HOME > 小説

ブックイーター

 本は心の栄養なのだという。
 主人公とともに体験した波瀾万丈の物語、偉大なる先人たちの思索や智慧は、読者の血肉となって人生を豊かにするだろう。
 僕の身体も、少なからず本のページやインクでできている。
 もっともそれによって僕が思慮深く在れているか、そして豊かな人生を送れているかは定かではない。なぜなら僕は本を目で読むのみならず、文字通り食べて滋養としているのだから。

 美味しそうな匂いだ、という台詞をよく聞く。
 レストランの前を通りかかったときや、トウモロコシや焼きそばの屋台の近く、あるいはたわわに果物の実った木の下で。嗜好は人によって様々だが、当然のことながら、人が食べられるものであるという共通点はあるだろう。
 であるからして、僕が、
「腹減った……」
 と呟きながら大学近くの書店にふらふら足を踏み入れても、それはごく自然なことなのである。
 ブックイーター──文字通り、本を食べて生きる僕にとっては。
 僕の一族は、肉や野菜といった通常の食べ物を身体が受け付けない。食べられるのはなぜか本だけなのだ。
 和綴じ本の古ぼけた和紙から再生紙まで何でもござれ、豪華本の分厚い表紙は僕たちにとってはご馳走だ。〝本〟であることが重要で、ただのコピー紙の束を囓っても食べられたものではない。
 なぜこんなものを噛み砕けるのか、体内で消化できるのかは知らない。現代医学ではどうしようもないだろうし、もはや僕たちはそのルーツをあまり気にしていない。
 いつからこの珍妙極まりない体質の一族が存在しているのかは定かではないが、せめて活版印刷が発明されて以降であって欲しいと思う。修道士が丹精込めて手書きしたであろう写本を先祖がむしゃむしゃ食べたかと思うとさすがに申し訳ない。
 それはさておき、店に入った僕は八百屋にやってきたおばさんよろしく、「今日はどれが新鮮かしら?」とばかりに新刊台を覗き込んだ。
 この書店は大手チェーンの看板を掲げてはいるが、店員が熱心なのか、地域と客層に合わせてきちんと棚が作られている。たとえば暇な大学生用にマイナー出版社のコミックまで網羅しており(ネットで評判になった作品は速攻入荷する)、お子様のためのポ●モン関連本の品揃えは他に類を見ない。
 専門書もそこそこ取り扱っているし、映画の原作本もちゃんと平積みしてある。暇つぶしからディープな本探しにまできちんと対応してくれる、いい書店なのだ。
 大学近くには他にもいくつか書店があるが、品揃えはこの店が随一とあって、平日であっても人はそこそこ多い。
「どれが美味しそうかなあ……」
 他の客の邪魔にならないよう、僕は間をすり抜けるように店内を一周する。
 大多数の人々にとって果物や菓子が芳香を発するように、僕には棚や台に置かれた本のひとつひとつから別の匂いが感じられる。
 少女向けのコミックはなんだか甘ったるい感じがするし、妙に鼻がむずむずするこれは……あ、英語のペーパーバックだな。匂いのなさに逆に違和感を感じるコーナーはコンピュータ関連の棚だ。機械で匂いを再現するのはまだ難しいらしいからなあ。
 生物が匂いで食べられるものとそうでないものを見分けるように、僕にとっても良い匂いと感じられるもののほうが美味いので、僕は警察犬にでもなった気分でひたすら店内をうろつく。
 そして二十分ほど歩き回って、僕は今日の〝夕飯〟を決めた。
「こちら一点で、千三百六十五円になります」
「……ど、どうも」
 どう見ても妙齢の女性向けの、スキンケアの本(たぶん)をレジに出すときはちょっとばかり恥ずかしかった。仕方ないじゃないか、これが妙に香ばしい匂いがしてたんだから。
 そして僕は魔法の呪文を発動する。
「あ、領収書下さい」
 この一言さえあれば、どんな変な本を買っても仕事や研究で必要なのだと店員さんは思ってくれるはずなのだ! もらった領収書は後で捨てるだけだけど。
 僕が精一杯の愛想で言うと、レジ内の女の子は何か言いたげな顔をしていたものの、手早く領収書を切ってくれた。
 さて、食料も確保したところで午後の講義に行くか。

