黒き河を往け

Case5 愚者と賢者の正義 - 第10話

「炎の蛇よ・顕われよ!」
「我が望むは鉄槌・我が描くは法陣・我が生み出すは雷光!」
 二つの紅い魔法陣から、それぞれ炎と雷光が生み出される。が、それは相手を打つことなく、互いに絡み合うようにして消滅した。
「……対消滅か」
 ラウディがうめいた。
 あまりにも近い場所で同時に術を起動しようとすると、<力>が相互干渉し、予想し得ない効果を生み出すことがあるのだ。今のように消滅してしまうこともあれば、相乗効果で想定外の威力を発揮することもあり、近距離で術を使わないようにというのは術者の鉄則でもある。
 だが、今はそんなことは言っていられない。ラウディはチェンバレンに向き直る。
(……どうする)
 今、ラウディの相手はチェンバレンだが、むしろ脅威なのは、変わらず後ろに控えている<邪眼>の男だろう。チェンバレンはまだ手段が分かっているから、術で対抗できる。だが、<邪眼>の動きを封じる現象に対し、ラウディはなす術を持たない。
 加えてこちらにはシルーズがいる。どうにかして彼女はこの場から逃がさなくてはならない。以前の万博の時と同じ状況だ。救いは、多少なりとも相手の出方が分かっていることか。
(まず、あっちの男か)
 たとえチェンバレンを追いつめても、<邪眼>で動きを封じられてしまえばそれまでだ。まず、<邪眼>を封じなくてはならない。何とか、あの隠された目を解放させないようにすること。
(ならば)
「我が望むは混迷・我が描くは法陣・我が生み出すは無明!」
 ラウディが術を起動する。それは、<邪眼>の男を風景から消し去った。
 以前にも使った、視界を奪う術だ。今回は、男の周囲に対して光を歪める力場を展開するよう設定してある。男が動いても、しばらくは視界を潰せる……つまり、あの左目が晒されることもないはずだ。とは言え、男は気配で人間の位置を察知できるようなので、肝心の視界を潰すという役にはどれほど立つか定かではないが。
「シルーズ」
 どうして良いか分からなかったのだろう、立ち尽くしたままだったシルーズに、ラウディは近寄ると囁いた。
「とりあえず今のうちにさっさと逃げろ。今回はさすがにお前まで守りきれん」
 ラウディは言うが、それはシルーズの反論によって遮られた。
「あんたね、あたしが何で美味しいご飯を断ったと思ってるのよ! あんたに術を使わせるわけにはいかないからでしょうが」
 シルーズが喚く。それを、ラウディは嘆息してチェンバレンを半眼で眺めた。
「そういう台詞はあっちに言ってくれ。術じゃなくて対抗する手段があるんだったら」
 ラウディはうんざりした様子で息を吐く。ラウディとて、むざむざ命を危険に晒したいわけではない。
 そう言われると、シルーズも黙り込むしかなかった。
「無駄話をする暇は与えん」
 そこに、チェンバレンが術を打ち込んで来た。何本もの光の矢が飛来する。チェンバレンにとっては、子供とは言え、ラウディと同様にシルーズもいられてはまずい人間である。
「うわっ!」
 狙いが甘かったのか、偶然の産物か、ともかく二人はそれを避けた。長距離狙撃の術は照準の制御が難しく、かつそれが複数ともなれば、チェンバレンとて一撃必殺とはいかなかったようだ。
 だが、その動作によって二人とも大きく体勢を崩した。シルーズは地面に倒れ込み、ラウディも大きく転がる。
「くそっ……」
 ラウディは慌てて立ち上がろうとする。だが、そのわずかな間が、決定的な差を生んだ。チェンバレンは既に次の術を起動すべく、魔法陣を展開している。
「…………!」
 全身の肌が泡立つ感覚。ラウディは咄嗟に膝をついたまま指先を動かし、何かを叫んだが、自分が何をしているのか、はっきりとは自覚できなかった。
 ただ、目の前の老人の姿だけがはっきりと見えていた。老人の表情が狂気に歪む。
 その口から呪文が紡がれたのを、はっきりとラウディは認識していた。
