Case6 いつか時が流れても - 第08話
結局ラウディたちは一晩を中央塔の中で過ごした。
何しろ食料などを持っていないため立てこもるにしてもこれが限度だ。一月もここにいたら<邪眼>も諦めてくれるのではないか、という冗談のような意見も昨夜出たのだが。
「うー……」
この部屋には寝台が一つだけあったが、数十年放置された寝台など使い物にならない。石床の一部だけ埃を払いそこで三人で眠ったのだが寝心地は最悪だった。今が夏で夜も冷え込まなかったのが唯一の救いだ。
「いたた」
寝心地に文句など付けている場合ではないのだが、起きあがった途端首と腰が痛んだ。首を左右に振りつつシルーズは辺りを見回す。小さな明かり取りの窓から日が差し込んできていた。
寝起きのぼんやりした頭でシルーズは部屋を見回す。そこでふと目に付いたものがあった。立ち上がるとそれを指でなぞってみる。
それは石壁に付けられた傷跡だった。随分と古く何か硬いものでこすったと見える。ただ偶然付いたものではなく、誰かが意志を持って書いたことは明白だった。何かを数えるように線が五本一組で引かれている。
「……何を数えたのかしら」
この何もない部屋で。かつてはこの部屋にも囚人がいたのだろうが、彼らはただ審判を待つしか許されなかったはずだ。
(……ああ、そうか)
シルーズは理解した。これは日を数えた跡だ。囚人はこの部屋で時を過ごしつつ、一日一日をここに刻み……裁きの時を待ったのだ。
もう一度壁の跡をなぞってみる。思わず背筋がぞくりと震えた。日の終わりにここに印を書き付けた人間の心情はいかなるものだったか。
だがそれは今の自分たちも同じかもしれなかった。今日がそして明日以降がどうなるのか、まったく見当も付かない。ちらりとラウディとマリエルを見るが、二人は寄り添ったまま眠っていた。
この二人にとっては、何も知らずこのまま眠り続けているのが一番の幸せだろう。だがその先に何もないことは明らかだ。
二人を起こすのは忍びなかったが、そうも言っていられない。シルーズはラウディに近寄るとその肩を揺すった。眉を寄せてラウディが目を開ける。
「いい加減起きなさい。もう朝だっての」
結局いつも通りの言葉を口にしている自分が何となく馬鹿らしくもなったが。ラウディの横で、気配を感じたかマリエルも目を覚ました。
ラウディはしばらくぼうっとしていた。やがて意識がはっきりしてきたか、立ち上がると軽く髪と上着を調えている。
「あの<邪眼>の居場所って分からないの?」
シルーズが聞いた。<邪眼>から逃れるためにここに逃げ込んだのだから、最低限その居場所は把握しておいた方が良いだろう。
「と、そうだな」
ラウディは頷いて振り子を取りだす。ケインズの地図も取りだそうとしたのだが、そこで眉をひそめた。昨日飛びだしてきたときに忘れてしまったのか、地図が手元にない。
「……参ったな」
術の行使に地図が必須なわけではないが、あれがないと場所の特定がやりにくい。地図の細かい記述まで覚えているわけがないし、となれば大雑把な方角程度しか出力できない。
「やってもあまり意味がないな」
「まあ、やらないよりましでしょう。最低限、違う方角に逃げることはできるわ」
シルーズが言うのにラウディは息を吐いて振り子を指に絡めた。
呪文に応え振り子が光の亀裂を帯びる。振り子はゆっくりと円を描いていたが、やがてそれが収束していく。いつもならそこで一カ所を指すのだが、だんだん動きが遅くなりやがて完全にぶら下がって止まった。
「……って、うそ?」
シルーズが目を丸くする。ラウディの術が成功するのも外れるのも見ているが、こんな結果は見たことがない。失敗する際はたいてい振り子がでたらめな軌道を描き、場所の特定ができなくなる。
ならば、この結果は正しいのだ。それが意味するものは――
「……ここ」
マリエルが呟くのに、シルーズはまともに顔を引きつらせた。
