螺旋のかけら

10.取引

 アリエノール・ダキテーヌ。地方の街の領主の妻。確か、彼女はそう名乗った。
「姉上が……どうしてここにいらっしゃるのです……?」
 呆然と目の前の女性を見つめ、ジェラルドがぼんやりと呟く。
「ちょっと用事があって、王都の別邸にしばらく滞在することになったのだけれど。お父様にも挨拶だけしておこうと思ってこのお屋敷の前を通りかかったら、あなたの名前が耳に入ったものだから。ちょっと確かめておこうと思って」
 ジェラルドが女性にまったくと言って良いほど興味を示さない性格なのは、姉であるアリエノールも知っている。それなのに「女にたぶらかされた」などという言葉が耳に入ったものだから、件のエリファーナがどんな人間なのかだけでも確かめておこうと思ったのである。無論、噂通りならば容赦なく骨の一本も折ってやるつもりでいたが。
 だが、エリファーナはそんな真似をする人間には見えなかったので、黙って様子を見ていたのである。
「あ……貴様? 何者……」
 突然の乱入者……ジェラルドに、レンディールが苦しい顔のままでうめく。
「ジェラルド・コルフォースだが。……貴様は、グレン・レンディールか」
 成金趣味としか言いようのない服を眺め、ジェラルドは吐き捨てるように呟いた。先程さんざんに罵った『宰相の跡取り』の登場に、レンディールが更に顔を引きつらせる。
「あの……姉上って……確か、ダキテーヌ男爵夫人、と……」
 今度はエリファーナが呟いた。アリエノールが微笑する。
「間違いなく、アリエノール・ダキテーヌですわ。ただし、旧姓はコルフォースですが」
 ゴフセフ・コルフォース宰相の長女。兄弟の中で、唯一結婚して家を離れている女性がアリエノールだ。
「……あなたは、気付いていらっしゃったようですね」
 グラディスを振り向き、アリエノールが言った。
「お名前だけは存じ上げていました。コルフォース卿の血縁の方々のお名前は、一通り調べさせていただきましたので」
 アリエノールに、グラディスは苦笑して応じる。ジェラルドの家族を調べれば、ダキテーヌ男爵に嫁いだ姉がいることなど簡単に判明する。エリファーナはジェラルドに求婚された時点で完全に我を失っていたが、グラディスにはそのくらいの冷静さはあったのだ。
「ただ、何のためにいきなりいらしたのかがはっきりしませんでしたので、今まで様子を窺わせていただいていましたが」
 エリファーナには黙ったままで。グラディスは肩をすくめた。
「可愛い弟を『たぶらかした』相手というのが見てみたかっただけですわ」
 言って、アリエノールは婉然と微笑んだ。
「何の話ですか、それはっ!」
 ジェラルドが慌てたように言う。エリファーナはもう頭が真っ白になっているらしく、呆然と立ったままである。
「他の方々はそう思っているようよ。あなた、いつの間にそんな子になったの?」
 アリエノールが弟に何処か咎めるような視線を向ける。が、冗談半分だ。
 ジェラルドはぱくぱくと口を動かすだけである。まったく逆だ。しかも、完全に嫌われたままだというのに。
「…………」
 そこでようやくエリファーナを見る。意を決してちらりと横を振り向くと、彼女はぼんやりとした顔で立ち尽くしていた。先程から事態が急変しまくったお陰で、頭がもはや事態を受け付けなくなっているらしい。
「……あれ? アリエ姉さん」
 後ろから場違いに脳天気な声がした。振り向くと、追いついてきたマリアテーゼが立っている。さしもの彼女もいきなりの姉の登場には驚いたらしく、目を見開いている。
「久しぶり。元気だった?」
「まあね。あ、姉さん聞いて、兄貴ったらさ、自分で勝手に女の人に惚れといて勝手にバカやって勝手に落ち込んでんのよ。バカみたいでしょ」
「仕方ないわねえ……ジェラルドも。もう少し大人になってもらわないと。ラウラとダレットは?」