「汝が死よ・顕われよ」
 絶対の死の宣告が叫ばれる。
 瞬間、先程の矢とは比べ物にならないほどの光が出現した。回転する魔法陣が生み出した膨大な熱量は、一気にラウディたちに向かって降り注ぐ。
「きゃ……」
 シルーズの悲鳴も声にはならない。少女の目が見開かれ、視界が真っ白に染まった。
 降り注いだ光は、そのまま二人を直撃するはずだった。だが、二人のすぐ手前で光は跳ね返り、周囲に拡散する。光の欠片がいくつも地面に突き刺さり、嫌な音が生じた。
 直撃する直前に、ラウディが起動した力場が展開されたのだ。ぶつかり合った術は、また互いに干渉を起こし、チェンバレンの光の鉄槌は砕け散った。
 接触した術がどのような現象を引き起こすかは、あくまで確率の問題で、予想がつかない。攻撃が来ると思ったラウディは咄嗟に防御壁を展開してしまったわけだが、それが効果を得たのはまったくの偶然だった。
 だが、対消滅により、周囲に弱い衝撃波が生じていた。突如襲った突風に、ラウディとシルーズは吹き飛ばされる。それはチェンバレンも同様だったか、視界の向こうで老人が倒れるのが見えた。
「痛っ……」
 ラウディが再び起き上がろうとする。と、その横で、シルーズはたまたま近くにあった石を掴んでいた。
 何をする気かとラウディが問う前に、シルーズはそれを思い切り投げつける。狙ったのは無論のことチェンバレンだ。
「な……」
「術を使うわけにはいかないんでしょ? だったらどつき倒すまでよっ!」
 完全に据わった目でシルーズは叫んだ。ラウディは一瞬目を丸くするが、慌てて思い直す。なるほど、今ばかりは彼女が正しい。
 ラウディは立ち上がると一気に駆け出した。その先で、チェンバレンも立ち上がろうとしている。
 ラウディの拳をまともに食らい、チェンバレンは再び転がった。
「なっ……」
 さすがに術者から素手での一撃が来るとは思わなかったか、チェンバレンは目を剥く。ラウディも思わず自嘲の笑みを浮かべた。
 ラウディは格闘に関しては素人で、実は喧嘩の経験すらあまりないが、それはチェンバレンも同様であるようだった。となれば、青年と老人が取っ組み合いをするなら、さすがにラウディに分がある。
 技術も何もあったものではなく、ラウディが力づくで押さえつけようとする下でチェンバレンがもがく。二人はしばらく取っ組み合いを続けていたが、力つきたのは、体力で劣るチェンバレンが先だった。
 苦しそうに息をするチェンバレンの、その細い首にラウディは目を向けた。この老人を押さえつけてどうするのだ。今ここで倒さなければ、チェンバレンは今度こそ全力をもって命を狙って来るだろう。倒す。つまり殺す。
 今まで、探偵の名のもとに、犯罪を犯した者たちを糾弾してきた。それと同じ立場に今度は自分がなるのか。自分の命が危ないから。それは理由になるのか。
「…………!」
 チェンバレンを押さえつけたまま、ラウディは目を見開いた。思わず首に回そうとした指先が震える。身体から力が抜けそうになるのを、慌てて思い直した。
「ふん、出来ぬか」
 ラウディの下で、チェンバレンが鼻で笑ったようだった。
「なるほど、お前は言った通りだな。ただの市民だ。『導く者』にはなれぬ」
 人を治めるのであれば、それを犠牲にする覚悟をも必要ということだろう。たとえば戦場において兵士たちに指示を出す。人を殺せと――己も殺されるかもしれない場に行けと。それはまっとうな神経では務まるまい。
 冷ややかに笑われ、ラウディはかっと紅潮した。
「なめるな!」
 自分とて、誰かに甘えを見せて死ぬほど愚かではない。反射的に、回した指に力がこもる。チェンバレンが苦悶の表情を浮かべるのに、今度はラウディが狂気じみた表情を浮かべた。そう、殺せるのかというのなら殺してやる。
 目の前の老人に向かうあまり、ラウディは周囲の状況に気づいていなかった。駆け寄ってくる足音にようやく気づいた頃には、目の前には既に大きな人影がいた。
