螺旋のかけら

09.対決

「まあ……それは大変ですわね」
「お恥ずかしい限りです。情けない話ですわ、仮にも貴族に名を連ねる者が借金取りに追われる生活とは」
 ラティン邸の居間で、エリファーナとアリエノールは談笑していた。アリエノールはのんびりと微笑むと、優雅な仕草でカップを手に取る。
「あら? お酒……」
 紅茶の匂いに、アリエノールが呟く。横に控えていたグラディスが訊いた。
「少し入れてありますが……もしお嫌いでしたら、お取り替えいたします。申し訳ありません」
「いえ、そういうわけではありませんわ。良い香りですわね」
 アリエノールはまたにっこりと微笑んだ。
 アリエノールが別に急ぐ用もないと言うので、謝礼がてら、ラティン邸に招いたのである。使用人もろくにいない屋敷に、アリエノールは文句一つ言わず、控えめに同情の言葉を口にした。その物腰と態度からして貴族の出自であることは明白だったが、このアリエノールという女性が何者なのかいまいちはっきりしない。
 だが、エリファーナは普段からは信じられないほどの柔らかい雰囲気でこの女性に接していた。アリエノールののんびりとした雰囲気のせいもあるだろうし、立て続けに色々な出来事が起こったお陰で、何処か吹っ切れてしまったせいもあるだろう。
 この態度を見ている限りは、ジェラルドと直接話をさせるという荒療治も成功と言えたのかもしれない。グラディスは何とも言えない表情を浮かべる。
「……ん?」
 また、門の方が騒がしい。レンディール商会に雇われている荒くれ者は、先程アリエノールが『説得』して帰したはずだったのだが。
 現在のラティン邸に門番はいない。グラディスが、様子を見るべく部屋から出ていく。が、すぐに戻ってきた。
「何の権利があってこの屋敷に踏み入るのか! 早々に立ち去れ、無礼者!」
 グラディスの声だ。何やら切羽詰まった声音で叫んでいる。それと重なって、どたばたという幾つもの足音が聞こえてきた。
「黙れ、わしの屋敷にわしが入ってきて何が悪い! 差し押さえた屋敷に未だに居座る貴様等こそ恥知らずだ!」
 中年の男のものと思われる声。エリファーナがはっと顔色を変える。
 どかどかと居間に入ってきた男に、エリファーナが思わず立ち上がった。グラディスが彼女をかばうように前に出る。
「エリファーナ・ラティン!」
 押し入ってきた男は何人かいたが、その中で一番派手な格好をした男……おそらく、彼が主人なのだろう……が、エリファーナに向かって喚き立てる。
「この淫売女が。自身でどうにもならないと知ると、恥知らずにも宰相の息子とかいう小僧をたぶらかし、その権力にすがろうとするとはな!」
 エリファーナに詰め寄り、男……グレン・レンディールは喚き散らした。
 話としては、ジェラルドがエリファーナに求婚したということになっている。だが、レンディールは逆だと解釈しているらしい。まあ、エリファーナとジェラルドの地位の差を考えれば、そちらの方が自然な話ではあった。
「わしも愚かだった。こんな女に温情を与えて、結婚などを提案するとはな。だが、もうどうでもいい。貴様のような女など、顔も見たくないわ。
 だが、貴様の父に貸した金だけは返してもらう。今日限りでこの屋敷は差し押さえさせてもらうぞ。何処へなりと好きなところへ行け。だがまあ、屋敷で足りない分は……そうだな、宰相の跡取り様に頼るなり、そのお綺麗な顔で金を稼ぐなりして返してもらう」
 にっと、レンディールが下卑た笑みを浮かべる。
 屋敷の差し押さえなど、一言も聞いていない。おそらくジェラルドという予想外の人物の登場に焦ったレンディールが、金だけでも取り返すべく、急いで手を回したのだろう。
 エリファーナは何を言って良いのか分からない。言いたいことは山ほどあるのだが、頭に血が上って言葉が出てこない。
 呆然とするエリファーナと、思わず頭に血を上らせるグラディスとは対照的に、淡々とした口調で口を開いたのは側にいたアリエノールだった。
「……失礼ではありませんか? どんな事情がおありなのかは存じませんが、他人の屋敷に乱暴に押し入ってきて、礼もなしに大声を出すとは」
