死神の巫女

前編

「……来たか」
 荒野の彼方を見つめ、男は呟いた。
 鋭い風が吹き抜け、男の黒いマントが翻る。見つめた遠方に土埃が舞い上がるのを見て、男の貌にかすかなさざ波が走った。
 ぐっと唇を噛む。腰に帯びた長剣に意識を集中し、ようやくいつも通りの平静を得る。
 男は身を翻すと歩き出す。彼の隣に無言で佇む、重々しい建物に足を踏み入れた。石床にこつこつと足音を響かせ、何の違和感もなしに歩みを進める。
 この通路を歩くのもこれで最後か。
 ふと、男の脳裏をそんな思いがよぎった。

 <生>と<死>の神、そしてこれを司る二人の巫女がいる。
 巫女は大陸に住む者の中からまったくの偶然に生まれ、成長するにつれてその力を発現させる。巫女であることが確認されると、すぐに神殿に迎えられてそこで一生を暮らす。一つの時代に二人以上の巫女が出現することは有り得ず、よって一つの神殿にいる巫女は常に一人だ。
 <死>の神の神殿。それは、人々に忘れ去られた荒野の中にあった。
 黒髪に黒瞳《こくどう》。若い男特有の覇気に満ちた身体とは対照的な、艶消しの黒に塗り込められた鎧と漆黒のマント。死に装束にも似た黒で身を固め、男は神殿の中を歩いていく。
 やがて、男は一つの扉の前で立ち止まった。
 この神殿の中でも、特に豪奢な装飾が施された扉の一つだ。扉に向かって小さく礼をすると、恭しく扉を叩く。
「……お入りなさい」
 ノックの数瞬後、鈴を転がすような声が扉の中から響いた。
 誰何《すいか》の言葉はない。訪れたのが誰であるのかを扉の中の人物は知っているし、男もそれを承知しているからだ。
 扉を開けると、透明な微笑が男を迎えた。
「エノク」
 部屋に佇むのは一人の少女だ。鮮やかな銀髪をさらりと長く伸ばし、薄い紗を何枚も重ねた衣装を身につけている。新緑の瞳が、湖面のように男の姿を映した。
 少女は男の名を呼び、小さく笑った。この荒野の片隅に咲く花のような、優しく儚げな微笑である。
 エノクアド・フォン・ランバレル。それが、この男の名前だ。
「アルフィティーネ様」
 男……エノクは少女の名を呼ぶと、そのまま黙り込んだ。
 少女に言わねばならないことはある。だが、言葉にするのに躊躇があった。それに……このことを、少女は既に知っているはずなのだ。
 無言で佇んでいるエノクを、アルフィティーネと呼ばれた少女は黙って見つめる。彼が何を言わんとしているのか、それで察したようだった。寂しげに笑う。
「――もうすぐ到着するのでしょう? 軍が」
 静かに、それだけを言った。エノクが無言で首肯する。
「相当な数です。おそらく、ここの神殿の兵士だけでは支えきれない」
 この<死>の神殿にいる人間はそう多くない。アルフィティーネとエノク、あとは数十人といったところだ。広い大陸にただ二つしかない神殿にしては、信じがたいほどの慎ましさである。
 だが、それも当然と言えば当然だった。好き好んでわざわざ<死>を司る神殿に身を置こうとする人間は、そう多くはないだろう。対をなす<生>の神殿は、いつも人で溢れかえっていると言うが。
「今ならまだ間に合います。急いで神殿を抜け出せば、貴女一人なら……」
 エノクは淡々と言う。だが、その裏にあるのは焦燥だ。
 対して、アルフィティーネは寂しく笑っただけだった。
「ここを抜け出して、私に何処に行けと言うの?」
 静かに言うアルフィティーネに、エノクは言葉に詰まった。
「この神殿だけが、私の世界の全てなの。私はその外の世界は何も知らないわ。
 それに……仮にも巫女だけが逃げ出すなんて真似は出来ないわ」
 ぴしゃりとアルフィティーネは言い切った。儚げだった少女の周囲に、一瞬だけ陽炎のように貫禄めいたものが立ち上る。
 エノクは瞠目して、目の前の少女を……<死>の巫女を眺めた。
 本当は叫びたかった。今すぐに走って逃げ出せと。貴女だけでも生き延びろ、と。
 だが……彼女自身がそれを望まないならば、いくら叫んでみても何の意味もない。
「…………」
 黙り込んだエノクに、アルフィティーネはふわりと柔らかく笑った。
「私はもう十分よ。今までここにいられて、あなたがいてくれた。それで十分」
 自然な仕草で、エノクの頬に手を伸ばす。だが、その指先が触れることはない。
 寂しげな微笑を浮かべるアルフィティーネの前で、エノクは拳を握り締めた。
 ――どうして。どうして、この少女が……
 想いはそれだけだった。

