黒き河を往け

Case6 いつか時が流れても - 第05話

 最初の一瞬はまた幻影を見たのかと思った。
 眠りの中、目覚めた時の傍らに、三年間ずっと見てきた影。緩く波打った金髪、透き通った碧の瞳、ほっそりとした姿。それは忘れようもなくラウディはずっとその幻影を追い続けてきた。
 だが同時に諦めるのにも慣れてしまっていた。目の前の幻が消えていき、これは現実ではないのだと思い知らされる瞬間の絶望もいつものことである。だから今も、すぐにこの姿も消えてしまうのではないかと思えた。
 だが――
「お前……」
 ラウディは愕然と自分の最悪の予測が的中したことを知った。
 目の前の妻――マリエルが<邪眼>に追われていたことは明白だ。その理由は未だ明らかではないがチェンバレン殺害に関するものであることは確かだろう。それ以外に<邪眼>の行動の理由が見つからない。
「何用だ」
 <邪眼>がわずかに表情を変えて言った。さしもの彼も突然の乱入者には驚いているようだ。
 ラウディはそれには答えず必死で考える。<邪眼>がマリエルの利になるとは思いにくい。そうなればこの男が取るであろう行動はあまり多くない。つまり何らかの暴力、もしかしたら殺害。マリエルは術も使えないし対抗手段など何一つ持たないはずだ。このまま<邪眼>のなすがままにされるだけである。ならば。
「我が望むは鉄壁・我が描くは法陣・我が生み出すは盾!」
 ラウディは指で魔法陣を切るなり呪文を叫んだ。<邪眼>が咄嗟に銃を抜くが、ラウディの頭に銃口が向くより一瞬先に術が発動する。発現した光の膜が<邪眼>を包み込んだ。
 力場を展開し防御壁として使うための術である。だが防御面を内側にした上で筒状に展開してやれば、相手は体当たりしたところでそこから出ることができない。時間制限はつくものの最強の檻だ。
 これでしばらくは<邪眼>の足止めをすることができる。とは言えこの術はあまり持続時間が長くない。その前に逃げ切らなくてはならない。
「来い!」
 ラウディはまた駆けだすとマリエルの腕を掴んだ。混乱しきった顔のマリエルには目もくれず、一気に<邪眼>に背を向けて走りだす。最低限、術が持続するうちにあの男の目が届かない場所に逃げなくてはならない。
「ちょっ……」
 シルーズが慌てて追いかけてくるのにもラウディは意識を配る余裕がなかった。走りながら必死で状況を計算する。
 あの術が消えるまでにそう遠くには行けない。ならばどこかに身を潜め、あの男が立ち去るのを待った方が良い。この近くで隠れられそうな、かつ人通りのある場所はどこか。<邪眼>は人の気配を読むため物陰に隠れるのは難しい。
「…………!」
 走る路のすぐ側には高々とした外壁が続いていた。中央塔のものである。ここは入るのは難しいが、言い換えれば何とかして入ってしまえば鉄壁の守りが手に入る。しかも中はそれなりの広さがあるので、気配から居場所を察知される可能性も低い。
 しかしまずこの外壁を越えなくては話にならない。外壁の高さとこちらの総重量を概算し、頭の中で術を組み立てる。
「我が望むは解放・我が描くは法陣・我が生み出すは浮遊」
 小声で唱えた術は、三人をふわりと宙に浮かび上がらせた。
「うわ……きゃああっ?」
 シルーズが悲鳴を上げるのを今更のようにラウディが口を塞ぐ。マリエルはラウディの術のことは知っているはずだがさすがに予告なしで宙に浮かぶのはきつかったか、必死でラウディの腕にしがみついていた。
 これは一時的な重力制御を行い浮遊・移動を行う術である。だが空を自由に飛びたいというのは遙か昔からの人類の夢の一つであるものの、この術がそれを叶えたとは到底言えない。まず起動・制御が極端に難しく持続時間も短い。ラウディも使ってみたのはかつて師に習ったときくらいである。
 制御が難しい術を簡易式で使えば当然術者に負担がかかる。何とか外壁を乗り越え壁の向こう側に着地した時には、ラウディの目は血走っていた。
 だがまだ休むわけにはいかない。ラウディは朦朧とする意識を必死で食い止めながら周囲を見回す。
 この塔の構造はまず外壁の四隅に見張り台のついた小さな塔があり、中央に監獄としての大きな塔があるというものである。高位の人間のためのものだから、牢とは言え建築は立派なものだ。外壁と同様朽ちかけている感はあるが。
 一瞬の黙考の後ラウディは中央の塔を選択した。万が一見つかった場合見張り塔だと逃げ場がない。しかも見張り塔には当然警備の人間がいる。
 通用門らしき一つを見つけて扉を引いてみると意外にもあっさりと開いた。塔の内部については本当に放置状態らしいが、今はそれがありがたい。駆け込むと黴と埃の臭いが鼻をついた。窓が小さいため昼間なのに廊下は薄暗い。
 石造りの廊下をなおも走り、牢の中から適当な扉の一つを選択する。開いて中を見ると古ぼけた寝台と椅子が一つずつ置かれていた。装飾品は一切見あたらない。
 何も考えずに部屋に入り扉を閉める。牢であるから扉はかなり頑丈なものだったが、いかんせん外からしか鍵がかけられない。三人がかりで寝台と椅子を移動させ、扉の前に置きようやく封鎖した。
「…………」
 ここまできてようやくラウディは大きく息を吐いた。
 後はしばらくここで待つしかない。<邪眼>がラウディたちを追って街中に移動しているのを祈るばかりである。
「…………」
 ラウディはぐらりと目眩を感じた。がくりと倒れ込むのにシルーズとマリエルが慌てて駆け寄る。
「って、ちょっとっ?」
 シルーズの声を遠くに聞きながらラウディは意識を手放した。