「さあ。家にはいると思うけど。あいつらもねー、全然成長の兆しが見えないわ」
 周囲の状況も雰囲気も無視してわいわいと話し始める姉妹に、一同も毒気を抜かれたようだった。レンディールだけは相変わらずうめいていたが。
 レンディールはよろよろと立ち上がる。そうして、壮絶な顔でジェラルドを睨んだ。
 まさか、『宰相の跡取り』本人がこの場に現れるとは思わなかった。しかも、姉とかいう怪力女と生意気そうな小娘……こちらも兄妹らしい……までもが揃っている。ジェラルドに何人兄弟がいるかは知らないが、ここまで揃ってレンディールに勝ち目があるわけはない。
 だが、こんな何の苦労も知らないような小僧に負けるのは我慢ならなかった。精一杯媚びへつらい、上目遣いにジェラルドを見る。
「これはこれは……まさか、ご高名なコルフォース卿にお会いできるとは、光栄でありますな。しかし、こんな落ちぶれた屋敷にあなた様自らがおいでになるとは、ちと軽率ではありませんかな? このような堕落した女に、高潔で知られるあなた様が関わることなどありますまいに。このような女、落ちぶれて当然……」
「黙れ」
 ジェラルドはぎろりとレンディールを睨み付ける。その剣幕にレンディールも一瞬怯む。
「貴様風情に彼女を罵倒される覚えはない」
「ほお……?」
 ジェラルドの言葉に、レンディールが薄ら笑いを浮かべた。
「お噂には聞いておりましたが。宰相の跡取り殿が、朽ちかけた権勢にすがろうとする女にたぶらかされたとは。まさか本当ではありますまいな? あなた様なら、もっと相応しい女が大勢いらっしゃるでしょうに」
 年齢もあって、ジェラルドへの縁談の申し込みはとんでもない数だ。その中には、エリファーナより家柄の良い女性も大勢いる。だが、ただ宰相家の息子だからというだけでもてはやされるよりも、自分自身を見て嫌ってくれる女性の方が遥かにましだ。――エリファーナのように。
「私は誰に惑わされた覚えもない。貴様風情に、相応しい女性を決められる義理もない」
 きっぱりとジェラルドは言い切る。そう。自分自身の意志だ。エリファーナを愛したのも、今ここにいるのも。
 レンディールの表情がかすかに変わる。
「……ですがねえ、うちの商会がそこの女に多額の金を貸しているのは違えようのない事実なんですよ。あなた様がこの女をどうしようと勝手ですが、それだけは返してもらわなければ。こちらとしても商売でやっているんですから」
「それは認める。だが、この屋敷に無断で押し入り、罵倒の言葉をぶつける理由にはならない」
 二人が冷ややかな顔で睨み合い、言い合いを続ける。が、借金の証明書がある以上、ジェラルド……エリファーナの立場の方が分が悪いのは確かだった。
「あ、そのことなんだけど」
 アリエノールとのんきに話していたマリアテーゼが、ふと口を挟んだ。にっと笑い、レンディールに向き直る。
「わたしもさ、ちょっと調べてみたのよ。そうしたらまあ、出てくるわ出てくるわ」
 言って、ふと雰囲気と表情を変えた。文字通り、人の上に立つ者の――貴族の姫君としての表情。誰かを従わせることに、何の違和感も感じさせない貌。
「無体な借金の取り立てに、書類の改竄、不正申告、法の上限以上の高利。……金貸しとしての許可取り消しはもとより、処罰を受けるには十分な罪状よね、グレン・レンディール?」
 胸を張り、腰に手を当ててマリアテーゼが言う。自信に満ちた笑みを浮かべる。
「なっ……出鱈目も大概にしろ、小娘!」
 突然の言葉に、レンディールが顔を真っ赤にして怒鳴る。ジェラルドにはもう目もくれず、マリアテーゼに向き直り、今にも掴みかかりそうな勢いだ。
「あら、仮にも宰相家の次女に向かってあんまりな言いようじゃない? 自分の立場ってもんが分かってるのかしら?
