Case6 いつか時が流れても - 第06話
シルーズは以前、一枚だけラウディとマリエルが写っている写真を見た。
写真のマリエルと目の前の女はさほど変わらない。年月が少し風貌を変えたくらいである。だがラウディの方は、シルーズでも戸惑うほどの変化をしてしまっていた。
何につけても「面倒くさい」が口癖の髪も服もほったらかしの男と、きりっとした真面目そうな男。この三年か四年の間に何があったのかと思ったが、その理由をシルーズはようやく知った。
ラウディはマリエルの名を聞いてから脇目もふらずがむしゃらに彼女を捜し回り、ようやく見つけた途端危険を顧みず彼女を庇った。それがおそらく以前のラウディの姿だったのだろう。その過去から現在までに抜けた要素があるから、シルーズが知るラウディの姿になった。
つまりそれほどまでに妻を見失った衝撃は大きかったのだろう。他の何にも興味を示さなくなるほどに。
「…………」
まだ子供のシルーズは男女の間に存在する感情など知らない。この二人がどうやって出会い結婚に至ったのかも聞いたことがない。だが気に食わないのだ。どうしてラウディがここまでのものをこの女に捧げるのか。それだけの価値がこの女にあるというのだろうか。
突然の失踪を責められても、マリエルの表情から笑みは消えない。それが、ますますシルーズを腹立たせた。
「何か言ったら? いきなり家からいなくなるなんて、離婚されても当然の所行だと思うけど」
シルーズは冷ややかに言った。マリエルは困った顔をする。
「……ちょっとね。色々とあったのよ」
曖昧な笑みを浮かべながらマリエルは言うが、シルーズはそれを鼻で笑った。
「ふーん。だったらその色々とあった何かってのを、ラウディには説明できるのよね?」
意地悪くシルーズは笑う。
「まああたしは居候だから置いておくにしても、仮にも結婚してたんでしょ? 旦那にも言えないようなことって何なのよ。というか、肝心なことは何も言わないで、その綺麗な顔で男だまくらかしたわけ?」
マリエルの表情が一瞬強ばった。自分の言葉の何に引っかかったのかまではシルーズには分からなかったが。
「その割に、今でもあんたはチャリオットの名前でいるみたいだしね。まだ結婚しているつもり? ……それにラウディも」
言って、シルーズは一瞬言葉を切った。
「こいつも、あんたのことを今でも嫁だと思っているんでしょ。あんたの名前を聞いたときのラウディの顔、見せてやりたかったわよ。もう血相変えて、それからずっと探し回って。今だってこうやって何も言わずにあんたを守っている」
極度の疲労で倒れた男の顔をシルーズは視線で示した。
「あんただって、そうしてもらって当然って顔してるし。何が気にくわないってそれよ。自分から勝手に捨てた男に守ってもらって嬉しい?」
きっとシルーズはマリエルを睨んだ。
「今だって反論の一つもしないし。――何か言ってみたらどうなの!」
ラウディを挟んでシルーズはマリエルを怒鳴りつけた。
「…………」
マリエルはやはり無言。シルーズは更に何か言おうとして、気づいた。
マリエルの表情が明らかに変わっていた。目が大きく潤み、鼻先が赤くなっている。今にも泣き出しそうなその顔は、妙齢の美女でありながら叱られたときの子供そのものだった。
「……ふん」
こちらは子供なのにまるで立場が逆のようではないか。シルーズは思わず馬鹿馬鹿しくなって、怒鳴ろうとしたのを飲み込んだ。ばつが悪そうに続ける。
「……大の大人が情けない顔しないでよ。ったく」
言ってシルーズは横を向く。マリエルの目からぽろぽろと涙がこぼれ始めていた。
「……あのとき」
嗚咽に混じるようにして、マリエルが呟いた。
「出て行ったのは、この人のためだったのよ。お願い、それは信じて。……でも」
マリエルは服の袖を顔に押しつけ涙を押さえている。それはシルーズに対する言葉なのか誰にとも知れぬ告解なのか、それは分からなかった。
「本当に私のことが大切なら、きっと探しだしてくれるかも知れないと思ったわ。だって、この人は“探し屋”だもの。どこにいたってきっと見つけてくれる……」
「……は?」
マリエルがかぼそい声で言うのにシルーズは眉をひそめた。
「何なの、そのえらく手前勝手な話。勝手に逃げだしておいて、男には見つけろって言うの」
呆れ返った風で言うがマリエルには届いていないようだった。
「でも結局、あの人は探してくれなかった。いなくなったらもうそれで良かったんだわ」
――違う。シルーズの中に今までで一番の怒りが沸き上がった。
逃げた妻に用がないなら今こうやって危険に飛び込んだりはしない。あんな風に自堕落になったりもしない。
「……そこにラウディがいてそういう台詞が吐けるっていうのも、相当なものよね」
怒りを極力押し殺しシルーズは言った。知らず知らずのうちに声が低くなる。
「だって、この人は私を見つけてくれなかったじゃない!」
