06.ミラー・メイズ
ラウラが思わず引きつった顔をした。ダレットが恐る恐る近づき、目の前でひらひらと手を振ってみるが何の反応もなし。
朝食の時間。ジェラルドはぼーっと皿にスプーンを突っ込み、スープを掻き回していた。もう、かれこれ五分もこの動作を繰り返している。
「もしもーし、兄さん?」
ダレットが声をかけてみる。目の前でぱん、と手を叩くと、ジェラルドはようやく顔を上げ、弟の方を向いた。
その貌がまた凄まじい。目は充血して真っ赤になっているし、下にはきっちり隈ができている。頬は心なしかこけ、急に痩せ細ったような気がした。元々痩せていたため、余計にその姿は痛々しい。
「いやー、凄いわねー」
その横で、健康そのものと言った様子でパンを囓りながら、野次馬よろしくマリアテーゼが言った。彼女は兄の異常など知らぬげに、一人でぱくぱくと食事をとっている。
「薄情者……」
ラウラが思わず呟いた。マリアテーゼはふん、と鼻を鳴らす。
「別に。兄貴が勝手に失態やらかして一人で落ち込んでるだけじゃない。わたしまで一緒に落ち込んであげる義理なんてないし」
「……その割にはあれこれ口出ししてるじゃないか」
横からぼそりと突っ込んだダレットは、次の瞬間、マリアテーゼに頭を殴られた。
「いたっ……」
いくら剣術の修業に明け暮れていようと、殴られれば痛い。今の一撃は的確に急所を狙っており、ダレットは目尻に涙を溜めて頭を抱えた。その様子に、ジェラルドが露骨に顔をしかめる。
「食事中だ。静かにしろといつも言っている……」
いつも通りに説教を始める。が、どうにも覇気がない。いつもの半分の時間で切り上げると、ふらふらと食堂を出ていってしまった。
「……あ」
ジェラルドがよろめき、壁に頭をぶつけたのを見て、ラウラが小さな呟きを漏らす。
「うーん、見てる分にはあれでも楽しいんだけどねー」
好物の卵をフォークでいじくり回しながらマリアテーゼが言う。
「けどまあ、あれが続くとさすがに精神衛生上問題がありそうだし、何より城で大バカやられたらこっちにも被害が来かねないし……」
一人でぶつぶつ言っている。
「しゃあないか」
むしろ自分を納得させるようにマリアテーゼは呟いた。
いつもの貴族娘の服ではなく、街を歩いている人間のような格好をして、マリアテーゼは大通りの店の中の一つにいた。屋敷を抜け出して街に遊びに行くような真似はよくやるので、手際は手慣れたものだ。
彼女の前には初老の男が座っている。ラティン家の執事、グラディスだ。こちらはいつも通りの黒いスーツだった。若い娘と執事が向き合って座っている姿はかなり異様で、通りかかる人間が一様に首を傾げていたが、本人たちは気にしていなかった。
「クレイン・グラディスです。改めて名乗るのもおかしな話ですが」
グラディスは言って苦笑する。マリアテーゼもにっと笑った。
「それで……どーもうちの兄が、色々とバカな真似をやらかしまして、そちらにはそりゃあもう絶大なご迷惑を……。失礼ですが、エリファーナさ……ラティン女伯爵様はどうなってますか? ……相当参ってますよね、やっぱり」
マリアテーゼは自分に自分に突っ込みを入れつつ喋る。先日のエリファーナの様子を見ていれば、彼女が相当精神的に消耗していることは分かる。ダレットを見ただけで脅えたくらいだ。
「そうですな。求婚の一言がとどめでしたな」
グラディスは皮肉っぽく言って肩をすくめた。
「やっぱし……」
「まあ、コルフォース卿だけが原因でもないのですが。
主家の恥をさらすようなことはあまり言いたくありませんが……どうせご存じでしょうから、素直に申し上げます。
ラティン伯爵家の落ちぶれようは見ればお分かりでしょう。使用人は私と昔からいる者が数人のみ、屋敷の手入れも手が回らない状態でしてな。伯爵としての俸禄は受け取っておりますが、それは返済に回ってしまい、手元にはほとんど残らない」
グラディスはため息をついた。予想していたこととは言え、当事者の口から改めて聞かされると現実味がある。
「そんな状態でたった一人残されただけでも辛いのに、お嬢様のお母上が……その、また問題のある方でしてな。非常にお美しい方ではあったのですが、どうにも自分の利益にしか目がいかないような女性でして……小さなお嬢様を置いて、ある日姿を消されてしまいました。屋敷の使用人が一人いなくなっておりましたから、駆け落ちとでもいうのが正解でしょうな。お嬢様にしてみれば、母親に捨てられたも同然です。