 証拠ならいくらでも挙げてあげるわよ。あんたに被害にあった連中の証言とか、金で口封じした奴らの証言とか、改竄の証拠とか。権力に弱い連中みたいで、ちょっと脅したら皆ぺらぺらと喋ってくれたけど。よっぽど人望ないのね。何だったら書類見せてあげましょうか?」
 ふっと、マリアテーゼは呆れ返ったように笑った。ごそごそと懐から何か紙片を取り出す。だがレンディールはそれを確認するでもなく、顔色を変えた。
「だが、わしが不正をやっていようと借金は借金だ。そこの女の借金が帳消しになるわけではあるまい。それに、それをばらされたら貴様等も困るのではないか?」
 レンディールがにやりと笑う。
 レンディールが長年不正をやっていても今まで追及されなかったのは、権力者の常で、貴族と裏で結びついていたからだ。断じて表沙汰に出来ないような借金だったら、多少の高利をかけられても涙をのむしかないのだ。そして……エリファーナの父、先代のラティン伯爵の借金もその部類に入る。
 マリアテーゼが肩をすくめた。
「正直、うちの父さんはそういったことに縁がないんで、ここだけの話だったら迷うことなく通達するんだけどねえ……わたしは別に困らないし。
 けどまあ、貴族なんてどいつもこいつも叩けば埃が出てくるし。そうしたら色々と混乱しかねないし、弊害も出てくる」
 そこまで言って、ちらりとジェラルドを見る。彼も苦虫を噛み潰したような顔をしていた。現在の貴族の腐敗というのは、マリアテーゼの言う通りの事実だ。いくら腐敗していようと、彼らなくしては帝国の政治は成り立たない。
「それはうちの兄貴も同様であって。酒に酔って色々やってるしねえ。嫌よねー、例外は清く正しく美しいわたしくらいなもんかしら」
「自分で言うな!」
 思わずジェラルドが横で喚いた。
「だからさ、こっちとしてもあんまり表沙汰にはしたくないのよ。けどまあ、わたしがあんたの弱味を握ってるのは事実。でもって、わたしは別に暴露しても困らない。
 ……さて、これからどんな事柄が予測できるでしょう?」
 マリアテーゼがにっと笑った。レンディールが鼻白むが、言葉が出てこない。
「わたしが別に混乱しようがどうでも良いと思ったら、即座にあんたは破滅ってこと。表沙汰にしたくはないけど、黙っておいてやる理由もないもの。今のところ、わたしはそれほど薄情じゃないけど……それもいつまで保つかしらねえ。自分のことながら、あんまり自信がないわ」
 にやにやと笑いながらマリアテーゼが言う。
「そういうわけだから。せいぜい、おべっかでも使っておいた方が良いんじゃない?」
 言って、マリアテーゼは傲然と笑った。
 ジェラルドはそれを唖然として眺めている。いつの間にそこまでの情報を集めておいたのかも知らないし、何より、この妹は脅しが脅しでなくなる可能性がある。やると言ったら本当にやりかねない。
「お前……」
「あ、これは貸しだからね。後できっちりと貸しは返してもらうわよ、兄貴」
 思わず呟くジェラルドに、淡々とマリアテーゼが応じた。
「お前……仮にも兄に対することでも謝礼を要求するのか……」
「当たり前じゃない。これだけ集めるの、大変だったんだからね? 兄貴の尻拭いしてやる可愛い妹に、少しでも報いようとは思わないの?」
「……そういうことを言わなければ、少しは可愛いと思うのだろうが」
 今度はジェラルドが淡々と突っ込みを入れた。
 兄妹が漫才のようなやり取りをしている間、レンディールは黙ったままだ。だが、その顔が青ざめ、今度は赤く染まっていく。
「……ふざけるな」
 先程アリエノールに折られた腕の痛みもあるはずだが、それよりも興奮で顔を真っ赤にして、レンディールが腹の底からうめくような声で言う。
「ふざけるな、小娘! 誰が貴様の思い通りになどなるものか、脅迫しようなどと、それもこのわしを……いい根性だな!」
