07.己の中の真実
考えてみれば、エリファーナの顔を見るのは久しぶりだ。何せ、以前にラティン邸を訪れて追い返されて以来である。それから今までに彼女とは色々あったものの、当事者同士が顔を合わせていないと言うのもおかしな話だ。
エリファーナの視線に耐えかね、視線を落としながら、ジェラルドはふとそんなことを考える。
「何だって……」
エリファーナが呆然と呟くのが聞こえた。
「何だってあなたがここにいるんです……」
言いかけて、はっと気付く。
あのダレットは間違いなくジェラルドの弟だし、ジェラルドの立場だったら、グラディスを丸め込むことも可能かもしれない。無理矢理この場に現れることは、目の前の青年だったら可能な芸当なのだ。
(――謀られた!)
ようやく真相を悟り、エリファーナは愕然とする。わずかに震えているエリファーナをよそに、ジェラルドは手にしていた盆を小さなテーブルに置いた。紅茶がほのかな湯気と芳香を立ち上らせる。
「――何の用があって、ここにいらしたのです?」
脅える様だけは見せるものか。必死に自分に言い聞かせ、エリファーナは叫ぶように言う。それでも、身体が震えているのは誤魔化せなかったが。
問われて、ジェラルドは答えに詰まった。いきなりマリアテーゼに連れてこられた、などと言っても彼女はまったく信じないだろう。
自分を蹴り出したときの、妹の言葉を思い出す。
『いい? 自分が今考えていることを、全部彼女の前で言ってきなさい。その上でどうなるかは兄貴と彼女の責任。分かった?』
まるで自分が姉であるかのように言ってくる妹に、ジェラルドは苦笑した。
――自分が今、心の中に抱え込んでいるもの。一体何だ、それは?
出口の見えない思考。エリファーナを前にしてもなお、答えが見えない。
黙ったまま、小さいときから叩き込まれた作法に従い、エリファーナが座ったのを見て取ってから自分も席に着く。カップを手に取ると、ぼんやりと紅茶の表面を見つめた。わずかに波紋が見える。
黙したままのジェラルドに、エリファーナは苛立ったようだった。
「何をしにここにいらしたのです? 自分の弟を使ってまで。『婚約者』の顔を見にいらしたのですか、それともわたくしが慌てる様でも笑いに来たのですか?」
エリファーナの方も、混乱して自分が何を言っているのかよく分からなくなっている。普段の彼女とは似ても似つかない、毒のある口調で喚き立てた。
「…………その」
エリファーナの剣幕に、ジェラルドはおずおずと口を開く。
「今更言い訳じみたことを言おうとは思いません……罵られても仕方のないことは理解しています。
ですが……無理を承知で一つだけ、聞いていただけますか?」
ぼんやりと、光を失った瞳でジェラルドは言葉を口から滑らせる。
「貴女を……傷つけるつもりはなかったんです。それだけは、本当に」
エリファーナには、その言葉はまるで雑踏で聞くノイズのように聞こえた。音としては耳に入ってくるが、その意味まではまったく理解できない声。
「……でしたら」
唇の端が引きつる。もう一度拳を握り締めて叫んだ。
「何だってあんな真似をなさったのです? いきなりのあの噂は、あなたが意図的に流したものだと聞きました。どうしてそんなことをする必要があったのです!」
「……レンディールに貴女が結婚を迫られていると聞いて、私自身の名前を出せば、おそらくあの商人は退散するだろう、と……」
ぽつり、ぽつりとジェラルドは話す。だが、エリファーナの表情が更に厳しくなる。
「ですから! 何故、あなたがわたくしのことにそこまで口出ししようとしたのか、と聞いているのです! あなたとは何の関係もない、と以前に申し上げたはずですわね?」
そんなものは、こちらが聞きたい。今になってみると、自分の行動が不思議で仕方がないのである。彼女とはただ、以前に一度会っただけ――それだけの関係のはずだったのだ。
ジェラルドはまた黙ることしか出来ない。
「わたくしのような女に、どれだけの価値があるかは存じません。あなたがわたくしをどのように思われているのかも分かりません。
ですが、わたくしにだって誇りはあります! 女伯爵としての誇りと……一人の女としての矜持が。みすみす、あなたの思い通りになるような真似をするとでもお思いですか?」
エリファーナは言って嫌味に笑うと、懐から懐剣を抜いた。女性が護身のために持つものだから、かなり小さい。それでも……喉を突くくらいの役には立つ。
すっと椅子から立ち上がる。銀色の切っ先を迷うことなく自分の喉元に向け、エリファーナはふっと笑う。
初めて見る表情だった。ジェラルドは、エリファーナが笑うところなど見たことがない。覚えているのは、脅えた表情と憎悪だけだ。鋭い何かを含んだ笑みは、彼女の美貌もあって、非常に美しく映った。
だが。
「ここでわたくしが死んでみせれば、あなたの思惑は消えるわけですわね。いい気味だと思いますわ」
言いつつ、切っ先を喉元に突き込もうとする。演技などではない。本気だ。
「止めろ!」
悲鳴のように叫び、飛び出す。懐剣を握った手を掴むと捻り上げた。手から懐剣がこぼれ、ちん、と硬い音を立てて転がる。
はあはあと肩で大きく息をするジェラルドに、エリファーナは半ば呆れたような表情を向けた。
エリファーナは、ジェラルドが自分に関わろうとするのは、たまたま手に入れられそうな女が一人いただけだからだ、と思っている。最初に会ったときに向けられた、あの獣のような視線が脳裏から離れないのだ。
「たかだか落ちぶれた女一人に、そこまで執着するのですか? 次代の宰相様が」
投げかけられた冷たい言葉に、ジェラルドは反射的に叫んだ。
「違う! 私は――」
また、さっきと同じだ。そこから先が出てこない。私は――一体何だ?
