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夢の誘惑

 乾いた風だ、と思った。
 故郷のものとは違う、湿度を含まないさらりとした空気。春のやわらかな日射しが降りそそぎ、足元の草花を若緑に輝かせている。周囲は低い木がまばらに生えるばかりの野原で、視界を遮るものはほとんどなく、空を見上げればそこまで一息に駆け上がることもできそうな気がした。
 男は視界を地平線まで引き戻し、目を細めて遠くを見つめた。なだらかな丘陵の緑の中にぽつぽつと羊の白が抜け、そして羊飼いの姿がある。その向こうにはけぶるような小さな灰色が見えた。
 それが街の城壁の色だと、男は知っている。
「——さて。あの街には何があるかな」
 唇の端を歪めて満足げに笑い、男はふたたび歩き出した。

 ヴィランスという街はとどのつまり、田舎だった。
 よその街にあるようなものはだいたい揃っているが、近隣に見あたらないものはやはり見当たらない。近くに丘陵があり牧羊が盛んなので、街ではそれを用いた羊毛加工品を多く生産しているが、それもさして珍しいものとは言えない。大聖堂への巡礼路にあたるため宿屋が多いことが特徴といえば特徴だが、最近は教会の権力も下降気味で、わざわざ巡礼に訪れる人間も少ないというのが実情だ。
 城門を抜けて街中に入れば、灰褐色の石を積み上げた建物が並んでいる。屋根の色はどれも赤く統一されているが、高さはまちまちだ。大通りに並ぶ建物はいずれも家業をあらわす紋章とともに青や緑の色鮮やかな看板をひさしの先に掲げており、住宅街に続く路地を覗き込むと、どの家も窓に切り花を飾っているのが見える。
 並ぶのはパン屋、肉屋、金物屋、と生活に密着したもの、そして羊毛を扱う店が多い。羽振りの良さをうかがわせる立派な店構えでありながら通りかかる人間にどこか冷たい視線を向けられているのは、三つの玉をあしらった質屋の看板だ。
 そんな街の一角に、一軒の宿屋がある。
「う……うむ」
 そこの日当たりのいい一室で、男はおもむろに身体を起こした。
 男は自分の置かれた状況が理解できず、しばし日光の眩しさに目を瞬かせたり首を傾げたりした。しかしほどなくしてどこか室内であるということを理解し、のそのそとベッドから降りる。自分の手荷物もすぐ側に置かれていることを確認しそれらを手に取ったところで、がちゃりと扉が開いた。
「おお、目が覚めたね? よかった、元気そうだな」
 入ってきたのはこの宿屋の主人であろう。少々出っ張った腹を揺らし、下がりがちの目尻と柔らかな声音はいかにも人の良さそうな印象を与える。いや、実際にその通りなのだろうと男は思った。
「いやあ、びっくりしたよ。いきなりうちの前に倒れてるんだからさ、いったい何があったのかと。まさか家の前で死なれてたら困るからねえ。よかったよかった」
「いや、かたじけない。兵糧丸が尽きてしまいましてな、飲まず食わずのままようやくこの街に辿り着いたはいいものの、もはや身動きも取れずじまい」
 はっはっは、と男はぺちっと自分の頭を叩いて笑ってみせる。その仕草が気に入ったのか、主人は腹を揺すって大笑いした。そうこうするうちに廊下から足音がする。
「お父さん、そこで倒れてた人、気がついたの?」
 入ってきたのは二十歳前後と見える少女だった。華奢な身体を質素な麻の衣服に包み、労働者の常で髪は短く切っている。子供のようなくりくりとした大きな青い瞳が男を見つめた。
「ああ、エステル。山羊の乳を持ってきてくれたんだな、ちょうどよかった」
 主人はエステルと呼ばれた娘からカップを受け取り、男に差し出した。
「山羊の乳に生姜と蜂蜜を入れたものだよ。体力がないときはこれに限る」
「本当にかたじけない。いただきます」
 男はカップを受け取り、一口すする。山羊の乳はいかにも動物くさく、甘い味がした。
「ところであんた、どこから来なさったんだね? 見たところ、ずいぶんと変わった格好をしていらっしゃるが……」
 主人は男をじろじろと見つめた。
