短編

竜殺しの王子

 エルドランの王子は、竜殺しの功績を挙げなければ王座に就くことはできない。
 それは、古くからの習わしだった。


「で、だ」
 椅子ではなく机に腰掛けて、ぞんざいな口調で男が切り出した。
「とりあえず基本的な方針だけでも決めないと話にならんわな」
「そうですね。各所への要請も考えたらそう時間はありません」
 その前できちんと背筋を伸ばして佇む男がまた一人。彼は何度も頷くと、手癖のように自分の顎を撫でた。
「だからよ。いい加減正気に戻れや、お前」
 男が腰掛けている机には、そこに向かっている人物がいた。傍らの二人よりは年下、まだ少年と言っていい年頃だろうか。
「あああああああ」
 その少年は、自らの執務机の前でひたすら頭を抱えていた。
「なんでこんなことになったんだああああ」
「しゃあねえだろうが、決まったもんはよ」
 片方がぼりぼりと頭を掻き、もう一人がこくこくと頷いても、少年の懊悩は止まなかった。次は机にがりがりと爪を立てている。
「僕は第五王子だぞ? この間の舞踏会では派手に転んで、グラスの中身ばらまいて、相手のご婦人の足を骨折させたんだぞ? その僕がなんだって、竜退治なんかあああ」
「仕方ありませんよ、兄上方が皆さん失敗なさったんですから」
 にべもなく言われ、今度は机にいじいじと文字を書き始めた。
「つーわけで諦めろ、マーカス・ラフィット・エルドラン王子」
 ぽんぽんと頭を叩かれ、ようやくマーカス王子は顔を上げた。
 まだ十代後半の少年だった。髪は光輪もまぶしい白金、瞳は夏の青空、肌は東国の焼き物のように白く滑らかだ。その体つきも華奢となれば、ほとんどの人間はこう形容する──人形のようだ、と。本人はこの評価にいたく落ち込んでいたが。
 ともかく、おとぎ話に登場するには相応しいが、その手に剣を持つにはあまりに頼りない、それがマーカスの外見だった。
「お前は楽しそうだな、ジーク」
 名を呼ばれたのはぞんざいな話し方をしている男だ。年は二十代後半といったところか。黒の髪を短く刈り込み、顔立ちは精悍だが小さな傷がいくつか見られ、がっちりした体格で背も高い。いつも赤銅色の野戦服を着たまま城内を歩き回り、今も王子の私室で我が物顔をしているのだった。
「おう、楽しいぞ。こんな機会はそうそうないからな」
「遊びではないんですから、はしゃがないでくださいよ」
 この三人目の男はアルヴィンという。背の高さと年齢はジークとさほど変わらないが、ほっそりした外見だった。長く伸ばした髪を後ろでまとめ、ぞろりとした濃緑の長衣を翻し、夏でも襟元を緩めない。小脇には分厚い本を何冊か抱えていた。
 あまりに対照的な二人だとマーカスはいつも思う。だが古くからの付き合いなのだから、人間とは不思議なものだ。
「ともかく、今はこれからの相談です」
 アルヴィンに静かに言われれば、マーカスも現実に戻らざるを得ない。それでも手の中で羽根ペンを弄びながら呟く。
「竜退治……竜退治、か」
 エルドランの王子は妙齢になると、自ら軍を率いて竜退治に赴かなければならない。王位継承者に命じられる試練で、これに失敗すると王位継承者の資格を失ってしまう。マーカスには四人の兄がいたがいずれも失敗し、本来ならば王位を継ぐとは目されていなかったマーカスにまで試練が回ってきてしまったのだった。
 そんな恐ろしい試練などまっぴらごめんだったが、父王に命じられては逃れる術はない。
「さて、じゃあ、まず何から手を着けるよ?」
 ジークが顔を引き締めて尋ねてくる。マーカスはしばし悩んだ後、机の上の羽根ペンを手で弄びながら話しだした。
「いや……竜退治とは言っても、僕は竜がどういう生物なんだかよくは知らないんだ。だから、まずそれを勉強しないと」
 マーカスとしては自分の知識不足を恥じながら言ったのだが、両人は満足そうな顔をした。
「正解です。古書に曰く、敵を知り己を知れば百戦危うからずと」
 最初からそのつもりだったのだろう、アルヴィンは手にした本の一冊を開いて机に載せ、マーカスに見せた。