「何だと言うのです?」
エリファーナが冷ややかに言って寄越す。ジェラルドは何も言えず、唇をわななかせた。掴んだままだったエリファーナの手首を、ぎゅっと握る。細く、華奢だ。
これだけ細い身体の中に。一体、どれほどの思いを抱え込んできたのだろう?
ジェラルドは、エリファーナの身の上についてそう知っているわけではない。グラディスが、同情ならば止めてくれと言ってマリアテーゼに口止めしたせいだ。だが、彼女の華奢な身体に改めて気付き、ジェラルドは反射的にそう思った。
エリファーナが、意外に強い力でジェラルドの手を振り払う。ジェラルドはなされるがままに力を抜き、手を降ろした。
ぼんやりと彼女を見つめる。淡い金髪、自分を睨み付けてくる蒼の瞳。かすかに震えている身体は、呆れるほどに細い。華奢だが硬いわけではなく、女性特有の柔らかさがある。
(……私は)
言葉にすることは出来ない。だが、確かに沸き上がってくる感情があった。
感情に突き動かされるまま、ジェラルドは手を伸ばす。エリファーナの身体に柔らかく腕を回すと、引き寄せた。柔らかく、温かい感触。かすかに息遣いが伝わってくる。
「私は――貴女を護りたかっただけです」
ようやく。
続きが唇から滑り出た。
気が付いてみたら、一人だった。いや、グラディスだけだった、か。
母は小さい頃に突然いなくなり、以降、父も家を空けることが多くなった。まだ幼かったエリファーナがその理由を明確に把握していたわけではないが、年を経る毎に使用人の数は減り、屋敷は落ちぶれた。そして、去年に父は亡くなった。親と呼べるほどの愛情を注いでくれた記憶もない父ではあったが。
変わらずにいたのは、執事のグラディスだけだ。彼の父も先代の執事だったとかで、生え抜きの使用人である。ラティン家に関しては、エリファーナよりもずっと詳しい。彼を信用しないわけではない。だが、もしも自分がラティン家の跡取り娘でなくとも側にいてくれただろうか、と疑問に思うことがある。
自分の中の空虚が『寂しさ』なのだと実感することは少なかった。寂しいと思うのは、満たされた感情をも知っている場合だ。孤独しか知らない人間は、孤独を感じることはない。
一人きりで、この落ちぶれた屋敷で朽ちていく。それで良いと思っていた。それ以外の未来は自分にはないのだと。
他人に言ってみせるほどの誇りが自分にあるのか、それは分からない。ただ……他人と関わることが極端に恐い。自分の中の感覚が崩されていきそうで、かつて自分を捨てた母のように、いつかまた置き去りにされそうで。
だから。
耳元に囁かれる言葉を、エリファーナはぼんやりと聞いていた。
(……何を言っているの? この人は)
頭が言葉を理解しようとしない。
根本的な部分で、他人に愛情を向けられると言うことに慣れていないのだ。自分はたった一人きりで、他とは関わりを持つなどと言うことはない。向けられる視線は、嘲りと、自分を利用しようとするもののみ。
根拠があるわけではない。だが、それは彼女の中では確信となっていた。
だから。
「いやっ!」
今度こそ半狂乱状態に陥り、エリファーナはジェラルドを突き飛ばす。ぎゅっと自分で自分の身体を抱くと、歯の根が噛み合わないほどに震える。
「あ……」
ジェラルドの方も、自分がいきなりこんな行動に出るとは思っていなかったらしく、自分の両手を見つめて呆然としている。まだ、柔らかい感覚が手に残っている。
「あなたは……」
エリファーナがぎりっとジェラルドを睨み付けて言う。震える声で続けた。
「それほどまでに……浅ましいことですわね、コルフォース卿?」
ジェラルドは何も言い返せない。心臓が高鳴るばかりで、頭がぼうっとしている。
「――もうごめんです」
エリファーナの頭の中で、何かが弾け跳ぶ。今まで必死にこらえていた何か。恐怖が暴走し、彼女はジェラルドに向かって喚き立てた。その瞳の色は尋常ではない。
「何もかも! 爵位が欲しいだけの男も、地位をふりかざして、浅ましくも女を物のように手に入れたいだけの男も!」
「あ……」
ジェラルドが愕然とする。思わず動きを止めるジェラルドの前で、エリファーナは近くにあった何かを掴んだ。
先程ジェラルドが持ってきた、紅茶のカップだ。それを、迷うことなくジェラルドに叩きつけた。
エリファーナは紅茶に口を付けてはいなかった。陶磁器が割れることはなかったが、ジェラルドはまともに紅茶をかぶる羽目になった。髪から数滴、紅茶がしたたり落ち、唇の中に滑り込む。
紅茶をまともに浴びせられても、ジェラルドは何故だか立ち尽くすばかりで動こうとしない。その状況に、エリファーナは何処か既視感を覚えた。
(――舞踏会のあの時!)
