死神の巫女

中編

 初めて会ったのは、随分昔の話だ。
 巫女として神殿に連れてこられたアルフィティーネは、まだ幼かった。エノクは護衛騎士の候補として剣術を叩き込まれており、神殿で初めて彼女と引き合わされたのだ。
 見知らぬ無愛想な少年を前に、幼いアルフィティーネはきょとんとした顔をしていたが……やがて、にっこりと笑って見せた。
 何の思惑もない、純粋で単純な笑顔。透明で、たまらなく愛らしかったのを覚えている。
 決して触れてはならない、<死>の巫女。エノクとて、実際に彼女を見るまではその存在に恐怖を覚えていたが……その笑顔を見た瞬間にそんなものは吹き飛んだ。
 護りたい。純粋にこう思った。
 この小さな巫女を。この笑顔を。――この、アルフィティーネという少女を。
 以降、エノクはずっとその願いに従って生きている。
 この出会いが、今のエノクアド・フォン・ランバレルという人間の始まりだった。

 銀光が閃く。
 エノクの長剣が目にも止まらぬ速さで旋回する。切っ先は狙い違わず、兵士の首筋を切り裂いた。急所への一撃に、血が一気に噴き出す。
 倒れ伏すその兵士にはもう目もくれずに、エノクは次の相手に向き直った。相手が硬直する一瞬の隙に踏み込み、刺突《しとつ》の一撃を叩き込む。
「はあ、はあ……」
 連続して三人を倒し、エノクは兵士たちからいったん間合いを取って剣を構え直した。
 神殿に押し寄せてきた兵士の数は数十人。対して、神殿側の……アルフィティーネを護る戦力は、実質的にはエノク一人だ。勝負になるはずがない。
 そのはずだった。だが、現実にはエノク一人に兵士たちが圧されている。
 <黒騎士>の力に圧倒されているのだ。
 エノクの鬼気迫る表情、時折見せる凄惨な笑み、死を象徴する黒の鎧。そして……その剣技。
 エノクが長剣を一閃する。上段から振り下ろされた刃は、信じがたいほどの速度でもって敵に殺到した。居並ぶ兵士の誰にもその剣閃は見切れず、ただの銀光としか映っていない。あまりの速さに目を見開いている間に、次には自分がやられているのだ。
「さあ……次は誰の番だ?」
 紅く染まった剣を構え、エノクはにやりして言った。その迫力に、兵士の誰もが後ずさる。それを見て、エノクはふん、と極めて冷酷に笑う。
「貴様等ごとき、巫女様のお手をわずらわせるまでもない。俺一人で十分だ。全員まとめて、死の門から蹴り出してやる」
 一歩前に踏み出し、エノクは冷ややかに言ってのけた。だがこれは正直な話、ただの虚勢だった。頭の中では、必死に状況を計算している。
(どうにかして、あの通路だけは死守しなくてはならない。近づけては、俺一人では支えきれない……
 こいつらが怖じ気づいているうちに、少しでも多くを倒しておかなくてはまずい)
 動揺を悟られないように、ぎりっと歯を食いしばる。
 いくらエノクの剣技が優れていると言えど、最後にものを言うのは数の差なのである。一気にかかってこられたら対抗のしようがない。長剣では、一閃で二人を倒すわけにはいかないのだ。
 どうにかして兵士たちの連携を断ち切り、一人対一人の戦いに持ち込む。エノクが勝利出来る方法があるとしたら、それだけだった。だから、最初に徹底的に兵士たちを脅して見せ、怯んだ隙に一気に兵士を倒していっている。彼らが怖じ気づいている間が勝負だった。
 エノクは確実に兵士の数を減らしていっているものの、まだまだ数は残っている。それに対し、脅えていた兵士たちは冷静を取り戻しつつあった。
(あと少しは騙せるか?)
 頼むから、もう少しだけ怖じ気づいていてくれ。
 そう呟きつつ、エノクはまた前に踏み込む。
 だが次の瞬間、エノクの身体が大きく震えた。

