黒き河を往け

Case6 いつか時が流れても - 第02話

 アバーラインは目の前を若い刑事がどたばたと走り抜けていくのを、半ばうんざりとした顔で眺めていた。
 事件から二日。首都警察本部の中も街中に負けず劣らず慌ただしかった。ただでさえ国立博物館の件で自由党議員が殺されその立件で慌ただしかったというのに、今度は保守党の大物の殺害ときている。前回は多分に政治的な意図が疑われたが今回は逆の派閥だった。報復なのか今までの件とは関係がないのか、考えだしたらきりがない。
 それに何より世界の長を自負するエーデルランドの宰相格の殺害事件である。全世界の注目がこの件に注がれ、下世話な新聞記者から外国の高官までありとあらゆる対応もしなくてはならない。ここ二日ほど警察本部に所属する人間はかき集められ、雑務に忙殺されていた。
 犯人を捕らえる、それはいい。それこそが犯罪捜査部の仕事だ。だが現状ではその他のことに人を取られすぎ、本来の職務はまったく進んでいないではないか。
(まったく……)
 とは言え自分がもし部外者だとしたら、是が非でも情報が欲しいだろう。一概に興味本位の人間を悪くは言えない。腹立たしくは思うが。
 アバーラインはため息をつくと手にしていた書類に目を落とした。
 アバーラインは、今回のマークウィス・シェル・チェンバレン殺害の捜査には関わっていない。捜査本部の人員だけでは到底人手が足らないので雑務を手伝ってはいるが、捜査すべき案件は別にある。ここ数日は警察のほぼ全員がチェンバレン殺害に取られていたが、そろそろ担当の捜査も進めなくてはならない。
(被害者名……)
 担当事件の被害者は、アイザック・オールビー。二十一歳。いわゆるちんぴらの犯罪者で道に立つ娼婦たちから場所代を取り立てるなどの仕事をしていたようだ。小心な割に乱暴者で周囲の評判も良くなかった。――彼とその仲間にとって警察は天敵で、警察が事情を問いただせば多少なりとも仲間を庇うであろうにも関わらず、だ。
 特筆すべき点があるとしたらその殺害方法だろう。目をくり抜かれ鼓膜を錐《きり》で突かれ、テリスト川に遺体が浮かんでいた。思わず目を背けたくなるような殺害方法だが、一部の人間たちには馴染みのある方法である。犯罪組織の人間が裏切った仲間に制裁を加えるときのやり口だ。
 つまりこの件を捜査しようとしたら、被害者アイザックが何をやらかしたのか調べ上げ、制裁を加えた人間を断定しなくてはならないことになる。難航することは目に見えていた。運良く調べが付いたところで、制裁を実行した人間がトカゲのしっぽ切りで捕らえられるだけだろう。
「…………」
 考えただけでうんざりしてくる。それ今のアバーラインにはもっと気になるものが目の前にあった。
 言うまでもなくチェンバレンの殺害事件である。周囲の慌てぶりには辟易しているが、彼も興味がないわけはない。おそらくアバーラインは、チェンバレンという人物についていくらかでも他の警察の人間よりは知っている。
 先日知り合いのラウディからチェンバレンが関わった事件について聞かされた。彼の起こした事件には自分も関わっており大いに憤ったものの、何もすることができぬまま今日まで来てしまった。そこにこの事件である。
 チェンバレンが為したこととこの殺害には関わりがあるのか。彼が起こした事件について国立博物館の件だけは裁判が始まるが、その他はどうなるのか。考えだしたらきりがない。
「…………」
 アバーラインは大きく息を吐くと立ち上がる。目を細めて前を見据えると歩きだした。