最初に出会って、おぞましい視線を向けてきたあの時だ。あの時も、いきなり割って入ってきてまともに酒を浴びていた。
――酒?
(確か……)
彼の妹のマリアテーゼが言っていたか。ジェラルドはやたらと酒に弱くて、少し口に入れただけでも前後不覚に酔ってしまうと。聞いたときは見え透いた嘘だと信じてもいなかったが……こうなっては信じざるを得ない。
エリファーナは最近は特に神経が高ぶっていることが多いため、彼女の飲み物にはグラディスが少しブランデーなどを入れておくことがある。彼女を落ち着かせるためだ。そして……今も、当然と言えば当然だが、酒が数滴入れられていた。
無論、グラディスも酒癖のことは聞いているため、ジェラルドのカップの方には酒など入れていなかった。だがそれも、頭から浴びせられては何の意味もない。
「あ……」
まさか、自分の手で最悪の事態に陥らせてしまうとは。今度はエリファーナが愕然とした。口元に手を当てて動きを止めるエリファーナの前で、ジェラルドは顔を上げる。
その瞳の色には既視感があった。忘れたくとも忘れられない……エリファーナがジェラルドの本性と信じて疑っていない表情である。
獲物を目の前にしたときのような、凄惨な貌。だが今は、いくらか悲哀が混じっている。
「……成る程」
瞳に暗い炎を宿し、ジェラルドはぽつりと呟く。
「そのようにしか……人間とすら思われていないわけだ、私は」
言って、ジェラルドは唇の端だけ歪めて笑った。皮肉めいた表情だ。
「ただ嫌われるなら……まだ諦めもついたかもしれない。全てを知った上で、その上でならば。それが貴女自身の意志ならば。
だが、それ以下ではないか。ただの道化だ。言葉は届かない、ただの浅ましいモノとしか思われていない……」
誰に聞かせるでもなく、ぽつり、ぽつりとジェラルドは呟く。
「それはあなたの方ではないですか。人をモノとしか思っていないのは」
エリファーナの口から、反射的に言葉が口をついて出る。
「それは私ではない。貴女が自分自身のことを、そのように思いこんでいるだけだろう」
ジェラルドが冷ややかに言った。言葉の意味が分からず、エリファーナが眉をひそめる。
「貴女が私のことを、自分自身のことを、そのようにしか認識していないなら……私も貴女のことをそのように扱う」
ぽつりとジェラルドは言った。だが、その響きには、何か吹っ切れたような……一線を越えてしまったようなものが感じられる。
エリファーナを見据えると、不意にまた腕を伸ばした。彼女の手首を乱暴に掴むと引き寄せる。
「いたっ……」
あらぬ方向に捻り上げられ、エリファーナは顔をしかめた。ジェラルドはエリファーナの身体を乱暴に抱き寄せ、片手で顎を掴む。かちかちと歯を鳴らす彼女を冷ややかに見下ろし、言った。
「分かっているな? 貴女が私に逆らえる立場などではないと言う事は。私に意見出来るのは、父上と国王陛下のみだ」
彼女の耳元で、極めて冷徹に囁いてやる。エリファーナが愕然とするのを気配だけで感じ取ると、ジェラルドはふっと笑った。
「きゃあっ!」
そのまま一気に床に押し倒す。彼女が逃れようと暴れるのを抑えつけ、自分の下にエリファーナを組み敷いて、ジェラルドは凄惨な笑みを浮かべた。そうして、舐め回すような視線で彼女を眺める。
ほっそりとした身体。どんな名工でも造り出せないであろうと確信させるに足る、柔らかく優美な曲線。緩やかに波打つ金髪は乱れ、瞳が脅えと憎悪を入り交じらせて自分を睨み付けている。
この全てを自分のものにできたなら、どれだけ良いだろう。この身体を、力の限り抱き締められたなら。この顔が、極上の微笑みを自分に向けてくれたなら……
だが、それは望むべくもないことだ。ジェラルドは哀しげに笑う。
「いや……離してっ! 離し……グラディスっ!」
唯一、信頼する執事の名を呼ぶ。だが、ジェラルドはエリファーナの口を手で塞いだ。悲鳴が途端にくぐもる。それでもエリファーナはしばらくもがいていたが、やがて力尽きたのか、観念したのか、動きが止まった。