 <邪眼>の男。ラウディが仕掛けた<透過>の術が切れたのだ。
 しくじった。ラウディは思わず目を見開く。
「かっ!」
 男が叫んだ。またも<邪眼>が発現する……
「――――!」
 ラウディは驚愕に目を見開いたまま、身体の動きを止めた。だが、たとえ<邪眼>が発動していなかったとしても、その表情は変わらなかっただろう。
 目の前の<邪眼>の男。見た者を凍り付かせる邪な力を持った瞳の伝承。だが今――男の左目は、露にされていない。
 主の危機に男も焦ったのか、眼帯を外す暇はなかったようだ。だが、そのはずなのに、ラウディは動けない。
「あ……、な……」
 ラウディはうめいた。まさか。この現象は、あの瞳によるものではなかったのか。
「まさかこのような事態になるとはな」
 男が静かに言った。動けぬままのラウディをあっさりと転がすと、その下で咳き込んでいたチェンバレンを抱え上げる。チェンバレンは命に別状はなさそうだが、介抱しないとまずいのは確かだろう。
「今は退こう。だが次までだ。次はお前の命はない」
 淡々と男は言った。そのまま、主を抱えて立ち去って行く。後には、以前と同様、動けぬままのラウディが残された。
「ちょっと、大丈夫っ?」
 シルーズが駆け寄って来た。離れた場所にいた彼女は、今回は<邪眼>の影響を受けていない。ラウディが汗をにじませたまま動けないのに顔をしかめる。
「参ったわね。でも、とりあえずの危機は去ったのかしら……」
 シルーズは呟き、チェンバレンと男が立ち去った方向を眺めた。その言葉は、ラウディの意識にぼんやりと響く。
(……俺は)
 思考はぐるぐると回って、はっきりとした形をなさない。だが今ばかりは、危機を脱したのだと思うことにし、ラウディは目を閉じると、つかの間意識を手放した。
 

 事務所に戻る頃には、もうほとんど日は落ちかけていた。
「ああ、やっと帰ってこられた……」
 シルーズは呟き、ほっと息を吐く。が、そこには見覚えのある人影もあった。
「ようやく戻ったか」
 そう言うのはアバーラインである。相変わらずの存在感で、事務所の入り口に佇んでいた。
「へ? 警部……」
 シルーズが目を丸くする。ラウディはそれをぼんやりと見つめた。
「何やら腑抜けた顔をしているようだが、こちらは貴様に話がある。さっさと気合いを入れ直せ」
 アバーラインがしかめ面で言う。シルーズに、後ろの扉を示した。さっさと開けろという意味だろう。
 シルーズが鍵を開けると、アバーラインはずかずかと中に踏み込んだ。シルーズはそれに怒るより先に怪訝な顔をする。アバーラインがこの事務所の馴染みであるのは確かだが、さすが名家の教育を受けただけあり、普段は杓子定規なほどに礼儀正しく、こんな家人をないがしろにするような態度は取ったことがなかった。
「どうしたの……?」
 不安げにシルーズが呟いたのも無理からぬことではあろう。それに、アバーラインは見るからに不機嫌な顔で答えた。
「言ったろう、話がある。シルーズ、お前もだ」
 ぎろりと睨みつけてくるのに、シルーズはびくりと身体を震わせた。慌てて応接室の扉を開ける。
 休む間もなく、アバーラインと、ラウディとシルーズの三人は向き合っていた。アバーラインが腕組みをして睨んでくるのに、シルーズは思わず身体を小さくし、ラウディはまだぼんやりとした顔をしている。
「で、用って何なの……?」
「さて、知っていることを全部話してもらおうか」
 シルーズとアバーラインが口を開いたのはまったくの同時だった。
「…………?」
 アバーラインの言葉に、シルーズは怪訝な顔をして彼を見上げる。アバーラインはどこか怒ったような表情で続けた。
「貴様たちが知っていること全部だ。あの博物館で起こった事件」
 その一言に、シルーズは目を丸くし、未だぼんやりとしていたラウディも反応し、びくりと身体を震わせた。