涙混じりにマリエルが叫んだ。その勢いにシルーズも一瞬怯む。
「…………」
シルーズはここ数日考えていたことを思いだした。なぜ、ラウディはマリエルを<追跡>で探そうとしなかったのか。今こうやってマリエルと再会できたのも、彼女ではなく<邪眼>を追跡した結果である。
「当然だけど、あんた、ラウディの術のことは知ってるわよね」
低くシルーズが問うのに、マリエルは怪訝な顔をして頷いた。
「ラウディの……簡易式だっけ? そのやり方は、体内に<力>を通すからかなり危険なやり方だって。今回だって、一歩間違ったらこいつ爆死してたわよ」
マリエルの目がわずかに見開かれた。術のことは知っていてもその危険性までは知らなかったらしい。シルーズも偶然思い至らなければ今でも知らなかっただろう。
「で、術を使うにはかなりの集中力がいる。当然雑念なんてもってのほか」
シルーズが何を言わんとしているのか分からないのか、マリエルが眉をひそめた。
「で、そういう術を使う男が、いきなり失踪した嫁さんを探そうとする。当然色々考えるでしょうね。どうして何も言わなかったのかとか、自分のことを愛していなかったのかとか、今何をやっているんだろうとか」
「…………」
マリエルは黙ってシルーズを見つめた。
「そんな状態で、術のために集中なんてできるかしら。探したところで、元の鞘に収まる自信もないのに。見つかったら幸せになると信じられるから、ああいう術は使えるんだわ」
「あ……」
マリエルがかすかにうめくのがシルーズの耳にも届いた。
「ただ結婚してた時だったら問題はなかったのかもしれないけど。逃げだした時点で、あんたは見つけてもらう資格を失っていたのよ。当然じゃない。相手にだけ探してもらおうなんて、そんな都合の良い話はないわ」
それでもラウディは必死にやったのだろう。今回のようにケインズ中を自分の足で歩き回ったに違いない。だが三年前は今回のような手がかりがなかった。
「ああ……」
マリエルは己の膝を見下ろした。ラウディは未だ眠りから覚めない。その頬にぽたぽたといくつもの滴が落ちる。
「あああああっ!」
涙を拭うことも忘れ、マリエルは今度こそ声を上げて泣きだす。それをシルーズは沈鬱たる表情で見つめた。
最初に出会ったのは小さな事件においてだった。
少年の頃から数年ほど<術式>の修行を続けていたところ、元々老齢だったフォワードが亡くなった。師を失いどうしようかと思っていたラウディにエリザベータが言ったのだ。どうせならそれを使ってやれと。
そんなこんなで胡散臭い探偵事務所など始めてみた。捜査のからくりが術であることはひた隠し、最初はエリザベータに頼んで客を回してもらったりして、何とか一人で食べていけるほどの仕事をしていた頃だ。
起こったのは盗難事件だった。街の“裏”の住人、それなりの大物である男の家からとある書類が盗まれたのだ。立場上警察に言うこともできず、民間人のラウディが呼びだされた。仕事の選り好みができる状態ではなかったしそれほどの正義感もなかった。
書類そのものはあっさりと見つかった。だが盗難方法が問題で、依頼人が自宅に連れ込んだ娼婦が目を盗んで持ちだしていたのである。
それを依頼人に伝えれば、その娼婦は間違いなく報復を受けただろう。だが彼女も他の人間の手先になったに過ぎず、そちらにまで手は及ばない。そして、ラウディにはもう一つそれを伝えなかった理由があった。
単純なことでその娼婦に惹かれてしまったのである。淡い金髪に透き通った瞳、ほっそりした身体、万事において控え目な性格。まあ惚れたところはいくらでも挙げられるが、理由などない。ただ彼女の姿を見ているだけで幸せだった。
結局ラウディは、適当な理由を依頼人に告げ本当のことは言わなかった。代わりにその出会った娼婦に求婚したのである。マリエル・アンカーティスという女だった。
話を聞いてみると、元は地方の出身らしいが少女時代に働くためにケインズに出てきたのだという。だがそれが上手くいかず、またその美貌から男に目を付けられ色香でもって男を誘惑する女となった。その境遇自体はこの国においてたいして珍しいものではない。
ともあれマリエルは求婚を受け入れた。その時には天にも昇る心地がしたものだ。後から考えれば、依頼人からマリエルを庇っていたのだからそれで負い目を感じられたのかもしれないが、当時は有頂天になっていた。
だがいかに美貌であろうと本人同士が納得していようと、相手は元娼婦という身分だった。マリエルは天涯孤独だったがラウディには姉がいる。奔放というかただ大雑把な性格の姉だったが、さすがに元娼婦を家族に加えることを認めはしないだろう。結局ラウディは教会で正当派の結婚式を挙げることを諦め、登記婚という役人が証人を代行する形の式を行った。これなら二人の立会人で済み、正式に結婚したと認められる。
別に熱心な信仰心など持っていないが、そもそもが神に見守られたのでもない婚姻だった。その時からこの末路は決まっていたのかもしれない。