「……別に思い通りにならなくてもいいわよ。その後は保証しないけど」
 激昂して喚き散らすレンディールに、マリアテーゼが淡々と応じる。
 この一言が、レンディールの精神に決定的な亀裂を入れたようだった。今まで彼は常に脅す側であり、逆は有り得なかったのだ。それがまだ十代後半の娘となれば、怒り狂うのも当然と言えば当然であった。
「貴様……!」
 目の前の少女が何者だろうが知ったことか。レンディールが拳を握り、マリアテーゼに襲いかかろうとする。殴り倒し、ねじ伏せればこの場は自分に有利になる、そう信じ切っているようだった。
「止めろ!」
 ジェラルドが思わず叫ぶ。
 レンディールが拳を振り下ろす。が、マリアテーゼは表情一つ変えない。
 どん、と鈍く重い音が響いた。
 アリエノールだ。マリアテーゼとレンディールの間に割って入り、涼しげな表情で佇んでいる。その足元に跪き、レンディールは再び顔を真っ青にしていた。
「私の妹にまで手を出すようであれば、容赦はしませんよ」
 いつもと変わらない口調。だが、それが今は断罪の響きをもって聞こえた。彼女が無造作に繰り出した拳が、まともに腹に入ったのだと……その場にいた全員が理解していたが、同時にその不条理さに顔を強張らせていた。
「……だから、止めろと」
 ジェラルドが思わず呟く。自分の姉のとんでもない怪力を……そして、いざとなればまったく容赦しない性格であることを、彼はよく知っている。幸いと、今までその対象になったことはなかったが。……記憶にある限りは。
「あの……」
 グラディスがさすがに引きつった顔で呟く。彼は格闘術に通じている分、アリエノールの理不尽さがよく分かるらしい。呆然と華奢な体格の女性を指さす。
「……姉上は昔から、その、やたらと力が強くてな。普段は抑えているらしいのだが、いったん抑制が外れると手が着けられなくなって……」
 ジェラルドが投げやりな口調で答えた。姉を止める力は自分にはないし、理由もない。実体を知らなかったレンディールは気の毒としか言いようがない。
「……随分と頼もしいお方が揃ったご兄弟ですな」
「……そうだな」
 目の前の惨劇……アリエノールがレンディールをさんざんに殴り飛ばし、そこにマリアテーゼがとどめのように嫌味を言いまくっている……を眺め、二人は我関せずといった口調で会話をしていた。横でレンディールの部下がこそこそとその場を後にしているのだが、完全に無視している。
「……あ」
 ようやく思い出した。慌ててエリファーナを振り向くと、彼女はまだぼんやりとしたまま立ち尽くしていた。グラディスが慌てて駆け寄る。
「お嬢様! もし、お嬢様!」
 肩を揺すっても、エリファーナは反応がない。その身体が、不意にぐらりと傾ぐ。
「とっ……」
 ジェラルドが慌てて支える。緊張が限界に達しでもしたのか、目を硬く閉じたままだ。だが、息は安定しているようなので、時間が経てば意識を取り戻すだろう。
 そこまで考えてからはたと気付く。慌てて、抱きかかえたエリファーナをグラディスに押しつけようとする。今更彼女に触れるわけにはいかない。
 だが、グラディスは苦笑して首を横に振った。
「――しばらく経てばお嬢様も目を覚まされるでしょうから、申し訳ありませんが、それまでついていてもらえますかな? ああ、お嬢様の部屋はこちらですので」
「いや、しかし私は……」
 ジェラルドが何か言いかけるが、グラディスは無視してさっさと行ってしまう。仕方なしにエリファーナを抱えたまま歩き出しつつ、今更ながら、彼女のかすかな匂いに顔を赤くした。

「ん……」
 目覚めは意外と爽快だった。ここ最近はずっとうなされ通しで、ろくに眠った覚えもない。久々のかすかな爽快感に、知らぬ間に笑みが浮かぶ。