 そこには竜と呼ばれる生物の図版が描かれている。青黒い鱗に覆われ、牙と爪は鋭く光り、背には蝙蝠に似た翼を持っていた。その体躯は人の何倍にもなるという。
「……うわあ」
 改めてまじまじと解説を読み、マーカスはうめいた。
「竜とは獣の王ですから」
 アルヴィンはと言えばなぜか微笑んでいた。
「竜は雑食で、畑から家畜まで荒らしてきます。この体格と牙で、空から一気にやってこられたら人間にはまず手が出せませんからね。鱗も固くて生半可な武器では刃が立ちませんし。ただ繁殖力はあまりないようで、最近は数が減っている……と」
 そして、まれに人間もその餌食になることがある。内心でマーカスはそう付け足した。
「また、口から吐く炎には毒があります。人が焼かれたら傷の治りは遅くなり、炎を浴びた土地は数年は作物が育ちません」
 この炎を浴びていまだ床に伏せったままの兄王子を思いだし、マーカスはぶるりと身体を震わせた。
「さて、この化け物を退治しないとならないとして、お前はどこから攻めるよ?」
 ジークが図版をこつこつと叩いた。
「鱗が固い、空を飛ぶ、炎を吐く……。この中だったら、空を飛ぶ、ってとこかな。とにかくこちらの武器が届かないんじゃ話にならないだろう」
 自分がその場に立ったら、という想像は捨てることにして、机上の空論としてならばマーカスにも話ができる。思いつきだけで言うと、アルヴィンは頷いて先を続けた。
「では、竜はどうやって空を飛んでいると思いますか?」
「え? それは、この翼で、じゃないのか?」
 目を丸くしたマーカスに、二人は揃ってにやにやと笑った。
「竜の翼はどの動物に似ていますか?」
「ええと、蝙蝠」
「蝙蝠はどのように空を飛びます?」
「空を……滑るように飛んでいるかな」
「そうですね。では、これを」
 アルヴィンが次に見せたのは蝙蝠の図版だった。まるで学校の講師と生徒のように、二人はマーカスの反応を待ち構えている。
「蝙蝠と竜を比べてください。身体と翼の大きさの比は、明らかに蝙蝠のほうが翼が大きいでしょう」
 ふむ、とマーカスは頷いた。蝙蝠は身体よりずっと大きな翼を持つが、竜の翼はせいぜい等倍で、縦幅も狭い。
「蝙蝠は滑空することができます。そのためには、身体より遙かに大きな翼が必要なのですよ。竜の翼の大きさでは、その巨体は支えきれません」
「じゃあ、はばたいているとか?」
「鳥は見たことがあるでしょう。鳥も身体よりずっと大きな翼を持っていますし、はばたくための筋肉が非常に発達しています。対して、竜ははばたくための筋肉はほとんどありません」
 ご丁寧に鳥の図版も見せながらアルヴィンが解説する。マーカスはますますわからなくなった。
「なら、どうやって飛んでいるんだ……?」
 呟くが、二人の教師は今度は答えてくれない。生徒が答えを導き出すのをじっと待っている。
「……まるで魔法を使っているみたいだ」
 マーカスがごちるように呟くと、ジークが思わず吹き出した。
「まあ、その通りなんだけどな」
 ジークはけらけらと笑っている。アルヴィンも頷いた。
「最近の研究によると、竜の持つ翼というのは、空に舞い上がってから滑空を補助するためのものだそうです。竜の飛翔の原動力となっているのは、魔法」
「……魔法を使えるのは人間だけじゃないのか?」
「確かに呪文や陣図を用いて魔法を使うのは人間だけです。しかし、生態として魔法を使う生物というのはいくつかいますよ。いわば、体内に陣図が組み込まれていて、特定の魔法だけを常時使っている状態と思ってくれれば。魔力を持っているのは人間だけではありません」
 王宮付き魔法使いであるアルヴィンに言われれば、マーカスは納得するしかない。感心して頷いた。
「さて、竜を退治するためには、空を飛ばれると困る。どうやって足止めする?」
「……と言われても」
 今までの話の流れからすれば、教えられた内容の中にその手がかりがあるのだろう。マーカスはしばし考え、
「魔法を使えなくする魔法を使う、ってことか」
「<ジャミング>という魔法が存在します。空を飛ぶ魔法を妨害することは可能ですが、それには陣図に竜を入れなくてはなりません。空を飛ばれていては無理ですね」
