Case6 いつか時が流れても - 第01話
「あ、ああ……」
手にしていたものが滑り落ち、絨毯に受け止められて軽い音を立てた。だが女はそれに気づくこともなく、ただ目を見開き立ち尽くしている。
女の前には横たわる何かがあった。先程の乱闘で蝋燭もいくつか倒れてしまったので、部屋の中は薄暗くはっきりと見ることはできない。だが、代わりに力があった。横たわる“それ”は息絶えてもなお女の足首をがっちりと掴んでいる。
女が後ずさろうとしても目の前の死体がそれを許さない。人間の身体というのは重いもので、女が片足だけ動かしたくらいでは動かせそうにない。何とか足首に絡み付いた指をほどかなくてはならないが、動転した女はそれすら思いつかず、ひたすら後ずさろうとしてもがき続けている。
「あ、ああ……ああっ!」
言葉を口にすることも忘れ、うめき声を上げながら死体から逃れようとする。死亡してまだ間もないことも手伝ってか、力を込めた瞬間辛うじて手から解放された。女は勢い余って後ろに倒れ込むが、ややあってよろよろと身体を起こす。
そうしてみると先程より死体が近い位置にあった。虚ろに見開かれた目と女の視線が一瞬合う。もはや硝子のようでしかない目。だがその虚ろの奥から怨嗟の声を感じたのは当然のことであろう。
尻餅をついたまま女はまたも後ずさる。広い部屋だったが、壁にぶつかってようやく止まった。それでも抑えきれない恐怖に壁に背中を押しつけ続けている。
動転した意識の中でかすかに考える。私はこれからどうすればいいの。
(……逃げなきゃ)
かぼそい理性が辛うじて一つの結論を導き出す。女は壁に手をついてよろよろと立ち上がった。薄暗い中で目をこらして扉を探し、足を踏み出す。
扉は簡単に見つかった。が、開けようと取っ手に手をかけた瞬間にようやく思い至り、自分の身体を見回してみる。運良く返り血はほとんど浴びていない。多少衣服が乱れてはいるが、それはむしろ自然なことで怪しまれることはないだろう。
あと、怪しまれそうな要素といったら……
そこで、女はようやく気づいた。部屋の中に充満している臭い。おそらく、自分にも相当染みついているだろう。
鉄の――血の臭い。
(血……)
おそるおそる、必死で逃れた死体に目を向けてみる。もはやぴくりとも動かなかった。側にあった蝋燭がゆらりと陰影を付けて姿を浮かび上がらせている。
死体の周囲の床がてらりと光を反射していた。ぬめるような何かが流れ出しているのだ。その正体は簡単に分かる。血だ。
「あ、ああ……」
女はまたもうめく。血の色と臭いが意識を急速に浸食していくようだった。意識が暗転しそうになる。
「あああーっ!」
それらを振り払うかのように、女は叫んだ。
事務所の外に一歩踏み出したところで、街の様子がいつもと違うのに気づいた。
いつもと変わらないはずのケインズの朝。労働者たちが一日の糧を得るべく職場に向かい、彼らと彼らを当て込んだ軽食売りでごった返している。が、人々が通りに溢れるその様子は変わらないもののいつもの明るい表情ではなく、ある者は声を潜め、ある者は一説ぶるかのような大声で何かを話している。
「……何があったの?」
いつも通り新聞を買いに出たシルーズは怪訝な顔で呟いた。それでも日課を遂行しようと顔なじみの新聞売りのところに行ったのだが、そこでまた怪訝な顔をすることになった。
「ごめんな、シルーズ。今日は新聞はないんだ」
十代半ばの新聞売りで生活している少年は、申し訳なさそうに言った。
「へ?」
初めて言われた一言にシルーズは目を丸くするが、次の瞬間に気づいた。よく見れば少年は顔のあちこちをすりむいているし、いつも新聞を入れるのに使っている布袋も持ち手が千切れかけている。ぼろぼろの体たらくだ。
「……何があったの?」
新聞ではなく少年の怪我を気にしてシルーズは尋ねた。少年はすりむいた鼻を指でさすりながら答える。
「新聞を全部取られちまったんだよ。畜生、人の売り物を何だと思ってるんだ。おれの売り上げが……」
少年がぶつぶつと呟くが、シルーズはさすがにその事態の異常さに気づいた。
「取られた……って、何で?」
またも怪訝な顔をして尋ねる。今度は少年がきょとんとした顔をした。
「……もしかして、何も知らないのか?」
目を丸くして尋ねる。シルーズは力一杯頷き返した。
「知らないわよ! だって、今朝出てきてみたらこの様子なんだもの……」
勢い込んで言うシルーズに少年は納得した顔をした。声を潜めシルーズの耳に囁きかけるように言う。深刻そうだがどこか楽しそうな、典型的な野次馬の表情だ。