 うっすらと目を開ける。そのまま身体を起こしたところで、彼女は表情を固まらせた。
「……あ」
 ジェラルドだ。彼女の寝かせられていたベッドの側に立っていたらしいのだが、彼女がそちらを振り向くなり、慌てて視線を外す。
「いやあの、グラディス殿がついていろと……ええと、言い訳ではなくて……」
 事情の分からないエリファーナを放りおき、一人でしどろもどろになって言い訳を始めた。そして、そそくさとその場を出ていこうとする。
「あの……何があったのです?」
 エリファーナが首を傾げた。
「レンディールを私の姉……アリエノールと妹が、さんざんに叩きのめしまして。その横で貴女が気を失ってしまわれたので、とりあえずこちらまで運んだのですが」
「アリエノール様……本当に、あなたのお姉様なのですか?」
「……間違いなく」
 ジェラルドはかすかにため息をついた。
「普段は割に大人しい人間なのですが、時々はた迷惑な遊び心を起こすことがありまして。ついでに、常識離れした怪力で……」
「わたくし、まったくそんなこと存じ上げないで……色々と恥ずかしいことを話してしまいましたわ」
 エリファーナが顔を真っ赤にして口元に手を当てる。ジェラルドは苦笑した。
「大丈夫ですよ。姉もそれが狙いで黙っていたようですから」
「はあ……」
 エリファーナは尚も不安げだ。
「それで、グラディスと、お姉様とマリアテーゼ様は?」
「グラディス殿も大丈夫ですよ。姉と妹は……心配するまでもないでしょう。むしろ、私の方が心配されるような人間たちですから。レンディールは……まあ、あれだけ痛めつけられれば、無体な事は言い出さないと思うのですが」
「……そうですか」
 エリファーナがかすかに顔をしかめる。
「先に無体を強いたのはあちらとは言え、わたくしに負い目があることは変わりませんわ。今までは、ずっと逃げ続けていましたけど……」
 これ以上は逃げたくなどない。逃げてたまるか。
「……ああ」
 エリファーナはふと何かを思いついた顔をして、ふっと笑った。これ以上はないと言うほどの優しい笑みを浮かべ、ジェラルドに向き直る。
 ついぞ見たこともないような笑みに、ジェラルドは思わず息をのむ。それから顔を赤くした。直視しているのも苦しいのだが、視線をそらせない。
「あなたは以前おっしゃいましたよね。わたくしを護って下さると」
「え? ああ……」
 あの失態をやらかした時だ。醜態を思い出し、一気に頭に血が上る。
「……今でも、そう思われますか? 弱くて、一人では何も出来ないような女でも。地位も何もない、ただの人間でも」
 ジェラルドは大きく息を吸うと頷いた。それだけは変わらない。無論、今でも。
「――わたくしを、愛して下さいますか?」
 ジェラルドは息をのんだ。
 エリファーナの何処か決然とした表情に。最初に会ったときは、儚げで頼りない女性だと思ったものだ。無論、今でも彼女の外観や印象が変わるわけではないが……何かが違う。一本、筋が通ったように見える。
「誓って」
 ジェラルドも微笑んだ。そう。それが――自分の中の真実だ。
「……え? いや、あの、しかし」
 いきなりジェラルドはしどろもどろになる。慌てたように先を続けた。
「その……私のことが嫌いなのではないですか? 私はその、あんな真似までしてしまったのに、ええと……」
「嫌いですわ」
 エリファーナがけろっとして言う。ジェラルドの表情が途端にどんと落ち込む。その変化を見て面白そうに笑ってから、更に言った。
「でも……これから好きになるかもしれません」
 エリファーナは言い、またふわりと優しい笑みを浮かべた。

「……女ってよく分からないわ、ほんと」
 マリアテーゼは思わず呟いた。
