08.最後の一人
「……は?」
テーブルに突っ伏した兄を、マリアテーゼは思わず胡散くさげな視線で眺めた。
「……何だって?」
耳を疑うとはこう言う事を言うのだろう。頭では理解していても、反射的に聞き返してしまう。
「もう一度言ってもらえる? どーやらわたしの聞き間違いだったみたいね。ちょっと、兄貴?」
マリアテーゼはがくがくとジェラルドの肩を揺さぶる。が、ジェラルドは身体を起こす気配などない。突っ伏し、何やらがりがりと木の天板に爪を立てている。いつもなら真っ先に彼が叱り飛ばしそうな行動だ。
「あれだけ、あーれーだーけ、わたしが苦労してお膳立てしたあげたのに、反対に完璧に嫌われるような行動を取った?」
ジェラルドの頭がかすかに動く。どうやら頷いたらしい。
「ほおーお……」
マリアテーゼの頭に、一瞬にして数本の青筋が浮かんだ。ぱちんと指を鳴らす。
「ラウラ、ダレット」
妹と弟の名を呼ぶ。反射的にマリアテーゼの方を振り向いた二人に、マリアテーゼは冷然と言い放った。
「わたしが許可する。この兄貴をぼこぼこに殴り飛ばしなさい」
何となく悪の大幹部のような雰囲気を漂わせている姉に、ラウラとダレットは揃って顔を引きつらせた。
「あの……マリア姉さん……?」
「さすがにそれはまずいんじゃないかなー……って思うんだけど……」
自信なさげに言う。マリアテーゼは二人が役に立たないと見るや、近くに置いてあった金属の塊を掴んだ。
弩(アルバレート)と呼ばれる武器だ。機械仕掛けで弦を巻き上げて矢を発射する弓である。マリアテーゼの体格に合わせてやや小型のものだが、それでも至近距離から命中させれば一撃で致命傷を与えるだけの威力はある。
マリアテーゼとて、護身術の類を習わなかったわけではない。だが、彼女はどちらかと言うとこの弩の方が気に入っていた。百発百中とはいかないが、軍の弓兵とならば張り合えるだけの腕前がある。
マリアテーゼはじゃきん、と音を立てて矢の先端をジェラルドに向ける。額の青筋と目を見る限り、間違いなく本気だ。
「往生しなさいっ!」
物騒極まりないことを叫ぶと、弦を巻き上げる。ぎりぎりという音が響いた。
「それはもっとまずいっ!」
ダレットが叫び、慌ててマリアテーゼを後ろから羽交い締めにする。そこにラウラが飛びついて弩を取り上げた。そして、三人が揃って肩で大きく息をする。
だが、横で三人が騒いでいても、ジェラルドはまったく反応を示さない。相変わらずテーブルに突っ伏したままだ。
「せめて起きなさいよ、こら」
マリアテーゼが弩でジェラルドの頭を小突く。ようやく、ジェラルドはのろのろと顔を上げた。その顔を覗き込み、ダレットがまた顔を引きつらせる。
先日よりも更にひどくなっていた。目の下の隈は更にくっきりとしているし、頬は絶食でもしたのかと言うほどにこけている。いつもならきちんと整えてある髪も、ばらばらになっていた。何だか、頭上に黒い靄(もや)でも浮かんでいるような気がして、ダレットは思わずジェラルドの頭の上を手で払ったほどだ。
相変わらずぼうっとしているジェラルドに、マリアテーゼは呆れ返ったような視線を向けた。
「わたしがあれだけ走り回ってグラディスさん説得して、ダレットにも手伝わせて会わせてあげたのに、それを全部ご破算にしてきた? それも酒に酔っぱらって? どういうことか答えなさいよ、ちょっと兄貴!」
マリアテーゼにがくがくと肩を揺さぶられても、ジェラルドは答えない。答えられない。
「だって兄貴、酒を飲んじゃったときって、大体記憶残ってないって言ってたじゃない。兄貴の勘違いなんかじゃないの? 覚えてないんでしょ?」
「……覚えているんだ。何故か、今回だけは」
ジェラルドがかけらも覇気が感じられない声で答える。その瞳はぼんやりとして、心ここにあらず、と言った風情だ。
そう。はっきりと覚えているのだ。彼女に向かって言った言葉も、脅えた彼女の貌も……いきなり身体を掴んで押し倒すなどという行動を取ってしまったことも。
まだ、手に彼女の柔らかい感触が残っている。その温もりも、かすかに感じた息遣いも。
(……何という真似をした? 私は)
悔恨だけが次々に沸き上がってくる。ジェラルドは頭を抱え、また突っ伏した。
貴族階級の中では、結婚という前提なしに男女が関わることもままある。女遊びは嗜みの一つ、と言い切る貴族も多い。だが、生来の性格と父の影響からジェラルドはその習慣を嫌悪していたし、特にエリファーナはそういった問題に敏感だった。そのことは知っていたはずなのだ。
それなのに。未遂ではあったものの、あの場で眠らなければ更にまずいことをやっていたような気がする。そうなっていたら……
(……どうだったろう?)