「あのな、とんでもない事件が起こったんだよ。……マークウィス・チェンバレンが殺されたんだ」
その一言にシルーズはまともに身体を凍り付かせることとなった。
マークウィス・チェンバレン。ここ二週間ほど聞くのが恐ろしくてならなかった名だ。あの夜の水晶宮と空き地で二度ほど対峙して、いずれも殺意を向けられた。辛うじて免れたものの、次にまた訪れるのはいつかと不安に苛まれながら過ごしていたのだ。
その張本人が殺されたという。シルーズははっと我に返ると、少年の襟首を掴んでまくし立てた。
「殺されたって、どうして! だってあんな偉い奴なんでしょっ?」
「どうしてって、誰も知らないよ。まだ犯人は捕まっていないらしい。皆言ってるよ、犯人は誰だろうって」
突然のシルーズの勢いに面食らいながらも少年は律儀に答える。
その言葉にようやくシルーズは今朝からのでき事が腑に落ちた気がした。突如として発生した国を動かす人物の一人の殺害事件。――だから街の人々の様子がおかしかったのだ。
少年が新聞を全部取られたというのもそれが理由なのだろう。早く事件の詳細を知りたいと誰もが思うのは当然だ。買うのを待ちきれず、あるいは金もない一部の人間たちが暴走して少年から売り物を奪い去ったということらしい。せっかくの稼ぎを奪われた少年は哀れとしか言いようがないが。
となればシルーズとて誰よりも新聞が欲しい。野次馬の大衆たちと違いシルーズには命に関わりかねない事情がある。再び少年に向き直るとまくし立てた。
「だったらさ、新聞に書いてあったこと全部教えて。何があったの?」
シルーズの勢いに少年は首を横に振った。
「それは分からないよ。おれは新聞なんて読めないんだから」
シルーズは思いだした。この少年には識字能力がない。それは少年に限らず、浮浪の子供で読み書きができる人間などまずいないだろう。彼は見様見真似で辛うじて金の計算だけはできるから新聞売りをやっているのだろうが。
下町の子供ながら読み書きができるシルーズのほうが例外なのだ。その一言にシルーズはうーん、と唸る。
「だったら、どこに行ったら新聞を買える?」
少年は鼻の頭を掻き考えながら言った。
「今はどこもこんな調子なんじゃないかなあ。しばらくしたら読み終わった新聞が売られるだろうから、それを待つとか」
「それしかないか……」
朝に買って読み終わった新聞を元値よりいくらか上乗せした価格で売り飛ばす人間も多い。正直それを待っていられる気分ではなかったが、売っていないのだから仕方がない。
「……分かった。ありがと」
シルーズは精一杯の笑みを見せ少年と別れる。だが、身体の芯からざわざわと不快なものが沸き上がってくる感覚を覚えていた。
結局、新聞三種を買うことができたのは昼過ぎのことだった。
値段も事件の野次馬を当て込んでいつもよりかなり釣り上げられていたが、今回ばかりは仕方がない。シルーズは家に飛び込むとテーブルの上に三種を広げた。
朝に事件のことだけは知らされていたラウディも、真剣なまなざしで新聞に目を通している。シルーズも横から必死に記事を覗き込んだ。
見出しはいずれも同じだった。『大政治家、殺害さる!』。書かれている概要も似たり寄ったりだ。それによるとチェンバレンは自室で殺害されていたのが発見されたらしい。死因は刺殺だが、凶器であろう小さなナイフはチェンバレンがいつも部屋に置いていたものでありそれから犯人を特定することはできない。
この時代にまだ指紋鑑定は知られていない。指先の模様が人によって違うことを知っている人間はいたが、それが犯罪捜査に応用されるのは数十年後のことである。
「結局、大したことは分かっていないんだな」
ラウディが呟く。記事から目を離しいつもの長椅子に身を沈めた。だが、まだちらちらと新聞に目をやっている。
あの老人が死んだ。言われても実感が沸かない。ラウディはぼんやりと月明かりに浮かぶ姿を思いだそうとする。
小柄な老人だった。三つ揃えの服も撫で付けた灰色の髪も上品で、誰もが賞賛するであろう“紳士”だった。己の正義のみを信じ阻む者は容赦しない男だった。国を左右する人物の一人であり、多少のことでは何ともできないだろうと思った。
それがいきなり「死んだ」とは。親しい人間ではなかったので悲しみなどは沸いてこなかったが、喪失感より何より、突然の状況の変化に戸惑うばかりである。
前回の国立博物館の件でマッデンがチェンバレンの手先になっていたことが判明したが、そのマッデンが裁判にかけられる日取りはもう決定していた。すぐにチェンバレンにまで捜査が及ぶことはないだろうが、チェンバレンにとってはあまり猶予はなかったはずだ。