それ以降、先代の当主……父上の方も荒まれてしまわれました。結果はご存じの通りです。
そんな環境ですから……頑なに心を閉ざしてしまい、誰も信用しなくなってしまっても、仕方のないことではあります。屋敷からもほとんどお出になりませんし……出かけるような場所もありませんが……、何をするわけでもない。聡明な方ですので、せいぜいが本を読む程度です」
マリアテーゼも母は随分昔に亡くなったが、父は変わらずにいて、兄弟もいた。たった一人きりの孤独というのは想像するしかないが……一体どれほどのものなのだろうか。
「で、そこに借金を盾にレンディールは迫ってくる、兄貴には襲われそうになる……、と。何だか自殺しないだけ上出来のような気が……」
「……私もそう思います」
二人は揃ってため息をついた。
「最近は特にふさぎ込まれたままでしてな、食事も喉を通らないご様子で。……その、何かおかしな真似をさせるわけにはいきませんから、私も目が離せなくて。落ち着かせてようやく今も抜け出してきたようなもので……」
グラディスの顔に、苦労めいた色が混じる。
「今更申し上げても仕方がありませんが、コルフォース卿はどうしてあのような真似をなさったのか、と恨み言の一つでも言いたくなります」
「兄貴の前で百回くらいなら言ってもばちは当たらないですよ、それ」
マリアテーゼが苦笑する。
「ただそうすると兄貴も自殺しかねないし……
不躾なことをお聞きしますが、エリファーナさんに恋人のような人間がいたことってあるんですか?」
「いえ」
マリアテーゼの質問に、グラディスは首を横に振る。
「見ての通りお嬢様もお美しい方ですから、声をかけてくる方がいなかったわけではないのですが。見知らぬ人間は徹底的に拒絶してしまいまして、そういったことはあまり……。落ちぶれたラティン家に近づこうとする人間もほとんどおりませんし、誰かの愛妾になるような真似は伯爵位が許さない」
「それはそうでしょうね……」
マリアテーゼも呟いた。
「まあ、事情も何も知らない者が見ればこう思うのでしょうな。素直にコルフォース卿の求婚を受け入れればいいのだ、と」
確かに、エリファーナの意思さえ無視すれば、それが一番の解決策なのだ。だがグラディスはそんなことは望まないし、今度こそエリファーナの心が壊れてしまう可能性もある。
「…………」
事態の深刻さに、二人は揃って頭を抱えた。だがこのまま放っておいても、ジェラルドは憔悴する一方だろうし、エリファーナにとっても何の解決にもならない。
「……あの」
しばらく考えた後、マリアテーゼは意を決したように頭を上げた。
「無茶を言っているとは思います。……けれど、一度だけわたしの案に乗っていただけないでしょうか?」
こう前置きして、マリアテーゼはグラディスに自分の考えを話し出す。内容はそう難しいものでもなかったが、グラディスは露骨に顔を引きつらせた。
姉が手招きしているのに気づき、ダレットは首を傾げてマリアテーゼの側に駆け寄った。
「何? マリア姉さん」
「あんた、兄貴がずっと今の状態じゃさすがにまずいと思うわよね?」
ダレットが近寄るなり、マリアテーゼは弟の胸倉を掴んで言った。ダレットは面食らいながらも、慌てたようにこくこくと頷く。
「だったら少し手伝いなさい。分かった?」
どすを効かせた声でマリアテーゼは言う。訳が分からなかったが、黒い炎を背後に背負ってでもいるような姉の迫力に、ダレットはまた頷いた。
「あ、ラウラ姉さん……」
後ろから近寄ってくるすぐ上の姉に、ダレットは声をかける。
「ラウラじゃ無理なのよ。ダレットじゃないと」
マリアテーゼが言う。ダレットとラウラは、揃って首を傾げた。
「何をやるつもりなの?」
ダレットではなく、ラウラがわくわくした顔で訊いてくる。マリアテーゼがざっと『案』を説明すると、ラウラは面白そうな顔で笑いだし、ダレットは困ったような顔をした。
「……良いの? それ」
自分の兄の為とは言え、少しばかり気が咎めるのか、ダレットが困ったように言う。
「良いのよ、この際手段を選んではいられないわ。……ま、賭けではあるんだけど」
マリアテーゼも肩をすくめる。
「けどまあ、わたしたちはお膳立てしてあげるだけ。一度だけね。後は本人たち次第。あのバカ兄貴とエリファーナの頑固さじゃあ、どうなるかは分からないけど」
はあ、とマリアテーゼがため息をついた。
目の前に現れた少年に、エリファーナは目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「……こんにちは」