何処かに望む自分がいる。彼女の意志を無視してでも、無理矢理にねじ伏せてでも彼女を手に入れたいと思う自分が。
エリファーナの、かすかに震える唇を思い出す。あれに口づけたら、どれだけ甘美な感触がしただろう。押し倒した勢いのままで……
(……ああああああああ)
もう言葉にもならない。ジェラルドはがりがりと頭を掻く。
今まで潔白を自認し、周りにもそれを認めさせてきただけに、自分の中の汚泥を見せつけられたショックは大きかった。自分はこんな人間だったか? 醜い欲望をむき出しにして、誰よりも愛しているはずの女性に爪を立てる人間だったのだろうか。
そう。愛しているのだ――彼女を。
いくら朴念仁のジェラルドとは言っても、ここまで事態が進行してしまえば、さすがに自覚するようになっていた。やっと、己の中に渦巻く感情の正体に気付いたのだ。
だが、今更気付いたところでどうなるだろう。決定的な亀裂を、自分自身の手で入れてしまったのだ。もう二度と、彼女は会ってはくれないだろう。下手をすれば、また目の前で自身に刃を突き付ける可能性もある。
考えれば考えるほどに、どんどん思考が落ち込んでいく。今に比べれば、以前は遥かにましだった。お膳立てをしたマリアテーゼすらも、一瞬恨んでしまう。
泥沼の思考に陥ったまま、ジェラルドは机に突っ伏して目を閉じた。このまま眠ってしまうというわけにはいかなかったが。
一方その頃、ラティン邸。
「お嬢様……もし、お嬢様!」
グラディスが慌てた様子で声をかける。大声で怒鳴られて、びくっとエリファーナは頭を上げた。
「あ……ああ、ごめんなさい」
グラディスを振り向き、無理矢理に笑ってみせる。だが、今まで自分が何をしていたのかには気付いていないらしい。
皿の中にスプーンを入れ、ぼうっと五分もスープを掻き回していたのだ。これではグラディスも心配になると言うものである。
(……失敗、だったか?)
エリファーナの様子を眺めつつ、グラディスは一人ごちる。
あのマリアテーゼに、一度だけエリファーナとジェラルドを会わせてくれないかと頼まれた。賭けではあるが、もしかしたら良い方に向くかもしれないからと。グラディスとて、このままではエリファーナが自分の殻に閉じこもって終わってしまうことは知っていたから、マリアテーゼの案に乗った。主家の娘を騙し、ダレットとジェラルドをすり替えるなどという暴挙に出たのだ。
が、二人がどんな話をしたかなどは知る由もない。盗聴などという真似は、さすがに彼の良心が許さなかった。だが、今はそれを少々後悔している。
(あの方が頭抜けた手腕を持っていることも、極めて高い地位にあるということも知っている。だが、それが何だ? 所詮、一人の女の前では一人の男ではないか)
もし、一人の人間として許されない真似をしたのなら。その時は、差し違えてでもジェラルドに報復するつもりでいる。グラディスにとっては、エリファーナは主人であると同時に娘のような存在だ。
「…………」
ひそかに拳を握るグラディスをよそに、エリファーナはまだぼんやりとしている。
と、外から物音が聞こえた。エリファーナがまたびくっとして門の方角を見遣る。
この状況には既視感がある。物音に外に飛び出してみたら、あの姉弟がいたのだ。
もしかしたら、また彼らがいるかもしれない。いや、あの姉弟ではなくて……
淡い期待が沸き上がる。エリファーナはがたんと立ち上がると、そのままぱたぱたと屋敷の中を駆け出した。
彼女はふと足を止めた。
父の屋敷に向かうべく、一人のんびりと道を歩いていた。なのだが、その向こうに訳の分からない行動を取っている一団が見える。
建ち並ぶ屋敷の中の一つの、正面の門を何人かが荒々しく蹴り飛ばしているのだ。その他の男は屋敷に向かって罵声を浴びせかけてみたり、武器を取り出したりしている。
「……何をしていらっしゃるのですか?」
首を傾げて尋ねてくる女に、男たちは一斉に動きを止めた。薄いベールで顔を隠しているのではっきりしないが、まだ若いようだ。少女という年齢でもなさそうだったが。
「そのような真似をしたら、こちらの方々にご迷惑になるのではないかと思うのですけど」
普通の人間の五割増は遅い口調で、彼女はおっとりとした口調で言った。状況を理解していないとしか思えない彼女の言葉に、男たちは一斉に眉を跳ね上げる。
「だから、そうしてるんじゃねえか!」
「良いんだよ、金を借りておきながらろくに返しもしねえ奴なんてよ。返さねえくせに、うちの主人の折角の提案は突っぱねやがる。最後の温情だってのによ」
男たちは口々に言う。
「はあ。そうなのですか」
納得したわけではなさそうだったが、男たちの言葉に女は頷く。