 大陸は戦乱の真っ只中にあった。
 幾つもの国が並立し、互いに覇権を巡って争っている。戦が続き、人々は疲弊しきっていた。それでも、戦いは終わらない。
 人々から忘れ去られて久しい<死>の神殿とて、例外ではいられなかった。神とその巫女を奉る神殿だから、直接戦に巻き込まれるようなことはなかったが、影響は受ける。訪れる人間の数は減り、受け取る供物も減った。その分だけ、神殿の人間は貧しい生活を強いられるようになった。
 アルフィティーネは三歳の時に神殿に連れてこられ、それからずっとここにいる。エノクもまた、幼いときから彼女付きの護衛として育った。
 貧しい生活を強いられようと、二人にはそれが当たり前だった。ただ、神殿で静かに時が流れていた。これからもそうだと思っていたのだ。
 だが、違った。
 戦乱が続く世の中。死というものがあまりにも身近な世界で、死の恐怖、虚無感を人々はまざまざと見せつけられていた。
 そして、この大陸には恐れ、憎んでも余りある<死>を象徴する人物がいる。<死>の巫女、アルフィティーネだ。それに、その神殿。人々の憎悪は、一気にそちらに向いた。
 今日まで平穏だったのが不思議なくらいだった。憎悪にかき立てられた兵士たちが、大軍で神殿に向かってきている。戦略的には無差別な襲撃に近かったが、<死>の象徴の消滅は、人々には少なからず安堵をもたらすようだった。
 だから、これから憎悪の対象として滅ぼされる。そんな理屈は、アルフィティーネもエノクも十分に理解していた。けれど。
(何故? 何故……)
 エノクの心からこの想いは消えない。
 この少女が何をした? 生まれながらにして<死>の力を得、巫女たることを運命づけられ、ただ静かに時を過ごしてきただけの……それだけの少女が。
 目の前のアルフィティーネは、静かに自分の運命を受け入れている。<死>の巫女たる自分の死を。
 巫女の直護衛たるエノクも、本来ならそうあるべきだったのかもしれない。だが……
(俺はどうでもいい。けれど、彼女は。アルフィティーネ様は……)
 どうにかして、彼女に生きていて欲しい――強く、そう思うのだ。
「エノク」
 アルフィティーネが、もう一度エノクの名を呼ぶ。
「死というのは、終わりじゃないの。次の生への転換に過ぎない。魂は世界を巡って、生を繰り返す。死はその切り替えに過ぎない……そうでしょう?」
 謡うように言って、アルフィティーネはもう一度エノクを見上げた。
 アルフィティーネが語ったのは、神殿の教義だ。<生>と<死>の二つの神殿が根幹とする理論。大陸のほとんどの人間は、この教義に従って日々を送っている。
 巫女たるアルフィティーネは、この教義の体現者とも言えた。彼女の言葉に、エノクが無言で頷く。
 エノクとて、この考え方を信じないわけではない。ただ、一つだけ引っ掛かる。
 死して肉体を失った魂は、全ての束縛から放たれて空に舞うという。そして、新たなる生を得、また世界に生まれる。この二つを、全ての魂が繰り返す。
 そうだとすれば。この魂の輪廻が、正しいとすれば……
「…………」
 エノクは小さく息を吐いた。
「輪廻には二つの門がある。世界に迎え入れる門と、送り出す門。送り出す門の番人が私だった。
 そして、今度は私自身が門をくぐる番……それだけなのよ。新たなる番人に役目を渡して、ね」
 静かにアルフィティーネが言った。風のような、さらりとした心地良い感触を残す声だ。
「ですが……」
 エノクは言いかけて押し黙る。
(止めておこう。こんなことを言うのは)
 ただの自分の我が侭なのだから。エノクは、また見えないように息を吐く。
 二人とも黙り、ただ静かにお互いを見つめた。お互いの、一番近しい人間を。今までずっと、寄り添うように側にいた存在を。
「……来たか」
 エノクが呟いた。
 喚声が聞こえてきた。暴徒と化した兵士たちが神殿に突入してきたのだ。
 この神殿にいる人間は元々多くない上、大半が武術とは無縁の神官たちだ。兵士と相対して、勝てるはずがない。戦力になるのは、巫女の護衛騎士であるエノクを除けば数人だけだ。
 勝ち目のない勝負だった。ならばせめて、アルフィティーネのように静かに運命を受け入れるのが最善の選択なのかもしれなかった。
 だが……
 エノクはぐっと拳を握り締めた。身を翻すと、アルフィティーネの部屋の扉を開ける。
「……エノク?」
 彼の様子に、アルフィティーネが眉をひそめた。首を傾げて問いかけてくる。
「私の役目は、貴女を護ることです」
 振り返らずにエノクは答えた。
 静かに言い、腰に帯びた長剣を抜く。刀身が光を反射し、冷たく光った。
「貴女に危害を加えようとする者を排除するのが私の務めです。それは今でも変わらない」
 ぞっとするほどの冷ややかさで言い、エノクはアルフィティーネを振り返った。
「お約束します。役目を果たして、再び貴女の元に戻ると」
 そこで初めて……エノクの貌に笑みが浮かぶ。
 呆然とするアルフィティーネを置いて、エノクは扉を閉めると部屋を後にした。