「なるほど」
 話を聞き終えるとアバーラインの前の男は小さく息を吐いた。
 しばらく前に警視に昇進したアンダーソンは、小さいながらも本部に個室を与えられている。アバーラインはそこを訪れたのだ。直立不動のアバーラインの前でアンダーソンはいくらか憔悴した顔で座っている。アンダーソンもチェンバレンの一件で忙殺されているのだろう。
「君の要望は分かった。一時的に、チェンバレン卿殺害の捜査本部に回して欲しい、というのだな」
 アンダーソンの言葉にアバーラインは小さく頷いた。
 アバーラインがアンダーソンに頼んだのは、一時的にだがアイザック殺しの捜査からチェンバレン殺しの捜査に異動させて欲しいというものだった。知っているのに何もしない、できないというのはもう御免だ。ならば自分が正当な調査を行える立場となり徹底的に調べてやる――という意気込みである。
 本来ならば言うことなどできない我が侭だが、なにせチェンバレン殺害は国際的にも注目されている事件である。かなりの人員がこの事件に回されているもののそれでも追いついていないのは本部の慌ただしさを見れば分かるとおりで、今なら本人が希望して誰かの口添えがあれば可能なのではないだろうか。
 アンダーソンにとってもそれほど無理や問題のある要望ではないはずだった。だがアンダーソンは顔をしかめている。
「…………?」
 アバーラインが怪訝な顔をする前で、アンダーソンは口を開いた。
「君が今まで担当していた事件は、確か、アイザック・オールビーという青年が殺害された件だったな」
 アンダーソンが確認するように言ってくるのにアバーラインは内心驚きながら頷いた。アンダーソンはアイザック殺しの件には関わっていないはずだが、この警視は捜査中の事件は一通り把握しているらしい。
「確かに、彼はしょうもないちんぴらだ。周囲の評判も悪く、仲間に制裁を加えられた」
 こつこつと指先で机を叩きながらアンダーソンは続ける。
「だが、オールビーには年老いた母親がいたはずだ。きっと息子を失って嘆いているだろう。その母親を前にして、せめて殺害犯を捕らえてやろうとは思わなかったか」
 アンダーソンは静かにアバーラインを見据えた。
 確かに死亡したアイザックには母親がいた。乱暴者でも母親思いの息子だったらしく、決して誇れる稼ぎではなかったが何かと母親を喜ばそうとしていたらしい。アバーラインは直接母親には会っていないが、彼女の嘆きの声は調書として読んでいる。
「方や国際的に注目されている事件、方やちんぴらの殺害事件。警察の人間としては、卿の殺害を一刻も早く解決しなければならない。おそらく、君の要望のほうが正しいのだろう。
 だが私は、そのために嘆く母親の声を見捨てたくない。彼女とて、せめて息子の仇を取ってやりたいだろう。その気持ちはどの身分であろうとも変わらないよ」
 アンダーソンはわずかに苦笑した。
「君は名門のアバーライン家の出身だ。跡を継ぐ立場にはなかったらしいが、生涯を有閑階級として暮らすこともできただろう。それを敢えてヤードに身を置いたと聞いたときは、驚いたものだが」
 アバーラインの“現代の騎士”のあだ名は、彼が名門の出であることからである。このご時世警察というのは身分も高くなければ人々に好かれるものでもなく、名門、大学出の警察官は少ない。その意味ではアバーラインは特異な存在だった。
「だが、その君でもやはり貴族のほうが大事か」
 その一言にアバーラインはびくりと身体を震わせた。
「私は君と違って、しがない商人の出身だからな。だからかもしれないが、今でもこう思っている。命の価値も、大切な者を失った嘆きも、人はすべてにおいて等しい。だからこそ我々は等しく犯罪者を追いつめなくはならない」
 静かにアンダーソンが言うのに、アバーラインは黙ったままで心を悶えさせた。
 ――違う。私が異動を希望したのはそんな理由ではない。チェンバレンが貴族だから犯人が憎いのではなく、彼がやったことを知っているからだ。この男が罪の意識もなく殺したであろう、市井の人々の仇を取りたいからだ……
 心の中でそう叫ぶ。だがアンダーソンに聞かせることはできなかった。アンダーソンに次に言われることが想像できる。「ならば君の知っていることをすべて捜査本部に話して、オールビーの捜査に戻り給え」――だ。
 警察にいるのも捜査をするのもアバーライン一人ではない。犯罪捜査部にも数百人の刑事や警部がいる。彼らにすべてを任せればいい。それをしたくないのは、ただアバーラインの個人の意地に過ぎない。
(……くそっ)
 この期に及んで個人の意地を張ることがどれだけ愚かか、アバーラインも分かっている。だが何度も担当した事件を凍結され、その怒りも骨髄に達していた。せめて自分の手でこの件にけりを付けたい。
 アバーラインの内心をアンダーソンがどれだけ察したかは定かではない。アンダーソンは静かに言った。
「警察官ではなく、私の人としての良心にかけて君の要望を聞き入れることはできない。もしもオールビーの事件が先に解決したら、その時は要望を聞き入れよう」
 まったくこの上司は理想的な人物だ。部下の過ちを静かに正してくる。アバーラインはアンダーソンに反論することはできなかった。
 力なくアバーラインはアンダーソンの執務室を辞する。それをアンダーソンが怪訝な顔で見送った。