 本を手当たり次第に食べるブックイーターとはいえ、僕は本を読むのが嫌いなわけではない。
 むしろかなりの本の虫と言っていいだろう。〝食料〟として買ってきた本でも食べる前に一度はきちんと目を通す。
 僕が感じる匂いは本の面白さにかなり直結する。食事とは生存に不可欠であると同時に快楽だ。より自分自身に快をもたらしてくれるものがどれか、無意識のうちに選別しているのだろう。
 今日のスキンケアの本は、女性の美肌への執念にはちょっとばかり引いたが、雑学本としてはそこそこ楽しめた。日本酒を肌に塗る女性もこの世に存在するのね。
「さて、いただきます」
 そして新たな知識を与えてくれた今日の一冊に感謝しつつ、僕は両手を合わせ、ページの一枚をべりっと破って口に運んだ。
「あー、なんかどろっとしてるな……」
 匂いは香ばしいけどちょっと味が濃い。水を飲みつつ僕はべりべりと本を食べ進める。
「やっぱり新刊は味に深みがないな……たまには古本食べたいな」
 新刊台が新鮮な匂いなら、曰く付きの古書店は棚の奥で熟成された芳醇な香りだ。ただし古書店で見つかる美味そうな本というのは貴重な本であることが多い。
 子供の頃に何度か一ページだけ食べさせてもらったことがあるが、あれは本当に美味しかった。でも今はお財布的にも文化遺産的にも、手を出していい代物ではないな。
「さて、ごちそうさまでした、と」
 この特異体質上、友人と食事などまず不可能なブックイーターではあるが、台所が腐海化しないという利点はある。調理する必要はないし、コップだけ洗えばいいし。
 逆に友達が家に来たときに言い訳を考えるのは面倒だが。

     ***

 数日後、僕はふたたび例の書店を訪れた。
 市内にある書店はどれも把握しているが、品揃えの良さから結局ここに来ることが多い。例によってぐるっと店内を回った後、新刊台から二冊取ってレジに向かう。
 その道すがら、棚差しの本の背表紙がいくつか見えた。確かつい先日まで新刊台に平積みにされていた本だ。
「あー、旬を過ぎた匂いがするなあ……」
 比喩でもあり、文字通りでもある。
 青臭さが鼻について僕はスルーした本なのだが、今はそれが変にどろっとした感じというか、埃っぽい臭いに変化していた。それはこの本だけではなくて、平台から追いやられた本はだいたいこんな変化をする。
 この現代において流行の移り変わりは早く、書店の棚の奪い合いはたいそう熾烈なのだという。僕にはよくわからないが、しなびた野菜も似た感じなのではないだろうか。
 そしてレジで支払いを終え、店の外に出たところで、
「お客さーん、お品物忘れてます!」
 さきほどレジにいた女性店員が後ろから追いかけてきた。
「へ!? ……あああ、すみませんすみません」
 どうやら金だけ払って袋に入れてもらった本を受け取り忘れたらしい。ぼんやりしてるとたまにやりそうになるミスだ。
「お客さん、よくうちの店にいらっしゃいますよね」
「……そうだけど」
「それで、……その」
 彼女はそこでわずかに頬を赤く染め、もじもじと俯いた。
 ここでようやく僕も彼女をまじまじと見た。年は僕とあまり変わらなさそうだから、たぶん学生のアルバイトだろう。この近辺に大学はひとつしかないし、十中八九同じ大学だ。
 ほっそりとして、ダークブラウンの髪をクリップで束ねて清楚な感じの……正直かなり可愛い子だった。
「あのっ、今度いちどお話させてもらっていいですか!? 空いている時間があったらそこにメールください、待ってますからっ!」
 彼女はメモに手早く携帯のアドレスを書いて僕に押しつけ、ばたばたと店内に戻っていった。まあ仕事中なわけだし、客とお喋りしているわけにはいかないよな。
 いや、それにしても。
「女からメアドを教えてもらったのなんて初めてだ……」
 正確に言えば母ちゃん以来、二人目である。
 これはとうとう僕にもモテ期が来たと、信じて良いのだろうか?