 アルヴィンは頷いたが、まだ二人の望む回答ではないようだ。マーカスはがりがりと頭を掻く。ジークの癖が移ったもので、エルドラン一の『美女』と評される王子にはあまり似つかわしくない。
「……そうか」
 お付きの侍女が嘆くほどに髪の毛をくしゃくしゃにしてから、マーカスは顔を上げた。
「竜の翼は浮くときに使うもので、はばたくことはできない。なら、地面から空に舞い上がるときには完全に魔法に依存しているんだ。地面に降りてきたときを狙って魔法を妨害すれば、竜は空を飛べなくなる」
 マーカスが勢い込んで言うと、ジークがその頭を撫でてさらに髪をぐしゃぐしゃにした。
「さすがです、マーカス王子」
 アルヴィンもにこにこと満足そうだ。
「歴代の竜退治も、おおむねその方針で行われています。囮を用いて魔法陣に竜を追い込み、翼を奪ってから仕留める。これがいちばん手堅い方法ですね」
「……だったら最初からその方法を教えてくれればよかったじゃないか」
 ぼそりとマーカスが呟くと、ジークとアルヴィンは揃って目を細めてマーカスを見下ろした。
「……お前、この竜退治がなぜ王位継承の試練とされているか、わかるか?」
 問うジークの声音に冷ややかな刃が差し込まれる。竜退治より前にまずこの問いが試練だと、マーカスは気づいた。
「……民に次の王の存在を知らしめるため」
 考え得る精一杯で答える。マーカスとて、自分が竜を退治することのみが求められているわけではないと理解している。
「そうです。竜殺しの功績をもって王子は民にこう告げるのです。獣の王を屠った人の王子にこそ従え、と」
 竜殺しとはいわば盛大な示威行動だった。敵は強ければ強いほどいい。なればこそ王位継承者の力を証明することができる。
「これが正解の半分です。もう半分は」
「指揮官としての予行演習なんだよ。王子にはまず国そのものを任せる前に、軍の一隊を与えられ的確に運用できるかを試される。一軍をまともに扱えない人間が、国の舵取りをできるわけがないからな」
 がん、とブーツの踵でジークは執務机の脚を叩いた。
「他国と戦争が起これば話は別ですが、ここ数十年ほど我が国は平和ですからね、幸運なことに」
 アルヴィンも横から一言添える。
「王が剣を使える必要はない。剣を振るうのは俺だ。魔法を使える必要もない。魔法はアルヴィンが使える。だが命令するのはお前だ。お前がお前の意思において俺たちの行動を決める。その責任はお前に被せられる」
 剣、魔法。いずれも大きな力だ。それを扱う力はマーカスにはない。しかし今、この力がマーカスに差し出された。
「──僕が」
「剣を振り下ろせと命令するのはお前だ。お前の意思ひとつで大きな力が動く。それが人の上に立つ人間ということだ」
「つまり、適切に部下を扱う訓練ということです。国を動かすということは人を動かすということ。わかるでしょう」
 マーカスは茫然とした面持ちで頷くしかなかった。
 第五王子であるマーカスは今まで王宮の片隅にいた。誰に注目されるわけでもなく、権力というものもなかった。ただ周囲に決められたままに生きてきたのだ。けれど今、目の前の二人は自分に命令せよと命じる。
「一月前にシュテファン殿下が失敗したのは、バルド将軍の忠告を受け入れずに前に出すぎたためです。いや参考になりますね」
 くすくすとアルヴィンが笑う。細めた目はまるで剃刀のように怜悧で、マーカスは思わず身を竦ませた。
「いやはやバルド殿もお気の毒に」
 続けられた言葉にマーカスは気づいた。
 竜退治は王子の試練だが、臣下にとっても試練なのだ。王子とともに竜退治に赴き、成功させれば次代で出世できるが、もし失敗すれば別の王子に冷遇されるのが目に見えている。どの王子に従うかで臣下も容赦なくふるいにかけられる。
 ジークもアルヴィンも優秀だ。以前兄王子から誘いの言葉がかかったのをマーカスは知っている。しかし二人とも主を変えることなく、今もこうしてマーカスの側にいてくれる。
 期待してくれているのだ、この二人は。この自分に。
