事も恐いが、この後の二人の癇癪も恐い。
「……おい!」
職員の一人が、通りかかった一人の男を呼び止めた。呼び止められた男はうんざりとした顔をして振り返る。
この男はマーカス・ガーネットといい、刊本部の所属である。どちらかと言えばパニッツィの派閥に属するわけだが、長年、パニッツィとマッデンの橋渡しをしてきた男であった。このガーネットなくば館の運営は即座に滞るだろうと、皆に言われている。
「何があったんだ。館長たちは今話してるんだろ?」
呼び止めた職員が尋ねる。それに、ガーネットは辟易とした顔で答えた。
「今日、何回同じことを聞かれたか分からないよ」
言ってガーネットはため息をつく。
「言っておくが、私だって何も聞かされてないんだ。館長が来て、マッデン部長を呼んでこい、と言われただけなんだから。私だって何があったんですかと聞いたが、館長は何も言わなかったし、むしろこっちが知りたいよ」
パニッツィとマッデンの間を取り持っている関係で、ガーネットはかなり館の事情に詳しい。その彼にすら秘されている内容とは。
「…………」
職員たちは顔を見合わせた。本当に、一体何なのか。
先日の二件の事件のせいで、世間ではさかんに博物館について取りざたされている。そのことだろうか。だが、それならばマッデンだけでなく館の管理職を集めて会議を開くべきで、個人的に話す内容ではないだろう。
その場にいた全員が黙り込み、それぞれの思考に没頭する。だが。
「……仕事するか」
ぽつりと呟きが響く。全員はいっせいに、ある方角――館長室のある方向を見、息を吐くと、それぞれの作業に戻った。
職員たちが、顔を見合わせて囁き合っていた頃。
館長室では、件の二人、パニッツィとマッデンが向き合っていた。ソファにゆったり座るパニッツィに対し、マッデンは彼を睨みつけている。
明らかに格下を相手にするように自室に呼びつけられたら腹も立つだろうが、とパニッツィは思ったが、すぐにわずかに眉をひそめた。マッデンが自分の前で機嫌が悪いのはいつものことだが、どこか顔色が悪いように見える。
「いきなり人を呼びつけておいて、何の用なのだね」
マッデンは顔を上げ、口を開いた。一言言わねば気が済まないといった風情だ。
「君も当然知っていることと思うが、先日、書庫でユーワート議員が遺体で発見された事件のことだ。あの時、職員たちに対応の指示を出したのは君だったと聞く。その時の話を聞きたい」
単刀直入にパニッツィは言った。そして、先程の怪訝が気のせいでなかったことを知る。
マッデンの顔色が一気に青くなった。今度こそ、それは気のせいではない。
だが、まだそれを追求する時ではあるまい。パニッツィは言葉を切り、マッデンの返答を待った。
「私の対応が悪かったとでも?」
気分を害したとでもいうように、大仰に手を振ってみせ、マッデンが言う。だが、パニッツィにはそれは演技だと感じられた。伊達に、この男と長年喧嘩を続けて来たわけではない。
「そうは言っていない。だが、知る必要はある」
静かにパニッツィが言う。マッデンは無言のまま、身体をわずかに震わせた。
パニッツィはラウディの言葉を脳裏に浮かべた。ユーワート議員を書庫に手引きし、本を渡したのは、博物館内の人間の可能性が高い。それがもっとも容易な立場にいるのは、自分を除けば、このマッデンなのではないか。
「…………」
だが、その疑惑を、パニッツィも表情には出さない。しばらく無言の間が続いた。
「私が知りたいのは、発見された時の職員たちの正確な動きだ。無論君も含めてな。確か、最初に発見したのは警備のジョーンズだと聞いたが――」
パニッツィが切り出す。が、それをマッデンが遮った。
「それを調べる理由は何なのだね? それではまるで、館の人間を疑っているようではないか」
かかった、とパニッツィは思った。
マッデンは保守的かつ頭が固いことこの上ないが、実直というならこれ以上実直な男もまた、パニッツィは知らない。嘘をつくのにこれほど不適当な男もいないのではないか。
「率直に言えば、君の言う通りだ。状況を考えれば、館内の人間をも疑わざるを得んのだ」
冷徹にパニッツィは言った。
自分の顔が真っ青なことに、マッデンは気づいているのだろうか。パニッツィは更に続ける。