 片目を眼帯で覆った男が通り過ぎていくのを、ある者はわずかに表情を変えて、ある者はまったく気づかず見送っている。
 男は大柄な体躯を黒の上下に包んでいる。それだけならさして珍しい風貌ではないが、左目を覆った黒の眼帯が男を特異に見せていた。お伽噺の海賊ならともかく、実際にそんな格好をする人間はあまりいない。
 男の本名を知っていたのはもういない主一人だ。ほとんどの人間は、彼の隠された左目をもってこう呼ぶ――<邪眼《イビルアイ》>と。
「…………」
 街中を歩きつつ、<邪眼>は静かに周囲に視線を這わせた。事件当日はケインズ中が大騒ぎだったが、数日が経ち人々は元の生活に戻っている。新聞屋だけは未だに毎日「新情報」が出たと騒いでいるが。
 人間が一人死んだところで、日常というのはある意味で強固だ。人は結局のところ収まるところに収まる。死んだのがこの国を動かす一人であろうと。
 彼の主であったチェンバレンは、まぎれもなく国の重要人物の一人であったが、決して彼一人が国を動かしていたわけではない。他の人間たちが集まってチェンバレンの穴を埋めるだけのことだ。事実議会は混乱から立ち直り、本来の争議と後継者探しに戻りつつある。
 ほとんどの人間はそれで良いのだろう。被害者に関係のない大半の人間は。
「…………」
 だが、そうもいかない人間もまた存在する。失った穴があまりにも大きく、何とかしてそれを取り戻さなければ先に進めない人間が。おそらく彼はその一人だった。
 チェンバレンは議会で大きな権力を持っていたが、それとは別に、個人的な組織――術者など、表沙汰にできない仕事をするような――も持っていた。それを実質束ねていたのがこの<邪眼>である。しかしその部下たちもまた主を失って大きく混乱していた。早々に次の就職先を探す者、統制を失ってただ暴れる者。彼らを抑えつけるのもまた<邪眼>の職務である。
 だが彼はかつての部下たちを捨て置いた。多少混乱したところで、彼らはどこかに収まるだろう。なぜなら彼らは主の仇一つ取る気がない。
 チェンバレンの死体を前にして、悲しいとは思わなかった。いるべき存在がいない不自然だけが心を苛む。今こうやって動くのは義憤でも何でもなく、ただそうすれば不自然がなくなるのではないかという漠然とした考えに過ぎない。
 今やるべきこと。――主を殺害した人間を捜す。
 チェンバレンが殺害された夜、主人は一人の女と会っていた。彼女が去ってしばらくした後、たまたま部屋を訪れた使用人が発見したのだ。部屋にあったナイフで腹を刺されておりいくらか室内が乱れていた。
 主人は何かと敵も多い人物だった。情報屋を使い、そういった殺意がなかったかも調べているが、多すぎて絞り込むには時間がかかるだろう。あと絞り込む要素としては、そういった状況を作りだすことが可能な人物である。
 たとえばチェンバレンの私室は屋敷の三階にあり、窓はいくらか空いていた。普通の人間なら警備の人間をかいくぐって忍び込むことは難しいだろうが、重力制御と光学迷彩が行える術者ならば可能な芸当だ。術者、もしくは彼らに渡りを付けられる人物ということになる。
(術者……)
 思いだされたのは、“探し屋”と名乗る男の顔だった。簡易式においてはチェンバレンと拮抗したが、チェンバレンの意に従うことを拒絶した。真っ向から術の撃ち合いにもなっている。方法と動機、二つを持ち得る人間の一人であることは確かだ。
 犯人候補の一人としては調べねばなるまい。だが、それより優先順位の高い人間がいる。あの夜、チェンバレンが会っていた女だ。
 状況としては彼女が去った後に殺されたと思われるが、最後に会った人間として、まず話を聞かなくてはならない。<邪眼>の情報網なら大半の人間はすぐに居場所を突き止められるのだが、彼女はそれができなかった。意図して情報網から逃げたのか、偶然なのかははっきりしないが。
 とにかくまずはあの女を捜すことだ。
 肩で風を切って<邪眼>は歩調を早めた。


 はあはあと息が上がる。だが立ち止まるわけにはいかなかった。
 彼女はひたすら早足で道を歩いていた。青ざめた顔で足を速める女に、怪訝な視線を向ける人間もいたが、声をかけないでいてくれたのは幸いだ。
 彼女はひたすら小走りに駆けていたがやがて足を止めた。ぎゅっと両手を握りしめて見上げる。
「あ……」
 三年ぶりに見る「それ」は昔のままだった。思わず声が漏れる。
 彼女の視線の先にあるのは看板の一つだ。薄汚れて色がくすんでしまっている上に、ぎっちりと家や店が立ち並ぶ雑多な下町の路地にあっては、それが看板の役割を果たしているとは言いがたかった。
 一人の男の姿が脳裏をよぎる。優しい男で、何も言わずに自分を抱きしめてくれた。だが結局自分はその男から逃げた。
「…………」
 誰でも良いから助けて欲しかった。だからここに来た。だが目の前まで来て勇気が出ない。どうやって彼に再び会えというのだ。自分の勝手に、また彼を巻き込むのか。
(助けて……お願い、助けて)
 心の中で念じてみる。今あの中から彼が出てきて自分を見つけてくれないかという、都合の良い想像もしてみた。だがそんなことが起こるわけがない。
 しばらくそうやって看板の前で逡巡していたが、やがて諦めた。こんなところでずっと立っていては、周囲の人間に不審がられてしまう。
 それでも、最後にしっかりと描かれた戦車《チャリオット》の模様を目に焼き付けてから、彼女は立ち去った。

 

 
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