 それから数度メールのやりとりをした後、俺は学内に最近できたカフェで彼女と落ち合っていた。
 学生たちの「シャレた喫茶店のひとつも欲しい」という声に応えて導入された、学食にしては珍しい大手チェーンなのだが、実のところ利用者はそこまで多くない。なにしろコーヒー一杯でも四、五百円はするので通い詰めるには貧乏学生の懐はあまりに寒い。
 とはいえ女性と話すためのセッティングとしては無難な場所であり、可愛い子と二人きりで話せるのならそのくらいの出費は惜しくない。だって五百円もあれば文庫一冊買えるしな!
「お待たせしました」
 ぱたぱたと小走りに駆け寄ってきた彼女は、当然だが今日は私服だった。ゆったりめのブラウスとショートパンツ、すらりとした脚は黒いタイツに覆われている。……うん、可愛い。
 互いに改めて自己紹介した後(僕とは別の学部で、一学年下とのことだった)、僕は尋ねる。
「ところで、どうして僕のこと知って……」
 確かに僕はあの書店の常連だけど、レジ打ちのアルバイトにまでチェックされるような問題行動を取った覚えもない。
「だっていつも領収証切っていきますから」
 そういう覚えられ方か!
 そういえばこの間スキンケア本を買ったときも、レジにいたのは彼女だったかもしれない。店員さんの顔までいちいち見てないからな僕……。
「そ、それで僕のことが」
「あの店の中ではちょっと評判なんです、先輩のこと」
「……へ?」
 彼女ではなく、書店員の間で?
「先輩ってよく新刊を買って行かれますよね。ジャンルもバラバラだし、そんなに立ち読みしているわけでもないのに」
 まあ僕が本を買うときは匂いで決めてるしな。
「でも先輩が買った本、人気が出ることが多いんです」
 宣伝量や作家の知名度を見れば売れる本はある程度予測がつきそうなものだが、必ずしもそうでもない。次にどの本が売れるかわかれば世の出版社や書店は苦労しないだろう。
 彼女が言うには、僕が買っていった本がいわゆる「予想外のベストセラー」になることが多いらしい。ただし世間で話題になるのは僕が買っていった後のこと。まあ、僕は新刊台に積まれるなり買ってるしな。
「この間の美肌本も、数日前からけっこう売れてるんです。まあ筆者がテレビでウケたせいですけど。……そういうのがわかるコツってあるんですか? 次はこの本が来るんじゃないかなーとか」
 コツ、と言われても……。
 なんとなく美味そうな匂いがするから、と一言で説明してしまえればいいのだが、ほぼ初対面の彼女に話すにはちとヘビーかつ珍妙な真実である。
 匂いが良い本というのは、つまるところ内容が(ある程度は)良いもの、ということなのだろう。本の評価なんて時勢や時代でころころと変わるし、僕の好みもかなり反映されているから、必ずしもベストセラーを言い当てられるわけでもないが。実際、僕の読んだ本がすべて売れているわけではないし。
「最初にこのことに気づいたのはあたしで、それからなんとなく先輩の買う本をいつも見てたんですけど」
 まさかあの書店で自分がそんな目で見られているとは思わなかった。これからどんな顔をして行けば良いのだろう。ベストセラー予言者としてふんぞり返ってみればいいのか。
「先輩の買ってる本、あたしもいくつか買って読んでみたんです。そうしたらどれもけっこう面白くて。今まで守備範囲じゃなかった本も多くて、お勧めしていただいてよかったというか」
 いやまあ能動的に勧めたわけじゃないけどな。
 面白い本を見つける方法のひとつは、趣味の似た人間との情報交換である。ベストセラーの嗅覚(我ながら偉そうな言い方だ)もさることながら、僕と彼女は好みが似ていたということなんだろう。
 読書であれ何であれ、ともに語り合える人間を見つけるのはなかなか難しい。僕はこの体質上、はなから人と話すのは諦めていて、ネットの書評サイトにちょっと書き込むくらいだった。話を聞くと彼女もどうやら似たような状況だったそうだ。
 ようやく見つけた〝同志〟に感激して、先日とうとうバイト中にいきなり話しかけてしまった……ということらしい。
「あの、ですから先輩、これからお勧めの本があったら教えてくれませんか? ……いえバイトがどうのということじゃなくて、単純に、先輩の選ぶ本は外れがないので」
 そう言って女の子にきらきらとした目で見つめられれば、僕が否と言えるわけがなかった。
「僕でよければ、喜んで」
 むしろ大歓迎ですとも!