術者と対象物がほとんど離れていない場合。地図を用いずに<追跡>を使った場合に振り子は術者を基点として対象物のある方角を指し示すが、この二つがほぼ重なるならこの結果になるだろう。
「……この塔にいるんだわ。あの<邪眼>も」
最初からラウディたちの行動など見抜かれていたのか、周辺を捜索した上でこの塔に目を付けたのかは分からないが。おそらくこの塔のどこかでラウディたちを探しているのだ。
となればこの部屋にいるのは危険である。もし見つかった場合の退路を確保しなくてはならない。
ラウディは即座に振り子を仕舞い、出口を封鎖していた寝台に手をかける。シルーズとマリエルも慌ててそれに続くが、軽くはない寝台を動かすのには、どうしても物音が発生してしまう。がたがたと音がし、それは廃棄された塔に予想以上に響き渡った。
「……やばいな」
今<邪眼>がどこにいるか分からないが、この物音を聞かれたらまず居場所を推測される。その前に離れなくてはならない。ようやく扉を開けると、ラウディたちは牢を飛びだした。
がたんというかすかな音を、<邪眼>は確かに聞いた。
今、この建物――中央塔の内部の監獄――に立ち入った人間がいないのは、この塔の監視員に確認してある。となれば無断で入り込んだ人間であり、容易に入ることは難しい塔である以上その侵入者の素性は絞り込める。
この塔は大小取り混ぜていくつもの部屋があるが、そのほとんどが牢もしくは看守たちの部屋であるため、構造が複雑で見通しが悪い。見取り図は手に入れてきているが、ここでたった数人を探しだすのは手間だ。あの“探し屋”ならば容易な芸当なのだろうが。
とは言え、あの男は探すのは得意でも隠れるのは不得手だったと見える。しかも足手まといの女子供を抱えているはずだ。
<邪眼>は一気に駆けだした。
出会ったときには圧倒された。二度目も封じきれなかった。果たして三度目は、いやそもそも三度目の邂逅を望んではいなかった。だが今更後悔しても遅い。
通路の向こうに佇む黒ずくめの姿を見て、ラウディは逃げ切れなかったことを悟った。
反射的にシルーズとマリエルと背中に庇い頭の中で算段する。あの男に真正面から向かったら、動きを封じられて終わりだ。とにかく先手を取ること……
「ラウディ・チャリオット」
<邪眼>が口を開いた。起伏のない声音でラウディの名を口にする。
「後ろの女を渡してもらおう。彼女には問いただしたいことがある」
意外にも<邪眼>は静かに言った。
「だったら、その問いただしたいことってのをここで言え。一応こいつの旦那なんでな、俺にも聞く権利はある」
恐怖をごまかすようにラウディは叫んだ。
結局昨夜、マリエルは震えるばかりで事情を話そうとはしなかった。シルーズは相当に怒っていたが、聞きだすのは無理と思えたのでそのまま眠ってしまったのだ。せめてもう少し時間があったなら彼女から話を聞けたのかもしれないが。
「貴様が夫だったからだ」
「……何だって……?」
<邪眼>は一言だけで答える。それにラウディはうめいた。
後ろのマリエルを見る。彼女は歯の根が噛み合わないほど震えていた。
「……何があったんだ」
がしがしと頭を掻きながら問う。ちらりと<邪眼>を見ると無言でラウディたちを見つめていた。マリエルに用があるなら三人の動きを封じた上で連れ去れば話は早いはずだが、今のところそれをやる気はないらしい。
「あ、あ……」
マリエルは何か話そうとするが震えて言葉にならない。首を横に振って彼女を黙らせてから、ラウディは再び<邪眼>に向き直った。
「あんたの主人……チェンバレンは、最近こいつを探していたらしいな。それは、つまりこいつが俺と結婚していたからか」
<邪眼>は無言。
「……それは、肯定と取って良いんだな?」
それにも無言。ラウディは目を切れ上がらせ、ぎりっと歯を食いしばった。
「――っ!」
チェンバレンのいつものやり方だ。直接手を下さず、相手の身近にいる人間を使う。博物館図書館のマッデン、シルーズにも誘いの手は伸びた。そして次、もっともラウディの近くにいた人間と言えば。
