Case6 いつか時が流れても - 第10話
黒い河をラウディはぼんやりと眺めていた。
ケインズ中央を分けるテリスト川。いくつか架かる橋の一つにラウディは立ち、流れを見つめていた。粘ついた汚水がどろどろ流れる様見ていて楽しいわけでもないのだが、他にやることがないのだから仕方がない。
あれから数日後。肉体的にも精神的にも疲労しきり、惰眠をむさぼっていたラウディに、一通の連絡が届いたのだった。無視するわけにもいかず、仕方なしに指定されたこの場所に来て相手を待っているのである。
(……とは言ってもなあ)
来る相手が誰かも知らないのにどうしろと言うのだ。待ち合わせをするならもう少し楽しい場所にはできなかったのかと思い、ラウディは嘆息した。
と、後ろから肩を叩かれた。ラウディは一瞬びくりとしてから振り返る。
そこには大柄な老人がいた。年齢はあのチェンバレンとさほど変わらないだろう。チェンバレンが相手を射抜くような鋭い威厳の持ち主だったのに対し、こちらは全部を飲み込んでしまうような大きさを感じる。
「…………」
見たことのない人物だ。だがこの橋で他に人待ちをしている人間などいないし、ラウディは目印として白いハンカチを胸に付けている。ならばこの男が待ち人で間違いないのだろう。
「ラウディ・チャリオットだな」
老人は静かに言った。ラウディは怪訝な顔で頷きながら尋ねる。
「まあ、そうですが。……あなたは?」
その問いに老人は苦笑してから答えた。
「何だな。いつも私を知っている人間ばかりを相手にしているから、たまの初対面でも名乗るのを忘れる。失礼した、ジェームズ・ウォルポールだ」
言ってウォルポールは右手を差しだした。応えて反射的に手を出してから、ラウディは目を丸くする。
ジェームズ・ウォルポール。いつもチェンバレンと対比して語られていた自由党の首魁である。言われてから老人の顔を見てみれば確かに新聞の風刺画の面影がある。実際には逆……本人に似せて似顔絵が描かれているのだが。
とは言え、本来なら関わりのないはずの人物と出会うのもいい加減慣れた。いくらか驚きはしたものの、それは表情には出さずラウディはぼそりと呟く。
「何だってこうも、別世界の人間がいきなり俺の前に現れるのかな」
それは聞こえていたのだろうがウォルポールは苦笑しただけだった。
「……で、なぜあなたが警部と知り合って、俺を呼びだしたんです?」
『貴様に会いたいと言っている方がいるから来い』と、この時刻と橋を指定してきたのはアバーラインだった。誰が来るかも知らされずにやってきたラウディの前に現れたのがこのウォルポールである。ラウディが疑問に思うのも当然だろう。
「頼まれたからな。君の友人に、できれば君に対して便宜を図って欲しいと。それで君にも少し話したいことがあった」
その一言にラウディは目を瞬かせた。
「……友人?」
「友人がこの件に巻き込まれているようだからと。できるなら余計な影響が行かないようにして欲しいと言ってきた」
二人の言葉が重なる。ウォルポールの言葉に、ラウディはますます目を瞬かせた。
「それは……アバーライン警部のことですか?」
怪訝な顔をしてラウディが尋ねるのに、ウォルポールが笑いながら言ってきた。
「そうだ。……良い男を友人に持ったな」
ウォルポールは柔らかい笑みを浮かべるが、ラウディは困惑することしかできなかった。友人。アバーラインが自分のことをこう言って、わざわざ便宜を図るように言ってくれたのか。
「……はあ」
チェンバレン殺害事件、彼が以前関わった事件、そのすべてが明るみに出て今世間は大騒ぎしている。多分に政治的意図が疑われたチェンバレン殺害が実はまったく関係のない女の衝動的なものだったと分かり、庶民たちは下世話な想像に余念がないが政界は元に戻りつつある。チェンバレンが是が非でも阻止したがった選挙法改正法案も、遠からず通過するだろう。
ラウディはまぎれもなくその犯人の夫であり関係者の一人なのだが、マリエルが出頭した際とその後に少し事情を聞かれただけで、後はほとんど騒ぎに関わることがなかった。それがアバーラインが手を貸してくれた結果だというのか。
「……何だってそんな面倒なことを」
思わずラウディは呟くがウォルポールが呆れたように言った。
「だから、友人なのだろう」
その一言をじっくり飲み込むようにラウディは黙り込んだ。それをウォルポールはしばし眺め口を開く。
「マリエル・アンカーティスについてだが――」
それを聞きとがめて、ラウディが言った。
「俺はあいつと離婚した覚えはありませんよ。あれの姓はチャリオットです」
「彼女がそうしたいと言った。まあ本来なら両者の承諾が必要だが、君は承知しないだろうからと、アバーライン警部が適当に書類をでっち上げたらしい」
アバーラインには以前いくつか署名した書類を渡している。確かにそれからラウディの署名を真似ることもできただろうが。
「……ただの詐欺じゃないですか、それは」
ラウディが剣呑な表情で言うのにウォルポールが苦笑しながら言った。
「彼女の意を汲んだのだ。裁かれる時に婚姻関係があるままでは君に迷惑がかかると、彼女が言ったらしい」
ラウディは顔を伏せた。もう会うことはないと誓ったが、いざ聞かされると彼女と決別したのだと嫌が応にも思い知らされる。
「……しかし、なぜ閣下がそこまでご存じなのです?」
ウォルポールがチェンバレンの事件について知らないはずはないが、そこまで細かい事情を知りましてやラウディに会おうとする理由にはならないだろう。ラウディは怪訝な顔で尋ねる。