 男が身にまとうのは黒一色の丈の長い服だった。教会の神父の僧服に似ていなくもないが、やけに袖の幅が広く、大きな布を身体に巻き付けているようでもある。その上には芥子色の服とも飾りともつかない幅広の布。履いているのも旅行用のブーツではなく、見慣れぬ形の靴だった。ベッドの側には手荷物の入った鞄のほかいくつか金属環のついたおかしな形の杖がある。
 エステルがじっと見つめたのは男の頭だった。貴族のように長く伸ばすでもなく、農夫たちのようなぼさぼさ頭でもなく。髪はすべてつるりと剃られ、地肌が輝いていた。
「ああ、これは袈裟というのだが、貴殿たちは見慣れぬかもしれぬな。拙僧ははるか東の異国から、修行のため、旅をしてまいった」
 いくらか神妙な口ぶりで男は語った。
「拙僧は仁鏡にんきょうと申す。仏の道を究めるため、遠くこの国まで流れてきたのであるよ」
「……ホトケ?」
 主人とエステルは、鸚鵡返しにその言葉を聞き返した。

「あんた、本当に羊の肉を食わないのかい」
「うむ。仏道に入った者は生臭を口にするわけにはいかぬのでな」
「この街に来た奴らはたいてい羊の肉をたらふく食うってのに。こっちとしては、あんたが飲み食いしてくれなきゃ商売あがったりだよ」
 そう言いつつも主人はからからと笑った。
 仁鏡が寝ていたのは宿屋の二階だったようだ。一階は食堂兼酒場となっており、日が暮れると同時に労働を終えた街の男たちが一夜を騒ぎにやってきた。数人は早くもできあがり、赤ら顔でビールジョッキを手に歓談、というより馬鹿騒ぎをしている。これは毎日の光景なのか、主人は酔っぱらいたちに声をかけつつつまみを作ってやっている。
 それを横目で眺めながら仁鏡も夕食を食べていた。ただし目の前に並ぶのはもっぱら茹でた芋とサラダである。芋はこの地方の特産だという品種で、バターとかいう脂を乗せて食べるとほくほくとして美味い。
 巡礼の時期ではないので、今この街の客人は仁鏡ひとりだ。街の男たちも最初はしきりに仁鏡に話しかけてきて、特に彼の異国の装束や持ち物について何かと尋ねてきたのだが、仁鏡が肉を食わず酒も飲まないと知って興味を失ったようだった。そのため仁鏡はぽつんと隅の席で食事をしている。
「いやあ、俺もいちどお目にかかりたいもんだな、その麗しのサキュバスに!」
「やめとけやめとけ、お前じゃ一発で終わりだろうが!」
 何かおかしなことでも言ったか、げらげらと男たちの笑い声が響く。しゃくしゃくとサラダを囓りつつ、仁鏡は男たちを眺めた。
「……ふむ」
 と、そこでがちゃりと厨房から食堂に続く扉が開き、エステルが店内に入ってきた。家の手伝いかと思ったが、エステルはビールジョッキのひとつを運ぶでもなくずかずかと居並ぶ男たちのひとりに歩み寄った。
「ここにいたのね、ジーク!」
「え……エステル」
 ジークと呼ばれた男は思わず後ずさった。まだ若くがっちりとした体格の、いかにも人の良さそうな青年である。が、エステルはそれを逃がさずとうとう壁際まで追い詰めた。
「ずっとあたしから逃げ回って。今日こそは話を聞いてもらうわよ!」
「……いや、それは、あの」
 見るからに男女の修羅場といった風情である。唐突に始まった痴話喧嘩に、だいぶ酒の入った男たちはやんやと囃し立てた。どうやら男たちは二人の間柄を知っているようで、ジークを罵倒するエステルに喝采が浴びせられる。仁鏡はそのうちのひとりに近寄って話しかけた。
「あのエステル殿と青年はどういった関係なのですかな?」
「あ……ああ、エステルとジークは婚約してるんだよ。この夏には結婚する予定なんだが、あの様子だと何かあったのかな」
 尋ねられた男は気軽に教えてくれた。仁鏡はふむ、と顎に手をやる。
「最近になっていきなり冷たくなったじゃない! あたしが何をしたっていうの……」
「いや、お前のせいじゃないんだ。……その」
 ジークはおろおろと言い訳するばかりである。そこに、「情けねえなあ!」「男なら女をぎゃふんと言わせてやれ!」という無責任な野次が飛ぶ。
「ええと、その。……サキュバスが」
「——さきゅばす?」
 ジークの言葉に仁鏡は眉をひそめ、ふたたび近くにいた男に問いかけた。