「だから、お前がやるべきは考えることだ。人の意見を聞くのもいいが、決めるのはお前だ。肝に銘じておけ」
「……わかった」
 二人の言うことは正しい。マーカスは黙って頷いた。


 竜はかつて人と共存していたという。
 原始の頃より竜という生き物はこの大地に存在していた。人はこの強大な獣を畏れ、また敬った。人に言葉と魔法を授けたのは竜であるとする伝承も各地に残っている。
 だが、伝承は伝承でしかない。
 現実に竜は人語など解さず、本能のままに田畑を荒らし人を襲う獣だ。そこに交流の余地はない。
 だからこうして悪意の象徴として退治される。北方の風を浴びながらマーカスは心の中で呟いた。
「さて、準備はできましたよ」
 隣のアルヴィンが言った。いつもの魔法使いの長衣の端をブーツと手袋に押し込み、山野を歩き回る格好だ。マーカス自身もその矮躯にはあまり似合わぬ軍服を纏っていた。
「兵は三方向に展開完了。あとは待つだけだな」
 歩いてきたジークはいつも通りの野戦服だ。ただ胸元に階級を表す印だけ付けていた。
「……ああ」
 竜の出没情報に従い、マーカス率いる一軍は北部にやってきた。地元の人間の話をもとに村からやや離れた場所を狩り場と決め、魔法陣と囮を仕込んである。
 枯れ草の上から染料で複雑な紋様が描かれ、その中心に仔牛が三頭ほど置いてある。万が一竜がやってこなくては話にならないので、近隣から奮発して買い取ったのだ。
「……いつ頃来るのかな」
「さあな。一刻か、三日か」
 ジークの口調はそっけないが、その目は油断なく上空を見上げている。竜の巨体が飛来したら遠くからでもわかるだろう。
「言うまでもないが、竜が来たらお前、後ろに下がってろよ」
 ジークに言われ、マーカスは慌てて反論した。
「なんでだ! そりゃあ僕は剣は下手だけど、それでも」
「お前よ」
 ジークはぽんとマーカスの頭に手を置くと指に力を込めた。
「いた、痛い痛い! 離せっ!」
「お前、もし『これが折れたらお前は死ぬ』とか言われて小枝を渡されたらどうするよ?」
「どうって……そりゃあ、鍵をかけてしまっておく」
「俺もそうするよ。だが今回はそうはいかない。その枝を戦場に持ち込むこと、ってのが試練の条件だからな」
 言われ、マーカスはその小枝こそが自分だと気づいた。
「俺たちの命がお前にかかってるんだよ。もし竜退治が成功しても、万が一お前に死なれたら元も子もない。最悪の場合、自分を犠牲にしてでもお前を生き残らせるのが俺たちの命題だ」
 もし本当に危機に陥れば、ジークは間違いなくそうするだろう。マーカスは冷たい自分の唾を飲み込むしかなかった。
「言ったように、王が剣を振るう意味はない。俺たちがいるからだ。だから俺たちの命が惜しければせいぜいおとなしくしててくれ」
「……ああ」
 これは人を使う試練なのだとアルヴィンは言った。その一端がこれだとマーカスは苦いものを飲み込みながら思う。
「──来た」
 ジークが目を細めた。マーカスも上空を見上げる。
 青空に翼を広げた竜が舞っていた。


 血の臭いに惹かれ、竜は一気に降下してくる。ばさりと翼がはばたき、巻き起こる突風にマーカスは思わず顔を腕で覆った。
 竜は人の数倍の体長を持ち、青黒い鱗が光っていた。はじめてその姿を目の当たりにしたマーカスは、何よりその巨体の重さを感じ取る。この大きさでは、踏みつぶされただけで人など簡単に肉塊になるだろう。
 竜は地面すれすれに降りると前足のかぎ爪で仔牛を掴み、かっと顎《あぎと》を開いた。口の間から覗く牙の鋭さと舌の赤さは人間に原始の恐怖を呼び起こさせる。
 これが獣の王。この強大な存在の前に人はちっぽけな生き物でしかない。人などただあの牙に食い荒らされるだけの存在なのではないか……
 だが理性によって統率された兵は怯まずに動いた。
『波よ、静まるべし。色よ、白に還るべし!』
 まずアルヴィンの朗々たる声が響いた。描かれた魔法陣が青白い光を発し、<ジャミング>の魔法が立ち上がる。
 光の紋様は竜の黒い鱗にも浮かび上がった。光の投網に絡め取られたかのようだ。