 <死>の巫女の力というのは、漠然としたものだった。
 他人の死を、アルフィティーネは感じ取ることが出来る。目の前に立っている人間が、遠からず死ぬかどうか。近くで、誰かが息を引き取ったか。予知と言うほどはっきりしたものではなく、アルフィティーネに近しい人間かどうかでも、感知は大きく異なる。
 近いうちに死ぬと言われて喜ぶ人間はいないだろう。それだけでも<死>の巫女が遠ざけられるには十分な理由だったが、もう一つ、大きな力があった。
 触れた人間に死をもたらすと言うものである。
 指先でも何でも、彼女が触れた生き物はたちまち息を引き取ってしまう。彼女が触れた者は、苦痛もなしにあっさりと死の門をくぐってしまうのだ。
 だから、誰も彼女には触れられない。今までアルフィティーネが触れたのは、激痛に苦しみながら死にいこうとしている人間だけだった。助からないのならばせめて、安らかな死を与えるために。
 それだけが、<死>の巫女の存在理由だった。
「…………」
 早足で通路を歩きながら、エノクは唇を噛んだ。
 死神と呼ぶにはあまりに儚く、優しい少女。硝子のように繊細で、透明な少女。
 巫女としての力を得たが為に全てから遠ざけられ、そのくせあまりにも多くの死を見てきた。それでも……周囲の人間に向かって真っ直ぐに笑える少女だ。
 強い。単純にそう思う。
 だが、その裏にどれほどの孤独を抱え込んできただろう。誰にも触れられずに……人の温かさを知ることも出来ず、たった一人で役目をこなしていかなければならない。
 エノクも、彼女を支える術は持ち合わせていなかった。彼女に触れられないのはエノクとて同じだ。ただひたすら、影のように寄り添っているだけ。それだけだ。
 突然通路が開け、エノクの目前に広い空間が広がる。
 神殿の大広間に出たのだ。いつもはひっそりと静まり返っているはずの場所だが……今は怒声と悲鳴が支配している。突入してきた兵士たちで溢れかえっているのだ。エノクは顔をしかめた。
 かつん、とひときわ高い足音を響かせる。いきなり現れたエノクに気付いたのか、兵士たちが一斉に彼を向いた。
 エノクは黒の鎧に身を固め、抜き身の長剣を手にしている。この様相が何を意味するのかは、兵士たちも知っているはずだった。
「<黒騎士>……!」
 兵士たちの間に動揺が広がるのが分かった。
 <死>の神殿が基本とする色は黒である。その黒の鎧を纏った人間……つまり、<死>の巫女の護衛騎士たる証拠だ。通称として、<黒騎士>と呼ばれている。
「巫女は何処だ」
 兵士の一人が怒鳴る。階級の高い男らしく、鎧もひときわ鮮やかな物を身に付けていた。
「巫女を渡せ。さもなくば……」
 男の怒声を、エノクはため息で遮った。
「黙れ」
 それだけを淡々と言う。
「神殿を何と心得る。ここは、貴様等風情が汚して良い場所ではない。早々に立ち去れ」
 冷徹な騎士の表情で、エノクは言った。ぐるりと兵士たちを見回す。
 兵士たちが激昂するのがはっきりと分かった。口々に罵りの言葉を浴びせてくる。