 ジェームズ・ウォルポールは思ったより大柄な男だった。
 アバーラインには劣るがアンダーソンほどの体格はあるだろうか。胸板もしっかりしていて、普段から運動なども精力的にこなしていると見える。対するチェンバレンは小柄な男だったらしくよく新聞の風刺画には二人の体格差が誇張して描かれていたと、ふとアバーラインは思いだした。
「何か?」
 じろじろと見られているのに気づいたのかウォルポールが尋ねてくる。それをアバーラインは曖昧な笑みでごまかした。ウォルポールが目配せすると執事は静かに退室し後には二人だけが残された。
「急な来訪だったからな、もてなす用意もろくにないが、とりあえず座ってくれ」
 ウォルポールは鷹揚に言った。アバーラインがゆったりとしたソファに座るとウォルポールもそれに向き合って座る。
「さて、まず君が何者なのかから聞かせてもらおうか」
 ウォルポールは静かに口を開いた。
「先程申し上げたとおりです。ランカッスルに所領の……」
「それは事実かもしれないが本質ではあるまい。確かにアバーライン家のご当主……君の父上のことは知っているが、その息子が突然尋ねてくる用件など私は知らん」
 アバーラインは一瞬の沈黙の後、言った。
「首都警察本部の犯罪捜査部で、刑事を務めております」
「ほう?」
 ウォルポールがわずかに口元を歪めた。アバーラインに興味を示したらしい。
「あの家の出身で、警察に入ったのか」
 この時代の警察というのは庶民からは目の敵にされ上流階級からは見下され、決して地位の高いものではない。事実アバーラインの同僚たちも中流階級出身がほとんどだ。
「また随分と思い切ったものだな」
「まさか、私などまだ可愛いものです。ボールドウィン家のフローレンス嬢など、先日看護婦になりたいと言いだして母君は三日間寝込んだとか」
 アバーラインは言って肩をすくめた。
 看護婦もまた身分高い女性がするべき仕事ではない。そもそも職に就くこと自体が身分の高い女性のすることではないし――不労所得で遊んで暮らすのが上流階級のあるべき姿である――、中でも看護婦は、最下層の女性たちが、死を待つばかりの病人にわずかな食事を投げてやる仕事である。上流階級の令嬢がやるなどとんでもない。
「ほう。世の中にはまだ面白い人間がいるものだな」
 言ってウォルポールは面白そうに笑った。
「さて、では君は警察本部の人間だとして話を進めよう。刑事が私に何の用がある?」
 一転してウォルポールの目つきが鋭くなり静かにアバーラインを見据えた。
「犯罪捜査部の人間として、私はとある殺人事件の調査をしています。それについて、閣下にお力添えを願いたいことがありまして」
「犯罪捜査については、警察に全面的な権限があるだろう。それで十分なのではないか」
 ウォルポールが眉をひそめつつ尋ねる。
「残念ながら、本来の捜査に妨害が入る可能性がありまして。閣下にはそれについてお力添えを願いたいと」
「…………?」
 ウォルポールは眉をひそめた。アバーラインは具体的な内容を何一つ話していない。
「よろしい、最初から聞こう。具体的な事件の内容を話したまえ」
 アバーラインは頷いて口を開いた。
「事件の被害者は、アイザック・オールビーという二十一歳の男です。二週間ほど前に、テリスト川に遺体が浮かんでいるのが発見されました。死因は溺死。目を鋭い刃物でくり抜かれ、耳の中を錐で突かれていました」
「……ふむ」
 アバーラインの話をウォルポールは黙って聞いている。
「確かに相当な恨みでもありそうな死に方だが。そのアイザック青年というのは?」
「一言で言えば、イーストサイドのごろつきです。辻の娼婦たちから金を取り立てたり、小金を恐喝していたりしたようですが」
 アバーラインは何でもない風で言うが、ウォルポールの表情が明らかに変わった。
「……ほう?」
 やはり口元を小さく歪めてウォルポールは話に乗ってくる。
「本当にそれだけか? 誰かと繋がりがあったりとか、そういったものは」
「ありません。両親や友人関係もはっきりしています」
 アバーラインはきっぱりと言った。しかし平静を装いつつもウォルポールの挙動のひとつひとつを観察している。ここでそっぽを向かれたら何もかもが台無しになる。
「つまり、本当にただのちんぴらだと」
「はい」
 ウォルポールが笑った。それは興味からなのか苦笑なのかはアバーラインには分かりかねた。
「ちんぴら一人が殺された事件のために、私のところまで来たのか」
「はい」
 向き合った二人の間に沈黙が流れる。
 先に沈黙を破ったのはウォルポールの方だった。
「ははは! 君は本当に面白い男だな。その何とも知れぬ男一人のために、かの家の人間である君が私に助力を請うか」
 心底面白そうにウォルポールは笑っている。アバーラインはいくらか驚きながらこの議会の立役者の一人を眺めた。
「なるほど。では、それは何のためだ?」
 真顔に戻り静かにウォルポールが尋ねてくる。
「殺害を指示したのが、あのマークウィス・チェンバレンと思われるからです」
 ウォルポールを正面から見据えてアバーラインは言った。