 ずん、と地響きがした。竜が浮力を失い、完全にその巨体を地面に委ねたのだとわかる。普段から移動を魔法に頼っている竜は脚が発達しておらず、自分の脚だけではその身体を支えきれない。
 竜の表皮にぱちぱちと光が弾け、また耳障りな音がした。浮力に変じるはずだった膨大な魔力の一部が光や音に変換されているのだ。
「行け!」
 ジークが号令を発する。伏せさせていた兵たちが一斉に立ち上がり、武器を手に竜に突進した。
 まず薄い皮膜で覆われた翼が破かれる。竜の鱗は生半可な武器を受け付けないが、数人がかりで引かれる強力な弓から放たれる矢がそれを突き破った。どん! と重い音がして、矢がまるまる体内に潜り込む。
 そこに、あらかじめ魔法で切れ味を強化された剣を手にした兵が近づき、竜の頭が届かない位置からさらに刃を突き立てた。たちまち数カ所から赤い血が地面に流れる。竜は腹立ち紛れに尾を大きく振り回して地面を叩き、背後にいた兵は辛うじてそれを避けた。もし当たればたちまち全身の骨を折られるであろう威力だ。
 竜は生命力も強くそう簡単には死なない。反撃の中、ジークはなおも攻撃を指示する。
 きしゃああ、と竜が吠えた。それは獣の王たる己に与えられた屈辱と痛みへの怒り。その瞳が真っ赤に染まり、
「全員下がれ!」
 ジークがあらん限りの声で命じた数瞬後、大きく開かれた口の奥に光が生じた。命令ではなく本能で兵たちが離れた次の瞬間、ごう! とうなり声とともに暴虐が火を噴く。
 竜の口から炎が放たれた。炎はまるで鞭のようにしなり、群がる人間どもを焼き払わんとする。
 幸い、竜が噴いた炎は枯れ草の一部を焼いただけで兵への被害はなかった。魔力によって生み出された炎は延焼することはない。マーカスはまずそれを確認し、わずかに息を吐く。
「全員一時撤退!」
 ジークの声を聞きながらマーカスも叫んだ。
「どういうことだ、魔法を封じれば竜は炎を吐かないって……」
「予想以上に竜の魔力が大きかったんです」
 アルヴィンの声にも焦燥がにじむ。
「私一人では完全に竜の魔力を殺しきれません。ですが、ここに他の魔法使いはいません」
 ぎり、とアルヴィンが奥歯を噛むのがわかった。目の前では竜がなおも炎を吐きだし続けている。兵はなんとか炎の届く位置から離れたようだが、これではまったく近づけない。いずれ<ジャミング>の魔法が切れたら、そのときには。
 自分にも魔法が使えたならとマーカスは唇を噛んだ。もしそうすればこの事態に対応できたのではないか。だが無いものねだりをしてもどうしようもない。
「……僕は」
 王が剣を振るう必要も魔法を使う必要もない。ジークはそう言った。自分は何をするべきだと彼らは言った?
 ──考えること。
 考えろ。王として、臣下たちを傷つけることなくどうやってこの場を収める?
 大地の片隅で起こっている出来事など知らぬげに空は青く、また上空には鳥が一羽だけ飛んでいた。ああしてこの竜も飛来してきたのだった。
「……そうだ」
 はっとマーカスは身体を乗り出した。腕を伸ばしてアルヴィンの両肩を掴み、揺するようにして告げる。
「空だ!」


「それじゃ、行きますよ」
 アルヴィンは竜の鳴き声に負けないよう大声で叫んだ。
 アルヴィンは魔法で宙に浮かび、抜き身の剣を手にしたジークを両手で抱えている。二人はまさに竜の真上にいた。
「おう、とっとと行け!」
 ジークも負けじと喚く。頷き、アルヴィンは手を離した。
 支えを失ったジークの身体が一気に落下する。落とされたジークは手にした剣を直下に向けて構えた。
 瞬間、硬いものを突き破る手応えが両手にかかる。そして、
 竜の鳴き声が山の向こうにまで響き渡った。
 竜の血を吐くような悲鳴を聞きながら、剣を竜の背に突き刺したジークはなおも剣の柄を手前に引いた。魔法によって高速振動する刃は竜の硬い鱗を切り裂き、ほぼ根元まで体内に埋まった剣は背中に一文字を描く。
 竜はまず痛みに驚き、不埒な人間を焼き払おうと背中に首を向けようとする。だがそれよりアルヴィンが降下してくるほうが速い。