ラウディもこの件に深く関わっている。チェンバレンが何かしら仕掛けてくることは十分に考えられ、ケインズからすぐに逃げた方が良いのか、それとも知己を頼った方が良いのか……悩んで結局動けずにいるうちに日は経ってしまっていた。毎日しきりに周囲の様子をうかがったり事務所から極力出ないようにする日々だったのだが、唐突な形で終止符は打たれた。
ぼんやりと考え込むラウディの横でシルーズはまだ新聞を見つめている。ややあって大きく息を吐き記事から目を離すと、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、あの人が殺されたってことは……あたしたちにとっては、これで終わった、ってこと?」
『終わった』とはあの老人と対峙する日々のことだろう。確かにラウディの力を欲し、また敵対していたチェンバレンがいなくなれば、ラウディたちが狙われる理由はなくなる。また以前の平穏な日々が戻ってくる。
(……いや)
チェンバレンの姿と同時に思いだしたのは、常に後ろにいたあの<邪眼>の男だった。あの二人がどういう関係だったのかは分からない。だが<邪眼>は忠実なる影だった。主を失った影はどうするだろうか。
「――当たり前じゃないか」
答えは簡単だった。まだ犯人は捕まっていない。ならば、多少でも忠誠心のある部下なら誰しもがそれを捕らえて裁きを加えようとするだろう。
だが、それこそ自分たちには関係のないことだった。なぜならチェンバレンを殺したのは自分たちではない。
ぼんやりとラウディはそんなことを考える。だがふと引っかかるものを感じ、すぐに椅子から身体を起こした。
あの<邪眼>はどうやって犯人を捜すだろうか。まずチェンバレンに近づくことができた人間、実際に近づいた人間。チェンバレンについて何かしら殺意を持った人間。流行らない探偵から警察本部に至るまで、推理の根拠とするのは状況証拠と動機である。
「動機……」
ラウディが呟いたのにシルーズが怪訝な顔をした。
チェンバレンとラウディは敵対していた。ラウディはチェンバレンがいつ襲ってくるかと戦々恐々としていたが、それは逆にも言えたのではないか。チェンバレンのほうにもラウディが身を守るために攻撃してくるという危険性はあったわけだ。実際にはラウディたちにはそんな気はなかったわけだが。
それはあの<邪眼>も十分に承知しているはずである。ならば。
「容疑者……犯人の候補の中には、俺も入るってことか」
思わず呟いてから、ラウディはぞくりと背筋を震わせた。その横では、聞いたシルーズが表情を凍り付かせている。
実際の殺害方法は術ではなかったらしい。新聞には殺害時の状況は詳しく書かれていないが、もし術でも使われた痕跡がありでもしたらラウディへの疑いは一気に増す。
無論<邪眼>はラウディが術を使えることを承知している。正規に事件を追う警察にもラウディの術のことを承知している人間が何人かいる。
その中でもアバーラインにはチェンバレンとの一件を全部話した。彼がもしこの事件の担当ならラウディも犯人候補の中に入れるだろう。さすがに真っ向から疑ってかかる真似はしないだろうが、犯罪者に対してはそれが知り合いだろうと容赦などしない男だ。
「ちょっ……」
シルーズが滑稽なほど引きつった顔で問いかけてきた。ラウディは淡々と今しがた考えたことを話す。正直なところ、他人事のようにでも考えなければ意識が耐えられそうになかった。国の一大事の犯人と疑われるなどと。
「……なら」
話を聞くとシルーズは静かに口を開いた。ラウディを見据える。
「なら、あたしたちが誰よりも先に、犯人を見つけてしまうことだわ。それでそいつを突き出せば、あたしたちへの疑いは晴れる」
それは当然考え得る選択肢ではあった。身の潔白を証明するか、少なくとも自分たちが犯人ではないという論拠は手に入れなくてはならない。
だがそのためには事件の渦中に首を突っ込む必要がある。当然警察や<邪眼>と接触する可能性も段違いに増えるだろう。怪しい人間が事件の近くをうろうろしていたらそれだけで疑いが増す。
敢えて危険の中の可能性を拾うか、それこそこのままケインズから逃げだすか。後者の選択肢もなかなか魅力的ではあった。が……
「火事場に飛び込む真似はしない。だが、周辺の燃えかすを拾ってみる程度のことはする」
やはり問題は目の前の少女だった。シルーズをこの状況で放り出す、また事件への疑いをかけ続けるわけにはいかない。
(最低限の証拠を見つけるだけだ)
そう自分に言い聞かせる。犯人を捕らえずとも、自分から疑いを晴らすだけだ。呟き、ラウディは椅子から立ち上がった。