 その日から、僕と彼女はちょくちょくメールでやりとりするようになった。
 もちろん件の書店に行けばレジにいる彼女に会えるが、バイト中の彼女とお喋りするわけにはいかないので、その場は黙ってレジを打ってもらってすれ違うのみである。
 しかし店員が知り合いだとわかったとたん、品物を預けるときのあの気恥ずかしさはいったい何なのだろうか。彼女に言わせれば、「仕事ですし、もうエロ本を見るのも慣れましたよー」ということなのだが。
『先輩が買ってった本、あたしも帰り際に買ってきました。これから読みますね』
 世の女子大生というのは絵文字や顔文字だらけの解読不可能……いや芸術的なメールを送ってくるものだと思っていたが、彼女の文章はいたってシンプルなものだった。うちのオカンのメールは文字よりアイコンのほうが多いくらいだというのに。
『この間自分が読んだのは……』
 僕もぽちぽちとケータイに返事を打ち込む。かつて親指族にほど遠かった僕は、スマホでも相変わらずミスタイプをしまくるので短文であっても時間がかかる。
 今はSNSとかTwitterとか、不特定多数と話す手段はいくらでもあるし、そちらのほうが気軽ではあるが、メールはこの「僕のためだけに書いてくれている」感がたまらない。僕などは調子に乗っていくらでも長文を書いてしまいそうで、必死で推敲して削っている有様である(そしてまた返事が遅くなる)。
 うちの大学は田舎にあるせいか一人暮らしの学生が多く、いきおい同棲率もたいへん高いのだが、この地にあってなんという健全な女性とのやりとりだろうか。僕のこの紳士ぶりを見習え、毎日夜中に薄っぺらい壁の向こうで痴話喧嘩をかますアパートの隣人ども。
「さて、送信っと」
 たとえ僕がブックイーターではなく手紙を食べるレターイーターだったとしても、彼女とのこの短文のやりとりは食べずに取って置くだろう。まあデータは食べられないけど。

 僕は読書量においてはこの大学でもかなり上位ではないかと思うが、他の本の虫とはひとつ大きな違いがある。
 古今東西どのような読書人も本の置き場所には頭を抱えるものであり、ある大物作家は本の重量で床が抜けたときにはむしろ快哉を叫んだと言うが(ネット情報なので真偽は知らない)、僕のアパートの一室には本棚がない。大学で使う教科書やストックしておいた本が数冊あるくらいなので、汎用カラーボックスでじゅうぶん収まる量なのだ。
 理由はむろん、買ってきて一読したら食べてしまうからである。
 今まで人とあまり本の話をしたことのない僕は、これもたいして奇異なものだと思っておらず、彼女とメールしているうちに改めてそのことに気づかされた。
 いつもは新刊について話していることが多いのだが、ある日の夜、子供の頃に読んだ本の話題になった。きっかけは僕がロングセラーの絵本を一冊買ったことで、彼女が「昔それ読みましたよ」と返してきたのだ。
 それから彼女は小学校の図書館で読んだ本の思い出話なんかをしてくれた。ちなみに僕は子供の頃、親にきつく「図書館の本を食べてはいけない」と言い聞かされていたので、ほとんど図書館に行ったことがない。さすがに高校以降は調べ物のために出入りするようになったが、今でも空腹時に行くと精神力の鍛錬をする羽目になる。
 その後、話題はある推理小説に移った。数年前に中高生に人気のあったキャラ主体のミステリで、なぜかライトノベルではなく一般文庫から出ていた。だが世の中の栄枯盛衰の悲しさで、今はほとんどの書店で見かけない。
『あたし、今でも全巻持ってますよ。もう読み返したりはしないんですけど、捨てられなくて』
 普通の人はそうなんだろう。対して僕は同じ本を何度も読んだり、思い出として取っておくという経験がほとんどない。せいぜい学校指定の教科書くらいだ。
『僕はそのシリーズ読んだことがないんだ。そのうち読もうと思ってそのままになってる』
 同級生にファンが多かったので、ひねくれて流行にそっぽを向いていたというのが大きな理由だが。
『本屋で売ってるなら、今からでも読んでみたいんだけどね』
 話の流れで、ちょっとばかり彼女にリップサービス(?)のつもりで言ってみたところ、返ってきたのは予想外の言葉だった。
『だったら先輩、このシリーズ差し上げましょうか? 古くなってますけど、もしよろしければ』
 僕に彼女がプレゼント? 今の女子大生とはなんと大胆な。
 慌てて真意を確認してみると、彼女の本棚はもう満杯らしい。まあそうだろう、彼女は買った本を片っ端から食べられないし。
『読んでくれる人が貰ってくれれば、その方が良いかなって』
 それに対して僕が否と言えるはずがあろうか、いやない。
 たとえ本棚のスペース削減であろうと、彼女がその相手として僕を選んでくれたことが光栄だ。それに本を受け取るとき、もう一度彼女とカフェで会えるではないか。学内ですれ違えれば世間話くらいはするし、書店ではよくレジにいる彼女に出くわすが、それとこれとは違うのだ。
 何も今すぐ、今日も今日とて殴り合いをしている隣の家のカップルのようになりたいわけではない。ただいつかはカフェではなく僕の家でお茶が飲めるくらいの仲にはなりたいなあ、と思ってもいいではないか。いいではないか!
 というわけで、僕の返事はひとつしかなかった。
『喜んで。この前と同じ、図書館前のカフェでいいかな?』
 そして数分後に返ってきた『了解』のメールを見たとき、僕は心の底から、この特異体質でよかったと思った。