 椅子に座ったままで、相変わらずののんびりとした風情で言う。普段は頼りなさげに感じる口調なのだろうが、今ばかりはとてつもなく頼もしいものに聞こえた。
「何だ、貴様は?」
「今はこちらのお屋敷の客人です」
 言ってアリエノールは立ち上がると、ふっと笑う。所作も優雅に、貴族の女性の作法でもって名乗った。
「アリエノール・ダキテーヌ。ローデシア地方領のタイレルの街の領主、ダキテーヌ男爵の妻ですわ」
 謡うように言うと、貴族の夫人の作法でもって一礼して見せた。完成された舞踏を見ているかのような動きに、レンディールすら思わず言葉を失っていた。
 だが、さすがに立ち直るのも早かった。またエリファーナに嫌味な視線を向ける。
「貴族の箱入りの娘かと思っていたが、本気で甘かったらしいな。大したものだよ、こうもあちこちに泣きついてコネを作るとはな」
 身分としては庶民のレンディールは、貴族のアリエノールに真っ向から立ち向かうわけにはいかない。またエリファーナに毒舌を吐く。
「違う……」
 アリエノールがこの場に居合わせたのは偶然だ。エリファーナは思わず叫ぶ。
「この方は何の関係もありません! わたくしはともかく、この方にまで失礼な言動をすることは許しません」
 きっとレンディールを睨み付け、エリファーナは決然とした口調で言った。レンディールの表情がかすかに変わる。
「ほお……? 随分と生意気な顔をするようになったではないか。ただ、おどおどと泣いていただけの小娘が。変われば変わるものだな、小娘……いや、今は淫売女か」
「生憎と、色々とあったもので」
 何せ、男に押し倒されまでしたのだ。いい加減、多少のことでは驚かなくなる。開き直ったと言うべきか、吹っ切れたと言うべきか、その程度の度胸は生まれていた。
「ふん。だが何を言おうと、今更事実は変わらんぞ。今日限りでお前はただの宿無し女だ。……そうだな、そこらの男に媚でも売ってみたらどうだ? もしかしたら金くらい貰えるかもしれんぞ。
 跪いて泣き叫べば、わしとて冷血ではない、一夜くらいならば宿を与えてやっても構わんが」
 そこまで言って、にやにやと好色な目でエリファーナを眺め回す。
「わたくしの顔など、二度と見たくないのではないのですか?」
 エリファーナもそれに応えて、にやりと笑ってみせる。今までの彼女にはない、何か一本芯が通ったような雰囲気が見て取れる。
 エリファーナの言葉にレンディールは一瞬気色ばむが、またにやりと笑った。
「強がりもほどほどにしておけ。女一人に、一体何が出来る?」
 そう。ここでレンディールを論破することは出来ても、多額の借金という事実は厳然として存在するのだ。
「何も出来ないかもしれませんわね。でも、何か出来るかもしれませんわよ?」
 言って、エリファーナはふっと笑った。
「何をして見せてくれると言うのだ? 宰相の跡取り様に泣きつきでもするか? 貴様のような女に騙されるくらいだ、相当に馬鹿な男なのだろうな。まあ、そうであってくれた方がこちらとしては好都合だが」
 金次第でいくらでも操れる。レンディールはまた下卑た笑みを浮かべた。
「少なくとも、あなたよりは人間として立派な方ですわよ」
 エリファーナが言う。だが内心は複雑だった。何せ、先日『最悪の人間』と本人に言ってのけたばかりなのである。どうでもいいと思われるよりは、嫌われていた方が良い――そんな言葉を思い出す。たとえどんな形であれ、望む女性の心の片隅にいられた方が。
 エリファーナにその感情が……誰かを『好きになる』という感情がはっきりと理解出来るわけではない。が、何処か心地良いのも確かだった。
 今は『最悪の人間』だ。だが、もしかしたら……
 レンディールの前で、エリファーナはふと柔らかい、優しい笑みを浮かべた。

 使用人の一人が駆け込んできて、マリアテーゼに何かを耳打ちした。途端、マリアテーゼが小さく舌打ちする。
「兄貴?」
 まだ落ち込んでいるジェラルドの肩を叩く。反応がないので蹴り飛ばし、ついでに弩の角で頭をどつくと、ようやくジェラルドは彼女の方を振り向いた。
「愛しのエリファーナが危機だってさ。家に借金取りが押し掛けたみたい。ほら、行って来なさい! 格好良く助ければ、塩の一粒くらいは株が上がるかもしれないわよ」