「そのさきゅばすとはいかなる存在なのですかな?」
「あんた、サキュバスを知らんのか。いくらよそから来たからって」
 男は呆れた顔をしつつも、ふたたび解説してくれた。
夢魔サキュバスとは、女の姿をした、睡眠中の男を襲い精を奪う魔物のことである。獲物を誘惑して性行為に持ち込むため、獲物の思い人の姿を借りて獲物の前に姿を現すという。男の姿をして女を誘惑する魔物もおり、こちらはインキュバスと呼ばれ、両者は同一の存在であるとも言われる。
「ふむ、なんとも面妖な物の怪よ。して、それがどうしてあの青年のところに?」
 男によると、最近この街ではサキュバスの被害が続出しているのだという。被害者はいずれも若い男、眠っているととてつもない美女が現れて誘惑してくる。
「だが、どうもサキュバスとも言えん感じでな。確かにそいつは色仕掛けしてくるんだが、肝心な方はさっぱりやらないって言うんだな。表向きは被害はないってことになっちゃいるが、こっちだけさんざん盛り上げておいて逃げ帰っちまうなんざ、ある意味で被害甚大、本物のサキュバスより質が悪いがよあ」
 下世話なことを想像したか、男はげらげらと笑った。サキュバスの被害が問題になりながら今まで放置されているのも、どうもそれが理由らしい。
「ふむ」
 仁鏡は首を小さく傾げ、しばし顎に手を当てて考え込んだ。やがて顔を上げ、
「よかろう。そのさきゅばすとかいう物の怪、拙僧が退治して進ぜよう」
 男たち、エステルやジークまでもが思わず仁鏡に注目した。騒がしかった食堂が一瞬にしてしんと静まりかえる。
「拙僧は悪霊退治にもいささか心得があり申す。この街で一宿一飯を得た礼はせねばならぬ」
 仁鏡の声は食堂に不思議とよく響いた。一同は顔を見合わせてしばし考え込んだようだったが、
「お願いします」
 真っ先に顔を上げたのはエステルだった。仁鏡の正面から彼を見つめる。
「男を誘惑する魔物をこの街から追い払ってください。……人の男を寝取る奴なんざ、魔物だろうとなんだろうとぶちのめしてやればいいのよ」
 言葉の後半部分においては、少々目つきが危うかったが。仁鏡はひとつ大きく頷き、
「では、ジーク殿。そのさきゅばすとやらの居場所に案内していただこう」
 ふたたび朗々たる声で言った。

 仁鏡の立てた作戦は単純なものだった。
 ジークの寝室に仁鏡が潜み、サキュバスが現れるのを待つというものだ。
 寝室は小さな棚とベッドが置かれている程度の狭い部屋だった。仁鏡は身体を丸めて戸棚の陰に身を隠しているが、どうにも袈裟の裾がはみ出ている。
「……あなたがそこにいるの、サキュバスにばれませんかね」
「拙僧は多少、気配を殺す心得もあり申す。心配無用」
「……はあ」
 ジークはなんとも居心地が悪そうに、もぞもぞと藁を詰めたベッドに潜り込んだ。ほどなくしていびき混じりの寝息が漏れ始める。
 仁鏡はじっと息を潜め、時間が過ぎるのを待った。犬の遠吠えが何度か聞こえ、ゆっくりと窓から見える星々も移り変わっていく。そして誰もが寝静まった深夜。
「あ、こ、こんばんはー……」
 唐突に、それは現れた。
 窓に面した出窓がぎい、と開いた。この寝室は二階にあるはずなのに、軽々と窓を乗り越えて入ってきた人影がある。妙に舌っ足らずな女の声。かすかな月明かりに照らされ、人影はごそごそとジークの枕元に両手をついた。
「あ、あの、精をいただきますねー。……えい、今夜こそっ!」
 修行を積んでいる仁鏡は、人影から邪な気配が発せられたのを感じた。とたん、ジークの寝息が寝苦しそうなものに変わる。呻くような声、荒い息。女のような悩ましげな声も漏れた。
「あ、うーん……リーラ」
 そのとき、仁鏡は隠し持っていたランプに灯りを入れた。闇に満たされていた部屋が一転、光に照らし出される。
「うーん……」
「きゃ、きゃあああっ!?」
 人影——いや、サキュバスはびくりと身体を跳ね上がらせた。
「男の欲望に付け入り、精を奪う面妖な物の怪よ! 今ここに退治してくれるわ!」
「きゃ、ちょ、ちょっとなんなんですかこれっ!?」
「問答無用! おとなしくそこに直れ!」