「失せろ。不吉の巫女を奉る邪道の輩が」
 隊長らしい男が、傲慢な口調で言って寄越す。それをエノクはぎろりと睨み付けた。
「死をもたらす巫女か。悪魔にも死神にも劣る女が、今日まで生きていたと言うだけでも反吐が出る……ふん、何が畏れ多き巫女か。ただの異能者ではないか……悪辣な殺人者以外の何者でもない、な。
 もう一度言う、貴様の巫女殿を渡せ。このわしが責任を持って誅してやる……」
 誅す、と隊長は言った。ただ殺すのではない。アルフィティーネを殺すのが正しいのだと信じて疑っていないのだ。
 たとえここでアルフィティーネを殺したところで、すぐ何処かにまた新しい巫女が生まれる。それが、この大陸に伝わる真理だ。己の正義に酔いしれ、そんな単純なことにすら思い至っていないようだった。
 隊長の傲然とした言葉は、エノクの剣閃によって遮られた。
 視認出来ない速度で疾ったエノクの長剣の切っ先が、隊長の喉元に突き付けられていた。
「……黙れ」
 底冷えのするような視線と声音でエノクは呟く。
「貴様のような下衆《げす》に、巫女様を侮辱される覚えはない」
 何も知らず、ただ死を恐れて彼女を蔑むような輩には。
(……アルフィティーネ様が)
 喜んで、今日まで死を与えてきたとでも思うのか。遠からず死ぬ人間とは言え、自らの手で引導を渡す行為を、彼女が進んでやってきたとでも言うのか。その度に張り裂けそうな哀しみを味わって……それを、たった一人で抱え込んでいたのに。
 それでも、精一杯に笑おうとしてきたというのに。
 エノクはぎりっと隊長を睨み据える。気の弱い者ならば、それだけで倒れてしまいそうな力があった。
 だが、切っ先を突き付けられながらも隊長は嘲るような視線を向けてきた。ふん、とエノクを鼻で笑う。
「貴様も外道の輩か。相当、<死>の巫女とやらにいかれてしまったらしいな。
 ならば貴様も誅してやる。天誅だよ! 無様な外道の輩が!」
 隊長は高笑いを上げる。隊長の言葉に応えるように、近くの兵士が剣を振り上げた。エノクが突き付けている剣はそのままなのだが、この人数差で抵抗するとは思わなかったのだろう。
「――――!」
 次の瞬間、空間に銀光の筋が疾った。
 エノクは喉元に突き付けておいた剣を一気に振り抜く。隊長の首を斬り飛ばすと、そのまま返す刃で向かってきた兵士を斬り下ろした。
 鮮血がしぶく。床に倒れる隊長と兵士には目もくれず、エノクは居並ぶ兵士たちに視線を移した。
「もう一度言う……今すぐにここから立ち去れ。さもなくば、巫女様に代わって俺が貴様等に死を与えてやるまでだ」
 返り血もそのままに、エノクは静かに言った。にやりと冷たく笑う。
 エノクの凄惨な笑みに、兵士たちが一斉に後ずさるのが分かる。それに合わせて一歩前に踏み出しながら、エノクは更に続けた。
「貴様等には巫女様は渡さない。あの方は俺が護る」
 その言葉が、戦闘開始の合図となった。

 

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