     ***

「腹減った……」
 アパートの扉を開けたとたん、ふわりと甘い香りが部屋の中から漂ってきた。
 僕はふらふらとした足取りで部屋に入り、床にごろりと横たわる。今日はゼミでさんざん絞られたのだ。だいたいうちの指導教官、放任主義の癖に学生への要求が多すぎるんだよ。
 おかげで夕食(つまり本)を買いに行く暇もなかった。コンビニなら開いてるから雑誌でも一冊調達してくるかな。
「あれは食べたらだめ……だめなんだ……」
 甘く香ばしく、それはそれは食欲をそそるそれは、この世に生を受けて二十年目にしてようやく我が家に導入された本棚に鎮座ましましている。
 約束通り、彼女はミステリ小説五冊を僕に譲ってくれた。数年前の本ながら状態は綺麗で、彼女が丁寧に扱っていたのがよくわかる。渡されたときもバースデープレゼントのようにリボンつきの可愛い袋に入っていた。
 僕はそれを見てそれはもう嬉しかったし、カフェでの会話も前より弾んで、次に会うときはもう〝デート〟だと言っていいのではないかと、そのくらいには今でも浮かれている。
 本とは情報源であり、思い出であり、しばしば読み返すためのものだ。もらった本は一度に読むのがもったいないので、ちびちび読み進めている。本自体の面白さと彼女のことと、ここ数日の寝る前の読書の時間は至福のひとときだ。
 しかし、しかしこの匂いなのだ。
 たぶん、部活帰りの高校生が立ち食いそば屋の前を通ったときはこんな気分になるのではないだろうか。今日みたいに疲労困憊でアパートに帰ってきたときにはなおさら堪える。
 あれから僕の部屋には本棚と本がだいぶ増えた。いつか彼女をこの部屋に招いたとき、少しでも不審がられないためだ。「実は本なんて読んでないじゃないですか」とか言われたくないし。
 でも、これでは家にいながらにして書店にいるような匂いと気分になってしまう。世の中の料理人はよく一日食材に埋もれていられるよな。もしかして、だから冷蔵庫にはどれもごついドアが付いてるのか。
 まさか〝普通〟の本好きとしてのライフスタイルがこんなに辛いものだとは思わなかった……。
「……ううう」
 とにかくコンビニに行こう、でないと死ぬ、そう思ってよろよろと立ち上がったところで、ケータイが着信音を発した。
 メールは彼女からだった。内容はいつも通り本のことが多いが、その中に世間話やちょっとした思い出が混ざっている。彼女が本のこと以外の、彼女自身について話してくれるようになったのが何よりも嬉しい。
 まずはこれに返事をしなければならない。コンビニで夕食? そんなものはその後だ。
 僕はなかば意識がもうろうとしながらも、ぴこぴことおぼつかない手つきで文章を打ち込んでいく。
 甘く美味そうな匂いが横からまた立ち上ってきて、ぐるるる、と腹の虫の鳴る音がした。

目次に戻る

Copyright 2001-2014 Miyako FUJIHARU All Rights Reserved.
Powered by WordPress / Original Design: Template World