刃の舞踏
楽曲に合わせて彼女はステップを踏んだ。
身には眼にも鮮やかな深紅の布をまとっている。布は彼女が舞うごとに宙を踊り、かなりの長さを持つ裾はまったく足下の絨毯に触れない。手を差し伸べ、足が上がるそのたびに手首足首に付けた金の輪が光り、鈴がささやかな音を立てる。
そして両手には異国の円月刀《シミター》が握られている。踊るごとにその銀色の刃もまた宙を舞い、きらめきを放った。紅が翻り銀の刃が空気を切り裂く様は、歴戦の戦士がたった一人で戦っているようにも見える。
背後には三人の楽士が控え、耳慣れぬ音楽を奏でている。恰幅のいい男が鼓を打ち、黒髪の若い男が横笛を吹き、見慣れぬ弦楽器を手にした男もいた。
「ほう……たいした腕前だ」
観客の一人がそう呟いた。周囲の人間も同様らしく、余興であったはずの舞に皆が見入っている。酔っぱらって顔を赤くした男もおとなしく座っていたから、女の舞はたいした力と言えただろう。
この土地を治める領主の館。大広間には無数の蝋燭が灯され、煌々とした灯りに満ちている。すべての色彩を塗りつぶすはずの夜の闇はここにはない。
代わりにあるのは金と青で模様が描かれた絨毯、大理石の白い肌を持つ壁や柱、居並ぶ人間たちの色とりどりの装束。そして中央で舞う踊り子の紅だ。
「これはこれは、たいしたものですな」
この館で宴が催されるのは珍しいことではない。領主のカルツァ公爵父子は夜ごとに宴を開き、また他者の宴に招かれている。だから余興に踊り子が舞ったとて珍しいことではないのだが、招かれた者の一人はおべっか半分、本音半分でカルツァ公爵にそう囁いた。
「ふむ」
公爵も褒められて悪い気はしない。それでももっともらしく髭を撫でながら踊り手を視線で示した。
「所詮は家も持たぬ流れの芸人どもよ。たまたま城にやってきて使ってくれというから入れてやったが……まあ悪くはない」
ひそひそと話す二人の前で、タン、と鼓の音が響き、それに合わせてまた紅の布が翻った。
「あの者は……」
客人が示したのは人々の中央で舞う踊り子だ。
まだ若い女だった。少女の清楚さを脱し、大人の妖艶さを身につけつつある年頃だろうか。薄布に覆われた肢体はしなやかで手足が長い。貴婦人のたおやかさではなく野を駆ける馬の風情だ。
黒髪も結われていくつもの金飾りが付けられている。肌は大理石と同様に白く、唇に引いた紅が映えていた。黒琥珀《ジェット》のきらめきを持つ瞳が明かりを受けて輝き、ふとその顔が公爵に向けられる。
美しい──それも相当の美女だ。彼女にちらりと視線を向けられて公爵は思わず口元をだらしなく緩めた。これが手の届かぬ花ならば目を細めるだけで終わっただろうが、公爵はそうではない。
「それと、あの後ろの笛の男」
指摘されて公爵は煩わしげに踊り子の後ろに視線を移した。
鼓を叩いている恰幅のいい男はこの芸人集団の団長で、先ほどはちょっとした奇術を披露していたはずだ。その横で横笛を吹いている男は……と視線を滑らせ、公爵は唇の端をつり上げた。
「ほう。これはまた」
男と踊り子に交互に視線をやって呟く。
笛を手にしているのもまた若い男だった。さほど華美な服装はしていないが、黒髪と涼しげな目元は女性ならば放ってはおかないだろう。だが公爵の興味を引いたのは、二人の顔立ちがあまりに似ている点だった。無論、細かい男女の差はあるが、全体の印象は同じ鋳型から射抜いたかのようだ。
「ならばあちらは息子にやろう」
そう言ったところで、鼓が激しく打ち鳴らされた。踊りは激しさを増し、そして一瞬にしてすべてが静止する。
踊り子は舞い終わった体勢のままぴたりと動きを止めた。