 閉められた扉を、アルフィティーネはじっと見つめていた。
 エノクが出ていった扉。見慣れているはずの扉が、今は何にも増して越えがたい壁となって見える。
「あ……」
 もはや立っていることも忘れ去り、アルフィティーネはぺたんと床に座り込んだ。
(……恐い)
 もうすぐ死ぬであろうことではない。この場に、たった一人でいなくてはならないことが。エノクは自分を置き、部屋から出ていってしまった。
 行かないで。一緒にいて、と引き留めれば良かったのかもしれない。だがエノクは聞き入れなかっただろうし、アルフィティーネには腕を掴んで止めるという選択肢はないのだ。
 貴女だけ逃げろ、というエノクの言葉が蘇る。
(違うの。逃げるのが嫌だったんじゃない……ここの外に行くのが嫌だったんじゃないの。
 エノク。あなたは一言も言わなかったわよね? 『自分も一緒に行きます』って……)
 顔を両手で覆う。涙が出てくるわけではなかったが、視界を封じることだけが彼女を落ち着かせる唯一の手段だった。
 唯一、幼い頃からずっと側にいてくれた人間。それがエノクだった。黒の装束を身に纏い、まさしく影のごとく、常にアルフィティーネの傍らにいた。
 アルフィティーネにとって、エノクを失うのは己の影を失うことに等しかったのである。
 己の一部をごっそりと持っていかれるような恐怖を、アルフィティーネは味わっていた。
「あああああああ……」
 かすかに唇からうめき声が漏れる。言葉にならない呟き。
 アルフィティーネの<死>の巫女としての力は、神殿の中で次々に命が消えていっていることを感知している。黒い靄《もや》のようなものが死ぬ者の周囲に現れ、突如としてそれが消えるのだ。消えた瞬間が、すなわち死ということである。
 エノクと兵士たちが争っていることは想像に難くなかった。次々に死ぬ者が現れるということは、エノクが敵を倒していっているのだろう。
 だが……
「ごめんね……ごめんね」
 アルフィティーネは呟く。
 アルフィティーネはこの戦いの結末を知っている。知っていても、いや、だからこそ――彼女はそう呟かずにはいられなかった。
 ひたすら、それだけを繰り返していた。