「ですけど、お金を返していただきたいのでしたら、直接借りた方にお話なさった方がよろしいのではないですか? これだと、ただの近所迷惑だと思うのですが。もし赤ちゃんがいらっしゃる方がいたら、きっと困りますわ、子供が泣き出して」
何だか論点が違うような気がしたが、毒気があるのかないのかよく分からない彼女の口調に、男たちは全員彼女に注目していた。
「借りた奴はもう死んでやがるんだよ。だからって借金が消えたわけじゃねえ、その娘にきっちり返してもらわにゃならねえんだよ。貴族の娘だからってお高く止まりやがってよ、無視するばかりで話にもならねえ」
「はあ。それは大変ですね……」
彼女はのんびりと相槌を打った。若い女に相手にしてもらえて嬉しかったのか、男たちは次々に頷く。
「そうだよ、大変なんだよ。雇い主には効果がねえって怒鳴られるし。だったらてめえがやれってんだ。こっちはこれで手一杯だってのによ」
「金持ちっつったって、あいつも結局は庶民じゃねえか。成金趣味丸出しで威張りやがって。ここの娘も気に食わねえが、あいつも気に食わねえんだよな、正直なところ」
いつの間にか、男たちは口々に愚痴を言い合っていた。何処ぞの安酒場ででも見られそうな光景だったが、彼女は別に嫌な顔をするでもなく話を聞いている。
「皆さん、苦労なさっているんですのねえ」
彼女がのんびりと言うと、男たちはまた一斉に頷いた。
「苦労してるんだよ。だがちっとでも働かねえと、女房はうるせえしガキはびーびー泣きやがるし」
「可愛いじゃありませんか。子供って。奥様も、お好きなんでしょう?」
「……まあ、そりゃまあ……」
彼女に諭された男は、照れ臭そうに頭を掻く。もはや、屋敷……ラティン邸の前は即席人生相談所と化していた。
男のうちの一人が、思いだしたように言う。
「そういやここの娘ってのがな、性格は気に食わねえが見てくれだけは大したもんらしくてな、お偉いさんの息子ってのをたぶらかしちまったらしいんだよ。何処だっけか……そうだ、宰相様の跡取りだ。どら息子ってわけでもないらしいんだが、女を見る目はなかったらしいな、可哀想に。それともどっかに囲って置く気かな。うん、そっちのが納得できるわ。良いねえ、何人も女を養える金持ちってのは」
世間話の口調で言い、男は一人で納得している。言葉尻を捉え、彼女がかすかに顔をしかめたことには気付いていない。
「それで、今ここでこのお宅にお願いしようとしても、仕方のないことではないのですか? でしたら、今はお帰りになった方が。雇い主にご不満があるのでしたら、何処かに別のお仕事を見つけられた方がよろしいかもしれませんわね。嫌なお仕事って、長続きしませんし、能率も上がらないものですわ」
のんびりと女が言った。また、一同は大きく頷く。
「それでは、お体にお気をつけて。あなた方に幸運が共にありますように」
古い……今はあまり使われない挨拶の言葉を述べる。その丁寧な態度に、男たちは彼女に名残惜しそうな視線を向けていたが、やがて立ち去ってしまった。
「……どういうことかしら?」
男たちが完全に立ち去ってから、彼女は一人呟いた。そこに、声がかかる。
「あの……」
戸惑いがちな声音。若い女のものだ。
振り返ると、屋敷の方から一人の女が歩いてくる。遅れて、執事の格好をした男が続いていた。
「……どちら様でしょう?」
「ここの屋敷の主ですわ。……まあ、主と呼ぶのが滑稽なほどの落ちぶれた屋敷ではあるのですけれど。ラティン……エリファーナ・ラティンと申します。
……その、助かりましたわ。度々あの類の連中には押し掛けられておりまして」
言って丁寧な挨拶をしてくる女……エリファーナを、彼女はにこやかな表情を変えずに観察する。そして口を開いた。
「滅相もないことですわ。それにあの方たちも、悪い方ではありませんでしたし。お話すれば分かって下さるものですわね、本当に。ご丁寧な挨拶を頂いて、こちらが申し訳なくなってしまいますわ」
ベールの下に観察するような視線を押し隠し、彼女はにこやかに言った。
「――それで、あなたは?」
エリファーナよりはいくらか冷静に、後から追いついてきたグラディスが言った。
「通りすがりの者ですわ。私用のためにこちらを通りかかっただけです」
「はあ、しかしお名前くらいは聞かせてもらえませんかな?」
グラディスの言葉に、女はふっと笑った。そしてベールを跳ね上げる。伸ばして整えた亜麻色の髪と、深緑の瞳があらわになる。
二十歳過ぎくらいの女だった。絶世の美貌とはいかないものの、誰をも引きつける魅力がある。上品な笑みを浮かべ、胸に軽く手を当てて名乗る。
「アリエノール。アリエノール・ダキテーヌと申します」
婉然と笑い、彼女……アリエノールは言った。