観客たちは一瞬沈黙した後、我に返って思い思いに拍手を送る。十分にそれを受けてから、彼女はようやく身体から力を抜いた。
「悪くはなかった。褒めてつかわそう」
手を叩きながら公爵が言った。観客たちはこれがこの男の最大の賛辞だと知っている。
「身に余る光栄です」
踊り子は口を開いた。身体を折って公爵に敬意を表する。
「そなた、名を何と言う?」
「ベネデッタ、と」
夜風のような涼やかな声だった。酒と蝋燭の熱気に満ちた広間に、それはささやかな涼風となって響き渡る。
「それと……後ろの者、それはそなたの血縁か?」
公爵は視線で先ほどの笛の男を示した。
「わたくしの双子の弟、ダウィードですわ。弟にまで目をかけてくださってありがとうございます」
名指しされたダウィードは言葉を発さず、ただ頭を垂れた。
自分たちの演し物が終わり、楽士たちもそれぞれ立ち上がった。そのまま舞踏の続きであるかのように、たちまちのうちに広間を立ち去る。
とは言え、この城にはまだいるはずだ。ただ芸を見せるだけが彼ら旅芸人の仕事ではない。──彼らは夜に侍する者どもだ。
客人はちらりと公爵を見つめる。公爵の目が何かの期待に満ちているのを彼ははっきりと見たのだった。
酒宴がお開きとなったのは夜も遅くになってからだった。
カルツァ公爵の息子、エンツォはすぐには自室に戻らなかった。ほとんど明かりも落とされた城内をカンテラ片手に歩みを進める。幼い頃からこの城で育った者であるので、夜になっても迷いはしない。
目的のものを見つけるとエンツォは迷わず歩み寄った。
「おい、お前」
甲高くどこか調子外れな声音で言う。相手がその言葉を聞き、従うを信じて疑っていない口調。それに違わず、彼が声をかけた相手は黙ってエンツォを振り向いた。
カンテラの明かりにその顔が浮かび上がった。黒髪を整えた男。先ほどの芸人たちの一人、ダウィードである。
「何でしょう?」
ダウィードは平坦な声で尋ねた。領主の息子に対して不遜な物言いだったが、浮かれていたエンツォはそれを気にとめなかった。エンツォはつかつかと歩み寄ってダウィードの肩を掴む。
「これから僕の部屋に来い。たっぷり可愛がってやる」
にやにやと笑いながらエンツォは肩を掴んだ手に力を込めた。
芸人たちのもう一つの顔、それは言うまでもなく身体を売ることである。芸や踊りで貴族たちに気に入られたら、そのまま夜伽に侍するのが常だ。もっともその機会が多いのは踊り子だが、たまたまこの領主の息子は女より男に興味を持つ質だった。
普段は使用人を通じてそれを命ずるものだが、久々に見た美貌の男にエンツォも舞い上がっていた。一方的に命ずるばかりではつまらない、たまには甘いやり取りも楽しんでみたい。
さりとてダウィードにこの誘いを拒む力も理由もないはずだった。だから、
「どうやってこれを持ち込もうかと思っていたが」
エンツォはダウィードの呟きの意味が分からなかった。
ダウィードはエンツォの顔を見つめた。双子の姉と同じ黒琥珀の瞳がエンツォを映し出す。エンツォがぼんやりとそれを眺めるうちに、ダウィードは自分の肩からエンツォの指を剥がした。
「その手間が省けた」
ダウィードがゆっくりと右手を振り上げる。その影が異様に長いのにエンツォは気づいた。そういえば声をかけたとき、ダウィードは積み上げられた荷物の中から何かを取り出していたようだった。
腕の先に連なる影。それは細長く、先端が歪に膨らんでいる。カンテラの明かりを受けてその先端が怪しく輝いた。三日月のような弧を描く銀の光──
それが大きな斧だ、と気づいたときには遅かった。
エンツォは痛みを感じることはなかった。ただ一瞬にしてその意識は途絶え、床に暗色の血をぶち撒けた。
カルツァ公爵は夜の庭をひとり歩いていた。