 がん! と仁鏡は手にした錫杖の先端を床に打ち付けた。「ひいっ」とサキュバスが小さく悲鳴を上げ、身を縮こまらせる。ようやくジークも物音によってか目を覚まし、目の前のサキュバスに気付いて目を見開き、口をぱくぱくとさせた。
「ええー……なんなんですかこれぇ。こんなの聞いてないですよう」
 サキュバスは両の拳を口元に当て、うるうると大きな瞳を潤ませていた。波打つ金髪に大きな蒼の瞳、衣服とも言えない身体に巻き付けた白い布のはしばしから滑らかな白い肌が覗く。まだ少女というべき顔立ちと体格で身体は細く華奢だったが、ちらりと見える胸と尻はたっぷりとした重みをもっていた。
 街を歩けば誰もが振り返りそうな見目麗しい少女だった。だが背中から生えた蝙蝠のような黒い翼が、それが人ならざる存在であることを物語っている。
「夢枕に立ち男を誘惑する物の怪よ。今ここに成仏させてくれるわ!」
「あ……リーラ」
 呟きはジークのものだった。仁鏡は眉をひそめる。
「物の怪よ。何者だ、そのリーラというのは」
「知りませんよぅ。あたしはただ、この人が頭の中で考えてる人の格好をしてるだけですから」
 ぎろりと仁鏡に睨み付けられたジークは、毛布をかぶって視線を逸らした。
「ジーク殿。貴殿はエステル殿と結婚の約束をしていると聞いていたが」
「そ、そうです……」
「このさきゅばすとやらは、男の思い人の姿で現れると聞いた。ならばなぜ、この物の怪はエステル殿の姿をしておらぬのだ?」
「それは……その」
「それはたぶん、その人が二股かけてるからですぅ」
 ぴっと指を立てて言ったのは、リーラという少女の姿をしたサキュバスだった。
「エステルって人のことも考えているみたいでしたけどぉ、リーラさんのほうが実は好きみたいですねー。ほら、胸とかあ」
 ぽよん、と自分の胸を下から持ち上げて揺らしてみせる。それをまともに見てしまったジークはたまらずに顔を真っ赤にして顔を逸らした。
 仁鏡はそれを黙って聞いていた。ややあって、くわっとその目が大きく見開かれる。
「この馬鹿者がっ!」
 がん! とふたたび錫杖が打ち付けられた。サキュバスとジークが揃ってびくりと身体を震わせる。
「エステル殿という立派な女性と思いを通わせながら、別の女性に欲目を使うなどもってのほか! これはまさしく煩悩、いや、渇愛としか言いようがない!」
「は、はい」
「よいか、人間は誰しもが欲望を持っておる。食欲、睡眠欲、そうしたものを失えば人は生きてはいけぬ。欲望のすべてを捨て去れとは仏も申しておらん。だが、満足という心を失ったとき、塩水を飲むがごとく、人は貪欲となってしまう。これが煩悩だ」
 サキュバスとジークは揃ってこくこくと首を縦に振った。
「万の物を貪る心を持てば、それは瞋恚しんにからに至り、万物の道理にくらくなり、他人の言葉にも耳も傾けぬようになってしまう。これでは他人も自分も不幸になる」
 二人、いや一人と一匹は黙って説教を聞き続けることしかできない。
「貴殿は昨日、後ろめたさからエステル殿と相対することができなかった。本当は自分も気付いていたのであろう。エステル殿のみを見ることができない自分を。だからこのような物の怪に隙を見せ、付け入られたのだ。何があっても俺の嫁は一人に絞るべきである」
「は……はい。その通りです」
 がくりとジークは首を垂れた。
「よいか、肝要なのは自分の身の程を知ることだ。エステル殿は貴殿を幸せにしてくれる娘御だ。彼女を大切にせよ。それが貴殿の道である」
「はい……僕が間違っていました、エステルという女性がありながら、リーラの胸にばかり視線がいくなんて。これからはエステルの胸だけを愛します」
「うむ。ゆめゆめその心構えを忘れるでないぞ。まずはエステル殿に謝罪することだ」
「はい!」
 ジークはぱっと顔を上げ、そして今すぐ婚約者に会うべく部屋から駆け出していった。
「あー……あああ。今日の獲物さんがぁ」
 話から置いて行かれたサキュバスが情けない声を上げる。それを仁鏡はぎろりと睨んで黙らせた。
「黙れ、物の怪よ。人の心の弱さにつけ込み、男の精を奪うなどもってのほか。ここで拙僧が成敗してくれるわ!」