「だって、酒に酔って押し倒されて、何だってその男を好きになれるわけ? 何の取り柄があるわけでもない、こんなくそ真面目なだけの小姑なんて」
「お前とて女だろうが。ついでに、小姑とだけは言うな」
 マリアテーゼに、ジェラルドが苦々しげな口調で言った。自分が口うるさい性格であると最近は自覚してきていたが、それにしても小姑呼ばわりは嫌だ。
「誰にだって分からないものよ、恋なんてものは」
 横で、のほほんとアリエノールが言った。
「姉さんは結婚してるから余裕なんでしょ。……そうだ、義兄さん無事? 姉さん、怒って義兄さん殴り飛ばしたりしてないでしょうね」
 ダキテーヌ男爵……アリエノールの夫を思いだし、マリアテーゼがふと思いだしたように言う。
「そういうことは、ほとんどしてないわよ。仮にも夫ですもの」
「……ほとんど……」
 つまり、たまにはやっているということだろうか。ジェラルドは呆然と呟き、一度義兄に無事を伺う手紙でも出しておいた方が良いかもしれない、と思った。
「マリアだって、そういう年頃じゃないの。気になる人はいないの?」
「何が悲しくて、たかが男一人に一喜一憂しなくちゃならなのよ。馬鹿馬鹿しい。いいもーん、一生結婚なんてしないから」
「……『しない』ではなくて、『出来ない』だろう。お前の場合」
「あ。言ったわね」
 マリアテーゼがぎろりとジェラルドを睨む。
「何処の誰だったかしらねー。酒に酔ってバカやって、他の人間にさんざん尻拭いさせたのは。どろどろバカみたいに落ち込んじゃってさ、わたしが蹴り出さなきゃあの時だってラティン邸に行けなかったくせに。
 嫌よねー、事が済むとすぐに恩を忘れる人間って。あーやだやだ、こんな奴が兄貴なんて思いたくないし、次代の宰相様かと思うとこの国の未来を憂えるわ」
「う……」
 認めたくなどなかったのだが、事実は事実なので、ジェラルドは黙ってうめいた。それを見て、マリアテーゼが勝ち誇った笑みを浮かべる。
「あ。そうだ、兄貴にまだ貸しを返してもらってないんだった」
 にやにやと笑ってマリアテーゼが言った。レンディールの不正の情報のことだ。この妹は一体何を言い出すのかと、ジェラルドが思わず顔を引きつらせた。
「そうねー、何をしてもらおうかしら。何だったら楽しいかしらねー……」
 マリアテーゼは呟く。にこにことやけに楽しそうに笑っているが、それはジェラルドには悪魔の笑いに見えた。
「あ、そうだ」
 ぱん、と手を叩き、にやりとそれこそ悪魔のように笑った。身を乗り出し、ジェラルドの耳元で小さく一言囁く。
「なっ……」
 マリアテーゼの言葉に、ジェラルドが一瞬後に顔を真っ赤にした。
「出来るか、そんな真似がっ!」
 大音声で喚き散らす。だがマリアテーゼに通用している様子はない。
「何よ、何でもするって言ったの兄貴じゃない。これだけで勘弁してあげようってのよ、むしろ感謝して欲しいもんだわ」
「誰が何でもすると言ったか!」
 ジェラルドは尚も喚くが、彼がマリアテーゼに借りがあるのは事実である。太刀打ちできるわけがない。
「…………」
 ジェラルドは小さくうめくと、そそくさとその場を後にしてしまう。墓穴を掘る前に逃げ出すことにしたらしい。
「あ、こら逃げるな兄貴!」
 今度はマリアテーゼが喚いた。
「……一体何を言ったの?」
 横から、今まで黙っていたアリエノールがのんびりした口調で問いかける。マリアテーゼは姉に向き直ると、にやにやと笑って言った。
「んー、ただ一回目の前でキスしてみせろって言っただけ。面白そうじゃない」
 その言葉に、アリエノールは呆れ返ったようにため息をついた。
「あまり人をからかうものじゃないわ」
 言って、兄弟の長女は苦笑した。

 

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