 背中に、一本の矢が突き刺さる。
 至近距離から放たれた矢が、エノクの背に命中した。矢は鎧を打ち砕き、エノクの身体を大きく揺さぶる。楔のように、矢が彼の背中から生えていた。
 エノクは振り返りもせずに顔をしかめる。
 屋内での使用も念頭においた、小型の弩《アルバレート》だ。機械仕掛けで弦《つる》を巻き上げて矢を発射する弓である。至近距離から使えば、金属鎧を打ち砕くくらいの威力はある代物だ。
 目の前の敵に集中していて、放たれた矢までは避けられなかった。エノクは舌打ちする。
「なめた真似を!」
 吠えると、また近くの兵士に斬りかかる。たちまちのうちに二人が倒れた。これには兵士たちも動揺する。
 急所は外れているとは言え、まともに矢を受けたのだ。普通の人間ならば激痛にのたうち回るし、そうでなくとも動きが鈍る。そのはずだ。
 だが目の前の<黒騎士>は、舌打ちを一つしただけで顔色一つ変えない。動きは全く鈍らず、また仲間が倒れた。
『何者なんだ……? この男は』
 それが、兵士たちの正直な思いだった。
 また、恐怖が兵士たちを支配する。じりじりと後ずさると、エノクはその分前に出る。距離を引き離せない。
「ひっ……」
 誰かが小さくうめいた。
 前に踏み出しながら、エノクはふっと小さく笑った。凄惨な……それでいて、何故だか目を逸らせない笑みだ。
 黒の装束を着た男。<死>の象徴に身を包んだ男。それが剣を手にして歩いてくる様は、まさに死を宣告する死神そのものだった。
「去れ。さもなくば、殺す」
 エノクが言った。感情の起伏のまったく見えない声音が、兵士たちの恐怖を更に増長する。
「うっ……うあああああっ!」
 緊迫に耐えきれなくなったのか、兵士の一人が突っ込んできた。エノクは粗雑な一撃をあっさりと受け流すと、一刀のもとに切り捨てる。
「貴様等が、俺の相手になどなるものか。<黒騎士>もなめられたものだな」
 淡々と言ってのける。
「この化け物が……!」
 兵士の一人が罵るように呟いた。
「騎士を名乗るのもおこがましい、人の形相をした鬼が! 人が生きようとして何が悪い、死を排除しようとして何が悪い! 去るのは貴様だ、死の巫女を奉る外道の化け物!」
 内心の恐怖を誤魔化すかのように、喚き散らしてくる。剣を構えているが、その剣先は滑稽なほど震えている。
 罵倒の言葉に、エノクは冷ややかに笑っただけだった。
「己の運命も受け入れられぬ小者が。哀れなことだな」
 冷たく言ってやる。
 死は、唯一全ての生き物に平等に訪れる。何があろうと逃れられない、絶対の運命だ。
 だから……
「目前の享楽のみに執着し、本質も見抜けぬ小者が。死が敗北だと言うのなら、貴様等全員、敗北するために今まで生きてきたとでも言うのか? 哀れなことだな、貴様等には似合いの結末かも知れんが。
 終着点だよ、一つの道の、な。始まりと終わりに扉を持つ、生という道の……」
 人生というものが一本の道だとするならば。始まりの門の番人が<生>の巫女、終わりの門の番人が<死>の巫女。たったそれだけのことなのだ。
 当たり前のことを当たり前のように見守る。それが、アルフィティーネという少女の役目だ。たったそれだけのことであり……恥じる必要も恐れられるいわれもない。
 そのはずなのだ、本来は。
「去れ。貴様等に巫女様は指一本触れさせない。それが俺の役目だ」
 すっと目を刃のように細め、エノクは宣言した。
 死刑宣告に等しいその言葉に、とうとう兵士たちの恐怖と緊張が限界に達する。がむしゃらにエノクに向かってきた。ある者は突っ込み、ある者は矢を射かけてくる。
 連携もなにもあったものではない、子供にも等しい行動だった。だが……これが、エノクが一番恐れていたものだった。
 人の能力というものは、普段はその大半が封じられている。いつも全力を出していては、身体が保たないからだ。
 だが、たとえば限界を超えた恐怖などによって、その枷が外れたとしたら。
「ちっ……!」
 エノクはまた舌打ちした。
 突っ込んでくる一人の剣を跳ね飛ばし、そこに肉薄して顔面に鋼鉄の籠手《こて》の一撃を叩き込む。倒れようとする兵士の身体を次に向かってきた相手に突き飛ばすと、狼狽して動きを止めた二人をまとめて貫く。
 その頃には、また別の兵士が向かってきていた。首筋の急所を斬り裂くと、返す刃でまた別の兵士を倒す。
 絶え間なく襲ってくる敵に、エノクの息が上がってきた。倒しても倒しても目の前に現れる。
 だが、退くわけにはいかない。あの細い通路……アルフィティーネの部屋に通じる通路にだけは、兵士を入れるわけにはいかないのだ。
 エノクの息が上がってきたことに、兵士も気付いたようだった。にっと笑い、かすかな自信をもって襲いかかってくる。所詮は一人。倒せる!
「はあ、はあ……」
 これで何人目だろう。下からの一撃を叩き落とし、その勢いで相手を貫くと、エノクは荒い呼吸で剣を構え直した。
 足元には、今までに倒した兵士の死体がごろごろと転がっている。強烈な血の臭いが広間を支配していたが、とうの昔に鼻は麻痺していた。
 ぎりっと歯を食いしばり、兵士たちを睨み付ける。そのまままた倒そうと前に出た。
 一人が倒れる。だが、二人目に向かおうとして、エノクの顔が今度こそ苦痛に歪んだ。
「ぐっ……」
 うめき、辛うじて倒れるのだけは堪える。大きく下がると、振り向きもせずに足元に剣を突き立てた。
 先程エノクが倒し、まだ事切れていなかった兵士だ。手にした剣の切っ先が、エノクの腹を突き上げていた。
 刺突の一撃に、今度こそ兵士は事切れる。だが、エノクの方も確実に痛手を負っていた。
 鎧のお陰で即死だけは免れたが、どんどん血が流れていくのが分かる。激痛が一気にかけ昇ってきて、一瞬、ぐらりと意識が遠のいた。
「ぐうっ……」
 無意識のうちに苦鳴が漏れる。苦痛を悟られまいと、また唇を噛んだ。
(倒れる……わけには)
 エノクは心の中で呟く。
 ここで倒れるわけにはいかない。こいつらに、アルフィティーネを蹂躙させるわけにはいかない。
 護ると。役目を果たして戻る、とアルフィティーネに言ったのだ。それまでは!
「なめるなっ!」
 エノクが吠えた。
 ぎりっと歯を食いしばる。口の中に鉄の味が広がるのを感じながら、剣を振り上げた。
 そのまま踏み込む。一撃は、今までのどの剣閃よりも速い。
 体力が尽きかけていることや傷のことなど、もうどうでも良くなっていた。頭にあるのは、ただ目の前の敵を倒すこと。そうして、誓った通りにアルフィティーネの元に還ること。
 ただそれだけだ。
 何よりも強い者というのは、何も持たなくて身軽な者ではない。背負うものがあって、執着するべきものがある者だ。全てをかなぐり捨てても、何に代えても護るべき存在を持っている者。
 自身の全てを力に換えられる者。失う恐怖、奪われる憎悪……そんな感情すらも己の力として前に踏み込める者だ。
「あああああああっ!」
 エノクの声が神殿の広間に響き渡った。

 

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