「いくらか前に、アバーライン君が私のところに来てな。チェンバレン卿を裁きたいから協力してくれ、ついでに友人も助けてくれと言ってきた。本来なら笑い飛ばすところだが、彼は面白かったからな。それで、君にも興味を持った」
「……また無茶をやったな」
楽しそうにウォルポールが言うのに、ラウディは頭を抱えた。あの警部は正しいと思ったら何にでも突っ込む傾向があるが、今回は殊更に暴走したらしい。その結果自分も助けられたから文句は言えないが。
「その君の妻についてだが、一人の殺害の罪に問われることになる。殺した相手が誰であれ、法によって相応の罰を受けるよう、できるだけ公平に裁かれるように尽力しよう」
「……ありがとうございます」
これは心から、ラウディは言った。まだ現実には人は平等などではなく、司法とて公平などではない。少しでも平等を望めるならそれに感謝したい。
「そういえば、君は“探し屋”なのだそうだな」
ふとウォルポールが言った。ラウディが頷く。
「あのフォワード・アンガスと何か関係が?」
「……俺の師です。もう亡くなりましたが」
ウォルポールもフォワードのことは知っていたらしい。ラウディの返答に、ウォルポールはかすかに笑った。
「そうか、あの男はあの後もケインズにいたのか。その弟子の君がこのようなことになるとは、何とも皮肉なものだな」
ラウディを置き土産と呼んだチェンバレンの言葉がよみがえる。確かに結末は皮肉ではあったが、死者の意向ではなくただ偶然と己の意思の結果だと信じる。
「…………」
ラウディはぼんやりと橋下の黒い流れを眺めた。水蒸気で気分が悪くならないのは幸いだが、お世辞にも長居したくなる臭いではない。
「世の流れとは、あの川のようなものかもしれんな」
ふと、ウォルポールが呟くように言った。ラウディは首を傾げる。
「あれが時の流れのようだとでも? あんな毒混じりの水の中にいたら、魚でなくともすぐに死にますよ」
ラウディが眉をひそめて言う。だがウォルポールは更に続けた。
「だから人はそう長くは生きられない。ならば、この世界が清流だと思うか?」
その問いにラウディは苦笑して首を横に振った。
「まさに時の流れは黒く、毒だらけだ。不条理で下らない。神には申し訳ないが、私はこの世に生まれてきたことが貴いとは思わん。誕生は祝福されるべきだが、同時に原罪を背負ってこの闇の中を生きて行かなくてはならないのだから。
だが――だからこそ人は希望を持てるのだ」
その言葉に、ラウディは目を瞬かせた。
「“探し屋”、君なら分かるだろう。未来は見えぬからこそ希望なのだ。見えない未来を夢見られるからこそ人は生きていける。時は黒い河だからこそ人を生かす。
清流は美しい。だがそこに希望はない。昨日は美しかった、そして明日も美しい。それが見えてしまうのは絶望でしかない」
未来も真実も容易には見えないところにある。だからこそ人は必死に手を伸ばすのだ。その繰り返しでこの世界の大勢の人々は生きている。
「…………」
「だから、人は闇に目をこらすことを止めてはならない」
その一言に、ラウディは呟いた。
「でも、それはあまりに苦しい。すべてを投げだして、何も見たくないことだってありました」
それが妻を見失ってからの三年間だった。
「だがその時間が、何も与えなかったわけではないだろう」
ウォルポールの言葉にラウディは沈黙した。
あの一人きりの朝から三年間。自分は何をやっていただろう。何をする気もなくして、自堕落な生き方をして……あの赤毛の小娘に怒鳴られて、強面の警部に小言を言われた。
(……ああ)
自分のために手を差し伸べてくれる友人を得て、全身でぶつかってでも止めてくれる家族を得た。
最愛の女性はいなかったが、決して一人きりではなかったのだ。
「…………」
それに今ようやく気づいたというのもおかしなものだが。ラウディはじわりと温かいものがこみ上げてくるのを感じていた。
あの日からマリエルはいなかったし、これからもいない。けれどそれだけではないのだ。一人で彼女との再会まで過ごす日々は、どれだけ長いだろうと思った。だがそれは決して孤独な道のりではなく、幸せにも自分には共にいてくれる人がいる。
「……はい」
ラウディはウォルポールに小さく頷いた。ウォルポールが満足げに笑う。
「私は哲学者や牧師ではないので、君の生き方に対して大層な助言は与えられないがね。少しでも満足してくれたなら幸いだ」
言ってウォルポールは手にした杖を握りなおした。
「さて、私の用はこんなところだ。実のところ、大した用があったわけでもなくてな。ただ、あのアバーライン君の友人というのを見てみたかっただけだ」
「……ご満足頂けましたか?」
「よく分からん」
二人が肩をすくめる動作はまったく同じだった。
「さて、私は戻る。機会があれば、また会うこともあるだろう。君の友人によろしく」
言ってウォルポールは立ち去っていった。何ともあっさりとした別れである。
「……さて」
ラウディも事務所に戻ろうときびすを返した。橋を降りたところでもう一度その流れに目をやる。
流れの先はやはり霞んで見えなかった。水の底を見ることもできない。だが今はそれでもいいではないかと思える。なればこそ人はこの河を往くのだから。
これからの道のりはまだ長いものだろう。だが今なら、前を向いて歩くことができる。三年前から見ようともしなかった未来にようやく目を凝らすことができる。
黒い河に背を向け、確かな足取りでラウディは歩きだした。