 ジークを落とした後に自らも竜の背に舞い降りたアルヴィンは、すばやく呪文を唱えた。ぱん、と閉じて開いた手のひらの間に光の球が生まれ、それを今しがた生じた背中の切れ目に叩き込む。
『燃えろ!』
 それはただ一語の絶対命令。
 光の球は竜の内部で炎に変じ、一気に破裂する。竜の硬い鱗は殻となり、炎は竜の体内だけを焼き尽くした。


「は……」
 マーカスは地面にぺたりと座り込んでいた。だが誰もその無作法を咎めることなく、兵のほとんどは似たような状態だ。
「……お、わった」
 視界の向こうでは竜が横たわって背中から煙を上らせている。もはやぴくりとも動かず、事切れていることは明らかだった。
「よう、腰を抜かしてるか、坊主」
 竜の背から降りたジークがマーカスの側に戻ってきた。そのあまりに平然とした様子にマーカスは思わず怒りすら覚える。まさに竜にとどめを刺したのはこの二人であるはずなのに。
「ご無事でしたね。よかった」
 その横のアルヴィンは多少疲れた様子だった。だがまずマーカスの心配をするのに、マーカスは呆れたいような気分になる。
「終わった……か」
「ええ、竜退治は成功です」
 にこやかにアルヴィンが試練の成功を告げた。試練は達成され、これで帰れる。しかしマーカスは何よりもこの二人や兵たちが無事でいてくれたことが嬉しかった。
「しかしよ、お前にしてはよくやった」
 ジークがぐしゃぐしゃと頭を撫でてくる。アルヴィンも抱きつかんばかりの勢いでマーカスの肩に手を置いた。
「いい判断でした。上空からの攻撃はあまり例がありません」
「いや……竜は空を飛ぶ生き物だろう。だから自分が上から攻撃されたらとっさに反撃しきれないと思ったんだ」
 自信なさげにマーカスが呟くと、二人はますますマーカスをもみくちゃにした。
「そうだ、竜玉を持って帰らなければなりませんね」
 アルヴィンに言われ、マーカスはおそるおそる竜に近づいた。もう動かないとわかっていても、口から覗く牙を見ただけで思わず身体が竦む。よく兵たちはこの生き物に立ち向かえたものだ。
 虚ろな目が自分を映すのに脅えながらも、マーカスは一抱えもある竜の頭部に歩み寄った。腰から護身用のナイフを抜き、竜の額に差し込む。
 竜の額には手のひらに載るほどの石が埋まっている。竜玉と呼ばれ、竜の力の源とも言われているものだ。王は自らの竜退治で得た竜玉を王冠にはめ込むのが慣例となっている。
 ナイフでほじくると竜玉はあっさりと鱗から外れ、マーカスの手のひらに転がった。それは透き通った血のような赤。
「初めて間近で見ましたが、美しいものですね」
 アルヴィンも感嘆の声を上げた。
 それを見て本当に終わったのだ実感する。気を張っていたのが緩み、マーカスはようやく疲れを感じていた。一生分の緊張と恐怖を一度に味わった気分だ。今すぐに城に帰って思う存分寝たい。
「……もう竜退治なんてこりごりだ」
 ぼそりと呟くと、ジークがぽんと肩に手を置いてきた。
「馬鹿言え、これからが本番だぞ」
 にやにやと笑いながら言って寄越す。
「世の中にはもっと厄介な化け物がいるぞ。お前はこれからその化け物と対峙しなければならん」
 その意味がわからず、マーカスは目を瞬かせた。
「人間こそが何よりも厄介な魔物だよ。宮廷はまさにその巣窟だ。いずれお前も、竜なんざ可愛いもんだったと思うだろうよ」
 いずれ王となる王子は、手のひらに重みを感じながら赤い宝玉を見つめる。それは竜の血であり、これから戦うであろう人間たちの血のようだった。
「まあ安心しろ。俺たちはお前を裏切りはしないから」
 ぽんぽんといつも通りに頭を叩かれ、マーカスはほっと息を吐いた。今なら竜退治の試練の意味がわかる。それはこれからの戦いで背中を任せられる人間を見つけろという意味なのだ。
「さあ、帰りましょう。我々は凱旋して入城です」
「ああ」
 アルヴィンの言葉に、マーカスは晴れやかに笑ったのだった。

  
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