 言って、兄を蹴り飛ばす。だが、ジェラルドは動こうとしない。
「どういうことだ? ……何だってお前がそんなことを知っている?」
「ちょっと不安だったんで、ラティン邸を見張らせておいたの。異常があったり、誰かに侵入されたようだったら即座に報告しろってね」
 ラティン邸にろくに使用人がいないのはマリアテーゼも知っている。それでいて荒くれ者に押し掛けられることもままあるようだったから、さすがにマリアテーゼも不安になり、コルフォース家の使用人の何人かをそちらに回していたのだ。それが役に立ったのは、幸運と言うべきか不運と言うべきか。
「…………」
 だが、それでもジェラルドは立ち上がろうとはしない。先日エリファーナにあれだけの真似をしておいて、今更どんな顔で会えば良いというのか。
 黙したままのジェラルドに、マリアテーゼも青筋を浮かべる。
「ああもう、鬱陶しいわね! 見てるだけで腹が立つのよ、どろどろ落ち込む男って。いいから行って来いって言ってるでしょ!」
 言うなり、マリアテーゼはジェラルドの襟元を掴んで引きずる。また蹴り飛ばすと、大声で呼ばわった。
「ラウラ! ダレット!」
 いつも通りにひょこっと顔を出す妹と弟に、マリアテーゼは横目で兄を指して言った。
「ちょっとこのバカ男を引きずるの手伝って。贅肉つきまくってるもんだから、わたしだけじゃ荷が重いのよ」
 ちなみにと言うか何というか、ジェラルドは別に太った体格ではない。もっと言えば細い。元々の体格に加え、運動を好む質ではないので、頼りなさげにも見える。最近は急に痩せ細ったから、更にそれが加速している。
 ラウラとダレットは顔を見合わせたが、どすの効いた姉の声とその怒りに満ちまくった顔に、顔を引きつらせると言いつけに従った。三人に押され、ようやくジェラルドはのろのろと歩き出す。
 コルフォース邸とラティン邸は、それほど離れているわけでもない。だが貴族の屋敷というのは一軒一軒が広いため、歩くとやけに長く感じられる。最初はマリアテーゼに急かされるままにのろのろと歩いていたが、段々歩みは速くなる。
「…………」
 先日の自分の無様な言動が思い出される。思い出したくもないが……あの時、自分は確かに言ったのだ。『護る』と。熱に浮かされたようで、ぼんやりとしてはいたが。
 嫌われていようと何だろうと。自分は彼女を愛している……と思う……し、誰かに傷つけられるのを許すわけにはいかない。誰よりも大切だと思う――それだけは確かだ。
 だから。
 ラティン邸が目の端に見えるなり、ジェラルドは駆け出す。それを、マリアテーゼが大きくため息をついてから追った。

 少し脅せば言う事を聞くだろうと思っていたエリファーナに反抗されて、レンディールは苛立ったようだった。最初はにやにやとした笑みを浮かべていたものの、それが徐々に崩れてくる。唇の片端だけを歪め、ぎりっとエリファーナを睨み据える。
 ちらりと後ろを見る。レンディールの後ろに控えていた男たちが、一斉に身構えた。グラディスも反射的に足の位置をずらす。
 足を軽く開き、軽く拳を握る構え方は、ただ我流で拳を振るう者のものではない。明らかに格闘術の基本を学んだ者のものだ。しかも、柔術や剣術といった、他の流派とも戦うことを念頭に置いたものである。
 エリファーナをかばうように前に出るグラディスに、男の一人が襲いかかった。大柄で見るからに力の強そうな男に、エリファーナが思わず目を閉じる。
「じじいはすっこんで……ろ……」
 怒声は、途中で苦鳴に変わった。大振りの拳をかいくぐって、グラディスが男の鳩尾に一撃を叩き込んだのだ。男は踏み潰された蛙のような苦鳴を漏らし、床に倒れ込む。そしてそのまま動かない。
 ただの執事だと思っていたグラディスの突然の強さに、レンディールが胡散くさげな視線を向ける。
「執事たる者、万が一の際には何としても主人を護らなくてはなりませんからな」
 グラディスが苦笑した。貴族自身も護身術の類は習うが、本人の資質によってはまったくものにならないこともあるし、数で対抗される場合もあるため、側近くに仕える者も格闘術や短剣術を身に付けていることがある。最近はどちらも形骸化してきている習慣ではあるのだが。