(……ああ)
そういえば、結婚して最初の夜に彼女はこんなことを言った。
『教会の結婚式では、牧師さまが、誓いの言葉を言ってくれるのでしょう? ……ごめんね、私たちに祝福をくれる人たちはいなかったけれど、せめてそれを聞いてみたいわ』
彼女が言ったのは結婚式の際に二人に与えられる定型句のことである。確かにそれすら自分たちにはなかった。道を外しても……いや、だからこそか、彼女にも憧れがあったのだろう。
ラウディは彼女を抱き締めた。望みを叶えてやれなかった自分が情けなかったし、そういう境遇を彼女に強いた世界が腹立たしかった。腕の中の彼女に聞きかじりの言葉を囁く。
『病める時も、健やかなる時も、これを愛し、これを慰め、死が二人を分かつまで、他の者に依らず、共に在るべし』
結婚する二人への祝福と戒めの言葉である。この言葉もラウディが自分で唱えたのだった。だがマリエルが嬉しそうに頬を胸にすり寄せてきたので、それでもう十分だと思った。
それからしばらくは穏やかな日々が続いた。自分一人のための稼ぎではないのだと思えば仕事にも熱が入ったし、仕事も順調だった。メイドを雇うような余裕はなかったが彼女はきちんと家事をこなしてくれていたし、たまには二人でフェアに出かけたりケインズに入ってきたばかりの写真を撮ってみたこともある。
自分は幸せなのだと疑いもしなかった日々だった。だがそれはただの盲目ではなかったかと、彼女が姿を消して後に思い知らされる。
マリエルの姿が見えなくなり戻ってくる様子もなければ、当然彼女を探そうとする。他の人間ならいざ知らずラウディには“探し屋”としての技術がある。難なく見つかるはずだった。
だがどうしても<追跡>を使うことができなかった。
どうして何も言わず消えたのか。その疑問は雑念となり、ことごとく術の行使を妨害したのだ。焦れば焦るほどますます成功確率は落ちていくし、制御を誤って死にかけたこともあった。
結局ラウディは術での捜索を諦め自分の足であちこちを歩き回った。だが一人で探せる範囲は限界があり、とうとう見つけることはできなかった。どうせもういないのだという諦念と共に、自分を苛む声が聞こえてくる。
彼女を本当に愛しているのなら、どうして術が使えないのか。彼女への疑惑こそが術を阻む要因ならば、彼女をただ信じてやればいいではないか。それができないのなら、所詮自分はその程度だったのだ。
しかし、彼女は元は男を誘惑していた女だ。自分もまた彼女に誘惑されただけではなかったか。利用価値がなくなったから、あっさり捨てられて、彼女はまた別の男を捜しているのではないか。ならばそんな女、いなくなってしまえ。
(…………)
後悔疑惑絶望、もう自分の心にある感情が何なのかすらどうでも良かった。ただ彼女はもう自分の元にはいない、その事実だけがすべてである。他の何にも興味はなく、ただ死ぬのも面倒という程度のままそれからの三年間を生きてきた。
だが、今でも一つだけ知りたいことがある。
あの時どうしても彼女は見つからなかった。歩きつつも絶望に苛まれながら、こんなことを考えた。本当に“妻”などという存在はいたのか。自分はただ惑わされて存在しないものを夢見ていただけなのではないか。
ひとときの幸せは自分の確かな記憶として存在する。だがそれは、真実だったのだろうかと――
「う……」
ラウディは小さくうめいて身じろぎした。シルーズがはっとして駆け寄る。
周囲に人の気配を感じながらラウディはゆっくりと目を開けた。深い眠りから徐々に意識がはっきりしてくる。自分は何をしていたのだったか。
ぼんやりとした視界も徐々にはっきりしてくる。焦点が合ったその先には、かつては見慣れた顔があった。
「……あ」
また幻かと思ったがそれはすぐに打ち消した。意識が急速にはっきりしてくる。そう、彼女と再会しこの中央塔に逃げ込んだのだ。
ラウディを見下ろしてくるマリエルはその目を真っ赤に腫れさせていた。眠っている間に何があったのかと思ったが、とりあえず身を起こしてみる。どうやら自分はずっとマリエルの膝枕で寝ていたらしい。昔はそんなこともあったとふと思いだす。
眠っている間に彼女について夢を見た気がするが、もうほとんど覚えていない。首を振りマリエルに向き直った。
「ちょっと、大丈夫? いきなりぶっ倒れないでよ、びっくりするから」
横からシルーズがいつもの調子で言って寄越す。それにラウディはなぜだかひどく安堵した。
「まあ何とか、な」
疲労はまだ少し残っているが動けないわけではない。術はいつも通りに使えるはずだ。シルーズに向けラウディは肩をすくめた。
「さて」
ラウディはマリエルに向き直った。マリエルがびくりと肩を震わせる。
「いきなりここまで連れてきちまったが、お前、何であの<邪眼>に追われてた?」
ラウディが静かに問う。
マリエルは無言。だがその顔は一気に青ざめ唇が小さく震えた。