「あなたは……」
はあはあと喘ぐような呼吸を繰り返しながら、エリファーナは呟くように言う。
「余程に腐りきった性根をお持ちの人間のようですわね。ここでわたくしがおとなしく辱めを受ければ満足ですか? あなたの思い通りになればそれでよろしいんですか?」
「――最悪の人間、か」
エリファーナの言葉を、ジェラルドはぽつりと反芻する。
「それならばまだ良い。人とすら思ってもらえないよりは。嫌われても構わない。ただ、私という人間を知って、見てもらいたかったから……」
ジェラルドの言葉に、エリファーナはふっと顔を上げた。自分の中にあった空虚の意味を、ようやく悟ったような感覚。
グラディスを除けば、誰も自分のことを省みてくれなかった。確かに、自分はここにいるのに。寂しくて……誰かに見てもらいたい、とずっと思っていたのに。だが、その想いは届かなかった。無駄なことと悟った後は、自ら心を閉ざし、自分の望みを封印した。
自分の心を封印してしまえば。自分という人間を無視してしまえば……他の人間もまた、ただのモノとしか映らなかった。自分の心を理解出来ない者は、他人を理解することも出来ない。エリファーナの目には、世の中の人間皆が、ただの機械仕掛けで動いているようにしか見えなかった。
だから、理解出来なかった。目の前の男が、どうして自分に目を向けるのか。ここまで入り込んでこようとするのか。
けれど……
「……貴女は気付いた方が良い。貴女自身にも意志があって、何かを望むことも出来る。誰かに傷つけられることもあれば……誰かを傷つけることもある」
心なしか、自分の肩を押さえつける手に力がこもったような気がした。顔をしかめて上を見上げると、悲哀のこもった笑みを浮かべたジェラルドがいる。
(……あ)
ようやく気付く。
自分がこの男に傷つけられたのも確かなら……言葉を無視し続けて、この男を傷つけたのもまた確かなのだ。自分自身を護ろうとして殻に閉じこもり、何も考えようとしなかったのは。自分自身が傷つけられて、それだけに拘泥していたのは。
それが、自分自身の本当の願いを封じているとも気付かずに。
「あ……」
ゆっくりとエリファーナを押さえつける手から力が抜ける。ジェラルドは目を閉じつつ、独り言のように呟いた。
「ここまで言って、まだ気付かないようならば……私も諦めがついたのだが。まだ無理、かな……」
ぽつりと呟く。その身体がぐらりと傾いた。
組み敷いたエリファーナの上に、ジェラルドが覆い被さるようにして倒れる。思わずエリファーナは悲鳴を上げそうになったが、すぐに怪訝な顔をした。倒れたきり、ジェラルドは動く様子がない。いや、むしろ……
「……寝てる?」
のしかかられた身体から、規則正しい呼吸が感じられる。耳元から聞こえてくるのは……どう考えても、小さな寝息だ。
大人の男の身体の予想外の重さに、エリファーナはもがく。それでも、苦労して何とかジェラルドの身体を押しのけて身体を起こすと、唖然としてジェラルドを見下ろした。
床に転がって、ジェラルドはすうすうと子供のような寝息を立てていた。酒を飲んだ人間は、いきなり転がって寝てしまうようなことがあるが、その典型らしい。いつもの険しい顔つきとはまるで違う、子供のようにあどけない寝顔を眺め、思わず苦笑した。
多分、この男は感じたこともないのだろう。家族がいて、大勢の人間に囲まれて育ったこの男は。一人きりの孤独……いや、孤独すら感じられない空虚というものは。
自分は、どうなのだろう。
まだ、空虚の中に居続けることを望むか。どんなに恐くても、殻を破って違う世界に飛び出せるか。誰かを好きになり、誰かを嫌いになり……自分自身の心の中に、他人を存在させることが出来るか。
螺旋のような、出口の見えない思考のかけら。何処かでずっとずっと望んでいたものが、ようやく見えたような気がした。
「…………」
ジェラルドの横でぺたんと座り込み、エリファーナはぼんやりと考えこんだ。