「ふん、そういう反応をするということはやはり知っているわけだ」
 アバーラインが面白くもなさそうに言う。シルーズがしまったという顔をした。
「先日ここを訪れた際、貴様が妙な挙動を見せていたからな。何より、針が云々とまで言った」
 アバーラインはぎろりとラウディに視線を向ける。
「博物館で亡くなった二人の死因は毒物。それもおそらく、手に毒針が触れたことによるもの。……新聞に知られているのは毒殺というところまでで、毒針については触れられておらんはずだ。
 それに、誤摩化し方があまりにも稚拙だったな。大したことのない依頼で、針を一本など探すものか。あるとすれば何らかの事件の凶器だが、大したことがないものか」
 アバーラインは言って鼻を鳴らした。以前にラウディが誤摩化そうとしたのは、完全に見抜かれていたわけだ。無論、それが博物館の事件だと気づいたのは、アバーラインの直感だったのだろうが。
 そこらのやり取りをシルーズは知らないので、横のラウディに問いたげな視線を向ける。だが、ラウディは未だ心ここにあらずといった風情だ。
「一体何があったのだ、そやつは」
 アバーラインが呆れたような視線を向けてきた。
「いや、ええと……」
 シルーズは困ったように眉を寄せた。正直、シルーズにもよく分かってはいない。チェンバレンと取っ組み合いをしていたのは見ていたが、何があったのか、気絶から目が覚めたと思ったらずっとこの調子だ。
「まあいい、そちらは後回しだ。シルーズ、お前も知っていることはあるならば話せ」
 矛先を向けられ、シルーズは思わず身を縮めた。が、アバーラインの勢いには逆らえず、おずおずと口を開く。
「とは言っても……あたしはそれほど知っているわけじゃ。あの万博の事件とか、博物館の事件とか、糸を引いてたのがチェンバレンって人ってことくらいしか」
 ぽつりとシルーズは言うが、それにアバーラインは文字通り顔色を変えた。
「チェンバレン……あのマークウィス・シェル・チェンバレンか!」
 アバーラインは思わず立ち上がり、シルーズの襟元を掴んでしまう。シルーズは目を白黒させながら頷いた。
「保守党の第一だぞ。そんな人間があのような……いや、だからこそ我々に干渉が入ったのか」
 さしものアバーラインも呆然と呟いている。捜査に対して干渉があった以上、何らかの力を持った人間であることは予測していたかもしれないが、ここまで大物だとは思わなかったのだろう。
「だが、なぜそのようなことをお前たちが知っている」
 アバーラインがぎろりと問うてくるが、シルーズはそれに黙って首を横に振った。
「いい加減目を覚ませ、おい」
 いささか乱暴に、アバーラインはラウディの肩を揺する。ようやく、ラウディの目にわずかに理性の光が灯った。
「あ……?」
 ラウディが言葉にならない声を漏らす。アバーラインは思わず脱力した。
「色々と私に隠し事をしてくれていたようだな」
 アバーラインが睨んでくるのに、ラウディはいつもの様子で肩をすくめる。横でシルーズがほっと息を吐いた。
「別に、あんたに知っていることを全部話さなきゃならん理由なんぞないだろ」
「だが、犯罪者について知っていることがあるなら、それは警察に伝えるのが義務だ。犯罪者を罪に問えるのは我々だけなのだから」
 言い切るアバーラインに、ラウディは皮肉げに笑った。
「警察がそうしてくれると、俺としてもとてもありがたいんだが」
 ラウディが言うのに、アバーラインが苦虫を噛み潰したような顔をした。捜査本部に圧力をかけられ、捜査を凍結させられたのは、彼にとっても苦い経験だ。
「だが、それでも問わねばならんのだ。そのためにも話せ」
「俺が深入りしなければならなくなったそもそもの原因は、警察が部外者に頼りすぎたせいなんだがね」
 詰め寄るアバーラインに、ラウディはわざと嘆息してみせた。