「遺体が発見された書庫は、一般の利用者は入れないし、そもそも大半は存在すら知らんだろう。そこで見つかったとなると、少なくとも警備の人間を誤摩化す手段が必要だ。だが悲しいことに、内部の人間にならその手段があるからな」
マッデンは黙り込んでいたが、やおら顔を上げると、喚き立てるように言った。
「それだけの理由で、館内の皆を疑うのか、君は! それでも館長か。何だね、君の故郷では小金をくすねる使用人が多いと聞いたが、そのせいか」
殊更に嫌味たらしく言ってのける。それはいつも通りの応酬ではあったが。
「可能性があるなら調べる。それが、館長たる私の役目だ」
静かにパニッツィは言った。
「何、恥じるところがないのなら堂々としていれば良いのだ。それだけですぐに疑いは晴れる」
パニッツィの言葉に、マッデンはそれ以上反論してこなかった。
「と、その前に一つ聞こう。先程からやけに顔色が悪いが……具合が悪いのか?」
最大の札をパニッツィは放つ。
マッデンの目が大きく見開かれた。自分の動揺を自覚できないほど、混乱していたらしい。
「――――」
気に食わない男だった。だが、その誠実さは愛すべきものだったのに。力が抜けそうになるのを自覚しつつ、パニッツィは続けた。
「聞かせてもらおうか。ユーワート議員の遺体が発見された時、君が何をしたかを」
それが、決定的な一言だった。
「あ……」
マッデンの身体からぐったりと力が抜ける。ソファに身体が沈み込むのを、パニッツィはいくらかの哀れみをもって見つめた。
「……何もかもお見通し、というわけか」
マッデンが呟く。パニッツィはそれに苦笑で応じた。
「まさか。私が知っているのは、先程言ったことだけだ。だから、これ以上は君に聞かなくてはならない」
言って、パニッツィは息を吐いた。
「おそらくだが、君がやったことは、ほんのわずかの間、遺体から他の職員たちを引き離すことと……その間に本を一冊拾うことだったろう。これは間違いないか?」
パニッツィの問いに、マッデンはぼんやりとした顔で頷いた。
「議員に本を渡したのも君か。何の本をどうやって渡した?」
鋭く目を細めてパニッツィが問う。
「古ロマーナの……カルススの著作だ。ロマーナの共和制についての文献だが、いわば古代の選挙だからな。現在の議会においても論拠となるのではないか、と言って渡した。個人的に融通をはかるふりをして、閉館後に書庫を使わせたんだ。
一人目もそのつもりだったんだが……都合が悪くなったと言って、あの少年を使いに寄越して来た。こちらも包みに入れて本を渡したのだが、誤って彼が毒に触れてしまったんだ。私も慌てて、やっとのことで遺体を塀の外にひきずった」
写本部長たるマッデンの管轄は、主に古書である。自分の管理する本を使ったのなら、他者にはほとんど気づかれないだろう。
ぽつりぽつりと語るマッデンを、パニッツィは静かに見つめた。
「なぜ、そんなことをやったんだ」
パニッツィが尋ねる。マッデンは、どこか遠いところを見つめた。
「単純なことだ。私は、ずっと君が気に食わなかった」
ふう、とマッデンは息を吐いた。
「言われたんだ。手を貸せば、君を追い落として、私が館長になれると」
「…………?」
マッデンの言葉に、パニッツィは眉をひそめた。
「言われた……とは、一体誰にだ」
それは、当然の疑問ではあったが。問いに、マッデンの顔が再び青ざめる。
「それは……」
マッデンは震えたまま、首を横に振った。何かに脅えている。
「――言ったら君が殺される、か」
パニッツィの言葉に、マッデンは何度も何度も頷いた。
マッデンを利用したのが何者かは知らないが、仮にも議員を殺害しようという輩である。罪を自白したと知れたら、口封じを行うくらい簡単に行うかもしれない。
となると、マッデンをこれ以上追及することも難しい。彼が犯罪に手を染めたのは悲しいことだが、むざむざ殺されるのを承知で自白を取ろうとは思わない。
「ならば、その本はどうした?」
「……隠した」
マッデンは震えながら呟いた。
「いったいどこに?」
「書架の中だ。本来の配架位置とは違う場所にしまってある」
言われてみれば、至極当然の隠し場所だった。この博物館図書館の蔵書は膨大なもので、その中から手がかりもなしに一冊を見つけるのは至難の業である。