ぺこりと軽く頭を下げたのはダレットだ。いつもの動きやすい簡素な服ではなく、貴族の子供らしい服を着ている。紅茶色を基調とした、派手ではないが上品な仕立てのものだ。
まだあどけなさを残した容貌のダレットには、しっくりくるとは言い難い代物だったが、美姫と言われた母譲りの顔に似合ってはいる。エリファーナは微笑した。
「……どうしたの?」
エリファーナが尋ねる。
「先日の無礼者がまたこの屋敷に押し掛けてはいまいかと。それから……その、珍しい本を手に入れたので、エリファーナ様にも見せて差し上げるようにと姉が」
適当にみつくろった古ぼけた本を手に、ダレットは必死に姉から吹き込まれた言葉を並べ立てる。二日間、徹夜で演技指導までされた。その成果が出ているかどうかは不明だが、とりあえず、今のところはエリファーナは信用してくれているようだ。
「そう言えば、あなたは強かったわね。この間は助かったわ」
言って軽く頭を撫でる。あのジェラルドにそっくりな容貌とは言え、まだ十を過ぎたばかりの少年に、エリファーナはとろけるような笑みを向ける。弟でもできた気分なのかもしれない。
内心だらだらと汗を流しながら、ダレットは必死にエリファーナに笑みを向ける。しばらく適当に談笑していたが、やがて、不意に立ち上がった。
「……グラディスさんのところに行って、お茶をもらってきます」
「ああ、良いのよ、わたしがやるわ」
「いえ、行かせて下さい」
やけに力を込めて言うと、エリファーナの返答を待たずにダレットは居間を後にする。これで、自分の役割は完了だ。
「はあ、はあ……」
一気に緊張が途切れる。壁にもたれかかり、ダレットは大きく息を吐いた。
「…………」
ジェラルドは小さく息を吐いた。そうして、一歩前に歩き出す。
この行動は、エリファーナを騙す以外の何者でもない。だが、もう後戻りは出来ない。大体が、いきなりマリアテーゼに連れてこられた先がラティン邸だったのだ。
ジェラルドがいきなりエリファーナの前に現れたら、まず間違いなく彼女は逃げてしまう。それを防ぐために……一瞬でもエリファーナを惑わせるためにマリアテーゼが考えた窮余の策が、容貌が似ているダレットと途中ですり替える事だったのだ。それを聞かされたのは、ラティン邸に着いてからである。拒絶している暇はなかった。
「まったく、あの妹は……」
呟く。頭が回るという点では信頼している妹だったが、自分が困っているのを見て面白がっているようにしか見えないことがある。今回がそうだ。
最近は特に気分が悪くなるようなことが多かったが、それを助長しているのがマリアテーゼのような気がする。何故だか、エリファーナ・ラティンの一件にやけに口を突っ込んでくるのだ。
ジェラルド本人は、自分の中の感情の正体になど気付いていないし――それが他の人間には非常に分かりやすいという事には、更に気付いていない。ただ、自分が急に痩せたな、と思っている程度だ。
マリアテーゼのお膳立てに従ったとして、問題……何が問題なのかもよく分かっていなかったが……が解決できるのかも分からない。手をこまねいているよりはましだろう、とジェラルドは自分に言い聞かせた。
グラディスから渡された小さな盆……ティーカップが二つ載っている……を手に、大きく深呼吸すると扉を開ける。
扉が音を立てて開く。茶を取りに行ったダレットが戻ってきたらしい。
「御免なさいね、折角来てくれたのにそんなことをさせてしまって……」
エリファーナは言いかけ……そして眉をひそめる。
「……誰?」
無意識のうちに言葉は滑り出た。
栗色の髪も、紅茶色を基調とした服も、先程の少年と同じだ。だが、背格好も違うようだし、何より身に纏っている雰囲気が違う。あのあどけない少年ではなくて、もっと冷たい何かを背負っている。
思わず身体を硬直させるエリファーナの前で、男はゆっくりと顔を上げる。
確かに、ダレットに似てはいた。……そのせいで、以前にダレットを怒鳴りつけてしまったほどだ。可愛いと思う少年に似てはいるけれど……一番見たくなかった顔。
「…………!」
きゅっと瞳孔が収縮する。半狂乱になって喚き散らしそうになるのを辛うじてこらえ、エリファーナはぐっと拳を握り締めた。
その、エリファーナの目の前。
自分をぎりっと睨み付けてくるエリファーナを見つめ、ジェラルドは小さく息を吐くと……再び視線を手にした盆に落とした。