「ま、そこの馬鹿が肝心なことは言ってしまったみたいだから、今更なんだが。まあ、ここで話すのは構わんが……今後、あんたの身辺も保証しないぞ」
「もとより覚悟の上だ」
 ラウディが視線を鋭くして言うのに、アバーラインははっきりと頷いた。
 万博の事件に今回の博物館の件。長い話を、アバーラインはじっと聞いていた。その表情に変化はなかったが、ぐっと握った拳がその怒りを表しているのだと、シルーズは気づいていた。
「……この街で好き放題を」
 アバーラインが歯の間から絞り出すように言う。今までの出来事に素直に怒れる人間がいることに、ラウディは心のどこかで安堵した。
 アバーラインが気を取り直したように顔を上げる。
「それで? その証拠の本とやらはどこにある?」
「今はあの館長が保管している。……警察に話すとも、パニッツィ館長には言っていなかったんだがな」
「だが、その博物館の部長……マッデンはいずれ罪に問われるだろう。その時には必要な物だ」
 ラウディはがりがりと頭を掻き、アバーラインは息を吐いた。
「で。これを知って、あんたはどうする? チェンバレンの逮捕状でも取るか?」
 ラウディが尋ねる。
 正式にマッデンの裁判が起これば、そこからチェンバレンに辿りつくことは可能かもしれない。だが、あまりに険しい道だ。そのくらいはアバーラインも理解している。
 真実を聞いてみて、アバーラインも、ラウディが伏せた理由が分かった。知っていても何も出来ないのでは意味がない。むしろ命の危険性を高めるだけだ。
「さあな。今の状況では、言ったところで、私の正気を疑われるだけだろう」
 言ってアバーラインは肩を落とした。
「今後何が起こるか分からんが、実際のところは貴様と同様、しばらくは私の胸一つに収めておくしかないのだろうな。嘆かわしいことだが」
 だが、息を一つ吐いて、アバーラインは顔を上げた。
「だが、それでも何も知らないよりは良かったと思う。それは確かだ」
 その一言に、なぜだかラウディはひどくほっとした気分になった。険しいかもしれないが、決して孤独な戦いではないのだ。
 アバーラインがにっと笑いかけてくるのに、ラウディもようやく、わずかな笑みを浮かべた。
 

 今まで座ったこともない、居心地の良いソファに、ラウディはいくらか落ち着かない様子を見せていた。それを、向かって座っているパニッツィが怪訝な顔で眺めている。
 あれから数日後、パニッツィはラウディを博物館に呼び出していた。今、ラウディは客人として館長室にいる。
「どうにも貧乏人の性でしてね」
 ラウディは肩をすくめた。国立博物館の館長というのは、さすがに国の施設の一つを預かるだけあって高給取りである。この部屋もそれに相応しい内装だ。
 ラウディの言葉に苦笑すると、パニッツィは切り出した。
「マッデンが正式に退職した。職員たちは何があったのかと騒いでいたがな」
 どこか寂しげにパニッツィは言った。
 公式には、まだマッデンは逮捕されていない。アバーラインは知り得たことを捜査本部には言っていないらしい。『現代の騎士』にはそれは苦渋の選択であったろうが。
「近いうちに出頭するつもりのようだが。あの男なりのけじめだったのだろう」
 逮捕された時に写本部長のままでは、ますます博物館の名に傷がつく。自分のなしたこととは言え、少しでもそれを抑えようと言う配慮なのだろう。最後に歪んではしまったが、彼もまた、この博物館を愛した人間であることは確かだった。
 ラウディもそれに小さく頷く。
「……それから」
 パニッツィはふと思い出したように言った。
「お前は、この他に何を知っているのだ?」
 何気ないように発せられた問いに、ラウディは身体を凍り付かせた。
「それは……」
「私が最初に依頼を持ち込んだ時点で、ほとんどの人間は逃げ出すだろうよ。この事件の『黒幕』が誰だか知らんが、それがかなり危険な橋であることは、事件を聞いただけで容易に想像がつく。