「それを、君を利用した人間は知っているのか?」
凶器として利用された本は、重要な証拠である。黒幕にとっても、即刻回収しなくてはならない存在なのではないか。
しかし、マッデンは首を横に振った。
「無論、すぐに寄越せと言われたが……何とか理由を付けて拒んだ。今も矢のような催促が来ているがな」
マッデンの言葉に、パニッツィは怪訝な顔をする。
「拒んだ、とは、一体なぜ?」
「私なりの罪悪感だった、と言ったら、君は笑うか?」
言って、マッデンは弱々しく笑った。
「分かった。ならば、私もこれ以上君には問うまい」
言って、パニッツィは表情を鋭くした。
「君が隠した本は、私が見つける。黒幕とやらも私が暴く。君は無関係ということにすれば、本来の罪以上の咎はあるまい」
そう言ってのけたパニッツィに、マッデンはわずかに驚愕の表情を見せた。
「は……」
マッデンは身体から力を抜き、ソファに身を預ける。もとより神経質な印象は彼を年齢以上に見せていたが、今は、まるで老人のように見えた。
「……私には」
ややあって、マッデンはぽつりと呟いた。
「私には、<第一の司書《プリンシパル・ライブラリアン》>の資格はなかったな。博物館を血で汚したばかりか、守るべき本を悪事に用いた私には」
マッデンの言葉に、パニッツィは黙って首を横に振った。
「……なるほど」
パニッツィから説明を聞いたラウディは、息を吐き、そう呟いた。
マッデンから真相を聞いたパニッツィは、即刻ラウディに連絡を取った。その日のうちにラウディの事務所を訪れ、隠された本について話したのである。
「となれば、あとはその本を見つけること、ですか」
「そう猶予はあるまい。向こうも、是が非でも回収したい代物だろうからな」
パニッツィが重い口調で言う。
「マッデンの話からすれば、あちらも、本が図書館内にあることくらいは予測しているかもしれん。木の葉を隠すには森の中、だ」
マッデンの隠した場所は、そう奇抜なものではない。ラウディも頷いた。
「あとは早いもの勝負だ。そういうわけで、もう一度お前に依頼したい。これこそ本領だろう、『探し屋』」
パニッツィの言葉に、ラウディは慌てて言った。
「俺の術は、そう便利なものじゃありません。図書館の蔵書がどのくらいあるか知りませんが、そんな中から一つを特定するなんて、砂漠で一粒を探すのと変わりない」
パニッツィには、<追跡>の術のこととその特性についても話してある。チェンバレンとの対峙に際して、パニッツィの協力を得るなら、全てを話しておいたほうが得策と思ったのだ。
本がぎっしり詰まった中から一冊を見つけるなど、勘も何もあったものではない。<追跡>の特性が云々という話ではなく、単純に力不足だ。
「だが、砂漠の砂と図書館の蔵書は違う」
パニッツィは断言した。
「万全ではないかもしれんが、手がかりはある。ともかく、一刻も早く図書館に来てもらいたい」
自分の力は頼りないが、そのことについては異論はない。今は夜だが、おおっぴらに本を探すわけにもいかない以上、かえって好都合だろう。ラウディは立ち上がる。
「では……」
言いかけたラウディの耳に、物音が飛び込んで来た。応接室の扉が開く音である。
入って来たのはシルーズだった。また、扉の向こうから話を聞いていたのかもしれない。
「何だ」
苛立った口調で問うラウディを、シルーズは真っ直ぐに見つめ、言った。
「あたしも行くわ」
「馬鹿か。遊びに行くんじゃないんだぞ。黙って留守番してろ」
言い切ったシルーズを、ラウディを顔をしかめて遮った。パニッツィが怪訝な顔をする。
「……彼女は?」
「俺の姪です。今はうちの居候ですがね」
パニッツィに、ラウディは振り向きもせずに答える。だが、少女の目がこの上なく真剣なのに、パニッツィは気づいた。ただの子供の好奇心とは違うようだ。
「分かった。この状況だ、人手は多い方がいい。彼女にも来てもらおう」
パニッツィは言った。シルーズはぱっと顔を輝かせ、ラウディは顔をしかめる。
「言っておきますが、こいつは何の役にも立たない……」
「ここで論争している場合ではあるまい。急いで本を探さねば」
パニッツィは言うなり、さっさと上着を羽織って出て行ってしまった。シルーズも駆けてそれに続く。
ラウディは思わずため息をついたが、慌てて二人の後を追った。