宴には慣れているが、今日は少々酒を飲み過ぎたらしい。いくらか夜風で火照りを冷ましたかった。これからのお楽しみもあるが、夜はまだ長い。焦るのは下賤な者どもがやることだ。
夜空に浮かぶのは満月と星。自慢の庭には夏の花が咲き乱れ、白い花びらが月明かりを受けて光っていた。太陽の光を浴びた庭も美しいが、この夜もまた格別だ。公爵は花の香りを思い切り吸い込む。
ふと背後に気配を感じ、公爵は振り返った。
「おお?」
視線の先にいるのは見覚えのある顔だった。今宵を楽しませてくれるはずの美貌、あのベネデッタと名乗った踊り子だ。あの紅の衣装のままこちらに歩いてくる。
「どうした?」
自慢の庭への侵入者とあらば許しはしないが、彼女は一夜を共に過ごすはずの人間だ。少々寛容に扱ってもいい……公爵は鷹揚に声をかけた。
「あの、城の中で迷ってしまいまして。当てもなく歩いているうちにこのお庭に出てしまいました。たいへんな無礼を……」
ベネデッタはおろおろとしながら言う。舞っていたときの存在感はないがその様をいくらか可愛らしく思い、公爵は近寄った。
ベネデッタは顔を上げた。黒琥珀の瞳が月明かりに照らされる。
「そうかそうか。よし、これからわしが部屋まで案内してやろう……」
公爵が尻に手を伸ばそうとするのをするりと抜けだして向き直り、ベネデッタは公爵に笑いかけた。
「いい夜ですわね。公爵様」
「そうとも。今夜は最高だ」
その笑みに何か違和感を感じたが、公爵は笑ってそれに答えた。
「でしたら、わたくしと踊ってくださいませんこと?」
その意味を理解するより先に身体が動いた。
公爵は自分でも分からぬうちに後ろに跳んだ。だが膨れた腹で敏捷に動くことはかなわず、強かに地面に尻餅をつく。そのままずるずると後退した。
見上げるとベネデッタが立っていた。先ほどと同じ笑みのままで。
──いや。その手に光るものがある。何を持っている……
「あ、あ……」
それは先ほどの舞にも用いていた円月刀だった。抜き身の刃が月明かりを照り返して白銀の光を放つ。ただ踊りに用いるだけのものに、その鋭利さは必要ないはずだった。
「あら、ずいぶんと無様な踊りですわね。それではわたくしの相手は無理かしら」
ベネデッタはゆっくりと近づいた。円月刀が振り上げられる。
「あ、な、何で……」
公爵はたった一つだけ確信していた。──自分は殺される。
「依頼がありましたの」
平然とベネデッタは答えた。先ほどのおとなしい様子は演技だったのだと公爵はようやく悟る。だが立ち上がろうにも腰が抜けて動けない。
「ここの領地の村の方から。あなたにかけられた重税で村の方々はもう暮らせないそうです。だってあなた、毎日この城で贅沢三昧なんですもの」
公爵は思い出したことがあった。最近、たびたび貴族が殺される事件があると。斧で叩き割られたり刀剣で斬られたり……貴族の暗殺は珍しいことではないが、それは決まって宴の夜なのだと。
旅の芸人を装えば身分卑しい者でも城に入ることはできる。刀剣を持っても怪しまれることはない。そうして、この美貌で相手を誘って──殺すのだ。そう、自分のように!
ようやく公爵は立ち上がった。冗談ではない。ここで殺されてたまるものか。一目散に背を向けて走り出そうとする。
だが、すらりとした脚がそれを遮った。
踊りの続きのような見事な蹴りが公爵の顎に入った。逃げようとしたのもつかの間、公爵は再びもんどり打って転がる。
ベネデッタは刀を振り上げた。その様はあの舞そのままに美しい。だがそれは研ぎ澄まされた刃の美しさだった。美貌も身のこなしも何もかも、この暗殺のためのものだったと公爵は悟る。
そして、一閃をもって、この夜の舞踏は終わった。