 だが、私が事件を話した時のお前の様子は、危険ではなくて何か別のことを考えていた。それはつまり、この件について、私の話したことの他にも知っていることがある、ということなのだと思ったまでだが」
 世間話のような口調でパニッツィは言った。
 アバーラインにしろパニッツィにしろ、真実を伏せておこうというラウディの目論みはすっかり見抜かれていたわけだ。一人で気負っていたのが何だか馬鹿らしくなって、ラウディは思わずため息をつく。
 とは言え、アバーラインはともかく、パニッツィにまで全て話すわけにはいかない。ラウディは言いよどみ、下を向いてしまう。
「無理に話せとは言わんがな。お前が黙っていた方が良いと思うならそうするが良い」
 穏やかに言い、パニッツィは紅茶に口を付けた。
「……俺は」
 ぽつりとラウディは口を開いた。
「この事件の『黒幕』に会いました。まともに術の打ち合いになって、倒さなければこちらがやられると思ったのに、いざとなったら何も出来なかった。首を絞めようとまでして、指が震えたのをはっきりと覚えているんです。
 まともに考えたら、それが当然です。人殺しをしようとして平気なわけがない。だが、そうなら、俺はどうすれば良いのか。殺されるのも無論嫌だし、かといって、今度こそあの指に力を込めなくてはならないのか」
 呟くように告白する声は、かすかに震えていた。己の手で人の命を奪おうとしたときの恐怖を、まだはっきりと覚えている。ラウディは意識がぼんやりと霞むのを感じた。
 目の前の青年を、パニッツィは静かに見つめている。
「だが、その恐怖を、お前は失いたくないのだろう」
 パニッツィの言葉に、ラウディはぴくりと震えた。
 確かに、それはぞっとする想像だった。もしあの時、指に力を込めていたら。必要とあらば他人をも殺せる――あの老人と同じ存在となってしまったのではないか。それが良いのか悪いのかは分からない。だが、それはおそらく今まで培って来た自分ではない。
「あ……」
 ぼんやりと呟くラウディに、パニッツィはふと話題を変えた。
「我々が、なぜこの場に過去の叡智を集めようとしているのか、分かるか」
 パニッツィの問いに、ラウディは目を瞬かせた。
「何も集めて楽しむためではない。ただ、未来に役立てんがためだ」
 静かにパニッツィは言った。
「ここには、過去の人々の様々な想いがあり、行動があり、結果がある。迷ったその記憶も愚かしい結末もな。歴史は筋道だった一本道ではない。無数の迷いと失敗の積み重ねだ」
 語るパニッツィの視線はどこか愛おしげで、部屋の中を見回す。この部屋ではなく、もっと向こう……この世界に誇る博物館を見ているのだろう。
「なれば、お前も迷うが良い。それが未来への道だから。この場も、その一助くらいにはなろう」
 言ってパニッツィは顔を上げ、ラウディを見据えた。
「我々は歴史を変えることは出来ない。だが歴史に学ぶことは出来る。その方法はここにある」
 堂々とした口調。それはまさしく、<第一の司書《プリンシパル・ライブラリアン》>として博物館を守り、発展させた男の誇りであった。
「やりたいようにやれ。その結末は、未来の住人たちが見ればいいことだ。お前もその『黒幕』も、人が裁くことはなくとも、いずれ歴史が裁くだろう」
 言って、パニッツィはどこか遠くを見つめた。
 若くして政治運動に身を投じ、故郷を追われ、異国で地位をなした男。自分の過去を見つめているのかもしれない。自分のなしたことが正しかったのか、それは彼も分からないに違いない。ただ、彼は己の正義と信念に従ってきた。
「……はい」
 まだ答えは見えない。けれど、迷った先に確かに未来があるのなら、前に進める。
 ラウディは小さく頷くと、顔を上げる。その瞳にははっきりとした意志の光があった。

 

 
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