この妻をも利用するつもりだったのだ――あの老人は。
「――あの男は!」
どくりとラウディの意識の奥で熱いものが脈打つ。それが堪えようのない怒りだった。
「だが、我が主人は死んだ」
ぽつりと<邪眼>が言った。それがラウディの熱にわずかに水を浴びせた。
「確かに、我々はマリエル・チャリオットを探した。貴様の妻であり、三年前に失踪したことは分かっていたからな。だが、その女が主人と会った夜、主人は死亡した」
「――――」
それが意味するものは。
ラウディは再び後ろの妻を見やる。マリエルは震えたままだった。
「だから、その女に問いただしたいことがある。我が主人の死について何か知っているのか」
言われてみればそれは筋の通った話だった。ラウディも自分が捜査するのだったらそうするだろう。
「……マリエル」
静かにラウディは言った。震える彼女の身体に手を回す。その感触がどうしようもなく懐かしく……このまま、何もかも聞かなかったことにして逃げたい衝動に駆られる。
「頼む、言ってくれ。何を言っても、俺は逃げないから」
だがそれは許されなかった。苦渋の思いでラウディはその言葉を口にする。
マリエルは無言。だがその身体から震えが少しずつ抜けていくようだった。
「わたしがあなたと結婚した時の事件は覚えているでしょう?」
マリエルが尋ねるのにラウディは頷く。<邪眼>は無言だが、特に何も聞いてこないところを見るとマリエルの事情をある程度知っているのかもしれない。
「あの時、あなたは私の罪を見ぬふりをしたけれど。結婚してしばらくした頃、それを知っている人が現れたのよ。周囲に言われたくなければ、お金と、……それから、わたしを」
ラウディは知らなかったが、事件の残党がいたのだろう。その輩に強請られていたわけだ。ラウディはぎりっと奥歯をかみしめる。
「でも、これ以上迷惑はかけられないと思って、あなたのところを出たわ。それからは色々なところのメイドを転々として……あなたと結婚してから、一度も髪は下ろしてないわ、それは信じて」
エーデルランドでは成人した女性は髪を結い上げるのが当然とされ、髪を肩より下に垂らすのは子供と身体を売る女だけである。それで男は娼婦を見分けるのだ。かつてマリエルは男に媚を売る女だったが、結婚以降それはやっていないという。それは夫に対し貞操を守るつもりだったのだろうか。
ラウディはマリエルに回した手に力を込める。呟くようにマリエルは続けた。
「……でも、この間、わたしを無理矢理に連れて行こうとする人が来たわ。ああ、逃げ切れなかった……って思った。でも、あの人たちが連れて行ったのは大きなお屋敷だった」
マリエルはちらりと<邪眼>を見た。つまりチェンバレンの邸宅だったということか。
「そこで見せられたのは、あの人……わたしを狙ってた人の手紙だったわ。もう絶対に、わたしには関わらないと書かれてた。……それと、手」
「手?」
ラウディが怪訝な顔をする。
「手よ。……その、切り落とされた」
マリエルの身体が再び震える。それを必死で抱き締めながらラウディは考えた。
ラウディとマリエルが結婚していたことを知るのは容易だったろう。結婚の際の書類は役所にあるし、少し調べればその妻が姿を消したことも分かる。
ラウディは探しきれなかった……もう探すのを諦めていたが、チェンバレンはその組織力でもってケインズから彼女を見つけだしたのだ。それと彼女に絡んだ因縁も。それを精算することで同時に彼女を脅した。切り落とした腕などを見せつけたのもそのためだろう。
「あの人は、わたしにあなたのところに戻れと言ったわ。そうして……」
それ以降の言葉は、震えて言葉にならない。だが想像は付いた。
「……あなたもあの人みたいにされるのかって思って、怖くて、それで……」
――それで。
「――――」
後はラウディが知っている通りなのだろう。マリエルは逃げだし、<邪眼>が彼女を追い、そこにラウディが飛び込んだ。