 だがグラディスとて、戦闘能力の類はまったく持ち合わせていないエリファーナをかばいながらでは分が悪かった。数が違う。部下が何人かでグラディスを囲み、レンディールがエリファーナの前に立ちはだかる。
「貴様は、素直にわしの言う事を聞いていれば良いのだ! この淫売が、その顔で何人たぶらかしてきたのかは知らんが、わしからは逃れられんぞ。わしの下で跪いていればいいのだ。ふん……いい気味だな、貴族と偉ぶっていた貴様がわしの下で泣き喚く様と言うのは。貴様がだまくらかした宰相の息子とやらが地団駄踏む様子もだ」
 貴族。庶民。生まれたときから決められていて、自身の意志では選べない絶対の溝。だからこそ、レンディールは爵位を手に入れることに執着した。それは、裏返せば自分が庶民だという劣等感に他ならない。
 堰が壊れたように喚き散らすレンディールに、エリファーナはかすかに哀れんだような視線を向けただけだった。
(別に。……自分自身で何も選べないのは、わたくしだって同様だわ)
 己を戒める枷は、誰にだって存在する。諦めてそれを受け入れる者も……逃れようと抗う者も。エリファーナは、自身の貴族という枷にそれほど魅力を見出していない。
 レンディールは一歩踏み出した。エリファーナの両手を乱暴に掴む。このまま引きずってでもいきそうな風情だ。エリファーナがもがくが、大の男の力からは逃れられない。
「……まあ、良いでしょう。合格とはいきませんが」
 場違いな……その場の人間にはまったく意味が理解できない呟きは、その時聞こえた。
「女性に乱暴に手を出すなんて。仮にも王都でも三本の指に入る商人のすることではありませんね、グレン・レンディール?」
 涼やかな声。アリエノールだ。何故だか、今までずっと黙って様子を見ていたのだが、ふわりと柔らかく笑うとレンディールに歩み寄った。
「本来、私が手を出すことではないのかもしれませんけど」
 呟きつつ、無造作に手を伸ばす。エリファーナの手首を掴む、レンディールの腕に軽く触れた。そして、あまりに華奢な手でレンディールの腕を掴む。
「…………?」
 その行動の意味が分からず、レンディールとエリファーナが揃って眉をひそめる。
 ごきっ!
 誰もが思わず顔をしかめるような、凄まじい音が次の瞬間に響いた。
「ぐあっ……」
 続いて、レンディールの苦鳴。エリファーナの手首を離し、思わず床に膝をつく。その顔は真っ赤になり、襲いくる凄まじい痛みに顔を歪めている。
 呆気にとられたエリファーナは、気付くのが一瞬遅れた。アリエノールが掴んだ左腕が、変な方向にねじ曲がっている。レンディールは折れた自分の腕を掴み、ひたすらうめき声を上げている。あまりの痛みに、声もろくに出ないらしい。
 一方、アリエノールはそれを冷然と見下ろしていた。エリファーナはぽかんとして、もう訳が分からない。主人の悲鳴に、グラディスを取り囲んでいた男たちも、一様に脅えた眼差しをアリエノールに向けている。
「なっ……女? 貴様……」
 男のうちの誰かが呟いた。
 と、ばたばたという足音が響いてくる。ばたん! と乱暴に扉を開けて飛び込んできたのはジェラルドだ。他人の屋敷に勝手に入り込むのは気が引けたのだが、緊急事態のようであったし、後で謝れば良いと開き直ったのである。
「…………」
 状況がよく分からないジェラルドは、眉をひそめて部屋の中を見回す。口元に手を当てているエリファーナ、荒くれ者に囲まれているグラディス、顔を真っ赤にして膝をついている中年の男。そして……
「な……」
 アリエノールに気付き、ジェラルドは今度こそ訳が分からなくなった。これ以上はないと言うほどに目を見開いて、呆然と前を見つめている。
「姉上……?」
 しばらく置物のように固まってから、ジェラルドはぽつりと呟いた。
「間が悪かったわね。もう少し早く来れば、この人に格好良い所を見せられたのに」
 いつも通りのテンポの遅い口調で言い、アリエノールはジェラルド……しばらく会っていなかった自分の弟に向け、肩をすくめて笑って見せた。

 

 
Copyright©2001-2007 Shu Fujimura All Rights Reserved.