 仁鏡がじゃらりと音をさせて錫杖を振り上げる。経文を唱えようとしたところで、
「え、ちょっと待ってくださいよう。それがあたしたちの……えーん、お兄さんも男ですよねっ。なら、こうして言うことを聞いてもらいますっ!」
 サキュバスが大きく両手を振る。次の瞬間、甘い匂いと淡い桃色の光が仁鏡の周囲に散らばった。

「……はっ。ここは、どこだ」
 仁鏡ははっと我に返り、周囲を見回した。
 目の前には、色とりどりの光の粒が舞う極彩色の風景が広がっていた。馥郁たる香りがただよい、どこからともなく雅楽の音も聞こえる。足を踏みしめているという感覚もなく、どうやら自分はこの不思議な空間に浮いているらしい。
 しかし、自分はジークの寝室にいたのではなかったか。石造りの粗末な建物とこのきらびやかな光景はあまりに違いすぎる。額に皺を寄せながら仁鏡は目の前を凝視した。
「もしや、ここが涅槃ねはんというものか……」
 呻く。と、しゃん、という涼やかな鈴の音が聞こえた。思わずそちらに顔を向けたところで、仁鏡は目を見開いた。
 仁鏡の目の前に、ゆったりと彼女は舞い降りてきた。何色もの鮮やかな布を用いた衣服の裾をひらりと翻し、たっぷりとした黒髪を背に流し、頭に大きな金の冠を戴いている。彼女はうっすらと目を開け仁鏡に向かって微笑んで見せた。
 ふっくらとした頬に切れ長の目、小さな唇。そして眉間に記された小さな印。
「あ、あなたは……」
 仁鏡は呆然と立ち尽くした。その間にも彼女はゆっくりと近づいてきて、仁鏡に手を伸ばす。
「あなたは、わしの吉祥天たん!」
 仁鏡の目の前に現れたのは、吉祥天だった。何度も仏像や掛け軸で見たままの姿、いや、それ以上に気高く美しい。吉祥天がふと動くたびに光の粒子が新たに生じるようで、光の粒と戯れるその姿に仁鏡は刮目することしかできない。
「こ、これは夢なのか……。思い描いて幾星霜、あれほど夢に見ても、わしは紙に描かれた二次元の世界には行くことができず、吉祥天たんには会えなかった。だが、今こうして彼女が目の前にいる。この姿を見ることができる」
 ふらりと仁鏡は吉祥天に手を伸ばした。それを吉祥天はふわりと笑って受け止める。
「いいのよ、いいの。あなたの夢はかなったの。だから、あたしに身を任せて……」
 甘い囁き声が耳元で聞こえる。仁鏡が目を閉じると、柔らかくその身体が包まれた気がした。それは吉祥天の腕であり、しっとりとした肉感的な感触がある。
「だから、あたしにあなたの精をちょうだ……えーと、精を……その……」
 もごもごと吉祥天は口ごもった。まだうっとりと夢見心地の仁鏡はそれに気付かないが。
「ああ、吉祥天たん……」
「あああ、やっぱり駄目ええええぇ——っ!」
 瞬間、光の世界は消失した。

「……はっ」
 ふたたび仁鏡は我に返った。思わず自分の身体をべたべたと触ってみるが、いつも通りの袈裟を着ており錫杖も手にしている。足元にもしっかりと石床の感触があった。
 気がつけば、仁鏡がいるのは先程までのジークの寝室だった。ランプの明かりに照らされ、灯心が燃えるじじ、という小さな音が聞こえてくる。
「わしはいったい……」
 ふと前を見ると、そこには少女の姿があった。流れるような黒い髪に白い肌をあられもなく晒した拘束衣のような黒い革の服。目鼻立ちのくっきりした、先程のリーラなど及びも付かないような美しい少女だった。そして背中には蝙蝠の黒い翼。
 少女はなぜか頬を真っ赤にして仁鏡から顔を背けていた。
「お主は……そうか。貴様が先程のあの物の怪だな」
 仁鏡ははっとして錫杖を握った。先程までサキュバスはリーラという少女の姿を模していたが、ジークがいなくなってその必要がなくなったのだろう。となれば、これがサキュバス本来の姿か。
「あうあう……やっぱりあたし、駄目サキュバスなんでうぅ……」
 サキュバスはうるうると目に涙を浮かべていた。力ずくで成仏させてやろうと思った仁鏡だが、その姿を見て気合いを削がれ、眉をひそめて問いかける。
「なぜ、お主は駄目さきゅばすなのだ」