 唐突にラウディが床に倒れ込んだのにシルーズは慌てて駆け寄った。
「ちょっと……」
 シルーズが慌てて肩を揺すってみるがラウディが目を覚ます気配はない。見たところ特に呼吸がおかしかったり苦しがったりしている様子はないのでシルーズはわずかにほっとする。深く眠ってしまっているようだ。
 今までラウディがこんな風になってしまったことはない。呆然とするシルーズの隣にマリエルが静かに歩み寄った。
「大丈夫よ。術の乱発で精神が消耗しすぎただけ……しばらく眠れば目が覚めるわ」
 マリエルは言って、ラウディの側に膝をつくとそっとその額を撫でる。ラウディの黒髪に細く白い指が絡み付く様はそれだけで色香が感じられた。
「…………」
 シルーズの横でマリエルはラウディの頭を自分の膝に載せる。懐からハンカチを出し、そっとラウディの額の汗をぬぐった。
「……よく知ってるわね」
 その様を呆然として眺めていたシルーズはようやくそんな言葉を引っ張り出す。
「前にも時々、そういうことはあったから」
 マリエルはラウディに視線を落としたまま答える。その表情は慈愛に満ちた母のようでもあり、泣き笑いのようでもあった。
「……変わってない」
 ぽつりとマリエルが呟いた。ハンカチをしまいラウディの髪を指で梳いている。
「…………」
 ここに至ってシルーズはようやくまじまじとマリエルを眺めた。
 なにせ彼女と出会ってから話す間もなくこの牢に駆け込んだため、マリエルとは一言も話していない。ろくに眺める暇もなかった。
 彼女はラウディの妻であり三年前に突如として姿を消したのだという。ラウディから聞かされたのはそれきりで、他にはシルーズが無断で一枚の写真を見たのみである。それだけの、初対面の女。
 その女がそっと自分の保護者である男をかき抱いている。それはまるで閉じた一枚の絵のようで、自分の入る場所はなく、シルーズは意識の奥に冷たく粘つくものを感じた。
 目の前のマリエルは写真で見た印象のままの美人である。写真よりやややつれた感はあるが、淡い金髪も碧の瞳も白い肌も、男なら誰しもが目を奪われそうであった。ラウディもそんな一人であったのかもしれない。
「結局顔だけだったってのかしら、こいつ」
 シルーズはぼそりと毒づく。それは聞こえていたのかいないのか、マリエルは泣き笑いのような笑みを崩さなかった。ラウディの頬に手を添えたままでシルーズに顔を向ける。
「お嬢ちゃんはこの人と一緒にいたわよね。どこの家の子なの?」
 言われてシルーズはまだマリエルに名乗っていないことに気づいた。
「シルーズ・シェル・カティオ。そこの男の姪……そいつは母さんの弟なのよ。両親が新大陸に行っちゃってるんで、今はラウディのところにいるわ」
 突き放すような口調でシルーズは名乗った。
「ああ……あなたのお母さんの話は、聞いたことがあるわ」
 言ってマリエルはかすかに笑った。それに何ら敵意があるわけではなく、むしろ優しい笑みは子供を引きつけるに十分だろう。だが、シルーズは惹かれる気にはなれない。腕組みなどしてますますつっけんどんになりながら続ける。
「まあ、そりゃそうだろうけど。むしろ何であたしの母さんに会ったことないのよ。そっちの方がおかしいじゃない」
 ぎろりと睨み付けてやる。マリエルは困ったように笑った。その穏やかな笑みが崩れないのにシルーズはますます腹が立つ。
「あたしもあんたのことは聞いてたわよ。三年前にいきなり逃げだした、どうしようもない嫁さんだったって」
 その一言にもマリエルの表情は崩れぬままだった。

 

 
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