ラウディはマリエルを抱き締めたまま<邪眼>を見た。佇んだまま、<邪眼>は静かに口を開く。
「分かっただろう。我々にはその女を裁く権利がある。渡してもらおう」
死者の仇を取るのは死者ではない。残された人間だ。けれど。
「断る」
ラウディはきっぱりと言った。<邪眼>の表情がわずかに変わる。
「あんたに、いや誰にでも、個人が人を裁くことはできない」
法によって、容疑者を捕らえられるのは警察のみ、それを罪人として断じることができるのは判事だけとされている。それは決して現実のすべてではないにしても、故人の名においての復讐は剣の時代で終わりだ。
「マリエルも俺も、裁かれるべき場所は別にある。あんたの手ではない」
「……あんたも?」
横のシルーズが呟いた。
「俺も一度、あのチェンバレンを殺しかけた。結局あんたに邪魔されたけどな。それを自分の妻がやってしまったのなら、その罪の半分は俺にある」
チェンバレンと決裂して術の撃ち合いになった際、ラウディはチェンバレンを追いつめたがそこで<邪眼>に妨害された。だが首に指を巻き付けたときの感触は今でもはっきり覚えている。
そこで自分が成し遂げられなかったからマリエルがチェンバレンに脅されることになった。マリエルがチェンバレンを手にかけたなら、それは自分ができなかったことを彼女が代行しただけではなかったか。チェンバレンが死んだことを知った瞬間、自分は確かに「これで終わった」と安堵したのだから。
神の子は悪意を抱くことが罪だと言った。ならば自分と彼女にどれだけの差があるだろう。ならば共に裁かれ……そうすれば一緒にいることができるだろう。もう空虚のまま時間を過ごすのは耐えられないのだ。
「…………」
ラウディの言葉に、<邪眼>は無言。ラウディの言葉を受け入れる気になったのか、一人が二人になろうと変わらないと思ったのか、それは分からないが。
だが一人騒いだ人物がいた。鮮やかな赤毛の少女は、髪の色そのままに怒りに顔を染めラウディを見上げて怒鳴る。
「ちょっと、一人で勝手に自己完結しないでよ。何であんたその嫁さんのことになると途端に周りが見えなくなるのよ。少し考えれば分かるじゃない、あんたとその女は違うわよ」
きっぱり、シルーズは言った。ラウディは目を瞬かせる。
「確かに、あんたはあの人……チェンバレンを殺そうとしたけれど。首を絞めようとしたのはあたしだって見ていたわ。けれど、あの時あんたは確かに躊躇った。できなかったのよ。違うじゃない、そこの女と」
シルーズはラウディに縋り付くようにして言ってくる。ラウディは呟くように言った。
「……俺が弱かっただけだ、そんなものは」
躊躇ってチェンバレンに嘲笑された。あと一歩を踏みだす勇気がなかった。
「それが弱さだと言うのなら、あたしはその弱さを誇りに思うわ」
胸を張りシルーズは言う。小柄な少女の姿が、今はなぜだか大きく見えた。
「人を殺せる強さなんて、強さじゃないわよ。人を踏みつぶすのが強さならばあたしは要らない。あんたの躊躇いは、人としての優しさは絶対に必要なものだと思う。後で後悔するのではなくて、その場で踏みとどまる優しさこそ、あたしは誇らしいと思う。あんたはできなかった、ならばその分だけ強かった。あたしはそう信じる」
「…………」
じわりと静かにシルーズの言葉が心に染みこむのを、ラウディは感じた。
そう、怖かった。あの時一歩を踏みだしてしまうのが。その怖さこそ必要なものだとあの亡命者の博物館長が言った。それは――その通りなのだろう。
腕の中のマリエルを見る。がたがたと震えていた。一人で何もかも抱え込んで、その末路として後悔と恐怖に苛まれている女。彼女を愛しいと思う気持ちは今も変わらない。ならば。
マリエルをしっかりと抱き締めてから、不意に離し、<邪眼>に向き直った。
すっと息を吸ってから、告げる。
「随分と長話をしたが……そろそろ決めるか。どちらがこの件に決着を付けるかを」
廃墟の塔に不思議とその声は響き渡った。