「あたし、どうしても男の人とそういうことをするっていうのが苦手なんですう。だって恥ずかしくて恥ずかしくて。あれができなきゃ立派なサキュバスにはなれないって言われて、がんばって挑戦してみるんですけど、どうしてもぎりぎりのところで止まっちゃうんですー!」
 わーんとサキュバスは泣き出した。がりがりと仁鏡は頭を掻く。どうりで先程、いきなりサキュバスの誘惑が中断されたわけである。自分が物の怪の術中にはまりかけていたなど考えるだに腹立たしいが。
「つまりお主は、男と通じるのを恥じらっていると」
「そんなあからさまに言わないでくださいよう! そんな恥ずかしいこと、できるわけがないじゃないですかぁっ!」
 ますます泣き出すサキュバスである。仁鏡はつかつかとその前に歩み寄り、
「なるほど、今時珍しいほど身持ちの堅い娘御であるな! 昨今は男も女もむやみに淫行にふける者が多い中、見上げた心の持ち主よ!」
 がしっとその肩に手を置いた。と、サキュバスは「きゃっ」と小さく悲鳴を上げて身をよじり、逃げ出してしまう。
「えーん、こんな駄目駄目サキュバスだから、ろくに精も吸えないままでここで死んでしまうのね……。ごめんなさいお母さん、この不肖の娘は先に地獄に行きます……」
「お主が死ぬ? なぜだ」
「だってお兄さん、あたしを退治しに来たんじゃないんですか? あたし、男の人の精を吸ってないからほとんど力もないんですよぅ」
「なんだ、そのことか」
 はっはっは、と仁鏡は笑った。
「お主がみだりに男の精を奪うのであれば容赦なく成敗してやるつもりでいたがな。だがお主は結局、男の精を奪ったことはないのであろう? ならば問題ない」
「……そ、そうなんですか?」
「そういうものだ。仏の道にある者、罪を憎んで人を憎まぬのだ」
 サキュバスはかっかっかと笑う仁鏡をしばしぽかんとして眺めた。それから、気が抜けたのかだらりと身体から力が抜け、床にへたり込む。
「そういえばお主の名を聞いておらなんだな。何という名だ?」
「あ……アリエッタ」
「そうか、よい名だ。拙僧は仁鏡と申す」
 仁鏡はアリエッタに手を伸ばし、彼女をふたたび立たせてやった。
「去れ、アリエッタよ。その清い心のまま生きてゆけ。ゆめ、この街に近寄るでないぞ」
「はい。……その、あたしの力が必要になったらいつでも呼んでくださいねぇ。悪魔は、自分の名前を知る者には絶対に従いますから」
「はは、それは良い! 拙僧は期せずして異国の物の怪を従えたのだな」
 ばさりとアリエッタは背中の翼を広げた。窓を開け、暁の赤に染まりつつある空に飛び立とうとする。
「では、またお会いしましょう。神父さん」
「神父ではない。拙僧のことはお坊さんと呼んでくれ」
 そして、アリエッタは濃紺の夜空に消えていった。

「神父……ええと、お坊様、本当にありがとうございました。ジークも心を入れ替えてあたしと結婚すると言ってくれました」
「うむ。夫とふたり、幸せに暮らすのだぞ」
 その翌々日、エステルをはじめとした街の住人たちに見送られ、仁鏡もまた街を旅立とうとしていた。仁鏡の荷物にはエステルと宿屋の主人が作った保存食がたっぷり詰められている。
「……あの、本当にサキュバスはいなくなったんでしょうか?」
「うむ。もうこの街に現れることはないだろう。安心して暮らすがよろしい」
「そうですか……」
 尋ねてきた中年の男はどこか残念そうだった。だが仁鏡はそれを気にせず、
「では、そろそろ参るとしよう。さらば」
「どうか、道中ご無事で!」
 エステルの声を背中で受けながら、仁鏡はヴィランスの街に背を向けた。城門を抜け、もう一度城壁を見上げる。街を覆うこの頑丈な石壁は、故郷にはなかったものだとふと思い出す。
「さても遠くまで来たものよ。そして……」
 仁鏡は編み上げ笠の下から空を見上げた。今日も空は青く、ぽつぽつと白い雲が見える。まるで空で羊を飼っているかのようだ、という形容をこの土地に来てから覚えた。
「どういう場所なのかな。大聖堂、というのは」
 呟く。そして、仁鏡は力強い足取りで歩き出した。

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